つれづれに

つれづれに:ボイラー

 昨日は給湯器のボイラー(↑)が壊れて大変な一日だった。「つれづれに」を更新できなかった。日英の1860のあと、南アフリカとジンバブエ(↓)とガーナの1860に続いてコンゴ1860を書くつもりで準備をしていたが、落ち着いたのが夜半過ぎになってしまった。

 日本の技術はすごいなあとよく思う。今回もそうである。宮崎にいっしょに来た子供たち二人が学校に馴染めなくて、下の息子の表情が日に日に険しくなったとき、ラブラドールの三太(↓)に友だちになってもらった。家族とラブといる時は優しい表情だった。自治会を辞めたら村八分にされたり、教授になったこともあって大学の近くに引っ越しをすることになったとき、ラブを優先して家を購入した。今の家である。住み始めてもう20年余りが過ぎた。神宮の不動産屋さんに任せて探してもらったが、見かけより住み心地はよかった。前に住んでいた人は、大事にお金をかけて家を作ったようである。住んでみるとわかる。引っ越す前の11年前に新築したようだから、30年余りになるが、壊れたのはそのボイラーである。ファンが故障したようで、見に来てくれた人は「部品があれば変えられるんですが‥‥」と気の毒そうに言っていた。

一ッ葉の海の三太(小島けい画)

 「十年くらいで壊れることもありますから、よくもった方ですね」とも言われた。毎日世話になった方としては、よくも30年余りももってくれたものだと感心する。日本の技術の高さに感謝である。床面の暖房と太陽熱温水器(↓)と併用していたので、当時としてはかなり高価な設備である。太陽熱温水器は不具合だと連絡があって取り外してもらった。床暖房は最初から使わなかった。風呂の追い炊きの部分は故障したので、ボイラーは風呂の給湯器だけを使っていたわけである。いよいよ寿命らしい。

写真は残っていないが、こんなイメージだった

 それがなぜ一日仕事になったか?先ずは故障を修理してくれる店である。以前何軒かに頼んでみたが、きちんと対応してくれる所がなかなか見つからなかった。その度に嫌な思いをした。この前やっと便座の工事で世話になった店の対応に満足して、今回もその店に依頼した。その店は「取り扱いは出来ますが、ガスの取り扱いが出来る店の方が早いですよ」と勧めてくれた。それでガスの店に電話をすることになり、事情を説明をした。まさか当日に来てくれるとは思わなかったが、夕方に来て丁寧な対応をしてくれた。今朝は見積書を持って来て、工事の段取りまで手配してくれた。なかなかこうは運ばないので、有難かった。ただ、給湯器は使えないので、大きな鍋を二つ使って、沸かした湯を風呂場までせっせと運ぶことになった。最初「たらいにでも‥‥」とか「浴槽に30センチほどで‥‥」とか妻は言っていたが、普通に入れるように湯を沸かして浴槽まで運んだ。時間がかかった。おかげで気持ちよく風呂に入ることが出来たが。湯を運びながら「スイッチ一つで便利な生活に慣れてしまってるなあ」としみじみと感じた。30年ももってくれた日本の技術に感謝することしきりである。

 日本の技術について思う時は、いつも鉄砲伝来のことを思い出す。ポルトガル人が種子島(↑)に残していった火縄銃(↓)から1年後には一万丁の銃を作っていたと言う。それだけの製鉄技術と戦のために銃を購入できる経済力があったということだろう。1570年代には戦で銃が使われ、長篠の戦いでは信長が堺商人に銃を集めさせて勝利している。世界で最大の銃撃戦だったらしいので、世界有数の武器保有国だったわけである。日本には資源がなくて取るものがないので侵略されなかったという人もいるが、戦っても勝てない相手だったのも事実である。鎖国している間に、西洋は奴隷貿易で儲けた資本で産業革命を起こして産業社会に変貌してしまった。経済規模が拡大されるにつれて武器の精度や強度も増して行き、今や事後処理の出来ないウランを使って核開発で凌ぎを削っている。ソ連や北朝鮮が兵器で使えば、日常が破壊されるのは間違いない。自然災害も突然やって来るが、核の人的災害も案外突然やって来るかも知れない。

