つれづれに:教える?(2023年4月30日)

2023年5月1日つれづれに

つれづれに:教える?

 レタス(↑)とブロッコリー(↓)が虫にやられているのは毎年の光景だが、レタスや葱(ねぎ)の遣られ方が例年よりも遅く、いまだレタスと葱を採って食べている。畑にいる時間が長くなると、やっぱり旧暦が身近になってくる。(→「旧暦のこと」

 気象庁ではもう旧暦の計算をしなくなっているらしいが、どこかが計算をしていて、毎年の暦がウェブで手に入る。今年は4月20日が穀雨(こくう)で次の節気は立夏、もう夏である。今年の立夏の始まりは連休の5月5日だそうである。

<穀雨の解説である>

 解説の中に挿入されていた写真

 「春雨が百穀を潤すことから名づけられたもので、雨で潤った田畑は種まきの好期を迎えます。この時季に、特に雨が多いというわけではありませんが、穀雨以降、降雨量が多くなり始めます」

そう言えばすっきりと晴れない日が多い。雨の量もそれなりにある。ずっとは降らないので、畑作業は出来る。毎日精勤にやっているとは言い難いが。

大根の種

 暑さと藪蚊(やぶか)で畑に出られなくなる前に、とまととかぼちゃの柵を拵(こしら)えたいと思っている。今年は長い竹を固定するための穴を掘る器具を探し出して買っている。まだ穴は掘っていないが、5センチと8センチ用で、しっかりと固定できそうである。きっと、台風でも傾かないだろう。

台風で傾いた南瓜の竹の柵

 小説は今、4作目の2つ目の山を少しずつ書き進めているという感じである。前回ラ・グーマが「物語が出来ると頭の中にあるのをタイプライターに打ち出してあとは少し修正を加えるだけです」とインタビューで答えていたことを紹介したが、私の場合、心の中に書きたいものがあって、それが書いていくうちにはっきりとして来て、形になる、そんな感じである。今回の場合も、ぼんやりだがこれについて書きたいというものがあって書き始め、1つ目の山を終えたとき、一番大きな山を残して、先に3つ目の山を書きたいという気持ちになった。2つ目の山に時間がかかりそうなのと、3つ目の書き出しが思い浮かんで書き出せそうな気がしたこともある。1つ目が1200字35枚、3つ目が53枚になった。順序通りには行かなかったが、残りの3つ目の山に取りかかった。書き始めたら、大体終わる方向性が見えきた。予定の130~140枚、原稿用紙400枚くらいでいけそうである。

今は「教える?」というぼんやりとした、わりと大きなことについて書こうとしている。45年余りも授業をしてきたが「人が人に何かを教えられるんやろか?」という思いは渝(かわ)らないままである。

ずっと「教える?」ということに引っかかりがあった。だから教え子や恩師などの言葉を無意識に使う人に違和感があるし、「大学で~を教えています」と言われると、「ほんと?」という気持ちしか湧いてこない。

人から教えてもらったと思ったこともないし、自分が人に教えたという気持ちも持ったことがない。だから、「30くらいで死ぬやろな」と思っていた自分が結婚して子供ができたとき、子供に対して「教える」という考えなかった。孫に教え込みたいとうずうずしていた妻の父親の意には添えずじまいだったが。

先を考えずに歯の手入れを怠り、奥歯がなくなってしまった。今、実際に不自由な思いをしている。だから、「歯だけは大切に」と、せめて「小学校に入るまでは何もしない」とだけは考えた。そして、その考えを優先させた。こちらに来てたまたま入った歯医者が予防を優先する人だったので、定期的な検診にいっしょに通うようにした。

最近同じようなことを考える人がいるなという記事を見た。東大の理3を出て解剖学者をしていたらしい人である。

「■いい教育とは教育しないこと

【エコノミスト】何だか論語の問答みたいになってきましたが、先生のお名前は孟子にちなんでいるわけですから、弟子になった気分でどんどん聞きます。先生は、いい教育とは何だと思われますか。

【解剖学者】小学生くらいなら何もしないことですよ。有機農業の不耕起と同じようにやったほうがいい。高等教育についても「教育」しないことです。東大の伝統は結局は「自分でやれ」と言うことです。モチベーションのある人が自分でやる、それを周りが手助けする。それだけですよ。

学校は、基本的に子供に好きなことをさせる場にして、大人は見守るだけでいい。「この学年ではこれを覚えなさい」なんてナンセンスだと思います」

エコノミストという肩書の人との対談を収録した本の一部をウェブで紹介していたようだ。聞き手は東大法出のエリートで、弟子という言葉を平気で使う人なので違和感しか感じないが、解剖学者の「小学生くらいなら何もしないことですよ」と「不耕起」の引用については同感である。

問題はそのひっかかりや違和感を、現実にあったことから連想して、如何に言葉にするかというのが今やっている作業のようである。3作目は無意識に持っていた常識を問い直す作業だったが、今回は「教える?」に潜む自分の意識の深層と向き合うことのようだ。まだまだ先は続きそうである。

最近、散歩道を少し変えた。上の公園から木花神社(↓)を通って農産物店に行き、木花駅と木花小中学校をの脇を通って帰るコースである。

新しく地元の野菜を並べる店が出来たからで、散歩のついでに買いものをするようになった。毎日きちんと歩いている時は生活にもリズム感があるが、そのリズムを続けるのは実際には難しい。今日は今から買いものを兼ねた散歩である。1時前だが、この時間が朝の8時か9時になるのが、理想的な気がする。

駅の方向から撮った整備された木花駅前