英語 Rb1(3)

今日(15日)は時間がなくて、あした更新です。

帰ってから、Zoomトーイック(金曜日の分)を拵えてたんやけど、CDの再生ソフトだけやなくて、画面上で録音するソフトもあやしくて、結局全部は完成せず、でした。あしたまたやって金曜日の分の要領も書くつもりです。まだ晩ご飯も食べてないし、あしたは1コマ目からなんで、ここでやめることにします。

(2020/6/21:12:10)

Zoomトーイック(金曜日の分)の報告。10時からRa1 (2)のクラスの人と合同で20人ほどで2時間半ほど。問題・解答をやってもらって僕が解説。

前日に解説、音声のファイルを完成させて参考ファイルにアップロード。

(「Zoomトーイック2解説」、「Zoomトーイック2音声」、「Zoomトーイック2です。」Vol 6 Test 2の五分の一ほどです。)ダウンロードしてやってみるのも可能やで。

<連絡事項>

*7回目授業→6月25日(木)15:05~16:20。

① Outbreak 2の聞き取り(古藤くん)続き。→ transcription

② 「アフリカシリーズ」の独立・コンゴ危機、コンゴ自由国、アフリカ分割の映像を見てもらい、

③ 何人かに映像の感想を聞きました。

アメリカの介入で惨殺されたルムンバ(小島けい画)

この辺りについては、コンゴとエボラ関連で科学研究費を申請した前後に書いてまとめたのがあります。コンゴとエボラでは科研費はもらえず。エイズ関連で2度(通算7年間)もらって、コンゴとエボラはそれ以上やらなかったけど、授業では継続中。

「医学生と新興感染症―1995年のエボラ出血熱騒動とコンゴをめぐって―」「ESPの研究と実践」第5号(2006年)61-69頁。

<次回>は予定変更で

配ってあるトーイックサンプル問題。リスニング(Part 1~Part 4)はその場でやって誰かに答えてもらってチェック。リーディング(Part 5~Part 7)は予めやっとく方がわかりやすいと思う。誰かに答えてもらってから、僕が解説。

先週用意して参考ファイルに置いてある過去問(Vol 6の一部)をやっておくと二種類の過去問が出来るので、大体感じは掴めるんやないやろか。

トーイックに対する学部の対応(中止を覆して、オンラインを実施、学生にも実際に英語を担当している教員にも連絡なし)には学生一人一人のこと考えてへんなという思いしかないけど、学部でも説明会を実施、医学科では対面をすでに4週間実施、部活動も開始、の状況からすれば、可能ではあるかも知れないけど。でも、オンラインに関してももっとやることをやってかから、やっぱりもう少し延期が妥当、と思う。

でも、みんなの立場からすれば、文句だけ言ってても時間を大事にしてるとは言えないんで、割り切って、折角の機会を利用せんと馬鹿みたい→急遽過去問を作り・Zoomトーイック(金曜日の分)を実施。このサンプル問題は一か月ほど先にやる予定を前倒し。いっしょにやろ。

紫陽花(小島けい画)もそろそろ終わりかなあ。

→Outbreak(2) transcriptionの続き

Murby: No, but it kills in two or three days. The (mortality) (rate) is a hundred percent.

Sam: Jesus. Could an (infected) person’ve gotten out of the village?

Murby: If he was dead or dying in the jungle, and it’s fifty miles to the nearest village.

Sam: The (first) (case), (patient) (zero)?

Murby: A young man called Murazo, worked with a white man to build a, a road into Kinshasa. And when he returned, he was sick….

Sam: I see.

Murby: …and he drank from this (well). From there it spreads to the (entire) village.

Sam: Did you (identify) the (carrier), the (host)?

Murby: No. When we arrived, the boy was incoherent. He died, ah, two hours later. He couldn’t tell us how he got it.

Sam: He’s not sick?

Murby: He is a (local) (juju) man, (witch) doctor. He stayed in his cave a whole week.

Sam: I’d like to talk to him, too.