 侵略の意図を持ってアジアにも来たが、人的な力の限界を知っていたポルトガルは南米と中米で好き放題しながら、アフリカやアジアで貿易の拠点を次々にこしらえていた。日本も来ている。マカオで拠点を作ったポルトガル人は明船に乗って日本に来ていたようで、遭難をして種子島に漂着した。流れ着いたのは種子島の最南端門倉岬から300mほどの海岸線らしい。1543年9月に中国の商船がこの付近に漂着して、乗っていたポルトガル人が鉄砲を島主種子島時堯に献上したようだ。小学校で鉄砲伝来のことを聞いた気がする。観光用に「ポルトガル海軍記念碑」(↓)が建っているらしい。ずいぶん前から行ってみたいと思っているが、いまだ行っていない。

 火縄銃を見て改造銃が拵えられたのは種子島(↓)に砂鉄からの製鉄技術があったからだが、島根県奥出雲や滋賀県近江などにも優れた製鉄技術があり職人がいたからでもある。職人の技術が今も生活を豊かにしてくれているわけである。ボイラーが壊れて大変な一日だったが、改めて日本の技術に感謝した一日でもあった。

 柿が色付いているのに、なかなか思うように剥いて陽に干せないでいる。一昨日15個を剥いてやっと116個(↓)になった。まだ200ほどありそうなので、熟しすぎて落ちてしまうまでに終われるかどうかは怪しい。

2022/10/25現在合計116個、作業継続中

つれづれに

つれづれに:ガーナ1860

 旧暦では昨日から霜降(そうこう)で、冬の始まりである。昨日採って飾ってある蓼と露草と杜鵑(ほととぎす)の写真(↑)を撮った。ブロッコリーや葱やレタスの芽(↓)が出ている、絹鞘豌豆も同じ時期に蒔いたが、まだ芽は出ていない。

 アメリカは(→「米1860」)リンカーンが大統領になった1860年、日本(→「日1860」)は井伊直弼(↓)が殺された1860年、南アフリカ(→「南アフリカ1860」)はダイヤモンドが発見された1867年、ジンバブエ(→「ジンバブエ1860」)は南アフリカのケープから私設軍隊が来た1890年が歴史の流れが変わる潮目だった気がする。今回はガーナである。

 「MLA」「ラ・グーマ」で発表するときに南アフリカの歴史(→「アパルトヘイト否!」「海外事情研究部」、→「歯医者さん」)を辿ったが、元々はライトの小説を理解したくてアフリカ系アメリカ人の歴史を辿り、「修士論文」はライト(→「ライトシンポジウム」)で書いた。1947年にライトがパリに行ったあと、第3世界の問題にも関心を持って精力的に活動していた。独立に向けて走り出しておいた英植民地ゴールドコースを訪問し、エンクルマにも会っている。帰ってから訪問記『ブラック・パワー』(↓、→「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」、1985)を書いた。その本がガーナとの初めての接点である。

 奴隷貿易の蓄積資本で産業革命を起こし、産業化の道を走り始めた西洋諸国は原材料と市場を求めて植民地戦争を繰り広げた。一番厚かましかったのがイギリスで、アフリカでも栄えていた所をほぼ独占している。ガーナもその餌食になった一つである。戦略も狡猾で、アフリカ人と組んで既存の制度をうまく利用して統治した。元の政治機構が優れていたからである。サハラを含む広大な土地を植民地化したフランスとは対照的である。元の制度を利用できるほど発達していなかったので、フランスは同化政策を取らざるをえなかった。

「アフリカ・シリーズ」から

 8世紀から13世紀はガーナ王国が栄えた。精度の高い金はトワレグ人(↑)がサハラを越えて運んで、ヨーロッパや遠くは中国にまで運ばれた。エイジプトはもちろん東アフリカも南部アフリカも栄えていたのである。ポルトガルはアフリカの東海岸で貿易を断られている。交易品が粗悪だったからである。1505年のポルトガル人によるキルワの虐殺が西洋侵略の開始の年とされる。

