つれづれに

つれづれに:原言語

百日紅(さるすべり)

一昨日撮ったご近所の百日紅、曇りがちでも少しのぞく青空に映えていた。長いこと居座っている台風が迷走しながら、こちらに来るらしい。

「えらいこっちゃ」

今も朝から雨が降って、雷まで轟(とどろ)いている。自然に勝てるわけがないか?停電や断水しなければいいが‥‥。この時期、停電は致命傷になる可能性もある。明日で大暑の期間が終わるとは言え、まだまだ肌がひりひりする暑さが続く。雨風が激しいとシャッターを降ろして窓を開けることになるが、それでも暑さはすごい。猫たちも音と暑さはきついだろう。何とか被害が出なければいいがと祈るしかない。

原言語について書きたい。その言葉を意識したのは、私が宮崎に引っ越ししてきた日に出版社の人が届けてくれた分厚い手紙だ。

「‥‥闇は光です この眼に見えるものはことごとく まぼろしに 過ぎません 計測制御なる テクニカル・タームをまねて 『意識下通信制御』なるモデルを設定するのは またまた 科学的で困ったものですが 一瞬にして千里萬里を飛ぶ 不可視の原言語のことゆえ ここは西洋風 実体論的モデルを 御許しいただきたい 意識下通信制御を 意識下の感応装置が 自分または他者の意識下から得た情報を 意識下の中央情報処理装置で処理し その結果を利用して 自分または 他者の行動を 制御することと定義するとき 人の行動のほとんどすべては 意識下通信制御によるものだと考えられます 少なくとも東洋人とアフリカ人には あてはまるはずです 私たちの行動のほとんどすべては 意識下の原言語できまるのであって 意識にのぼる言葉など アホかと思われるほど 些末なことです その些末を得意になって話しているのが ほかならぬ 学者文化人であって もう ほんまに ええかげんにせえ と 言いたくなります」

今回4作目を書きながら、この「意識下の感応装置」が察知した情報を如何に形而上の言葉で表現するかを意識した。いつも思う「心のどこかに塊りみたいなものがあって、書いているうちに形になって行く」という感覚である。小説の中で大学で取った→「第2外国語」について少し書いた。塊としてあったのは、怒鳴られた時に感じた担当者の傲慢さである。

「学生がいて職にありつけてるのに、『授業をしてやっている?』あんた、それはちょっとおかしいやろ」

意識下の感応装置が察知した情報を如何に言葉にするか?書き出して修正しながら、それが結果的に言葉になった。

「ロシア語を取ったのは入学後5年目である。大学で運動を再開してから始めた中学校でのコーチの真似事を優先して、2年留年していたからである。5回目くらいに初めて授業に出たら、受講生が私以外に2人、人数は申し分なかった。当てられても素直に謝ったあとは黙っているつもりだったのだが、成り行きとは言え、最初から思いとはまるで違う方向に進んでしまった。6時過ぎに遅れて入って来た担当者が息せき切ってしゃべり始めた。

『京都での授業のあと、名神高速を100キロ以上でぶっ飛ばして来たんだが‥‥』

どうやらロシア学科の専任らしかった。

『私は世界的な学者で、名前も知れ渡っている』

従って、私は忙しい、専任の教授だがⅡ部にも授業に来てやっている、それも世界的に有名な学者がである、だから少しくらい遅れても仕方がない、私にはそう聞こえた。偉くない人が偉そうにする、あれか?ひとこと「すみません」と言えば済むのになあ、そんな風に考えているうちに授業が始まった。当てられて、訳すように言われた。ひと月以上も経ってから、準備もせずに授業にのこのこやって来た、それがどうにも許せなかったらしい。その通りだから、私としては謝るしかない。

『初めてですいません。やって来ていません』

『やって来てない?おまえ、昼間は何をしてるんだ?』

『昼間は、寝てますけど‥‥』

『授業から帰ったあとも興奮して寝られずに、夜中じゅう起きて本を読んでますので‥‥』を意図的にとは言え、省いたのがよろしくなかったらしい。

『若いのに、惰眠を貪るとは何事か!』

烈火のごとく怒り始めた。ここで止めればよかったが、ぷいと壁の方を向いた。火に油を注ぎたかったらしい。怒りは収まらず、怒鳴り続けていたようだった。次の時間からが大変だった。大人数だと避(よ)けようもあるが、3人だけである。初回のこともあるし、自分で責任を取るしかない。

