つれづれに

つれづれに:日1860

柿(↑、↓熟す前)が一気に色付いてきた。短い期間に作業をしないと実が崩れる可能性はあるが、先ずは5つずつである。先は長い。ずいぶんと気温も下がってきたし、雨が降らないでいてくれそうなので、何とか干し柿が出来そうである。生り年につき、お裾分けも充分、連絡があればいつでも送付可である。今年は暑さのせいか、熟し方がおかしいので、剥く時にぐちゃぐちゃになったり、吊(つ)るすための枝の支えの部分が重さで耐えられなくて落ちてしまう柿が50個ほどあった。それに比べて、今から取り込むのは例年通りの熟し方で、剥く作業も例年通りで、助かる。タスカルの原理である。

非常勤(「大阪工大非常勤」ほか多数、医大に来る前年は16コマ)と医大の1年目(医学科4クラスと後期非常勤農学部2クラス)の6年間、「黒人史の栄光」(↓、“The Glory of Negro History,” 1964)を教科書に使ったお陰で、1860年は歴史の大きな流れの潮目だったかも知れないと考えるようになった。

それはないと思うが、日本もひょっとして‥‥と考えて、少し調べてみたら、奇しくも潮目のような気がしてきた。調べてみるものである。それでは、ヨーロッパは?アフリカは?南アフリカは?

「なんぼなんでもそう都合よくはいかんやろ」とは思うが、少し広げて調べてみる必要がありそうである。一人では手に余るが、「しゃーない」、やってみるか?

受験勉強はしなかったが、ところどころ日本史は考えたことがある。吉川英治の『宮本武蔵』(↓)で親しんだ作州浪人武蔵(たけぞう)は関ヶ原の戦いで、負けた西軍の歩兵で死にかけたようだし、興味もあって身近な問題として考えたことがある。調べていると、宮本武蔵の出生地が作州宮本村ではなく播州だと主張している人たちがいた。文献まである。泊(とまり)神社に何やら縁(ゆかり)のものが祀られてあるとウェブには出ていたが、その神社は通(かよ)った忌まわしい高校からそう遠くないところにあって、たぶん側を通った記憶がある。信頼度は低そうだが、ほかに出生地が宝殿というのもあった。母親が継母に虐められていた村で、採石場があり、山から鉱石(おそらく大理石。祖父は大理石職人で岐阜の大垣に出稼ぎに行っていたらしい。宝殿の現場で職人をしていた気がする。帰省中に脳溢血で倒れそのまま死んでしまった。ちょび髭を生やした遺影を見たとき、なかなかいい顔してるやんと思った記憶がある。職人の腕はよかったのではないか。ひょっとしたら、見込まれて出稼ぎに行ったのかも知れない。確かめようがないので、勝手な憶測である)を切り出すので、山がいびつな形をしていたのを覚えている。

武蔵が参戦した関ケ原の戦いも国が真っ二つに分かれて戦った(国)内戦、市民戦争である。真っ二つに分かれた理由が今の私には理解しかねるが、その戦いのあと、長い長い江戸時代に入っている。その長い時代にヨーロッパは奴隷貿易の蓄積資本で産業革命を起こし、農業から工業へ社会の基軸が移行していた。産業化の道を突っ走っていたわけである。経済が大きくなると、その体制維のために武器も開発される。最初はポルトガル人が種子島に置いて行った火縄銃の類の火器だったが、江戸時代の終わりに黒船(↓)がやってきたときには、どかーんと轟音を響かせる大砲に変貌していた。刀で太刀打ちできるわけがない。開国を迫られて、通商条約を結んだ。

米国軍艦2隻が浦賀水道に来航して通商を打診したのが1846年、1854年にはペリー(↓)が7隻の軍艦を率いて江戸湾に来航して、その年に日米和親条約を締結している。江戸幕府は大老井伊直弼が尊王攘夷派を押さえて、強硬策を次々と実施している。大砲で脅されて開国してしまったのだから、天と地がひっくり返ってしまったようなものである。武士は今の国家公務員、幕府は霞が関のようなもので、それ自体がなくなって新しい機構になってゆくのだから、武士には死活問題だった。当然、外国人排斥も起こる。それを承知で、幕府が強硬に推し進めてしまったわけである。

その井伊直弼(↓)が殺されたのが1860年だった。桜田門外の変である。この事件の後、幕府の権威は低下していき、朝廷の力が強くなっていく。1867年に徳川慶喜が征夷大将軍を辞して大政奉還、翌1868年に王政復古し、元号も明治に変わる。

いささかこじつけ気味だが、リンカーンの大統領就任1860年が歴史の潮目だったアメリカに似て、奇しくも1860年は日本でも大きな歴史の流れが変わる潮目だったようである。