キルワ復元図(「アフリカ・シリーズ」から)

 15世紀にガーナのエルミナなどに城塞を築いて奴隷貿易の拠点としたのはポルトガル人で、その後、ドイツ人デンマーク人、イギリス人、オランダ人が来航し、奴隷制が廃止されるまで続いた。金が出るので「黄金海岸」と呼ばれた。アシャンティ王国は17世紀に奴隷貿易で力を蓄え、ヨーロッパ人から購入した銃火器で周辺の民族に対して優位に立ってアシャンティ王国を建設して繁栄した。西洋人を利用して、同胞を売り飛ばしたわけである。第二次世界大戦後に先進国と手を結んで投資と貿易による新体制を築いたが、すでにこの頃に原型が出来ていたことになる。金持ち層が多数の人から搾り取る基本構図は同じである。

ガンビアのジェームズ城塞(別名キンタ・キンテ島)

 19世紀初頭には、ケープコーストが拠点のイギリスとエルミナが拠点のオランダとデンマークが勢力を持っていた。支配権をめぐってアシャンティと戦争してイギリスは沿岸部の支配権を確立し、1850年にはデンマークの砦を買収、1872年にオランダがすべての拠点をイギリスに売却して、結局イギリス領ゴールドコーストになった。そう考えると、1872年が歴史の流れ変わった潮目で、日米の潮目の12年後のことだと言えそうである。

 ガーナ1860は、ジンバブエとほぼ状況が同じだったのではないかと推察する。ライト(↓)は『ブラック・パワー』の中で、反動的な支配者層の首長を批判しているが、同胞を売り飛ばし体制側にいる既得権益者と考えれば納得が行く。独立で新しい国を作ろうとするエンクルマたちの大きな障害になったのが目に浮かぶ。「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」(1985)の中で私は首長について書いている。

小島けい画

 「ライトはアクラで運転手を雇い多額の出費と危険を覚悟でクマシ方面に出向いたが、その目的の一つは首長に会ってみることだった。現に数人の首長と会見したが、その一人は蜜蜂が自分の護衛兵だと信じて疑わなかった。その人は実際に25000人の長でありながら、村の人口数の質問に対して『たくさん、たくさん、たくさん』としか答えられなかった。かつて、一本のジンとひき換えに奴隷を商人に引き渡した首長、そんな人たちをライトは<手紙>の中で「純朴な人々を長い間食いものにし、欺してきた寄生虫のような首長たち」と書いた。しかし、エンクルマ(↓)が自分達の権力を弱めたと批難しながらも、多くの首長達が御機嫌伺いに党本部に出入りしていたことや強力な首長アサンテへネが中央集権化を恐れるイギリス政府に利用されかけたにもかかわらず、結果的にはエンクルマに譲歩した事実などを考え合わせると、首長たちは時代の流れに敢えて強くは抗えなかった人違だったと言える。」

小島けい画

 模範的なイギリスの植民地ゴールドコーストは1957年に独立(↓)をしたが、1967年に首相のエンクルマがベトナム戦争の終結に向けて毛沢東と話し合いをしている時に、クーデターが起き戻れなくなった。1972年にルーマニアで侘しく死んでいる。書きたいことがたくさんあったんだろう。英語による膨大な著書は多い。

独立の式典で(「アフリカ・シリーズ」から)

つれづれに

つれづれに:ジンバブエ1860

旧暦では寒露が終わり、今日から霜降(そうこう)である。だいぶ気温も下がり、虫の勢いも弱くなりかけている。柿を干し終えたら、冬野菜の植え替えだ。霜降は、朝晩の冷え込みがさらに増し、北国や山里では霜が降りはじめる頃である。露が霜に変わり、冬が近くなる。宮崎ではその時期が少しずれてはいるが、冬がそこまで来ているのは確かなようだ。昨日は畑から蓼(↑、たで)と露草と杜鵑(ほととぎす)を摘んで来た。朝咲いていた露草は枯れている。花の命は短くて、そのままである。