Murby: No, he talks to me. You see he believes that the gods were awoken from their sleep by the men cutting down the trees where no men should be, and the gods got angry. This is their (punishment)

クラス名簿(再掲載) 英語 Rb1(3)クラス名簿(32名)

30190700 西田 侑暉 ニシダ ユウキ
30200063 岩切 佑理可 イワキリ ユリカ
30200074 岩根 穂乃花 イワネ ホノカ
30200087 植村 尊 ウエムラ タケル
30200119 大重 滉輝 オオシゲ コウキ
30200191 川越 千尋 カワゴエ チヒロ
30200281 古藤 凜 コトウ リン
30200317 坂元 美琴 サカモト ミコト
30200371 篠原 小伯 シノハラ コハク
30200384 下條 帆乃佳 シモジョウ ホノカ
30200409 杉村 拓志 スギムラ タクジ
30200418 田代 歩 タシロ アユム
30200436 田中 ひびき タナカ ヒビキ
30200472 堂薗 翔永 ドウゾノ シヨウエイ
30200485 堂前 虹太 ドウマエ コウタ
30200515 得能 万里奈 トクノウ マリナ
30200520 戸島 脩太 トジマ シユウタ
30200544 長倉 由依 ナガクラ ユイ
30200582 中屋敷 香波 ナカヤシキ カナミ
30200597 原田 佳純 ハラダ カスミ
30200641 平原 鈴華 ヒラバラ スズカ
30200658 樋脇 千可子 ヒワキ チカコ
30200694 福田 美南 フクダ ミナミ
30200759 待山 功星 マチヤマ コウセイ
30200780 松本 望 マツモト ノゾミ
30200821 宮崎 琉奈 ミヤザキ ルナ
30200845 森山 友渚 モリヤマ ユウナ
30200852 安田 龍司 ヤスダ リユウジ
30200883 由地 紀一郎 ユウヂ キイチロウ
30200898 吉田 晴紀 ヨシダ ハルキ
30200911 渡邊 凌一朗 ワタナベ リヨウイチロウ
30200926 JIANG TIANCHENG コウ テンセイ

 

2010年~の執筆物

続モンド通信19(2020年6月20日)に収載

 アングロ・サクソン侵略の系譜16:「科学研究費 1」(玉田吉行)

 1988年度前期の授業が終わって一段落した頃、人事の世話をして下さった化学の人から科学研究費に応募したらどうですかと薦められました。高校の教員を辞めたあと非常勤も長く、科学研究費の存在も知らなかったので、よくわからないまま取り敢えず出してみるかと、殴り書きで書類を出しました。応募要領を読んでも具体的なイメージが湧きませんでしたが、その時一番力を入れていた南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマに関連させて「1950〜70年代の南アフリカ文学に反映された文化的・社会的状況の研究」とタイトルをつけ、研究種目は一般研究(C)、研究分野は該当するものがなさそうなので「その他外国語・外国文学」、個人では500万が上限のようなので、3年か4年で500万、そんな感じだったと思います。

アレックス・ラ・グーマ(小島けい画)

その後書類を書いたことも忘れていましたが、翌1989年四月に単年で100万を交付するという通知が届きました。交付決定の基準はわかりませんが、直前の出版物が多かったからだと思います。1987年の年末にサンフランシスコで行なわれたMLA(Modern Language Association of America)とカナダで行なわれたアレックス・ラ・グーマ/ベシー・ヘッド記念大会(Alex La Guma /Bessie Head Memorial Conference)での発表や、反アパルトヘイト運動の一環として行なわれていたアパルトヘイト否(ノン)関連の講演会での発表などの原稿に手を入れて、雑誌「ゴンドワナ」(横浜:門土社)や「黒人研究」、「言語表現研究」などの研究誌にたくさん書いていたからです。業績欄には1987年と1988年十月までのラ・グーマ関連の14本分を記入しました。

元々小説を書くための空間を確保するために大学に来ましたので、研究は念頭にはなかったのですが、大学では教育の他に研究と社会貢献が求められるとあとになって知りました。出版社の社長さんの助言もあって小説は当座封印して、薦められるままに大学用のテキストやら翻訳も含めて、いろいろ書くことにしました。

理科系と文科系では科学研究費に対してかなりの温度差があったようで、一般教育の文系の同僚にも後期から非常勤を始めた旧宮崎大学でも、科学研究費の交付を受けた文系の人は見当たらないばかりか、そもそもほとんどの人が申請すらしてないようでした。大学が外部資金獲得をうるさく言うようになったのは、文部科学省によって運営交付金の恒常的な削減が強行され始めてからです。

