つれづれに

つれづれに:端午の節句

 前回「つれづれに」を書いたのが5月5日で、24節気の一つ立夏だった。旧暦ではもう夏の始まりである。次の小満が21日、いい季節が続く。立夏の解説である。

立夏(りっか)とは夏の始まりの時期です。さわやかな青空に、こいのぼりが気持ちよさそうに泳ぎます。一年のうちで、もっとも過ごしやすい季節です。

5月5日は端午の節句とも言われる。散歩の途中でもこいのぼりを見かける。鯉が滝をのぼって龍になるという逸話にちなんで、男の子の立身出世を願うという意味があるらしい。

節は唐の暦法で定められた季節の節目のことらしい。3月3日や5月5日のように奇数(陽)の重なる日は、めでたい反面、陰に転じやすいとされ、邪気を払う行事が行われていたようである。その暦法と風習が日本に伝わり、宮中や貴族社会で行われた。江戸時代には「5節供」が式日(現在の祝日)に制定されて、民間行事になったようだ。明治には廃止されたが、今も暮らしの中に残っているというわけである。

<5節供>

人日(じんじつ):1月7日 七草の節供、上巳(じょうし):3月3日 桃の節供、端午(たんご):5月5日 菖蒲の節供、七夕(たなばた):7月7日 笹の節供、重陽(ちょうよう):9月9日 菊の節供

今玄関の花瓶に花菖蒲を6本挿してある。採るときはその意識はなかったが、まさに菖蒲の節供にぴったりの花だったわけである。散歩の途中で、急遽花泥棒になった。ほぼ枯れているたくさんの花の間から、救い出して来た6本である。場所は言えない。

 24節気の他に雑節の名称もあるらしい。こちらの名前もよく耳にする。

土用(1月17日)、 節分 (2月3日)、彼岸(3月18日)、土用(4月17日)、八十八夜(5月2日)、入梅(6月11日) 、半夏生(7月2日)、土用(7月20日)、二百十日(9月1日)、彼岸(9月20日)、土用(10月20日)

雑節は、24節気や5節供のように中国から伝わったものではなく、日本人の生活文化から生まれた日本独自のものらしい。土用は立春・立夏・立秋・立冬の前のおよそ18日間を指すらしいが、今は「土用」と聞けば、立秋前の「夏の土用」と土用の鰻を連想する人が多いだろう。

 旧暦の言葉に魅かれるのは、便利になって失ってしまったものを時折思い出すからかも知れない。土に触れていると、余計にその思いは強い。雨でなかなかは畑には出られないが、とまとと南瓜の柵だけは藪蚊と炎天で作業が出来なくなる前に作ってしまいたい。折角8センチと5センチの穴掘り専用の機材を探して買って来ているのだから。

造りかけのとまとの柵(雨を避けるための温室風)

つれづれに

つれづれに:出席をとる?

「私の散歩道2023~犬・猫・ときどき馬~」5月

 5月になった。今回は何とか月の初日にカレンダーを掲載できるようだ、と書き始めたが、5日になってしまった。5月の絵のどちらの猫も東京都出身である。手前の大きいのは「のら」である。娘の家の前であらん限りの声を出して訴えたらしい。籠に乗っているのは「ノア」、渋谷の自動販売機の下でやはりあらん限りの声で訴えていたらしい。飛行機で移動できるくらいになった頃に、娘のオーバーコートの中で守られながら宮崎にやって来て、以来、私たち2人と住んだ。家でいっしょに暮らすと、いなくなった時の喪失感はどうしようもない。寿命が違うので、見送るしかないが、ほんとうにどうしようもない。ノアと会う術はないが、のらはずっと妻と携帯電話で話をしている。今は、みんなでズームをすることが多い。自分の話でない時は、いかにも詰まらなさそうである。バイバイと言い始めると、何とか引き延ばそうとそわそわし始める。

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ノア

 小説4作目の2つ目の山をそろりそろりと進めている最中である。「教える?」に続いて「出席を取る?」という大きな問題と格闘している。

定年退職の後も含めて、高校と大学で45年余り授業をしたが、出席は取らなかった。出席している学生から「来てない人にも同じように単位を出すなんて不公平ですよ」と何度も言われた。しかし、最後まで出席は取らなかった。