リンカーンが大統領になった1860年がアメリカ史の大きな流れの潮目(→「米1860」)だったかも知れない、日本もひょっとして‥‥と考えて確かめてみたら、井伊直弼が殺された1860年が大きな歴史の流れが変わる潮目(→「日1860」)だったような気がして来た。それから、南アフリカではダイヤモンドが発見された1867年が大きな潮目(→「南アフリカ1860」)のようで、日米より7年あとだった。今回はジンバブエ(↑)である。

在外研究でジンバブエに行った。医大は専任だったので、非常勤の時と違って研究室もあり、国立大だったので在外研究もあった。「MLA」では「ラ・グーマ」で発表したので、書くのも南アフリカについてが多かったし、英語の授業でもアフリカや南アフリカの歴史を中心にいろいろな問題を取り上げるようになっていた。アメリカの時と同じく、アフリカに一度は行ってみないと気が引けるなあと感じ始め、在外研究でアフリカに行く気持ちになっていた。ラ・グーマの生まれたケープタウン(↑)に行きたかったが、文部省に申請した1991年は微妙な年だった。1990年にマンデラは釈放されたものの経済制裁の継続を要請していたので、白人政府と手を組んで甘い汁を吸い続けながら、表向きは世論を気遣って文化交流の自粛措置を取っていた日本政府の文部省は、国家公務員の私に南アフリカでの在外研究の許可を出さなかったのである。

結局、かつて「南アフリカの第5州」と言われた北隣のジンバブエに短期で3ケ月、家族と一緒にいくことにした。その頃、授業では毎年アメリカ映画「遠い夜明け」を見てもらっていたので、その中に出て来る赤茶けた大地(↑)を見に行こうと気持ちを切り替え、首都ハラレにあるジンバブエ大学(↓)に行った。南アフリカでは映画が作れなかったので、よく似たジンバブエがロケ現場に選ばれていた。

ジンバブエ大学教育学部棟

行く前と帰ってから滞在記を書く際に、ジンバブエの歴史関連の本を読んだ。主に「ハーレム」で入手した『アフリカの闘い』(↓)とジンバブエの小学校と中学校の歴史の教科書を拠り所にした。もちろん、バズル・デヴィドスンの「『アフリカシリーズ』」もである。

この500年ほどの間にアングロサクソン系の侵略を受けた国はどこも酷いものだが、ジンバブエも相当なものである。ある日、南アフリカのケープ州から第2の金鉱脈を当て込んで私設軍隊が乗り込んできて、期待したほどの金鉱脈がないとわかると、そのまま入植者とともに駐留し、アフリカ人から土地と家畜を奪って居座ってしまったのである。駐留した辺りを中心に南アフリカのヨハネスブルグに似た町を作った。それが私が家族と滞在した首都のハラレである。その年が1890年である。日米の潮目1860年から30年後であった。

1860年はどんな状態だったのか?在外研究で世話になった英語科の教員ツォゾォさんへのインタビューからの推測である。

ツォゾォさん(↓)は私より2歳上で1947年の生まれである。南東部の小さな村で生まれた。ヨーロッパ人の侵略で昔のようにはいかなかったが、ツォゾォさんが幼少期を過ごした村には、伝統的なショナの文化がしっかりと残っていた。サハラ砂漠以南の他の地域ではどこもよく似た統治形態をとっていて、ジンバブエも、同じ祖先から何世代にも渡って別れた一族が一つのまとまった大きな社会(クラン)を形成していた。一族の指導的な立場の人が中心になって、村全体の家畜の管理などを取りまとめていた。ツォゾォさんはモヨというクランの指導者の家系に生まれて、比較的恵まれた少年時代を過ごしている。村では、12月から4月までの雨期に農作業が行なわれ、野良仕事に出るのは男で、女性は食事や子供の世話などの家事に専念した。女の子が母親の手伝いをし、男の子は外で放し飼いの家畜の世話をするのが普通だった。ツォゾォさんも毎日学校が終わる2時頃から、牛や羊や山羊の世話に明け暮れた。

