つれづれに:大西洋(2024年7月22日)

つれづれに

つれづれに:大西洋

大きくなっている西条柿、今年は300個くらいか?

 →「7月も半ばを過ぎ」の中で

空間が欲しくて大学を探したのに出版社の人と出遭って息つく暇もなく、気がつけば退職していた。医学生の授業の工夫と部屋に来てくれた人たちと話をしている間に、定年になってしまったというところだ。ならば、それを題材にするしかない、そんな思いが強くなった頃に腰をやられた。最後辺りはアングロ・サクソンの侵略の系譜を追っていたが、考えてみれば1949年以降は、私もこの世の中にいたわけである。コンゴや南アフカと思わず生き存(ながら)えてしまった日本と対比して書いてみるか、たくさん書きながらそんなことを思いついた。次回は手始めに、1995である。少し更新まで時間がかかるかも知れない。

と書いたが、日本と比較する南アフリカについてはまだ改めて書いていないことに気がついた。しばらくは、南アフリカについて書くことになると思う。南アフリカはコンゴより年季が入っているので、時間はかかるだろう。南アフリカについて書く前に、大西洋に触れておきたい。

小さい頃から日本が真ん中に位置する地図に慣れてきたせいか、英仏が真ん中に来て大西洋を挟(はさ)んでアメリカ大陸とが一括(くく)りの地図は、新鮮である。欧州が中心で、日本はあくまで極東の小さな国に過ぎない。

 →エボラ・コンゴ関連について書いているときに、親にかまってもらえなくて寂しい日々を送っていたレオポルド2世が毎日地球儀を眺めて暮らしていたと『レオポルド王の亡霊』」に書かれていたのが、なぜか印象に残っている。当時の地球儀では、中央アメリカのメキシコとアフリカのコンゴが白地だったとも書かかれていた。どこの植民地でもなかったという意味である。

 小さなこどもが植民地を持ちたいという夢を持つという発想自体が湧いてこないが、王子は植民地を持ちたいと考えていたそうである。身近な叔父がメキシコを植民地にしようと軍隊を連れて乗り込んだが、殺害されたらしい。大西洋を隔てたアメリカ大陸もすぐ下のアフリカ大陸も、意識の中ではそう遠くなかったのか?まさか、のちに地球儀を眺めていた王子の夢が1885年のベルリン会議で現実のものとなり、のちのちコンゴの住民が→「『悪夢』」を見ることになろうとは誰も予想できなかっただろう。

 最初に大西洋に乗り出したのは、ポルトガルとスペインで、渡った先のアメリカ大陸で好き放題をして、インカやアステカなどの文明の発達していた地域から金銀財宝を持ち帰ったようだ。文明の程度の低かったポルトガルやスペインに鉱山術はなかったために、鉱山技師として連れていかれた西アフリカの人たちは不運だったとしか言いようがない。西フリカでは純度の高い金が精製されていて、鉱山技術は高かった。ポルトガルとスペインが大西洋に乗り出せたのは、帆船技術と火縄銃の技術が発達していたおかげだろう。東アフリカにはダウと呼ばれる今も使われている帆船があるので、その技術を借用したか、奪い取ったのも知れない。大学で非常勤を始めたときに最初に英語の授業で使ったヒューズの『黒人史の栄光』の冒頭に、黒人の水夫が大地が見える!と叫ぶ場面があるが、ヒューズはアメリカ大陸にきた最初の黒人は奴隷ではなかったと紹介している。当時、ポルトガルにはアフリカから連れて来られたり自分で来た黒人がたくさん住んでいたようである。水先案内人としてコロンブスの船に乗っていたペドロ・アロンゾ・ニーニョも、そんな黒人の一人だったらしい。

『ルーツ』の帆船ロード・リゴニア号

ヒューズが朗読した『黒人史の栄光』も入っているLPのカバー

『黒人史の栄光』

 ポルトガル人はアフリカ大陸の南端の喜望峰を回ってインドや中国にも出向いた。植民地経営をするほど国力はなかったので、ポルトガルは中継基地建設を主眼に置いたようである。中国船に乗ったポルトガル人が種子島に来たのは1543年である。船が難破したらしい。お礼に火縄銃を置いていった。砂鉄での製鉄技術のあった当地でも、製鉄技術のあった島根や三重でも銃を作るようになった。1年後には、1万丁も銃が作られているたと言う。1575年には信長が堺商人に銃を集めさせて、長篠の戦いで勝利している。当時では世界一の銃撃戦だったらしい。世界有数の武器保有国だったということだろう。

 ポルトガルとスペインに遅れて植民地争奪戦に参戦したのはオランダである。現在のアンゴラの首都ルアンダに拠点を確保していたポルトガルを避けて南下し、今のケープタウンにオランダ人は入植した。アジアに進出していた東インド会社に水や野菜を補給する中継地だった。それが、オランダ人が南アフリカに入植したきっかけである。その後フランスに先駆けてイギリスが大軍を送り、ケープ植民地を作った。そして、アフリカ人から土地を奪い、オランダ人とイギリス人は南部一帯にアフリカ人を労働力とした搾取機構を打ち立て、連合政権を作っている。南アフリカ連邦である。1800年代後半に金とダイヤモンドが発見されてから一挙に南アフリカの重要性が増した。当然のように鉱山権を巡って殺し合いをしたが、どちらも銃を持っているので殲滅(せんめつ)には至らず、共倒れするよりは連合政権を選んだだけである。南アフリカの人は、まさか入植して来たオランダ人とイギリス人に土地を奪われ、安価な労働力として扱(こ)き使われるようになるとは、誰も思わなかっただろう。1980年代に長崎に来た南アフリカの詩人マジシ・クネーネが日本人が出島にオランダ人を閉じ込めていたのは賢明だったと言ったのは侵略された側の本音だろう。

南アフリカの初回である。しばらく南アフリカが続く。