宮崎で初めて大学(↓)の職を得るまで、私大での非常勤は5年間続いた。最後の年は週に16コマもあった。

 元々小説を書く空間を持つには大学が一番いいと考えて職探しを始めたが、授業をするのが性(しょう)にあっていたのは幸いだった。最初に高校(↓)で授業をしたときは、興奮して前の夜は眠れなくて‥‥ということは全くなくて、100年も授業をしたような顔をして授業をしていた。他から何も言われないのが何よりだった。

 受験の準備が出来ずに夜間課程を選んだが、大学は自由でなかなか面白かった。夜間はゼミが3年次だけだと知らなかったので、瞬く間に終わってしまったが、旧帝大系出の担当者(↓)の周りには自由な雰囲気が漂っていた。授業直前に掲示板を見て休講を知ることが多かった。それも全体の半分ほどが休講である。今なら問題になるに違いない。私も半分以上は出ないから、1年で顔を合わせたのはせいぜい7回か8回、そのうち1回だけ、発表をした。パソコンのない時代だったので、手書き原稿を生協でコピーして配った。英米学科だったが、英語はしなかったので、程度の低い発表だった。それでも優だった。発表の時に、父子の問題に絡めて

「親には子供を育てる義務がある」

と恨みがましく個人的な思いを込めて言ったことがある。

「玉田クン、本当に、親に子供を育てる義務が、あるんですかねえ?」

その時はよくはわからなかったが、私が如何に常識に雁字搦(がんじがら)めになっていたかを、今小説を書きながら、思い知っている。生きても30くらいまでと諦めたふりをしながら、実際はそれまでの常識の枠組みの中から抜け出せずに、ただ生きているだけだったのではないか?

 その人には2年次の英書購読の授業で会っていた。ずいぶんと前のことなので現実だったのかどうかも怪しいが、授業の初めに聞こえるか聞こえないかのか細い声で、ひとりひとりの名前を呼んでいた。眼鏡(めがね)を少しずらして手帳を見ていた姿が目に浮かんで来る。まさか、出席を取っていた?

碌(ろく)に授業にも顔を見せず、生協での販売終了後に担当者の研究室を訪ね、その人が編集した教科書を買ったにもかかわらず優をつけてくれたのが、旧帝大流のおおらかさだとしても、戦後とは時代や環境も違う。大体、旧帝大への進学者は数少ない超エリートだったし、その時代の大学進学率は極めて低かったから、私の住んでいた田舎町だと学生を見つけるのも難しかった。戦後は雨後の筍(たけのこ)のように大学が出来て、少子化の今は進学先を選ばなければ全入時代に入ったと言われている。実際に、非常勤で行った教室横のベンチで弁当を広げている時に、隣に座っていた学生の一人が「わいABCもわかれへんねん」と言うのを聞いた。その文系の私大では2年間、まともな授業は出来なかった。しかし、授業で出会った学生は大半が善良で優しく、20数回も授業をすると愛着も湧いて、このまま授業が続けばいいのにと思うことが多かった。

先輩の世話してくれた理系の私大(↓)は有難かった。もちろん教歴の最初だったことや、教歴が始まって他からの依頼も増えたということもある。しかし、今から思えば、もっと大きな意味があった。すべての授業で視聴覚装置を備えた部屋を使わせてもらい、その部屋に常にいっしょいてくれた補助員3人に助けてもらえたからである。

 そんなこともあって、私は最後まで出席は取らなかったのかも知れない。それが、医学科で苦戦した原因でもあった。

つれづれに

つれづれに:教える?

 レタス(↑)とブロッコリー(↓)が虫にやられているのは毎年の光景だが、レタスや葱(ねぎ)の遣られ方が例年よりも遅く、いまだレタスと葱を採って食べている。畑にいる時間が長くなると、やっぱり旧暦が身近になってくる。(→「旧暦のこと」

 気象庁ではもう旧暦の計算をしなくなっているらしいが、どこかが計算をしていて、毎年の暦がウェブで手に入る。今年は4月20日が穀雨(こくう)で次の節気は立夏、もう夏である。今年の立夏の始まりは連休の5月5日だそうである。

<穀雨の解説である>

 解説の中に挿入されていた写真

 「春雨が百穀を潤すことから名づけられたもので、雨で潤った田畑は種まきの好期を迎えます。この時季に、特に雨が多いというわけではありませんが、穀雨以降、降雨量が多くなり始めます」