事務員の人と事務室前で

1860年はおそらく前の世代から延々と続くそういった生活を送っていたようである。1890年に南アフリカの入植者が来て、激変した。百年後、私はジンバブエ大学に滞在した。大学は元白人用で1980年の独立後アフリカ人の数が増え、滞在時、90%がアフリカ人(ショナ人が70%、ンデベレ人が30%)だった。3ケ月足らずしかいなかったが、授業も英語で行われ、アフリカ人同士が英語で話をしている光景が当たり前になっていた。1992年、南アフリカの入植者が来てから僅か百年余り後のことである。侵略者の言葉を多くの人が使うようになっていた。もちろん、ショナ語を話せない私もアフリカ人と英語で会話をした。侵略されるとはこういうことだと肌で感じると同時に、搾り取る側の先進国にいる自分の立場を突き付けられて、滞在中ずっと息苦しかった。帰りにパリ(↓)で一週間を過ごしたが、ほっとする自分が悔しかった。

泊ったプティホテルの屋根裏部屋から

大学(↓)に報告記事を二つ書いた。(→「海外研修記『アフリカは遠かった』」、→「海外滞在日誌『ジンバブエの旅』」

宮崎医科大学(ホームページから)

つれづれに

つれづれに:南アフリカ1860

 色付いてきた柿を昨日は夕方までの第1弾で35個、夜に第2弾で21個、合計56個剥いた。既に出来ていた15個と出来かけの15個を足すと86個まで行ったわけである。最初の15個は取り入れ、きれいに洗って熱湯消毒して拭いた。一部は大根とのなますになっている。「サラダ感覚で食べてね」「細かく千切ってヨーグルトに入れて食べたよ」と妻は言っていた。糖分を一定分しか摂れないのでたくさんは食べられないが、大事に食べようとしてくれている。「手間がかかってるからね‥‥」と言っていた。作業はまだ続く。

 ヒューズの「黒人史の栄光」(↓、“The Glory of Negro History,” 1964)を教科書に使ったお陰で、1860年がアメリカ史の大きな流れの潮目だったかも知れないと考えるようになった。

 そのあと、日本もひょっとして‥‥と考えて確かめてみたら、井伊直弼(↓)が殺された1860年が大きな歴史の流れが変わる潮目だったような気がして来た。それでは、ヨーロッパは?アフリカは?南アフリカは?そう思いついて他も考えてみることにした。元々アメリカ史もアフリカ系アメリカ人作家の小説がわかるようにと辿り始めただけだったので、歴史そのものに関心が高いわけでもない。何十年間で南アフリカとコンゴとケニアとガーナとジンバブエの歴史、それも僅かに一部を辿っただけだ。その範囲で、と限定して考えることにした。先ずは南アフリカである。

 南アフリカにオランダが来たのが1652年である。江戸時代が始まってから半世紀ほど後である。南アメリカや中央アメリカでやりたい放題をしていたポルトガルは拠点を作って東アフリカや東南アジアに進出していた。自国のマンパワーの非力を自覚していたということだろう。すぐ北のアンゴラの後の首都ルアンダにすでにポルトガルが拠点を作っていたので、オランダ人はそこを避けて南の一番端の南アフリカのケープ地方(↓)に来て、定着してしまった。最初は東南アジアに進出していた東インド会社の中継地のために立ち寄っだけだったが、オランダ人入植者はそこにいた狩猟民サン人や農耕民のコイコイ人を奴隷にして農園で働かせるようになった。もちろんその時の社会基盤は農業だった。

