つれづれに

つれづれに:ケニア1860

 今日から11月で、今年の11月のカレンダー(↓)である。(→「私の散歩道2022~犬・猫・ときどき馬」)今年もあと2ヶ月となった。一日も早く柿を剥き終えて、冬野菜を植え替えたいものである。

 「米1860」「日1860」「南アフリカ1860」「ジンバブエ1860」「ガーナ1860」、→「コンゴ1860」の次は「ケニア1860」で、これが1860シリーズの最後である。悔しいかな、これ以上は蓄えがない。歴史に関心があったわけではないし、外国の文学に興味があったわけではないが、小説を書くには大学がよさそうと考えて職を探すのに大学院に行き、修士論文を書いたのが始まりである。さほど関心もなかったのによくもまあこれだけの国の歴史を辿ったものだとも言えなくもないが、絞り出してもこれだけかと言う諦めもある。

グギ・ワ・ジオンゴ(小島けい画)

 ケニアの始まりは、大阪工大の教授をしていた先輩から紹介された出版社の社長さんである。グギさん(↑))とえらく気が合ったと言うか気に入ったと言うか、グギさんの小説の日本語訳の出版を続け、ケニアまで会いに行っている。すごいものである。紹介されて横浜で会い、しばらくたってから医科大に決まった。そのあと、言われるままに雑誌用の記事を引き続き書き、大学用の編註書や日本語訳を次から次と言われて、断れないままやっていたら、やっぱりグギさんの『作家、その政治とのかかわり』(↓、Writers in Politics)の日本語訳を言われた。

 すでにラ・グーマの日本語訳を言われて本も出ていたので、1冊の日本語訳にかかる労力と時間もわかる。「この本の日本語訳を‥‥」と本を送り届けられても、「はいはい」とすぐにできるわけではない。最低でも、丸々2年はかかる。それにこの本は評論で、国際会議で読んだ論文を集めている。内容が多岐に渡りすぎる。ケニアの政治と演劇、アフリカ系アメリカの反体制の歴史、韓国の詩人金芝河(↓、キム・ジハ)の詩と反体制活動の三つである。アフリカ系アメリカの歴史以外は、まったく知らない。歴史からである。「どないすんねん」(→「アングロ・サクソン侵略の系譜の中のケニアの歴史」、→「アングロ・サクソン侵略の系譜の中の金芝河さんのこと」 )

 しかし、哀しいかな、読んでみると、反体制の数々、痛いほどわかる。「しゃーない、するしかないか」先ずはケニアの歴史と韓国の歴史からである。手に余るが、嘆いていても終わらない。どちらもぼんやり全体像を掴むだけでも、時間がかかった。歴史をしっかりと理解してからでは何年かかるかわからない、日本語訳と併行して進めるしかない。ほぼ2年、何とか訳し終えたが、出版の目途は立たない‥‥。本を出すのに200万か300万はかかるから、いつかは出せるが‥‥らしい。社長さんがなくなってもう何年かになるが、もちろん原稿はそのままである。他にケニアのエイズの小説『ナイスピープル』(↓)も日本語訳を言われた。また1冊をする気がどうして起きず、辛うじて人の手を借りて訳し終えたが、未出版である。こちらは、だいぶお金もは払った。

 で、ケニアの歴史である。大英帝国の野望にケニアも巻き込まれた。インドへの要衝地を植民地争奪戦の競争相手のフランスに手渡す訳にはいかないとイギリスは南アフリカのケープ地方に1795年に大軍を送った。ケープを領有していたオランダの入植者がいるのを承知の上である。1806年にケープ植民地を発足させた。ケープ植民地相を歴任したセシル・ローズ(↓)はケープと東海岸からエイジプトに至る縦の大英帝国を夢見たと言われる。ジンバブエはその手始め、国の名前に自分の名前を使ってローデシアと名づけた。その首都に家を借りて、家族で住んだ。

ケープ植民地相だったセシル・ローズ(「アフリカシリーズ」から)