交付が決まった年の秋に文部省の職員が来て、夕方4時からの懇親会に出席するように言われました。授業が入っていたので行きませんでしたが、同僚二人が情報を聞きつけて出席してもいいですかと聞いてきました。もちろん僕に権限があるわけでもないので、出席したようですが、二人とも翌年に科学研究費が交付されていました。英語科の同僚にその話をすると、学年末に予算が余ったから科研費どうですかと電話があったけど、断りましたよ、ということでした。急に申請する気が失せてしまいました。

その時の申請書類のコピーはファイルに綴じて保管し、定年退職の時も残していたのですが、部屋の引っ越しでどこかに紛れてしまったようで、申請の詳細は今となっては定かではありません。ただ、内定が決まっていた名古屋医療専門職大学の事務の方が文部科学省に提出する審査書類を作成するために課題番号を調べている際に最終報告書をウェブ上で見つけて下さり、初めて報告書が公開されて残っているのを知りました。→「1950〜70年代の南アフリカ文学に反映された文化的・社会的状況の研究」その報告書です。

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研究課題「1950〜70年代の南アフリカ文学に反映された文化的・社会的状況の研究」

研究課題/領域番号           01510294

研究種目/一般研究(c)

配分区分/補助金

研究分野/その他外国語・外国文学

研究機関/宮崎医科大学

研究代表者/玉田 吉行  宮崎医科大学、医学部、講師 (80207232)

研究期間(年度)1989

研究課題ステータス           完了 (1989年度)

配分額 *注記       1,000千円 (直接経費: 1,000千円)

1989年度: 1,000千円 (直接経費: 1,000千円)

キーワード アレックス・ラ・グーマ / 南アフリカ文学 / 亡命作家 / アパルトヘイト下の文学 / ミリアム・トラーディ / カラード作家 / アフリカ人作家

研究概要

アレックス・ラ・グーマの『三根の縄』(1964)の作品論、アパルトヘイトの歴史と現状についての講演、南アフリカ作家ミリアム・トラーディさんの宮崎講演の実現、が主な成果である。

『三根の縄』は50年代のアパルトヘイト体制下で呻吟するケープタウン郊外の「カラード」と称される人々の状況を描いた物語だが、歴史を記録したい、世界に現状を伝えたいという作家ラ・グーマの願いが反映されている。雨のイメージを象徴的に使った文学手法に着目し、1988年カナダのブロック大学で開催されたアレックス・ラ・グーマ/ベシー・ヘッド記念大会で行なった口頭発表を軸に「アレックス・ラ・グーマ 人と作品6『三根の縄』―南アフリカの人々」にまとめた。近々出版予定(校正済み)

講演は、愛媛県松山市の市民グループ「アサンテ・サーナ!」に招かれ、50年代、60年代の文化的・社会的状況を生み出した政治的、歴史的背景を中心に行なったもので、今までのまとめと今後の方向づけという意味と、研究成果を社会に問う意味でよかったと思う。「アパルトヘイトの歴史と現状」にまとめ、近々出版の予定。(校正済み)

突然の来日のため、個人的招待という形になったが、南アフリカ国内外で活躍中の作家ミリアムさんを迎え、本学で一般公開の講演会を持った。文化的行事の少ない宮崎では、マスコミも好意的に取り上げ、大きな反響があった。通訳も含め、講演会という形で研究成果を社会に還元出来たのは、出版物を世に問う以上の成果があったように思う。1960年代後半から作家活動を始めたミリアムさんとの交流は、研究テーマそのものでもあった。宮崎訪問、滞在についてのエッセイ、講演「南アフリカの文学と政治」と質疑応答の翻訳も含め「ミリアムさんを宮崎に迎えて」にまとめ、近々出版の予定。(現在、校正中)

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「ミリアムさんを宮崎に迎えて」ミリアムさん

ミリアムさん・トラーディ(小島けい画)

次に申請書類を出したのは、外部資金がうるさく言われ始めた2000年に入ってからです。たまたまその少し前に教授になり、大学の教員には教育、研究、社会貢献が求められると意識し始めた頃です。(宮崎大学教員)

続モンド通信・モンド通信

続モンド通信19(2020/6/20)

 

私の絵画館:「アフリカ―家路―」(小島けい)

2 小島けいのジンバブエ日記12回目:アフリカの旅―前と後―(小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜16:「 科学研究費 1」(玉田吉行)