つれづれに

つれづれに:米1860

 今日も白浜の鍼灸整骨院で、揉んで手入れをしてもらった。1週間に一度通えるのはありがたい。空気が澄んだ秋晴れの過ごしやすい日が多くなる寒露の時期だけのことはある。今日も途中の海岸線は見応えがあった。曽山寺浜にかかる橋からの景色(↑)はお気に入りである。いつも北から南の方向に撮るのだが、今日は南側からも撮った。(↓)

 長いことラングストン・ヒューズの「黒人史の栄光」(↓、“The Glory of Negro History,” 1964)でアフリカ系アメリカ人の歴史を辿っている。実は非常勤の5年間と医大の1年目の6年間、英語の授業はすべてヒューズのテキストと音声を使ったので、繰り返し繰り返し文章を読んだし、ヒューズ自身の朗読を聴いた。挿入されていた歌や演奏にもずいぶんと耳が馴染んだ。歴史を最初、善悪などの二元論で考える傾向があったが、それだけでは歴史を捉え切れないと感じるようになったし、軸というか基準というか、そういう大きな構図の中で考えるようになっていた。

 南北戦争は国の意見が真っ二つに割れて戦った(国)内戦、市民戦争である。それまで深く考えたことはないが、奴隷制は人権を無視した悪いもの、それを巡ってアメリカ国内が二分して市民戦争をした、白人の歴史や学校で習う歴史では、そうなっているような気がしていた。善悪の二元論が軸である。しかし、アフリカ系アメリカ人の歴史を辿っている時に、その軸自体が実際とは違うことに気がついた。

 南北戦争は奴隷制を廃止するか存続するかを巡って戦われたから、奴隷制が軸のようだが、実際はその制度を利用して富を独占し、甘い汁を吸い続けて来た主体が問題であり、軸なのである。それは社会全体の極く僅かな金持ち層、英語で言えば the haves(持つ者)や the robber(搾り取って奪う側)と呼ばれる人たちである。その人にとって、その時は利用できる対象がたまたま奴隷制度であったが、実は搾り取って暴利を貪れるなら何でもよかったわけである。基本は、自分は働かないで人が働いて得た富の上前を撥ねることができればいいのである。

そう考えると日本の律令制度も幕藩体制も同じ構図だし、その頃から本格的にするようになった南アフリカでは、金持ち層は人種を利用して最も効率のいい賃金体系を見つけて搾り取り続けている。搾り取られるアフリカ人は生きて行けるかどうか辺りの定収入で満足に食べれない生活を強いられる。日本でも農民は稗や粟を食べていたし、産業化が進む時代には中卒で集団就職して女工哀史を残した。今は短期契約で将来設計の立たない低賃金で働く若者やシングルマザーも多い。人間は愚かしいもので、その歴史がずーーーっと続いて来たし、これからも続くのである。

南部の金持ち層は奴隷を売買し、子供を産ませて奴隷を増やし、自分たちの農園で奴隷たちを働かせてその上前を撥ねた大農園主である。ここで忘れがちなのが、奴隷より少しましな生活をしてはいたが貧しい生活をしていた白人がたくさんいたことである。借金のかたに年季奉公の奴隷になったものも多かったし、安い給料で雇用されて農場の奴隷監督や逃亡奴隷の捕獲人や、言うことを聞かない奴隷を従わせる役目の奴隷調教人なども数多くいた。貧乏白人を使って、逃げる奴隷を捕まえて見せしめに鞭を打たせ、抵抗する奴隷を調教させて、寡頭勢力は躍起になって体制維持を図っていたのである。貧乏白人の給料を上げずに済ませるには、社会の底辺の奴隷は好都合だった。人種を利用して分断支配に成功していたのである

リチャード・ライト『1200万の黒人の声』から

 長く続いた大農園主の独占状態が崩れ始めた。奴隷貿易の蓄積資本で産業化した西洋社会と提携した金持ち産業資本家が北部で力をつけ始めたからである。代々奴隷王国が続いた南部の民主党に対抗して北部は共和党を作り、1860年の総選挙ではエイブラハム・リンカーン(↓、Abraham Lincoln, 1809-1865)を大統領候補に選んだ。産業資本家には南部で保持されている奴隷の労働力は魅力で、その労働力を手に入れるためには奴隷制を廃止するしかなかった。当然、奴隷制廃止論者を応援したし、南部からの逃亡奴隷も支援した。出版社で本を出すのも、メディアで報道するのも支援した。それが可能だったのは、南部北部双方の力関係が拮抗して来ていたということだろう。その総選挙で、リンカーンが勝った。1860年はそういう意味では、大きな流れの潮目だったかも知れない。

つれづれに

つれづれに:地下鉄道

入試問題のチェックを頼まれて行っていたので、今日は更新するのが遅くなった。

今回はラングストン・ヒューズの「黒人史の栄光」(↑、“The Glory of Negro History,” 1964)の中にも登場する地下鉄道についてである。「叛逆の系譜」の6人についてはすでに書いたが、ハリエット・タブマン(↓、Harriet Tubman、1822–1913)が地下鉄道の偉大な車掌だったとヒューズは書いている。地下鉄道(Underground Railroad)はどんな組織だったのか?