 ケニアの植民地化はベルリン会議(1884年から1885年)でのアフリカ分割が直接的原因である。1886年8月、後のタンザニアに艦隊を差し向けたドイツ帝国に対して、支援要請を受けたイギリスも東アフリカに介入した。フランスを交えた三カ国の協議の結果、東アフリカに分割線が引かれ、境界線の南の現在のタンザニアに当たる部分をドイツが、北の現在のケニアに当たる部分をイギリスが取ることになった。

 当時アフリカ大陸南部の権益確保に力を注いでいたイギリス政府は余裕がなく民間の手を借りた。英領インド汽船会社は、モンバサ港周辺にイギリスが持っていた商業利権をもとに、1888年に勅許会社の帝国イギリス東アフリカ会社を設立し、アフリカ東部でのイギリス勢力圏の建設を始めた。1895年に現在のケニアに相当する部分が保護領となり、1920年に直轄のケニア植民地になるまで続いた。その経緯を見ると、1888年が歴史の流れが変わった潮目だったようである。日英の潮目から28年後のことである。

ケニア東海岸の港町モンバサ

 2021年11月27日(土)にZoomシンポジウム「アングロ・サクソン侵略の系譜―アフリカとエイズ」をしたとき、エイズの話の前にバズル・デヴィドスンの「アフリカ・シリーズ」を軸に、ケニアの歴史を辿った。その中で、ジョモ・ケニアッタの独裁政権と対峙したグギさんと『作家、その政治とのかかわり』(Writers in Politics)の中に紹介されている金芝河さんの詩の日本語訳を紹介した。(→「2021年11月Zoomシンポジウム最終報告」

つれづれに

つれづれに:コンゴ1860

苗を植えた7年後に生った唯一の柿(小島けい画)

 土日で65個を剥いて累計がやっと201個になった。すでに食べてなくなった分や出来上がったもの以外半分ほどを外に干している。今日は生憎曇り空で、太陽の恩恵は余りない。あしたは雨になっても夜には上がりそうだから、夜から作業の再開である。昨日の夕方に取り込んだのが50個足らずあって、まだ100個ほどが樹に生ったままである。何個か鳥が啄ばんでいるので、採るのも気が引ける。実を採ったあと落ちた葉を集め回らなくていいように、樹から葉を落としておくか?

2022/10/31現在合計201個、作業継続中

 「米1860」「日1860」「南アフリカ1860」「ジンバブエ1860」「ガーナ1860」の次は今回の「コンゴ1860」である。そのあとケニア1860で最後である。

コンゴについて調べ始めたのは、医学科1年の授業がきっかけである。医科大には教養科目の担当教官として来たから、当初は「このあと臨床医や研究医が嫌というほど医学のことはやるのだから、その人たちに出来ないことをやろう」と考えた。それで、アフリカとアフリカ系アメリカの歴史を軸に、新聞や雑誌、音声や映像を使っていろいろやってはいたが、途中からそれだけではいけないと思うようになった。

教授の空きポストになぜか突然日本語の出来ないアメリカ人が来て大変な日々を余儀なくされたあと、その人が持っていた医療英語に非常勤が来て、日本語の医学英語の教科書を使って授業を始めた。最初2、3回は学生も喜んでいたが、すぐに反応しなくなった。「用語が出来る」と関心を示したが「授業を用語だけで」という設定には元々無理があった。用語だけでは中味が伴わないからである。診断や病態などの中でこそ、医学用語も意味を持つ。一方的な解説を聞いて、最後に覚えて試験をするだけでは、自発的でなければ苦痛なだけだ。それでなくても、骨や臓器の名前など、覚える言葉は数限りなくある。