 次いでイギリス人がやって来た。植民地争奪戦の激しかった時期で、フランスと激しく争っていた。アジア航路の要衝南アフリカをフランスに押さえられる前にと、イギリスはケープに大軍を送った。1795年のことである。奴隷貿易の資本蓄積で産業革命を起こした西欧社会は産業社会に突入していた。従って、農業が軸のオランダがすでに支配していたケープに、産業が軸のイギリスが大軍を送ったわけである。オランダ系入植者アフリカーナ―は当然抵抗するが、勝負は目に見えている。権力闘争に負けたアフリカーナ―の富裕層は家財道具を牛車に乗せて内陸部に移動した。1833年である。当初従属させたサン人やコイコイ人より文化の程度が高かったアフリカ人と衝突してアフリカーナーは苦戦するが、それでも何とか19世紀の半ば頃には、肥沃な土地を有する海岸部の2州ケープ州となタール州をイギリス人入植者が領有し、内陸部の2州ととオレンジ自由州のアフリカーナ―の領有をイギリスが認める形で収まった。

 しかし、1867年にオランダが領有するオレンジ自由州のキンバリーでダイヤモンドが、1886年にトランスバール州で金が発見されて、事態は急変した。鉱山権を巡ってイギリス人とアフリカーナ―は壮絶な戦いをするが、アフリカ人を搾取する一点で妥協し、1910年に南アフリカ連邦を作ってしまった。互いに銃を持っているので、相手を殲滅するには双方合わせて13%の人口は少な過ぎて戦いを続ければ、囲まれている87%のアフリカ人にやられて共倒れするのを自覚しながら殺し合っていたのである。昔から自給自足の生活を続けていたアフリカ人は、突然ヨーロッパからやって来たオランダ人とイギリス人に土地を奪われ、産業社会で需要の高い鉱物資源を狙われ、効率よく搾り取れる巨大な短期契約労働機構の中に組み入れられて、安価な労働力としてこき使われるようになってしまったのである。

ダイヤモンドの露天掘り(バズル・デヴィドスン「アフリカシリーズ」より)

 もし金とダイヤモンドが発見されていなかったら、その後の急速な展開はなかったかも知れない。オランダにもイギリスにもケープはアジアへの中継地にしかすぎなかったし、南アフリカ自体はさほど重要ではなかったからである。なまじ鉱物資源が極めて豊富だったために、工業諸国の恰好の餌食になってしまった。ありとあらゆる鉱物資源にめぐまれているコンゴと同じである。

ゴムの採取を強要されるコンゴ人(バズル・デヴィドスン「アフリカシリーズ」より)

 そう考えると、南アフリカの潮目は金が発見された1867年のようである。日本とアメリカの1860年より7年後のことある。

1960年代のヨハネスブルグの金鉱山「抵抗の世代」より

 南アフリカの歴史は少し齧った。ライトの小説を理解するためにアフリカ系アメリカの歴史を辿ったのと同じである。「ライトシンポジウム」で出会った人から「MLA」に誘われたとき、出来ればアフリカの作家で発表して欲しいと言われ、「ラ・グーマ」を選んだ。発表するためには基礎的な歴史も必要だった。歴史についてはバズル・デヴィドスンの「『アフリカシリーズ』」「ハーレム」の本屋さんで手に入れたThe Struggle for Africaを軸にした。

 医大に来てから講演を頼まれて、南アフリカの歴史とアパルトヘイトの話をさせてもらう機会もあった。(→「アパルトヘイト否!」「海外事情研究部」、→「歯医者さん」)全学(↓)の教養の授業では「南アフリカ概論」をたくさん持ったので、ずいぶんと歴史も鍛えられた。半期945人、1クラス542人が教養授業の記録で、定年退職後の話である。授業最後の年は、ズームで「南アフリカ概論」3つを同時開講した。コロナで前期に1年生が大変そうだったからである。100人を超えるズームのいい経験をさせてもらった。退職後の6年間、工学部の人はほぼ全員「南アフリカ概論」を取ってくれていたようである。ただ、1年にたった1コマ持っても「どうして専門の自分が教養科目を持たないといけないのか?」と文句を言う多くの教員と、「教養はおもしろくないし、必要性も感じない」と教養を軽視する学生の狭間で、「よくもまああれだけようさん持ったもんだ」と思うと同時に、自分自身の馬鹿がつく人の良さとあほさかげんに呆れるばかりである。終わってしまえば、何とでも言える。