「地下鉄道」の「地下」とは、見つからないように隠れながらとか秘密の、という意味合いである。「秘密結社」と書かれることも多い。実際に地下に鉄道を作ったわけではないが、オハイオの知り合いの人の家に泊めてもらっている時に、「地下鉄道」の特集をやっていたNational Geographyが写真入りで実際の地下道を紹介している記事を見た記憶がある。住所が近くだったので「本当に地下道があるんですか?」と聞いたら「どうもそうらしいね」という返事だった。確かめたわけではないが、一部隠れるために地下道が作られていたかも知れない。

地下鉄道のメンバーは、各地域ごとの地下鉄道の駅と呼ばれる小さな班に細分化され、駅から駅へ、逃亡奴隷らを移動させていったようだ。駅が教会の役目を果たし、見つからないように夜の暗闇の中を集団で北極星を見ながら移動したようである。教会では「そっとお行きなさい」(STEAL AWAY)が暗号として使われた。ヒューズもタブマンのあとに「そっとお行きなさい」を挿入している。

STEAL AWAY そっと忍んでお行きなさい

My Lord, he calls me.神さま、神さまは私をお呼びになります。
He calls me by the thunder. 神さまは雷で私をお呼びになります。
The trumpet sounds within-a my soul. 雷の音が私の魂の中に響きます。
I ain’t got long to stay here. 私はここに永く留まる必要もありません。
Steal away . . . . . . そっとお忍んで行きなさい. . . . . .

各班は隣の班(駅)までの情報しか持つことができず、誰も逃亡ルートの全容を知ることはなかった。そうして、地下鉄道の秘密と奴隷たちの安全が確保されたわけである。カリフォルニアのゴールドラッシュが起きる1849年頃までに、推計では数万人の奴隷が地下鉄道の助けで逃亡に成功したと言われる。カリフォルニア州は、奴隷制度が認められない自由州となったが、南部が猛反発し、カリフォルニアを自由州と認める代わりに、今まで以上に厳格な逃亡奴隷取締法を施行する法律を1850年に制定した。その取締法がある限り、地下鉄道が北部州へ奴隷を逃亡させても捕まってしまうために、イギリス統治下にあったカナダへ逃亡ルートが伸びていった。イギリスでは、1833年に奴隷制が完全に廃止されていたからである。

住んでみないとわからないのはどこも同じだが、日本とは違ってアメリカは広大だ。おまけにどこまでも地続きである。南部から北部に逃げるといっても、南部は沼地も多い。南部を舞台にした小説によく湿地、沼地の意味のmireという英語が出て来る。テネシー州のメンフィスからミシシッピ北部のオックスフォードまでタクシーで行ったことがあるが、タクシーが通った幹線道路の両脇が延々とこの沼地だった。2時間ほど景色は変わらなかった、気がした。タクシーの窓から、夜に集団で北部に逃げたとき、北極星を見ながら駅の役目を果たす教会から教会に、歌われている「そっとお行きなさい」を頼りに移動したわけである。大変だったやろな、と思いながらタクシーに乗っていた。

リチャード・ライトの死後25周年記念シンポジウム(↓)に参加したときのことである。シンポジウムは1985年の11月にミシシッピ州立大学であった。2回目の渡米だった。

主催者が撮影、写真は翌日の地方紙と翌月の雑誌の特集にも使われた、1985

次の年はミシシッピを中心に南部を回った。ライトの生まれたナチェズ(↓、空港)では、鉄道線路のそばを歩いている時に、私と同じくらいの背の高さの黒人が急にかけ寄ってきて「金をくれ」と言われた。少しびっくりしたが「ノー」と言ったら、何もなかったように離れて行った。鉄道線路脇の住まいはみすぼらしかった。

(たまEOSで撮影、1986)

2度目のメンフィス(↓)では、三時頃、向かいから歩いて来ていた二メートル近くある黒人が、上から「ペーパー?」と突然聞いてきた。「ペーパー?」と不思議に思って首を傾げていたら、今度はゆっくりと「あいむはんぐり」と口に人差し指を入れながら、怒った声で吐き捨てた。Give me a favor、つまり鉄道線路脇で聞いたのと同じ「金をくれ」という意味だったようである。大都市のまだ明るい時間に、それなりの身なりの人から突然「金をくれ」と上から言われるとは思わなかった。アメリカである。fもvも日本語にない音だから、favorがpaperに聞こえたわけだが、街の真ん中で知らない人に「紙」はないだろう。私の想像力の欠如の問題だった。