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1 私の絵画館:「アフリカ―家路―」(小島けい)

 

この絵は、1992年に出版されたアレックス・ラ・グーマ著『まして束ねし縄なれば』の装画です。

私たちがジンバブエに向かったのは、その年の6月の終わり頃ですから、出発する前に描き終えて、出版社に送ったわけです。

この小説は、南アフリカが舞台ですが。実際にはどういうところなのか、私は全くわかりませんでした。そこで参考にしたのがBSで放送されたアンゴラのニュースです。その短かい映像のなかで一番印象に残ったのが、乾いた土埃りの道を黙々と歩く黒人の人たちの姿でした。

南アフリカではありませんが、アンゴラもアフリカ南部に位置しており、南アフリカの北側にあります。きっと同じような光景があるのではないか、と思いました。

当時の私の描き方は、今とは全く違います。短時間で一気に描きあげて,終わり!というきわめて大ざっぱなものです。<5m離れて見てみると、いい感じ>とよく言われました。

この絵は、その描き方の最たるものだと思います。ただ、いつもは注文の多い出版社の社長さんも編集者の方も、珍しく1回で気に入って下さり、OKがでました。

おかげで、私たちはハラレ滞在中に、日本から送られてきたこの本を受けとることが出来ました。

私が参考にしたのはアンゴラでしたが、実際にジンバブエに行ってみて、驚きました。ハラレのいろいろな場所で、これと同じような光景を目にしたからです。

白人はいつも車で移動して、決して外を歩いたりはしません。私たちは中古の自転車を買いましたが、それさえも高価なものです。そのため、黒人は働きに行く時も、買い出しに向かう時も歩くしかありません。

野原には、自然とその人々の通る道が幾すじも出来て、交差していました。

一瞬のイメージで描いた絵でしたが、それは日常のよくある風景で、黙々と、ひたすら歩いて家にむかうしかない<現実>そのものでした。

『まして束ねし縄なれば』

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2 小島けいのジンバブエ日記11回目:「アフリカの旅―前と後―」(小島けい)

 今でこそ、アフリカの情報も多少は入ってくるようにはなりましたし、ましてやインターネットという便利な物も普及していますが。

私たちがジンバブエに行こうと決めた約三十年前は、アフリカでの生活が実際にどういうものかは、全くわかりませんでした。

そこで、日本から直接アフリカの生活に入るのではなく、一度どこかに滞在し少し体調を整えてから、ジンバブエに向かおうと思いました。

ジンバブエの地図

帰りも同じように、どこかでアフリカでの生活の疲れを少しとってから、日本への長旅に備えたいと考えました。

そうして、往きはロンドンで帰りはパリで、それぞれ一週間程すごすことに決めました。

どちらにも、相方が以前アメリカやカナダでの国際会議でお会いして、再会を約束した方たちがおられました。

ただ、旅を記録した3~4冊のノートは、最後の一冊以外は紛失しましたので、断片的な記憶にたよるしかありません。

<ロンドン編>

ロンドンでまず思い出すのは、ヒースロー空港です。

<やっと着いたあ・・・・>と四人はそれぞれ背中にはリュックを担ぎ、大きなトランクをゴロゴロ引っぱりながらタクシー乗り場に向かいました。するとすかさず二人の男の人がやってきて、サッサと荷物を二台の車に積み込みました。何かを考える間もなく、宿に向かって出発です。

ところが、これが空港名物(?!)の<白タク>だったとわかったのは、もはや宿についた後でした。

ロンドンの宿は、私の大学時代の友人が経営している日本人向けのインです。大学時代は、最初はケービング部(洞窟探検部)で、後では部をやめて二人で一緒にケイビングをやっていたお友だちですが。

その頃は、ロンドンで3~4件のインの経営者となっていて、中でも一番落ち着くからと住宅街にある<イン>を紹介してくれました。

<イン>

彼女の<イン>は、ビジネスマンや旅行者にとても人気でした。何故なら朝食に、しっかりした日本食の<定食>を出してくれるからです。

私たちの滞在中も、朝からハンバーグ定食やら天ぷら定食が出ましたが、慣れない外国生活では、とてもありがたいものでした。

朝ご飯をしっかり食べた後は子供たちのリクエストで、大英博物館でミイラを見たり、シャーロックホームズの家(?!)を訪ねたりしましたが。

もちろん一番の目的は、相方が研究している南アフリカの作家<アレックス・ラ・グーマ>の奥さんであるブランシさんに会うことでした。

ラ・グーマは、1966年にANC(アフリカ民族会議)の指示でロンドンに家族で亡命し、その後ソ連とキューバに外交官として招かれたりしましたが。1985年に亡命先のキューバのハバナで急死しました。60歳の若さでした。

