つれづれに

つれづれに:暑い最中に

 すっかり諦めて生きても30くらいまでだろうと考える身には、余生は永過ぎた。小さい頃から食べるのも自分で何とかしないといけない毎日が続くと、食べること自体も億劫になる。体にいいものをという選択肢は元より持てなかった。考えたこともない。食べるだけで精一杯だったからである。きちんと大学に通い、卒業して就職すると考えたこともなかった。もちろん、結婚も考えたことがなかった。

当時は木造2階建てだった中学校(同窓生のface bookから)の1年生の母親に頼まれた

 受験勉強は出来なかったが、大学に行かないという選択肢はなかった。大学の学費が月1000円だったから通えたのだが、生きていると何が起こるかわからないものである。受験に馴染(なじ)めず行き先も選べなかった私が→「家庭教師」を頼まれた(↑)のだから。前期も後期も地方の国立大を受けたのは、無意識に家を出るつもりだったんだろう。しかし、どの教科もしないで受けても、通るはずもなかった。間違って英語でもしていれば、話は変わったかも知れない。結局、それでも→「夜間課程」なら入れる所(↓)があった。

キャンパス全景(大学HPから)

 家庭教師を頼まれて少し経済的に余裕が出たのは確かである。毎日朝早く決まった時間に起きる必要がある→「牛乳配達」に比べれば、楽なものである。何より、時間的に融通が利く。大学では時間だけはあるのだから、その意味ではだいぶ気が楽になったのかも知れない。讀賣新聞の夕刊に連載されていた立原正秋の『冬の旅』を読んでから→「古本屋」で手当たり次第に本を買って読み始めた。自分の中に書きたい衝動があるのを意識するようになった。

よく通った古本屋のあった神戸元町の高架下

 突然出かけるようにもなった。意識にはのぼらないが、芯辺りに熱がこもって、その衝動を抑えられない感じだった。諦めが強くなって、それまでの常識の殻が破れて行くにつれて、その衝動を抑えきれなくなって行ったのかも知れない。→「暑中」に風も通らないトタン屋根の6畳にいると、なぜか一番暑い8月の初旬に遠くまで自転車で行きたくなった。計画もなく、取り敢えず中国山脈の真ん中辺りにある→「生野峠」(↓)を自転車で越えることにした。瀬戸内海側に住んでいたので、本州を南北に縦断して、日本海側に行ったわけである。

夏の暑い最中に、自転車で生野峠を越えた。それだけのことだった。ずいぶんと前のことなので、詳細は覚えていないが、足の裏全体で踏ん張れるように桐下駄を履いて、自転車から一度も降りずに生野峠を越えた、鳥取砂丘で寝袋の中で寝たとき、一晩中一匹の蚊に悩まされた、山陰側の海岸沿いの坂道はきつかったが、そこでも降りずに大声を出しながらペダルを踏んだ。印象に残っているのは、それくらいである。

もうすぐすると、何十年か前のその時と同じ季節になる。あの暑い最中に、よく熱中症にやられなかったものである。

香住海岸

つれづれに

つれづれに:暑中

「私の散歩道2009~犬・猫・ときどき馬~」8月

 →「のうぜん葛」を今年初めて見かけてから3週間ほどになる。去年初めて「この暑い最中(さなか)に咲く花もあるんやなあ」としみじみ感じた花の一つである。もう一つが百日紅(さるすべり)で、淡いピンクか濃い目のピンクの花をつける。去年のお盆頃に暑い中で咲く花を意識したときは、百日紅とハイビスカスがたくさん咲いていた。去年は気づかなかったが、→「ハイビスカス」(↓)が咲き出すのはもう少しあとのようだ。去年見かけた場所には、どこもまだ咲いていない。のうぜん葛は早くに花が終わってしまうが、百日紅とハイビスカスは結構遅くまで咲いている。霜が降りる頃に枯れて葉も落ちるようだ。