医大講義棟

 しかし、医学という点に関しては反応する。医学生なのだから当たり前のことなのに、教養担当の教官だからと肩肘を張り過ぎていたようだ。それで、その時にやっていたことと医学を結び付けてみようと思い、先ずはエイズとアフリカを結びつけた。次がコンゴとエボラ出血熱だった。ちょうど1995年の2回目のアウトブレイク(↓)があった頃である。授業で使えそうなのものを探した。歴史に関しては『アフリカの闘い』、著書は『レオポルド王の亡霊』と『ホットゾーン』、映像は「アフリカ・シリーズ」と『アウトブレイク』と1995年のCNNニュースだった。

当時購読していた南アフリカ週刊紙「デイリーメール」の特集記事

 『レオポルド王の亡霊』には、植民地争奪戦の経緯と植民地時代の「コンゴ自由国」のことが詳しく書かれていた。「コンゴ自由国」がベルギー王レオポルド2世(↓)の個人の植民地だと初めて知った。「個人の植民地?」は素朴な疑問だが、植民地列強の思惑が絡んでいた。原材料と市場を求めて当時繰り広げていたアフリカ争奪戦が熾烈になり、西洋諸国は世界大戦を回避するためにベルリン会議(1884-5)を開いた。その会議で、競争相手には譲りたくないが小国ベルギーなら安全だと考える英国とフランス、それに増え続ける奴隷の子孫をアフリカ大陸に送り返そうとしていた米国、その3国の思惑が一致した。王が陰で繰り広げた接待外交も功を奏して、個人の植民地「コンゴ自由国」が生まれたのである。王はアフリカ進出を目論んで探検家スタンリーをコンゴ川流域に派遣し、その地の首長たちと400におよぶ保護条約を結んで私的組織コンゴ国際協会を1878年に創設していた。会議は協会のコンゴでの主権を認めたのである。協会はコンゴ自由国に改組され、王が国王を兼ねた。その後の「コンゴ自由国」の暴虐を考えれば、コンゴ国際協会を創設した1878年が歴史の流れが変わった潮目と考えるのが妥当なようである。日米の潮目から18年後だった。

『レオポルド王の亡霊』から

 『レオポルド王の亡霊』には、王が傭兵を使ってアフリカ人に強制的に天然ゴムを集めさせたために、赤道に近いコンゴ盆地カサイ地区のルバ人の村の様子が一変したことが書かれている。コンゴに派遣された牧師が書いた教会の年報(1908年1月)からの引用である。

「アフリカ・シリーズ」から

 「この土地に住む屈強な人々は、男も女も、太古から縛られず、玉蜀黍、豌豆、煙草、馬鈴薯を作り、罠を仕掛けて象牙や豹皮を取り、自らの王と立派な統治機構を持ち、どの町にも法に携わる役人を置いていた。この気高い人たちの人口は恐らく40万、民族の歴史の新しい一ペイジが始まろうとしていた。僅か数年前にこの国を訪れた旅人は、村人が各々一つから四つの部屋のある広い家に住み、妻や子供を慈しんで和やかに暮らす様子を目にしている‥‥。

「アフリカ・シリーズ」から

 しかし、ここ3年の、何という変わり様か!ジャングルの畑には草が生い茂り、王は一介の奴隷と成り果て、大抵は作りかけで一部屋作りの家は荒れ放題である。町の通りが、昔のようにきれいに掃き清められることもなく、子供たちは腹を空かせて泣き叫ぶばかりである。

『レオポルド王の亡霊』から

 どうしてこんなに変わったのか?簡単に言えば、国王から認可された貿易会社の傭兵が銃を持ち、森でゴムを採るために夜昼となく長時間に渡って、何日も何日も人々を無理遣り働かせるからである。支払われる額は余りにも少なく、その僅かな額ではとても人々は暮らしていけない。村の大半の人たちは、神の福音の話に耳を傾け、魂の救いに関する答えを出す暇もない」