ラ・グーマ(小島けい画)

私たちが訪れた頃、ブランシさんはロンドンで一人暮らしをしておられました。古いアパートのなかの一軒が彼女の住まいでしたが、1階は玄関、2階が居間兼台所、3階が寝室になっていました。つつましい生活のようでしたが、清潔感のある落ちついた雰囲気の家でした。それは、ブランンシさんの温かくもの静かな性格と重なりました。

彼女は私たちのために、ミートボールのような郷土料理を準備して待っていてくれました。心のこもったおいしい食事の後に、相方は、結婚式や、ソ連で(長男・次男も一緒に)撮った写真をいただいたり、本だけでは知りえない作家の実像や様々な体験談

をいろいろ聞かせていただき、大きな感銘を受けたようでした。

二人が話し込んでいる間、私と子供たちはアパートのまわりの庭を散策したりして、ロンドンという街をそれなりに楽しんで過ごしました。

<アフリカのお母さん>という感じのブランシさんとの時間は、四人にとってあったかい、そして心地よい数時間となりました。

その後世界の情勢は変わり、お会いした数年後にブランシさんは南アフリカへの帰国が実現しますが。相方との交流は、南アフリカにもどられてからもしばらく続いていたそうです。

ブランンシさん(小島けい画)

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3 アングロ・サクソン侵略の系譜16:「科学研究費 1」(玉田吉行)

 1988年度前期の授業が終わって一段落した頃、人事の世話をして下さった化学の人から科学研究費に応募したらどうですかと薦められました。高校の教員を辞めたあと非常勤も長く、科学研究費の存在も知らなかったので、よくわからないまま取り敢えず出してみるかと、殴り書きで書類を出しました。応募要領を読んでも具体的なイメージが湧きませんでしたが、その時一番力を入れていた南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマに関連させて「1950〜70年代の南アフリカ文学に反映された文化的・社会的状況の研究」とタイトルをつけ、研究種目は一般研究(C)、研究分野は該当するものがなさそうなので「その他外国語・外国文学」、個人では500万が上限のようなので、3年か4年で500万、そんな感じだったと思います。

アレックス・ラ・グーマ(小島けい画)

その後書類を書いたことも忘れていましたが、翌1989年四月に単年で100万を交付するという通知が届きました。交付決定の基準はわかりませんが、直前の出版物が多かったからだと思います。1987年の年末にサンフランシスコで行なわれたMLA(Modern Language Association of America)とカナダで行なわれたアレックス・ラ・グーマ/ベシー・ヘッド記念大会(Alex La Guma /Bessie Head Memorial Conference)での発表や、反アパルトヘイト運動の一環として行なわれていたアパルトヘイト否(ノン)関連の講演会での発表などの原稿に手を入れて、雑誌「ゴンドワナ」(横浜:門土社)や「黒人研究」、「言語表現研究」などの研究誌にたくさん書いていたからです。業績欄には1987年と1988年十月までのラ・グーマ関連の14本分を記入しました。

元々小説を書くための空間を確保するために大学に来ましたので、研究は念頭にはなかったのですが、大学では教育の他に研究と社会貢献が求められるとあとになって知りました。出版社の社長さんの助言もあって小説は当座封印して、薦められるままに大学用のテキストやら翻訳も含めて、いろいろ書くことにしました。

理科系と文科系では科学研究費に対してかなりの温度差があったようで、一般教育の文系の同僚にも後期から非常勤を始めた旧宮崎大学でも、科学研究費の交付を受けた文系の人は見当たらないばかりか、そもそもほとんどの人が申請すらしてないようでした。大学が外部資金獲得をうるさく言うようになったのは、文部科学省によって運営交付金の恒常的な削減が強行され始めてからです。