「私の散歩道2021~犬・猫・ときどき馬」8月

 「暑中見舞い」などで暑中という言葉はよく聞いていたが、今年初めて旧暦の小暑と大暑の期間を指す言葉だと知った。一年で一番暑い季節である。だから、暑中お見舞い申し上げますと葉書を書いてご機嫌伺いをするわけだ。今年は夜と昼の長さが同じになる夏至(げし)を過ぎてから15日目に小暑(しょうしょ)が始まった。小暑は24節気の第12節で、夏の節気の5番目である。そのあと、第12節の大暑(たいしょ、7月23日~8月7日)と続く。あと3週間ほどで暑中が終わることになる。その頃には、少なくとも朝晩は過ごし易くなるだろう。

一昨年と去年で1階の1台と2階の3台のエアコンを新しくした。業者に来てもらうのは気も遣うし億劫だが、工事をしてもらってよかったと毎日しみじみと感じている。年を取った私たちもそうだが、15歳と16歳(↓)の3匹の猫にも、猛暑は生き死にに関わるからである。

結婚を機に家を出たが、それまで住んでいた家は夏は暑く、冬は寒かった。6畳と4畳半2間の元市営住宅に家族6人で引っ越しをした。それまではトタン屋根の同じく6畳と4畳半2間に6人で暮らしていた。小学校の3年生の時だったから、弟2人はまだ幼稚園にも行ってなかった。周りの長屋に父方の親戚が集まって住んでいたようで、暗い、穢い、狭いイメージのスラムのようなところだった。貧乏な人たちは自分たちが貧しいという自覚がない。それが一番嫌だった。いい思い出がない。

その家の近くの川の河川敷(ウェブから)

 スラムのような家に比べて、南と東側に少し庭もあり、狭かったが風通しはよく、明るかった。親戚の姿が視界から消えたのも大きかったかも知れない。裏は少し離れた川の堤防まで畑か空き地で、開放感があった。しばらくして姉と一回り違いの妹が生まれて、兄弟が5人になった。その頃には、すでに両親の関係は壊れていて、どちらもあまり家にいなかった。6畳と4畳半2間は7人には、さすがに狭すぎた。中学校の頃に建て増しされて、ブロックや粗末な建材で、6畳の倉庫と4畳半を先に拵(こしら)え、その上に6畳2部屋と4畳半の部屋を継ぎ足した。私は倉庫の上の6畳に住んだ。北と東に大きな窓はあったが、南側が倉庫からの2階への階段で入り口部分が狭く、風通しが悪かった。風が通らずトタン屋根だったので、夏は暑く、冬は寒かったのである。

家から見えた紡績工場(ウェブから)

 ことに暑中の暑さはこたえた。頼まれて何軒かの→「家庭教師」に出かけていたが、家庭教師にお金を割ける家には、エアコンがついている。その快適さと、自分の部屋の暑さとの間を往復すると、余計に暑さがこたえた。台風で一度、屋根が飛んだ。激しかった雨風が急に止んだと思ったら、急に明るくた。台風の目に入って、トタン屋根が飛んだのである。それあといばらくしてまた雨風が激しくなった。もちろん、部屋は水浸しだった。すべてを諦めたつもりで、生きても30くらいまでやろと思いながら生きてはいたが、毎日生きるだけでも大変だった。

30くらいまでやろ、どころかすでに70をとうに過ぎている。碌(ろく)なこともせずに、生き在(ながら)えてしまった。

引っ越しの時はこの橋を渡っている(ウェブから)

つれづれに

つれづれに:街まで自転車で

 月曜日に街まで自転車で出かけた。耳鼻科(↑)に行くためだ。ついでに餃子屋さんにも寄ってきた。現在自転車で行ける北限である。ひと月ほど前に行った内海の南風茶屋(↓)が、今のところの南限である。それぞれ南北に20数キロくらいが自転車で行動可能な範囲のようである。それだけ範囲が狭くなったのか、まだその範囲で行けるのかはわからないが、今しばらく行けるのを祈るばかりである。