『レオポルド王の亡霊』から

 王の暴虐が明るみに出て欧米での批判が高まり、1908年に「コンゴ自由国」はレオポルド2世からベルギー政府に譲渡された。第二次大戦後、「変革の嵐」に乗ってコンゴはベルギーから1960年に独立するが、選挙で選ばれた首相ルムンバは、アメリカの支援を受けたモブツ(↓)に排除されて惨殺された。その後30年もモブツの独裁政権が続き、鉱物資源が豊かだったために欧米の餌食になった。アメリカはそのコンゴからエボラ菌のサンプルを持ち帰り、生物兵器を製造したと言われる。

 コンゴは南アフリカと並んで、欧米が暴虐の限りを尽くした植民地支配の典型で、今もその支配は形を変えて続いている。レオポルド2世の個人の植民地にならなかったとしても、どこかの餌食になってはいただろう。しかし、レオポルド2世のしたことが消えることはない。あの暴虐を人にやらせた。王はアフリカには一度も行っていない。

 →「レオポルド2世と『コンゴ自由国』」、→「ベルギー領コンゴの『独立』」(2004)、→「医学生と新興感染症―1995年のエボラ出血熱騒動とコンゴをめぐって―」(2006)

コンゴの独立:「アフリカ・シリーズ」から

つれづれに

つれづれに:「つれづれに」

 「つれづれに」を小説の修作に使うことになって毎日書いてはいるが、時たま書けない日がある。この前の「ボイラー」(↓)の時もそうである。こちらはボイラーがまだ故障のままなので、継続中だ。何かが故障するとどこかに頼まないと自分ではできないのだが、頼んでやってもらうと大抵は不愉快な思いをする。最近、その点は有難いことに、幸運続きだ。便座を直してもらった所に電話をしたら「ガスの取り扱いが出来る所の方が早いですよ」と、こちらの事情を察して助言をしてくれた。ガス屋さんに電話をしたら、丁寧な対応で「近くを回っていた」人がその日の夕方に来てくれた。事情を聞き、ボイラーの点検をして、次の日の見積もりと工事の手配を約束して帰って行った。翌日は朝早くに見積もりを持って来てくれ、その場で依頼をした。「明日中には工事の手配をして連絡します」と言って帰っていった。翌日は暗くなっても連絡がなかったので「またか」と諦めかけた時に、電話があって「11月3日(水)の午後の3時から4時の間に来て工事をします」と言ってくれた。なかなかこうは行かない。有難いことである。

ボイラーが壊れた日は、ガスレンジの二つを使って大き目の鍋で湯を沸かし、風呂に運んだ。初めてのことでもあり、要領がわからずに4時間もかかった。「スイッチ一つで動く楽な生活に慣れているんやなあ」と思ったのが実感である。ガスレンジの一つは火を強くすると炎が黄色味を帯びるので、火力が弱い。それで余計に時間がかかる。昨日で3回目、だいぶ要領がわかってきたので、2時間ほどで風呂に入れた。ハラレではその作業が毎日だった。冬の一番寒い日に、それまで何も頼まなかったゲイリーが「バケツ一杯のお湯をもらえませんか?」と言ってきた。その日から毎日用意したが、湯を沸かすだけでも大変な毎日だった。この500年も搾り取られて、先進国以外は、先進国のような快適な生活とは無縁な人の方が圧倒的に多い。

もう一つの理由は干し柿である。生り年で300個~400個もなったようで、風で落ちたり、早熟で干しても落ちてしまったりして100個近くは干し柿にはならないが、それでも300個ほどはある。枝から採って、へたの部分を切って洗い、剥いて、消毒して吊るす、それだけの作業だが、なかなかの手間である。妻は「手作りやから、大事にしないとね」と言ってくれるが「足では作られへんもんな」と、毎回同じことを繰り返す。一生変わりそうにない。口が反射的に動く。「手作り」という言葉自体に違和感を感じるからなのか?「なんでもかんでも手作りをつけんでもええやろ」とでも言いたいのか?