そう言えばすっきりと晴れない日が多い。雨の量もそれなりにある。ずっとは降らないので、畑作業は出来る。毎日精勤にやっているとは言い難いが。

大根の種

 暑さと藪蚊(やぶか)で畑に出られなくなる前に、とまととかぼちゃの柵を拵(こしら)えたいと思っている。今年は長い竹を固定するための穴を掘る器具を探し出して買っている。まだ穴は掘っていないが、5センチと8センチ用で、しっかりと固定できそうである。きっと、台風でも傾かないだろう。

台風で傾いた南瓜の竹の柵

 小説は今、4作目の2つ目の山を少しずつ書き進めているという感じである。前回ラ・グーマが「物語が出来ると頭の中にあるのをタイプライターに打ち出してあとは少し修正を加えるだけです」とインタビューで答えていたことを紹介したが、私の場合、心の中に書きたいものがあって、それが書いていくうちにはっきりとして来て、形になる、そんな感じである。今回の場合も、ぼんやりだがこれについて書きたいというものがあって書き始め、1つ目の山を終えたとき、一番大きな山を残して、先に3つ目の山を書きたいという気持ちになった。2つ目の山に時間がかかりそうなのと、3つ目の書き出しが思い浮かんで書き出せそうな気がしたこともある。1つ目が1200字35枚、3つ目が53枚になった。順序通りには行かなかったが、残りの3つ目の山に取りかかった。書き始めたら、大体終わる方向性が見えきた。予定の130~140枚、原稿用紙400枚くらいでいけそうである。

今は「教える?」というぼんやりとした、わりと大きなことについて書こうとしている。45年余りも授業をしてきたが「人が人に何かを教えられるんやろか?」という思いは渝(かわ)らないままである。

ずっと「教える?」ということに引っかかりがあった。だから教え子や恩師などの言葉を無意識に使う人に違和感があるし、「大学で~を教えています」と言われると、「ほんと?」という気持ちしか湧いてこない。

人から教えてもらったと思ったこともないし、自分が人に教えたという気持ちも持ったことがない。だから、「30くらいで死ぬやろな」と思っていた自分が結婚して子供ができたとき、子供に対して「教える」という考えなかった。孫に教え込みたいとうずうずしていた妻の父親の意には添えずじまいだったが。

先を考えずに歯の手入れを怠り、奥歯がなくなってしまった。今、実際に不自由な思いをしている。だから、「歯だけは大切に」と、せめて「小学校に入るまでは何もしない」とだけは考えた。そして、その考えを優先させた。こちらに来てたまたま入った歯医者が予防を優先する人だったので、定期的な検診にいっしょに通うようにした。

最近同じようなことを考える人がいるなという記事を見た。東大の理3を出て解剖学者をしていたらしい人である。

「■いい教育とは教育しないこと

【エコノミスト】何だか論語の問答みたいになってきましたが、先生のお名前は孟子にちなんでいるわけですから、弟子になった気分でどんどん聞きます。先生は、いい教育とは何だと思われますか。

【解剖学者】小学生くらいなら何もしないことですよ。有機農業の不耕起と同じようにやったほうがいい。高等教育についても「教育」しないことです。東大の伝統は結局は「自分でやれ」と言うことです。モチベーションのある人が自分でやる、それを周りが手助けする。それだけですよ。

学校は、基本的に子供に好きなことをさせる場にして、大人は見守るだけでいい。「この学年ではこれを覚えなさい」なんてナンセンスだと思います」

エコノミストという肩書の人との対談を収録した本の一部をウェブで紹介していたようだ。聞き手は東大法出のエリートで、弟子という言葉を平気で使う人なので違和感しか感じないが、解剖学者の「小学生くらいなら何もしないことですよ」と「不耕起」の引用については同感である。

問題はそのひっかかりや違和感を、現実にあったことから連想して、如何に言葉にするかというのが今やっている作業のようである。3作目は無意識に持っていた常識を問い直す作業だったが、今回は「教える?」に潜む自分の意識の深層と向き合うことのようだ。まだまだ先は続きそうである。

