つれづれに

つれづれに:今日も歩けた

高台の公園に咲いている百日紅

 明け方に雨が降り始めた。少し事情があって、ずいぶんと不規則な生活になっているので、その時間に、降り始めた音が聞えたというわけである。無理をしているわけではないが、無理やり寝ても眠れないときは、原稿のチェックをすることもある。大抵はしばらくすると、自然に眠くなってくる。何回も見直したが、あと5回ほど見直してから出そう思っている。20日過ぎに出せればいいが、何事も予定通りにはいかない。400字詰原稿用紙で400枚近い原稿なので、一日で一気に読めたためしがない。

この雨は有難かった。今の暑さだと一日で畑もからからになってしまうからである。「そろそろ水を撒(ま)かないと‥‥」と思っていたところだったので、余計に有難かった。

今日は歩けた。これだけ暑いと、→「暑中」の昼間に出歩くのは考えもので、体調がよくなければ、熱中症にやられる確率が高い。行くとしても、陽射しが強くなる前か、夕方陽が沈み始める頃である。

普段通りに歩けるのはほんとうに有難い。血液が充分な栄養を体のすみずみまで運ぶためには、色々な種類をバランスよく食べる必要がある。酸素を充分に送るためには、鼻や口から十分に空気を吸い、毛細血管が作られるように運動をする必要もある。おそらくちゃんとしたリズムで寝ている時に酸素が最も効率よく取り込まれていると感じるので、充分に寝る必要もある。若い時は少々運動をやり過ぎても、寝不足でも何とかなったのだが、年を取るとそうも行かない。走るのが好きでも、走るよりも歩くのを優先している。運動量が多すぎると、却って体に負担がかかり過ぎて恢復しなくなる。年々その塩梅(あんばい)を加減するのも難しくなってきている。それだけに、今日、一日でも歩けたのは有難い。歩けたことに感謝する。

高台の公園北出口

 今朝は朝食前に、スポーツドリンクを持って出かけた。公園から木花神社のコースを1時間ほど歩いた。雨雲レーダーを見てみたら、しばらく雨は降らないみたいだったので、傘を持って出かけた。途中で陽が出て来たので、雨傘を日傘にして歩いた。途中、帰ってから湯に浮かべるためのどくだみも摘んできた。予想通り、木花神社(↓)の境内にもどくだみの群生を見つけた。あそこなら気にしないで摘んで持って帰れそうである。

高台の公園の出口近くの百日紅が、咲き始めの時機の勢いがあった。

 農産物店ですっかり馴染(なじみ)みになった建設会社の会長さんが丹精込めて育てている黄色いハイビスカスも咲き始めた。この前「僕24年生まれですけど‥‥」と言ったら「23年です」と言っていた。団塊の世代である。去年花が散ってからだいぶ刈り込んだようだ。その分、新芽が延びて、ずいぶんたくさん蕾(↓)をつけている。霜の降りる頃まで、次から次へと咲き続ける。

 赤の→「ハイビスカス」は去年咲いていた場所を何個所か確かめたが、まだのようである。

「私の散歩道2021~犬・猫・ときどき馬」8月

 買い物があったので、昼からカメラを持って百日紅と黄色いハイビスカス(↓)の写真を撮って来た。また別の場所でどくだみを見つけて、明日のお風呂用の分を取って来た。今まで気づかなかった空き地で、切った樹の下敷きになっているどくだみもあった。わりとたくさんあったので、道路近くの分で、切られた樹の側や間から伸びている分を20本ほど摘んだ。比較的きれいだった。水洗いして、冷蔵庫に入れておくとしよう。

つれづれに

つれづれに:暑い最中に

 すっかり諦めて生きても30くらいまでだろうと考える身には、余生は永過ぎた。小さい頃から食べるのも自分で何とかしないといけない毎日が続くと、食べること自体も億劫になる。体にいいものをという選択肢は元より持てなかった。考えたこともない。食べるだけで精一杯だったからである。きちんと大学に通い、卒業して就職すると考えたこともなかった。もちろん、結婚も考えたことがなかった。