『購読?』

どこまで進むかわからないが、準備するしかない。

『母音の数が13もあるみたいやし、格の変化も面倒臭そう。言われっぱなしも癪(しゃく)に障るし‥‥」

準備に毎回何時間もかかった。根に持つとは相手も大人げない、授業ではいつも喧嘩腰で、細かいことろまで質問して来る。

『初修やねんから、そんなとこまで知らんやろ』

20数回も続いた。最後のころ、冬場だったと思うが、いっしょに授業を受けていた女子学生2人が授業前に揃って私の席までやって来た。

『またやってもらえませんか?』

『?』

『あのう、最近やってくれはらへんので、進むのが早くて、早くて。このままやったら、試験範囲がどんどん広がって試験の時に大変そうなんで、またやってくれませんか?』

毎回毎回体力を消耗し、必要以上に気も遣ったが、授業はなんとか終わった。単位は無事取ったものの、後味は悪かった。後に、博士課程の試験で第2外国語が要るのがわかって、ロシア語も考えたが、役に立ちそうになかった。結局、フランス語で受験した。」

この手の作業が続く。

出版社が売れると判断するかどうかはわかわないが、自然と書き始めたのだから、このまま書き溜めておくとしよう。活字になって溜まった原稿が売れてお金になる、かも知れない。立原正秋の場合は、押し入れに積み上げていた原稿がやがては売れて金になると言い切り、実際に売れていたが、私の場合はやっぱり、「かも知れない」である。「生きても30くらいまでやろ」と思いながら生き在(なが)らえて来たのだから、何が起こってもおかしくないとは思うが。

昨日通った時は、まだ稲刈りの済んでいないところもあったが、この土日で雨の中でも作業をすることになりそうである。大変だあ。一昨日撮った写真(↓)では、まだ半分ほど、刈り入れが済んでいなかった。

刈り入れ前の写真

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つれづれに:送稿

「私の散歩道2023~犬・猫・ときどき馬~」8月

「<シェパードの親子>(モルディブの海)」

 8月に入っている。暑中も今年は大暑が8月の6日で終わり、旧暦では次の日に「秋立ちぬ」である。しかし、台風(↓)が居座って動かず、沖縄は大変な目に遭(あ)っている。ずっと怪しい天気が続く。毎日雨が降るので、畑の水遣りの心配はないが、こう天気がぐずつくと、気持ちもすっきりしない。週明けにはコースを変えて、本州の下辺りを通るらしく、雨風の影響もあるようだ。茄子(なす)もオクラもピーマンも添え木をしていないので、暑中に大変な作業になりそうである。風任せ、運任せにしたら、すっきりはするのかも知れないが、その場合、折角種から育てたものが、壊滅する可能性が高い。執着を捨てて、風に任せて、立秋を過ぎた頃に、冬野菜の準備をするのも選択肢の一つである。でも、やっぱり一本一本を添え木に括(くく)り付けて固定する作業をしてしまいそうだ。

 30日に送稿した。締め切りの1日前である。あと3回ほどは見直し作業をするつもりだったが、800字から1200字程度の概要をつける必要があって、時間を取った。選考委員が概要をどう使うのか?小説の概要に意味があるようにも思えないが‥‥。箸にも棒にもかからないものをはじくためか?

今回は4つ目の小説で400字で400枚ほどだった。1つ目と2つ目を書いたお陰か、3作目と4作目は、終わったときに「今の時点では、これが精一杯やなあ」と感じたので、あとは出版社が売れると判断するかどうか、だと思う。時代もあるし、出版社の意向もあるし。

小説を書くと言ったら、世話になった出版社の人に「賞は出版社が売るための便法で‥‥」と暗に無駄なことはしないで、ほれ編著を、ほれ翻訳を、ほれ英文書をと、次から次へと薦められた。本にはなったが、そのあともほれウェブに連載をと、退職しても途切れなく続いた。一番多い時は、週に2つは記事を書いていた。文字通り、小説を書くどころではなかったのである。人に言っても信じてもらえそうにないので、言っていない。しかし、その人が亡くなったと知らせが来て、しばらくあとに夫人も亡くなったと知らせが来て。それからしばらくして、自然に書き始めた。「その人に会う前から、直木賞や芥川賞を考えていたんやから、やっぱり書いてみるか」、そうなったようである。