昨日30個剥いて、やっと146個になった。最初の10個ほどはすでに大根なますになって、2回目の分がほぼなくなりかけである。こちらは吉祥寺の娘に甘酒と一緒に、第一号を送ることができた。50個ほどは完成まじかである。今日も今から昨日の晩に取りこんで、へたの部分まで作業が済んでいる30個を剥こうとしているところである。今日中に200個まで行ければと思ってはいるが‥‥。

2022/10/29現在合計146個、作業継続中

 本の推敲も「つれづれに」が書けない理由の一つだ。ずっと推敲は継続しているが、今回は40字×30字の123枚が113枚になった。冗長な表現を削るのと、「そもそもこれは要らんやろ」という個所を削ったら、10枚が減った。表現が如何に冗長か、言わなくてもいいことが如何に多いか、「言わないで言うのが文学的昇華やろ」という声がいつも心のどこかに響いている。それと推敲しながら気づいたのが、同じ表現の繰り返しが多いことである。表現の偏った繰り返しも多い。如何にさりげなく書き直せるか?毎日の生活の中で、今、心が一番したいと言っていることである。

なかなかそればかりやっているわけには行かない。柿が終わるまで、畑に出る時間が取れない。芽を出した大根も大きくなっているし、レタスに葱(↓)にブロッコリーの芽も大きくなりかけている。

 去年から頼まれるようになった入試問題の点検も「つれづれに」を書けなかった理由の一つである。科研費も終わり、研究室も出たので、大学には顔を出したくないが、医科大の学生課に高卒で来て以来ずっと世話になっている人が入試課の課長になって木花(↓)に来て、その人から連絡があった。断れずに、去年も行ったら、今年また依頼のメールが届いた。本人は学生課に異動しているのに、である。ずっと入試問題を作っていたから、点検に問題があるわけではないが、時間はかかる。医、農・教、工・地域の3種類、医は後期もあるし、それぞれ予備問題もある。一つ90分の問題をすべてを点検するわけだから、やっぱりそれなりの時間がかかる。それも、一昨日の金曜日で終わった。

「つれづれに」を書ける毎日は、実は有難いものである。病気をしても、ボイラーのようなことが起きても、入試の点検作業など普段はないものが入っても、拘束される時間だけでない時間まで取られてしまい、普段通りには行かない。今のところ「つれづれに」を書ける毎日が一番のようである。

つれづれに

つれづれに:ボイラー

 昨日は給湯器のボイラー(↑)が壊れて大変な一日だった。「つれづれに」を更新できなかった。日英の1860のあと、南アフリカとジンバブエ(↓)とガーナの1860に続いてコンゴ1860を書くつもりで準備をしていたが、落ち着いたのが夜半過ぎになってしまった。

 日本の技術はすごいなあとよく思う。今回もそうである。宮崎にいっしょに来た子供たち二人が学校に馴染めなくて、下の息子の表情が日に日に険しくなったとき、ラブラドールの三太(↓)に友だちになってもらった。家族とラブといる時は優しい表情だった。自治会を辞めたら村八分にされたり、教授になったこともあって大学の近くに引っ越しをすることになったとき、ラブを優先して家を購入した。今の家である。住み始めてもう20年余りが過ぎた。神宮の不動産屋さんに任せて探してもらったが、見かけより住み心地はよかった。前に住んでいた人は、大事にお金をかけて家を作ったようである。住んでみるとわかる。引っ越す前の11年前に新築したようだから、30年余りになるが、壊れたのはそのボイラーである。ファンが故障したようで、見に来てくれた人は「部品があれば変えられるんですが‥‥」と気の毒そうに言っていた。

一ッ葉の海の三太(小島けい画)

 「十年くらいで壊れることもありますから、よくもった方ですね」とも言われた。毎日世話になった方としては、よくも30年余りももってくれたものだと感心する。日本の技術の高さに感謝である。床面の暖房と太陽熱温水器(↓)と併用していたので、当時としてはかなり高価な設備である。太陽熱温水器は不具合だと連絡があって取り外してもらった。床暖房は最初から使わなかった。風呂の追い炊きの部分は故障したので、ボイラーは風呂の給湯器だけを使っていたわけである。いよいよ寿命らしい。