交付が決まった年の秋に文部省の職員が来て、夕方4時からの懇親会に出席するように言われました。授業が入っていたので行きませんでしたが、同僚二人が情報を聞きつけて出席してもいいですかと聞いてきました。もちろん僕に権限があるわけでもないので、出席したようですが、二人とも翌年に科学研究費が交付されていました。英語科の同僚にその話をすると、学年末に予算が余ったから科研費どうですかと電話があったけど、断りましたよ、ということでした。急に申請する気が失せてしまいました。

その時の申請書類のコピーはファイルに綴じて保管し、定年退職の時も残していたのですが、部屋の引っ越しでどこかに紛れてしまったようで、申請の詳細は今となっては定かではありません。ただ、内定が決まっていた名古屋医療専門職大学の事務の方が文部科学省に提出する審査書類を作成するために課題番号を調べている際に最終報告書をウェブ上で見つけて下さり、初めて報告書が公開されて残っているのを知りました。→「1950〜70年代の南アフリカ文学に反映された文化的・社会的状況の研究」その報告書です。

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研究課題「1950〜70年代の南アフリカ文学に反映された文化的・社会的状況の研究」

研究課題/領域番号           01510294

研究種目/一般研究(c)

配分区分/補助金

研究分野/その他外国語・外国文学

研究機関/宮崎医科大学

研究代表者/玉田 吉行  宮崎医科大学、医学部、講師 (80207232)

研究期間(年度)1989

研究課題ステータス           完了 (1989年度)

配分額 *注記       1,000千円 (直接経費: 1,000千円)

1989年度: 1,000千円 (直接経費: 1,000千円)

キーワード アレックス・ラ・グーマ / 南アフリカ文学 / 亡命作家 / アパルトヘイト下の文学 / ミリアム・トラーディ / カラード作家 / アフリカ人作家

研究概要

アレックス・ラ・グーマの『三根の縄』(1964)の作品論、アパルトヘイトの歴史と現状についての講演、南アフリカ作家ミリアム・トラーディさんの宮崎講演の実現、が主な成果である。

『三根の縄』は50年代のアパルトヘイト体制下で呻吟するケープタウン郊外の「カラード」と称される人々の状況を描いた物語だが、歴史を記録したい、世界に現状を伝えたいという作家ラ・グーマの願いが反映されている。雨のイメージを象徴的に使った文学手法に着目し、1988年カナダのブロック大学で開催されたアレックス・ラ・グーマ/ベシー・ヘッド記念大会で行なった口頭発表を軸に「アレックス・ラ・グーマ 人と作品6『三根の縄』―南アフリカの人々」にまとめた。近々出版予定(校正済み)

講演は、愛媛県松山市の市民グループ「アサンテ・サーナ!」に招かれ、50年代、60年代の文化的・社会的状況を生み出した政治的、歴史的背景を中心に行なったもので、今までのまとめと今後の方向づけという意味と、研究成果を社会に問う意味でよかったと思う。「アパルトヘイトの歴史と現状」にまとめ、近々出版の予定。(校正済み)

突然の来日のため、個人的招待という形になったが、南アフリカ国内外で活躍中の作家ミリアムさんを迎え、本学で一般公開の講演会を持った。文化的行事の少ない宮崎では、マスコミも好意的に取り上げ、大きな反響があった。通訳も含め、講演会という形で研究成果を社会に還元出来たのは、出版物を世に問う以上の成果があったように思う。1960年代後半から作家活動を始めたミリアムさんとの交流は、研究テーマそのものでもあった。宮崎訪問、滞在についてのエッセイ、講演「南アフリカの文学と政治」と質疑応答の翻訳も含め「ミリアムさんを宮崎に迎えて」にまとめ、近々出版の予定。(現在、校正中)

「ミリアムさんを宮崎に迎えて」ミリアムさん

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ミリアムさん・トラーディ(小島けい画)

次に申請書類を出したのは、外部資金がうるさく言われ始めた2000年に入ってからです。たまたまその少し前に教授になり、大学の教員には教育、研究、社会貢献が求められると意識し始めた頃です。(宮崎大学教員)

英語 Ra1(2),英語 Rb1(3)

ブログにも書いたけど、帰ってから問題を作ってたけど、CD再生ソフトと録音ソフトがうまく動かなくてえろう時間がかかりました。まだ出来上がってないので、あしたこのページに要領を書き込みます、悪しからず。

あ~あ、機械はこれやから嫌やなあ、ほんま。

今から晩ご飯、体大丈夫かなあ。