最近、散歩道を少し変えた。上の公園から木花神社(↓)を通って農産物店に行き、木花駅と木花小中学校をの脇を通って帰るコースである。

新しく地元の野菜を並べる店が出来たからで、散歩のついでに買いものをするようになった。毎日きちんと歩いている時は生活にもリズム感があるが、そのリズムを続けるのは実際には難しい。今日は今から買いものを兼ねた散歩である。1時前だが、この時間が朝の8時か9時になるのが、理想的な気がする。

駅の方向から撮った整備された木花駅前

つれづれに

つれづれに:旧暦のこと

 この前、「薊」(↓)を摘んで来て壺に投げ入れた。茎が空洞になっているので、水の減り方が早い。採る時もそうだが、生けるときも、あちこち棘(とげ)にやられて大変である。野に咲いているのに、摘んで持って帰る方がよくない。それでも、毎回持って帰ってくる。この浅ましさ、である。

 去年の10月に体調を崩し、年明けに生体組織検査もやって以来、どうも普段の調子に戻れないでいる。3月も終わり、4月に入って‥‥と思っているうちに、もう半ばを過ぎている。

その間も何とか小説だけは細々と書き続けていたが、4作目もやっと3分の2が終わったくらいである。最近の募集は30×40をA4に印刷して提出するのが多い。ウェブでの投稿が増えているようだ。A4に1200字だから昔風に言えば、1枚で400字詰め原稿用紙に3枚である。今回は130~140枚、原稿用紙400枚前後になりそうである。

一つの山を越えても、また次の山で、その都度滞っては時が熟すのを待って進む糸口が見つかり、また少しだけ進み始める、その繰り返しである。果てしなく続く。しかし、本来そういうものかも知れない。ただ、ラ・グーマのように、一つの作品が頭の中に出来上がると、あとはタイプライターに打つだけという人もいるようだから、人まちまちなんだろうと思う。しかし、その人たちのことを考えると、いつも「凡才やなあ」とは思うが、「そうなんやからしゃーない」と諦めることにしている。

少し前は、一つの山の最後に旧暦の話を挟もうとしてぐずぐずしていた。

「畑作業をしていると、旧暦が身近になった。24節気に使われる漢字に魅かれているからかも知れない」

絹鞘豌豆(きぬさやえんどう)

 そんな話を挟むのに言葉を探していたのである。そのために旧暦について調べることになった。もちろん、ブログにもよく書いていたので少しは調べてはいたが、今回はそれよりは詳しく、という感じだった。

今まで何気なく旧暦という言葉を使っていたが、その旧暦が終わって新暦に変わったのが明治6年、黒船に脅されて渋々開国したころの話である。改暦まで使われていた天保歴(てんぽうれき)が一般に言われている旧暦だそうである。それまでは、中国の宣明暦(せんみょうれき)をもとに毎年の暦が作られて、その暦法が平安時代から800年以上も使われていたと言う。江戸時代には天文学の知識が高まって4回も改暦が行われたらしい。その最後が天保歴というわけである。

月の満ち欠けを基にしていた暦が太陽の動きを基に作られた暦に変わったわけだから、国内は当然混乱したらしい。しかし、黒船(↓)に脅されて渋々開国した明治維新政府の西洋に追い付け、追い越せの政策の一環で、改暦も激変の一つとして人々も受け入れざるを得なかっただろう。名前も太陽暦(グレゴリオ暦)と呼ばれる。

 旧暦では1年を4つの季節に分け、それぞれを6つに分けて名前をつけた。それが24節気である。1節気は15日~16日で、春の最初の節気立春が1年の始まりだった。旧暦のひと月は29日半くらいで、1年では今より11日ほど短かく、ずれが大きくなると、閏(うるう)月というのを入れて修正していたらしい。実際には季節とのずれに不満を持つ人も多かったらしいし、旧暦よりも合理的で、欧米と足並みを揃えられるしという理由もあって、次第に定着して行ったようである。

旧暦は元々農業が基本の社会の暦である。開国後は国をあげて産業社会に走り出したので、社会との相性もよかったのかも知れない。畑作業をしているときに旧暦を身近に感じるのは、産業化が進み農業が基本の社会を忘れかけている自分の感覚をほんの少し取り戻すからかもしれない。

そんなことを書いた。

カレンダーはすでに4月(↓)。

「私の散歩道2023~犬・猫・ときどき馬~」4月

 散歩をしていると、あちこちにみかんの花(↓)の甘酸っぱい香りが漂って来る。今年もそんな季節になった。