比較編年史1950①私(2025年5月14日)

2025年5月15日つれづれに

つれづれに:比較編年史1950①私

近くの空き家で見つけたカンゾウ

 今回からは、比較編年史の1950年である。→「1949①私 」では、私が1949年に生まれたということだけを書いた。1950年は1歳だったが記憶はないので、生まれた地域と家の周りについて書こうと思う。

生まれた家も地域も嫌だったので長いこと町の名前も言いたくなかったが、当時の状況を日本国内や世界のいくつかの地域と比較しながら自分の生きた時代について書こうとしているので、比較する元の私の生まれた町についても書くことにした。

前に少し書いたが、神戸から電車で1時間ほど西の小さな町で生まれている。国鉄の複線の駅のある加古川である。北に向かう単線の加古川線の起点でもある。町に関心を持ったことがなかったので、詳しくは知らないが宿場町で栄えたらしい。銘菓にかこの餅というのがあった気がする。市の南側は瀬戸内海に面し、肥料工場や化学工場がある。西端に加古川が流れていて、川の両側に日本毛織の工場がある。複線の駅があるので、それなりに人口も養えるくらいには経済も回っているということだろう。神戸・大阪の通勤圏で、大学の頃にはすでに単線の駅沿いにも神戸や大阪に通う人用の住宅地が出来ていた。地価がそう高くなかったからだろう。

 吉川英治の『宮本武蔵』で親しんだ武蔵は作州浪人と思い込んでいたが、石の宝殿や加古川市泊町の出身だと言う人もいるらしい。泊神社(↓)の写真も出ていた。石の宝殿は私の母が継母に虐められ暮らした土地のすぐ近くだし、泊神社の近くを自転車で通った記憶もかすかにある。作州は岡山で気候などもよく似ている。たけぞうと言われていた少年時代は、村人に馴染めなくて疎外感を味わっていたようだ。関ヶ原の戦いに志願して死にかけたのも、村での居心地の悪さも一因だろう。最初の辺りで宮本村からいっしょに志願した幼馴染と会話をしている場面があるが、小早川陣営の足軽だったようだから、戦いに敗けて逃げ帰ったというところだろう。私の生まれた村からも関ヶ原の戦いに志願して死んだ武士の末裔も少なからずいそうである。

 播州と呼ばれる土地柄としては東の方に関心が強く、岡山と大阪までの距離はそう変わらないのに、岡山の方には関心が向かない傾向がある。宮崎に来てから岡山に住む人に会いに出かけた時、姫路までは電車も多かったが、それより西は単線並みの不便さだと改めて思ったことがある。従って、大学を選ぶ時も、西の方は視野にないようである。旧帝大系の九大を選ばず、東北大や北大を選ぶ人の方が多かった。名古屋大もかなりレベルの高い大学だが、行く人は多くなかった。

石の宝殿

 宮崎に来て、加古川線(↓)の一つ目の駅の新興住宅地に住んでいた人と知り合いになった。研究室が近かったので、よく部屋を行き来した。その人と最近ズームで話す機会があって初めて知ったのだが、その地域から見れば私の住んでいた地域は町だったそうだ。駅前の商店街はわりと人出があったし、少し南からは商店街が川の手前まで続いていた。スーパーやモールが出来る前のなので、商店街にはいつも人が行き来して店にも活気があった。高校の通学路に指定されていたので、高校の時も大学の6年間もその商店街を通った。高校で教員として世話になった校長とばったり出会ったのも、駅前通りだった。

1950~60年代

 生まれた家は商店街が切れる辺りの、ごみごみした密集地帯にあった。周りは長屋が多かった。家の南側には国道2号線が通り、家の裏手には小さな溝があった。その溝で魚を取っていた記憶がある。鰻を捕まえたこともあるので、水も澄んでいたような気がする。しかし、生活排水を垂れ流すようになってから、急に溝が濁り、悪臭がするようになった。私の家はその長屋の途切れた辺りにあり、6畳と4畳半の2間で、トタン屋根の粗末なものだった。辛うじて南側に小さな縁がついていて、南隣との間に少し空き地があった。辺り一帯の長屋も家も大体似たりよったりで、陽当たりも悪くじめじめしていて、淀んだ臭いが漂っていた。私の記憶の中では、スラムだった。

1950~60年代の日本毛織印南工場