 住んでいる場所の近くでウェブの評判も悪くない耳鼻科を探して行ってみたが、しっくり行かずに、また前から行っていた耳鼻科に通っている。1年に1度くらいだが、耳の掃除をしてもらうためである。耳を触って炎症を起こしたので、公立大(↓)の非常勤の帰りに、たまたま見つけた耳鼻科に寄った。「耳を触るのは人間だけですから」というのを聞いて、そうなんやと変に納得して、1年に1度通うようになった。昔ながらの寡黙な医者で「専門的なことを言ってもわからないだろうから、言うことを聞いていればいい」といういわゆる父権主義(パターナリズム)の典型のような人だった。あまりしゃべらなかったが、黙々と掃除をしてくれて、あれ以降炎症を起こしたことはない。ある時から息子さんが引き継いだ。さすがにパターナリズムの権化ということもなく、普通に会話が出来る。掃除しかしてもらっていないので、専門の腕がどれくらいかはわからないが、気持ちよく掃除はしてもらっている。自転車で通える間は、これからも耳掃除に通いそうである。

 宮崎に来た頃は、宮崎神宮の少し北東辺りの借家に住んでいたので、公立大(→「非常勤」、2022年8月24日)も生活圏にあった。元市長の念願だった公立大の設立の最初の有識者会議というのにも参加した。(→「市立大学」、2022年9月6日)宮崎神宮や県立図書館や総合博物館(↓)もすぐ近くにあった。今回は博物館の駐車場でどくだみを見つけ、摘んでもらってきた。宮崎神宮にもたくさん生えていた。どくだみを酒に浸けて皮膚に効く野草液を拵(こしら)えるようになって、それまで目に入らなかったどくだみが目につくようになった。空き地や街中にはあまりないようで、家屋敷の中か近くが多いようである。幸い、家の敷地内で賄(まかな)えるが、つい目につくとその度に摘んで帰るようになっている。困ったものである。今のところ、毎日20本ほど、湯に浮かべて「なんか効きそうな気がするな」と思いながら、湯に浸かっている。

 めがね屋さん(↓)にも寄った。生活圏で見つけた店屋だが、3軒ほど他の店にも行った記憶がある。近視も乱視もきついので、昔からめがねは必需品である。バスケットをしている時は、よくプレイ中にめがねが壊れたり、歪(ゆが)んだりしていた。レンズもある程度時間が経つと表面に傷がついて見えにくくなる。最近は老眼も入っているので、パソコンの画面を見る時と、普段の時にめがねをかけ代える。高校くらいからだから、当たり前のようになっているが、不便なものである。今回は、表面がだいぶ傷ついて気になり始めたので、レンズを新調した。知らなかったが、夏のセール期間だったようで半額だった。カードで支払うので、値段をあまり考えないのも困りものである。しかし、ずっとこうして来たので、変えられるとも思えない。しゃーないか。

 小暑と大暑の期間が署中らしいが、この期間に長時間自転車をこぐのも大変である。幸い曇り気味だったので、大いに助かった。清武加納のタイヨー(↓)の近くの急な坂道を登り、左手に国際大がある道を通る。小高い山である。最近工事が済んで、歩道を通れるようになって行きやすくなった。車道は狭いうえ、坂道がきつくて下りはスピードが出過ぎるので、通るには危険すぎる。家から30分ほどで、清武加納のハンズマン(↓)辺りに着く。そこからバイパスとの交差点を左折して街まで、大体1時間ほどである。

カメラを持っていくつもりだったが、自転車で坂道を登っているときに忘れて来たのに気がついた。しかたなく、ウェブで検索した画像ばかりになった。

つれづれに

つれづれに:最近の歩くコース

家からしばらく歩いて、県道(↑)を渡る、杉の伐採ではたの部分が増えた(後の方の写真を参照)

 2年前に歩くコース(→「歩くコースまとめ」)について書いた時と比べて、最近は歩くコースが少し変わっている。新しく出来た農産物の店(↓)での買い物と散歩を兼ねるようになったからである。店を往復するだけなら半時間余りなので、回り道をして大体1時間くらい歩いている。

2年の間に、新しく農産物店がAコープの近くに出来たほかに、長い間工事中だった木花駅前とその西側の道路の整備が終わり、Aコープ木花店が改装された。Aコープは店内も暗くて排気システムがよくなかったし、学生のパートが多かったので余り行きたくない雰囲気だった。新装して明るくなった。サーヴィスカウンターが出来て、東京の子供2人に出す宅配便が便利になった。何より、店の雰囲気がよくなった。