小説を書く作業は、実際は自分の意識下にある原言語を言葉を使って表現する作業のようで、書きながら「そうやったんや」と感じることが多かった。次回は少し原言語について書きたい。

 台風が来る前に稲刈り(↑)をやっているので、写真を撮って来た。兼業の人も多いので、この前の土日が一番多いと思っていたが、台風がぐずぐずしているので、この土日がピークになりそうである。

 また、えのころ草(↑)を摘んで来た。どくだみと同じく、誰も採る人はいないので、あれば取り放題である。

<追記>

今週はよく歩けている。陽ざしが一番きつくなる前に1時間ほどで、コースはいろいろである。今日は途中の畑と道端で、えのころ草を摘んだ。もちろん、その前に、風呂に浮かべるのに明日の分のどくだみも摘んだ。一か所、道路脇のどくだみの叢(くさむら)が幹線道路の除草作業で、すっかり姿を消していた。雑草扱いなのである。

家を出てすぐの道で撮った加江田の山

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つれづれに:絵を描く

 絵を描くことと数字に関することはどうも苦手で、遺伝子が欠損しているとしか思えない。だから、絵を描ける人が身近にいるようになるとは思っていなかった。妻も娘もこともなげに絵を描く。だから、水仙郷(→「水仙郷襖絵」)に行ったあと、あの襖絵が描けたんだろう。

 青島の時もそうだった。いっしょに行って帰ったあと、描きたくなったんだと思う。→「青島と少年」

 高校で担任をして、信州に→「修学旅行」に行ったとき、1クラス47名と私の分の似顔絵を頼んだら、こともなげに描いてくれた。仕事に家事に育児に大変だったのに、よくも頼んだものだと心が痛む。しかし、どの顔も一目でその人だとわかる似顔絵だった。

 慌ただしくいっしょに住み始めたが、相手のことはほとんど知らなかった。絵についてもいっしょに生活しながら「そうやったんや」と初めて知ることが多かった。(→「中朝霧丘」)小さい時から絵を描くのが好きで、望めば絵の専門に進めたようだが、大学では詩を読んだり穴もぐり(ケービング)などをやっていたそうである。スラムのようなところで、崩壊した家族関係の中で「生きても30くらいかと諦めていた」私と、教えてもらった暮らしぶりは、同じ時代に生きたとは思えなかった。

修士論文は山之内獏で書いたらしい

 働いて子供が小さいと毎日戦争のようで、絵を描く時間を見つけるのは難しい。何事もやれる方がやればいいとは思っていたが、実際には学校を優先して、家事や育児も頼りっぱなしだった。申し訳ないことをした。絵を描きたかったようで、結婚前から通っていた神戸元町の油絵教室の土曜日の2時間に協力するのが精一杯だった。教室の担当者は神戸に住む画家で、洒落た絵を描いていたらしい。透析を受けていた病院先に、描いた絵を見てもらいに行く妻に付き添ったことがある。その頃、その画家は絵画教室もやめていたので、おそらく妻が絵に手を入れてもらった最後の人だったのではないか。

ウェブで見つけたその画家の絵

 結婚前から続けていたようで、その絵画教室の人たちと毎年グループ展をやっていた。そこには毎年いっしょに出かけた。あるとき、明石の市展に作品を出した。審査員賞だったらしいが、その審査委員長がその画家だった。妻の名前は後で知ったらしい。その頃は油絵だったが、私の宮崎が決まって「仕事辞めて、絵を描いていいの?」と嬉しそうだった。

 後にカレンダーを作るようになってから、その油絵をカレンダーの12月に入れた。元々大好きな犬を、絵の中に放すのが好きなようである。

「私の散歩道2019~犬・猫・ときどき馬」12月

 <追記>

昨日歩いたのは、木花神社→農産物店→木花駅までは同じコースだったが、そこから→木花神社→高台の公園を通って帰って来た。木花神社(↓)に戻ったのは、階段の数を確認するためだった。高台の公園の階段(↓)の数が147だったのがわかって「えらい半端な数字やな」と感じたが、実際はある法則があった。33段で踊り場、それが3回、24段で踊り場が2回、それで147段だった。33×3=99だったので、ひょっとしたら木花神社の階段を意識して造られたのかとふと思った。もしそうだとしたら「僕だけの秘密やろか」と推し測ったが、そんなロマンはなかった。神社の階段は下から5段踊り場、それから93段、合わせて98段だった。