写真は残っていないが、こんなイメージだった

 それがなぜ一日仕事になったか?先ずは故障を修理してくれる店である。以前何軒かに頼んでみたが、きちんと対応してくれる所がなかなか見つからなかった。その度に嫌な思いをした。この前やっと便座の工事で世話になった店の対応に満足して、今回もその店に依頼した。その店は「取り扱いは出来ますが、ガスの取り扱いが出来る店の方が早いですよ」と勧めてくれた。それでガスの店に電話をすることになり、事情を説明をした。まさか当日に来てくれるとは思わなかったが、夕方に来て丁寧な対応をしてくれた。今朝は見積書を持って来て、工事の段取りまで手配してくれた。なかなかこうは運ばないので、有難かった。ただ、給湯器は使えないので、大きな鍋を二つ使って、沸かした湯を風呂場までせっせと運ぶことになった。最初「たらいにでも‥‥」とか「浴槽に30センチほどで‥‥」とか妻は言っていたが、普通に入れるように湯を沸かして浴槽まで運んだ。時間がかかった。おかげで気持ちよく風呂に入ることが出来たが。湯を運びながら「スイッチ一つで便利な生活に慣れてしまってるなあ」としみじみと感じた。30年ももってくれた日本の技術に感謝することしきりである。

 日本の技術について思う時は、いつも鉄砲伝来のことを思い出す。ポルトガル人が種子島(↑)に残していった火縄銃(↓)から1年後には一万丁の銃を作っていたと言う。それだけの製鉄技術と戦のために銃を購入できる経済力があったということだろう。1570年代には戦で銃が使われ、長篠の戦いでは信長が堺商人に銃を集めさせて勝利している。世界で最大の銃撃戦だったらしいので、世界有数の武器保有国だったわけである。日本には資源がなくて取るものがないので侵略されなかったという人もいるが、戦っても勝てない相手だったのも事実である。鎖国している間に、西洋は奴隷貿易で儲けた資本で産業革命を起こして産業社会に変貌してしまった。経済規模が拡大されるにつれて武器の精度や強度も増して行き、今や事後処理の出来ないウランを使って核開発で凌ぎを削っている。ソ連や北朝鮮が兵器で使えば、日常が破壊されるのは間違いない。自然災害も突然やって来るが、核の人的災害も案外突然やって来るかも知れない。

 侵略の意図を持ってアジアにも来たが、人的な力の限界を知っていたポルトガルは南米と中米で好き放題しながら、アフリカやアジアで貿易の拠点を次々にこしらえていた。日本も来ている。マカオで拠点を作ったポルトガル人は明船に乗って日本に来ていたようで、遭難をして種子島に漂着した。流れ着いたのは種子島の最南端門倉岬から300mほどの海岸線らしい。1543年9月に中国の商船がこの付近に漂着して、乗っていたポルトガル人が鉄砲を島主種子島時堯に献上したようだ。小学校で鉄砲伝来のことを聞いた気がする。観光用に「ポルトガル海軍記念碑」(↓)が建っているらしい。ずいぶん前から行ってみたいと思っているが、いまだ行っていない。

 火縄銃を見て改造銃が拵えられたのは種子島(↓)に砂鉄からの製鉄技術があったからだが、島根県奥出雲や滋賀県近江などにも優れた製鉄技術があり職人がいたからでもある。職人の技術が今も生活を豊かにしてくれているわけである。ボイラーが壊れて大変な一日だったが、改めて日本の技術に感謝した一日でもあった。

 柿が色付いているのに、なかなか思うように剥いて陽に干せないでいる。一昨日15個を剥いてやっと116個(↓)になった。まだ200ほどありそうなので、熟しすぎて落ちてしまうまでに終われるかどうかは怪しい。

2022/10/25現在合計116個、作業継続中