Aコープの少し東側の農産物店、地元の建設業者の店らしい

 高台の公園を通るのは前のコースと同じである。前は公園西端の道からお墓を通っていたが、最近は東側の舗道(↓)を通ることが多い。誰かが通ってるいると、避けて違う道を通る。

 舗道の突き当りを右折、二つ目の三叉路(↓)を左に曲がる。まっすぐに進めば、無人の木花神社に行くが、最近は左折することが多い。

 左折したあと、まっすぐな道(↓)沿いに進む。両脇に大きな杉が植わっていて陽当たりは余りよくない。去年の台風では、杉の大木が倒れて通行できなかった。車は通れなかったが、もちろん歩くのに支障はなかった。倒木が処理されたのは何日か経ってからである。

「つれづれに:台風一過続報」(2022年9月20日)

 しばらく進むと新しく出来た道路に出る。長い間工事中だった。工事中の写真と比較できるとは思っていなかったが、並べるときれいに整備されたのが一目瞭然である。道路は加江田渓谷からの県道に突き当たる。角の左手がAコープである。

 新装されたAコープの少し東側が農産物店である。建設業者のたぶん会長という人が店にいて、言葉を交わすようになった。毎食野菜を食べるので、レタス、胡瓜(きゅうり)、とまと、キャベツが要る。それに近くのレストランが拵(こしら)えているドレッシングや、納豆と混ぜる山芋も買っている。少し前までは畑でレタスは賄(まかな)え、今は胡瓜は買わなくて済むが、わりとちゃんとした野菜を常時置いてあるので助かっている。

以前は北の清武川の橋を渡って野菜を買いに行っていた。今年はとまとを柵まで拵えて作っているが、賄えるほどは生っていない。胡瓜はこれからまだ種を蒔(ま)いて晩秋まで収穫出来ればと目論んでいるが、大抵は思い通りにはいかない。そろそろ種から大きくなった丸莢(さや)オクラが穫れそうである。最初に野菜を、その次にねばねばしたものとして納豆とすった山芋を混ぜて食べているが、オクラが出来ればもう一品増える。それに米麹から作る甘酒も、欠かさないで飲んでいる。最近は吉祥寺の娘にも好評で、いっしょに住んでいる猫ののら(↓)と分け合っているそうである。

「私の散歩道2023~犬・猫・ときどき馬~」5月「ノアとのら」

 木花駅の前におにぎりやさんが出来た。地元の青年団が建物を立てて、女性が何人かで週に何日か朝早くからお昼頃までやっている。売切れたら閉店らしい。午前中に歩きにいくことは少ないので店が開いているのを余り見かけないが、今日は時間内に前を通って写真を撮って来た。ちょうど一人買いに来てたようだった。

 木花の駅前もきれいに整備された。駅の西口にバス乗り場も出来、電車に合わせてタクシーも行き交うようになっている。自転車置き場も放置自転車を定期的に処分しているので、以前ほどはみ出した自転車がないのはいいことである。

工事が完成する少し前

 以前公立大に非常勤に行ってるときに、自転車を停めていたら盗まれたことがある。そんなに新しいものではなかったが、まだ乗れる自転車だった。何げなく乗って行ってしまったのかも知れないが、たくさん自転車が溢れていたのに、運が悪かったとしか言いようがない。

ジンバブエのハラレでも家の車庫から自転車を盗まれたことがあるが、だいぶ事情が違う。ハラレではボーイやメイドの給料は低く、中古の自転車なら給料2年分ほどになる。だから、駅前の無料駐車場に自転車が溢れる光景はまずあり得ない。自転車で買い物に行って、よそ見してたら「自転車がない」というくらいである。ただし、自転車で買い物に、という前提がなかったようである。車に乗る一握りの金持ちと、歩かざるを得ない貧乏人しかいない、と借家を世話をしてくれた日本人の人が教えてくれた。その人もこの世にはいないと、その人の本の著者紹介の欄で知ってからもうすぐ20年になる。

ゲイリーに置いて帰る筈の中古自転車を突き当りの車庫から盗まれた

 小学校と中学校の横をと通って戻って来た。家の近くの県道で、2年前の写真と比較すると緑の部分が少なくなっている。最初の写真の方が山に近いので、杉の伐採部分がわかりやすい。