ジンバブエ滞在記② ハラレ第1日目
概要
横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した2回目の「ジンバブエ滞在記② ハラレ第1日目 」です。
1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo.62(2013/7/10)までです。
本文
ハラレの空はからりと晴れていました。
ロンドン→ハラレ地図
ロンドンのヒースロー空港を真夜中に出た英国航空機は、およそ10時間後、ジンバブエの首都ハラレに着きました。1992年7月21日のことです。日本では猛暑の季節ですが、南半球では真冬でした。海抜1500メートルの高原地帯にあり、雨期と乾期のあるサバンナ気候で、1年中過ごし易いところです。すんなり税関を通過し、待合室で借家を探して下さった吉國さんの奥さんの出迎えを受けました。2日前に車の盗難に遭ったという奥さんの話を聞きながら、私たちを乗せた車は独立記念のアーチをくぐり、ハラレの中心街を抜けて、これからの2ヵ月半を暮らす、アレクサンドラパーク地区フリートウッドロード22番地に到着しました。
フリートウッドロード22番地
ロンドンに一週間滞在して、一人で亡命中のブランシさんに家族で会いに行きました。1985年にキューバでご主人を亡くして以来の亡命生活は大変だったと思いますが、温かく迎えて下さり、アレックス・ラ・グーマや2人の子供さんの写真を見せて下さいました。優しいお人柄に触れて、とても豊かな気持ちになりました。
ブランシと、ロンドンの自宅で
吉國さんからは「ここには一握りの金持ちと大多数の貧乏人しかしませんので、恐ろしく不動産事情が悪く、最悪の場合はホテル住まいになるかも知れません。」という手紙をもらっていましたが、ある日、家が見つかりましたので、という国際電話がありました。82歳の1人暮らしの老婆がスイスに出かける間、家具付き1ヵ月約10万円の家賃で貸して下さるそうで、宮崎を離れる10日ほど前のことでした。
「海外研修記「『アフリカは遠かった』」(宮崎医科大学「学園だより」第号10-11頁、1993年。)と「海外滞在日誌『ジンバブエの旅』」(宮崎医科大学「学報」第50号18-19頁、1993年。)を書きました。
500坪近くもある広い所で、オランダ風の建物がたっていました。南西の隅に車庫と「庭師」用の小さな建物があり、その建物の北側には菜園がありました。庭には、パパイヤとマンゴウがたくさんの実をつけ、ジャカランダの大木が2本あり、北側にはハイビスカスの生垣がありました。
およそ500坪の借家
道を隔ててアレクサンドラパーク小学校があり、ジンバブエ大学の建物も見えます。「この家の持ち主のおばあさんが雇っておられるゲイリーです。給料はおばあさんからもらうそうです。普段のゲイリーの仕事は、庭の手入れと、犬の世話かな。おばあさんがいる時は、買物や銀行にも行かされているようね。少しくらいなら手伝ってくれるでしょう。何かあったら、頼んでみて下さい。」と奥さんから紹介されたのが、ガリカーイ・モヨさんで、190センチ近くはある、すらりとしたショナ人でした。体長が1メートル50センチほどの犬もいました。前脚が悪そうでしたが、デインと呼ばれる番犬のようです。ゲイリーがいたからでしょう、初めての私たちにも吠えませんでした。南の棟には、寝室が3つと風呂と台所、西側の棟には食堂と居間がありました。居間は20畳ほどで、応接セットに机とテレビが置いてあります。スイッチを入れたらぶんという音がして、映像が出て来るまでに少し時間がかかりました。
ゲイリーとデイン
ダブルベッドのある12畳ほどの東の部屋を長男と私が、真ん中の6畳くらいの部屋を長女が、西側の7畳ほどを妻が使うことにしました。見かけとは違って、全体に陽当たりも風通しも良くないようでした。長女の入った部屋は犬が使っていたようで、臭いもひどく、ぎしぎしと大きな音をたて、寝心地が悪そうでした。どの部屋も照明器具がお粗末で、全体に暗い感じです。
三方が広い窓の12畳くらいの台所には、冷蔵庫と4つ続きの電熱器があり、湯も出るようでした。故障したトースターと芝刈り機に似た掃除機もあります。掃除機の電源を入れて試してみましたが、1円玉も吸いこまず役に立ちそうにありません。願ってもない邸宅を世話してもらっておきながら、文句ばかり、我ながら浅ましく思いました。便利で快適な日本の生活に慣れきってしまっているようです。
借家の室内
夕方、吉國さんが食事に招待して下さいました。お宅は、同じ地区内の2キロほど北東にあり、手入れの行き届いた庭のある閑静なお住まいでした。久しぶりの家庭料理を味わいながら、子供たちはゲームを楽しみ、私たちは吉國さん夫妻のお話をうかがいました。
ハラレでは、1年を通じて北東から南西の方角に概ね風が吹くようで、白人入植者は東側に水源地を確保したあと、南西の方角にアフリカ人の居住区(ロケイション)を造ったそうです。工業地帯をその間に置いて、緩衝地帯にしたと言います。なるほど、アフリカ人は風上には置かないということか。待てよ、どこかで似たような話を聞いたことがあるぞ。ジョハネスバーグ近郊のアフリカ人居住区ソウェトだ。SOUTH WEST TOWNSHIPのそれぞれの頭2文字を取った地名です。ジョハネスバーグの南西にあり、1955年のソフィアタウン強制撤去の後に自然発生的に生まれたといわれる地域です。金鉱のボタ山が、緩衝地帯になっています。そう遠くないハラレが、ソウェトのモデルだったのか。
ジョハネスバーグ金鉱山(「ディンバザ」より)
遠く離れたアフリカの歴史などは、ややもすれば歴史の方から人の生活を捉えがちですが、実態は、いいものを食べたい、いい家に住みたいというようなごく一般的な欲望が、結果的に歴史を作ったのではないか。吉國さんと話している時、ふとそんな思いに捕らわれました。
こうして、ハラレの第1日目が終わりました。(宮崎大学医学部教員)
借家前の道路
執筆年
2011年8月10日
収録・公開
→「ジンバブエ滞在記② ハラレ第1日目」(モンド通信No. 36)