(たまEOSで撮影、1986)

つれづれに

つれづれに:畑も始めたが

 大根の畝の芽の列が乱れているのは、近くのきれいな白猫がトイレ代わりに掘り返すから

 畑作業をする時間と歩く時間が長くなると、自然と旧暦を意識し始める。畑作業の時間が増えているわけである。このくらいの気温だと、畑に出る気持ちが自然に湧いて来る。今日から全国的に気温がぐっと下がるらしい。

鞘から取った種を蒔いた大根が芽を出して、少しずつ大きくなっている(↑)し、畝(↓)も増やせつつある。今の時期はこのままだと虫にやられるので、希釈した酢を根気よく撒き続ける必要がある。今年は3畝か4畝は作りたいと思っているが‥‥。今年の春先から一日に一回は、大根おろしにたっぷり大分産のちりめんじゃこをかけ、それに徳島産のポン酢をかけて食べるようにしている。用意してもらえる時は、麦ごはんといっしょに。出来れは自分で作ったのを食べられる方がいい。肉や魚はほとんど食べないので、ちりめんじゃこは私にはカリシウム源としては貴重だ、たぶん。小さいが切り身でなくて丸ごとなので、内臓も含まれているのでいろいろな要素が含まれている確率は高い。

奥が南瓜の柵の残骸、大根の畝、手前がレタス用

 一度吉祥寺(↓、駅前商店街2019)で鍼も打つ開業医に耳に鍼を打ってもらったことがあるが、その人が手羽先をまるごと食べるのがよろしい、手羽で飛びますからね、とわかったようでわからいないことを言うのを聞いたことがある。飛べる羽がどういいのかはわからないが、いいのかも知れない。熊本大の医学部を卒業したと言っていた。もちろん、そんなことを考えながらちりめんじゃこを食べるわけではないが‥‥。

 今年はずいぶんと暑かった。ある年齢を過ぎた頃に、暑すぎると皮膚が耐えられない感じになり、汗もかなり嫌な臭いがするようになった。今年は7月23日の大暑、8月7日の立秋、8月23日の処暑、 9月8日の白露くらいまでその感じが続いた。 9月23日の秋分を過ぎてしばらくした頃から気温が下がり出して、やっと一息だった。10月8日の寒露も気づかないまま過ぎてしまった。 旧暦を意識している時は、畑作業も継続してやれているし、散歩も充分に出来ているということだが、なかなか現実は思い通りにはいかない。だいぶ気温も落ち着いたので、旧暦を意識できる程度に過ごしたいものである。

生い茂った草を土に埋めて肥料に、一年くらいで大体土に戻る

 寒露は夜が長くなり、露が冷たく感じられる頃で、朝晩の冷え込みはきつくなるのが例年だが、今年はまだそれほどの冷え込みはない。空気が澄み、秋晴れの過ごしやすい日が多くなりそうである。

土に戻す草

 畑も始めたが、畑にいる時間が短いので、余り作業が進んでいない。台風で倒れかけた南瓜の柵も傾いたままである。端から少しずつ取り崩している。そのうち終わるだろうが。大根とブロッコリーと絹さやは去年残しておいた種を蒔き、レタスと小葱は買って来た種を蒔いた。芽(↓)が出始めている。少し大きくなった頃に植え替えられるように、肥料を入れる作業をしている。

 本当は不耕起農法が出来れば一番だが、気が短いせいか、肥料を入れて虫と闘いながらの作業である。家から出る生ごみと、生い茂る草を土には戻しているが。太い茎は一年経っても少し芯が残っているが、大体は一年もすれば土に戻る。

穴はもう少し深くして、土をかけ肥料を上に置く

希釈した酢で虫に嫌がらせをする程度だが、これが結構な手間である。11月になると虫の勢いが一気に落ちるので、その時に植え替えられるように準備しておきたいとは思っているが‥‥。

南瓜の柵の残骸、十月中に地面が見えるといいが‥‥

 柿もそろそろ色付き始めた。今年は生り年で500個近くなったが、すでに風で落ちたり、変に熟して落ちてしまったりしたのが50個ほどはある。それでも結構な数の実が残っている。熟したのを剥いて干してはみたが、重さに耐えかねて枝の根元が千切れてぼとりと何個かが落ちてしまった。それでも何とか15個(↑)がもうすぐ食べられそうである。今朝新たに17個をとりこんで、剥いて干した。2個がじゅくじゅくで干せなかったが、15個(↓)は無事にぶら下がっている。これで30個である。

2022/10/18現在合計30個、作業継続中

 今からが干し柿の本番である。最終的に干しあがるのが何個になるか、数でも数えておかないと‥‥、作業が嫌で煩わしいというわけではないが、どうやらそんな流れになっている。幸い晴れの過ごし易い寒露特有の天気が続く。

前の写真、今は少し色付きかけている