神社の上から20何段目かで止まって、この写真を撮った

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つれづれに:水仙郷襖絵

 妻が産休の間に襖(ふすま)に描いた水仙郷(すいせんきょう)の絵について書きたい。産休に入ってすぐに、2人で淡路島(↑)の水仙郷に出かけた。娘がお腹にいたので3人で出かけたと言う方が正確である。

水仙は2人とも大好きな花の一つで、どこかの広告で見かけて以来一度は行ってみたいと話していたが、産休に入ったとたん、急に妻が「水仙郷に行こう!」と言い出したのである。明石港からフェリー(↓)で岩屋に渡り、あとはバスである。

 近隣の4町が合併して今は南あわじ市と呼ばれているようだが、当時は確か南淡町だった。大学の時に昼間の1つ上の人がその町から来たと言っていたので、名前を覚えている。洲本から混んだバスに揺られて水仙郷に行き、そこに着いた記憶がかすかに残っている。

観光パンフレットの解説である。

「灘黒岩水仙郷(なだくろいわすいせんきょう)は、兵庫県南あわじ市(旧南淡町)灘黒岩に位置するスイセンの群生地である。日本三大群生地の一つ。諭鶴羽山(ゆづるはさん)から紀伊水道に続く斜面約7ヘクタールに、約500万本のニホンズイセンが自生する。」

 大きなお腹を心配しながら、山腹に甘酸っぱい匂いを漂わせて咲き乱れる水仙を堪能はしたが、出発した時間が遅く、暗くなった帰り道は、体が冷えはしないか、産気付きはしないかと終始気が気でなかった。淡い若気の至りである。

生きて30くらいまでかと考えていたのにいっしょにいたくなって「結婚しよか」と言ったら「はい」と言われてしまった。卒業式の帰りに学年主任のお見舞いに行った2月25日のことである。4月4日が結婚式だったから、何とも慌ただしい毎日だったと思うが、その時は早くいっしょに住みたかった。妻の兄を見ていて同じマンションに入ると決めていたようで、最初は朝霧駅(↓)近くのマンションに住んだ。しかし、両隣と合わなくて、出来たばかりの教職員住宅に入った。娘と3人の生活だった。その時に襖に2人で行った水仙郷の絵を描いたのである。水仙独特の淡い色合い、一輪一輪を摘んで花瓶に飾れそうだった。襖いっぱいに咲き乱れる水仙の花々に囲まれて、今にもあの甘酸っぱい匂いが漂って来そうだった。

  同じ市内ながら国鉄沿線ではなく、海寄りの私鉄(↓)沿線の田舎だった。朝霧は市の東の端、引っ越した先は西の端にあった。この時のことを思うと、妻にも娘にも申し訳ない気持ちになる。高校で教科にホームルームにクラブ活動にと、毎日が目一杯だった。土日も試合について行くことが多かった。その分、2人といる時間が少なかった。新築の集合住宅が娘の体に合わなかったのか、よく熱を出した。ある日「私、家に帰る!」と言い出して、父親一人の→「中朝霧丘」の家に3人で転がり込んだ。水仙郷の襖絵を持って出なかったことが悔やまれる。

 <追記>

今日も午前中に歩きに出かけられた。しかし、朝から晴れていたので、すでにかなり陽射しがきつかった。大きな雨傘を日傘に代えて歩いた。木花神社→農産物店→木花駅までは同じだが、そこから→木花神社→高台の公園を通って帰って来た。なぜ木花神社(↓)に戻ったかは次回である。どくだみは昨日採った墓の近くの空き家の隣の空き家と、少し先に行ったところの畑の登り口の脇で摘んだ。高台のさらに高い場所に何人かが畑を借りて作物を作っているようで、何ケ所かから車が登れるようになっている。その一番南側の砂利が敷かれた坂の脇にどくだみが生えていた。昨日はその場所の向かいの大き目のトイプードルが吠えていたので、心配したが、今日は庭に放してもらってない時間帯だったようである。