当時は木造2階建てだった中学校(同窓生のface bookから)の1年生の母親に頼まれた

 受験勉強は出来なかったが、大学に行かないという選択肢はなかった。大学の学費が月1000円だったから通えたのだが、生きていると何が起こるかわからないものである。受験に馴染(なじ)めず行き先も選べなかった私が→「家庭教師」を頼まれた(↑)のだから。前期も後期も地方の国立大を受けたのは、無意識に家を出るつもりだったんだろう。しかし、どの教科もしないで受けても、通るはずもなかった。間違って英語でもしていれば、話は変わったかも知れない。結局、それでも→「夜間課程」なら入れる所(↓)があった。

キャンパス全景(大学HPから)

 家庭教師を頼まれて少し経済的に余裕が出たのは確かである。毎日朝早く決まった時間に起きる必要がある→「牛乳配達」に比べれば、楽なものである。何より、時間的に融通が利く。大学では時間だけはあるのだから、その意味ではだいぶ気が楽になったのかも知れない。讀賣新聞の夕刊に連載されていた立原正秋の『冬の旅』を読んでから→「古本屋」で手当たり次第に本を買って読み始めた。自分の中に書きたい衝動があるのを意識するようになった。

よく通った古本屋のあった神戸元町の高架下

 突然出かけるようにもなった。意識にはのぼらないが、芯辺りに熱がこもって、その衝動を抑えられない感じだった。諦めが強くなって、それまでの常識の殻が破れて行くにつれて、その衝動を抑えきれなくなって行ったのかも知れない。→「暑中」に風も通らないトタン屋根の6畳にいると、なぜか一番暑い8月の初旬に遠くまで自転車で行きたくなった。計画もなく、取り敢えず中国山脈の真ん中辺りにある→「生野峠」(↓)を自転車で越えることにした。瀬戸内海側に住んでいたので、本州を南北に縦断して、日本海側に行ったわけである。

夏の暑い最中に、自転車で生野峠を越えた。それだけのことだった。ずいぶんと前のことなので、詳細は覚えていないが、足の裏全体で踏ん張れるように桐下駄を履いて、自転車から一度も降りずに生野峠を越えた、鳥取砂丘で寝袋の中で寝たとき、一晩中一匹の蚊に悩まされた、山陰側の海岸沿いの坂道はきつかったが、そこでも降りずに大声を出しながらペダルを踏んだ。印象に残っているのは、それくらいである。

もうすぐすると、何十年か前のその時と同じ季節になる。あの暑い最中に、よく熱中症にやられなかったものである。

香住海岸

つれづれに

つれづれに:暑中

「私の散歩道2009~犬・猫・ときどき馬~」8月

 →「のうぜん葛」を今年初めて見かけてから3週間ほどになる。去年初めて「この暑い最中(さなか)に咲く花もあるんやなあ」としみじみ感じた花の一つである。もう一つが百日紅(さるすべり)で、淡いピンクか濃い目のピンクの花をつける。去年のお盆頃に暑い中で咲く花を意識したときは、百日紅とハイビスカスがたくさん咲いていた。去年は気づかなかったが、→「ハイビスカス」(↓)が咲き出すのはもう少しあとのようだ。去年見かけた場所には、どこもまだ咲いていない。のうぜん葛は早くに花が終わってしまうが、百日紅とハイビスカスは結構遅くまで咲いている。霜が降りる頃に枯れて葉も落ちるようだ。

「私の散歩道2021~犬・猫・ときどき馬」8月

 「暑中見舞い」などで暑中という言葉はよく聞いていたが、今年初めて旧暦の小暑と大暑の期間を指す言葉だと知った。一年で一番暑い季節である。だから、暑中お見舞い申し上げますと葉書を書いてご機嫌伺いをするわけだ。今年は夜と昼の長さが同じになる夏至(げし)を過ぎてから15日目に小暑(しょうしょ)が始まった。小暑は24節気の第12節で、夏の節気の5番目である。そのあと、第12節の大暑(たいしょ、7月23日~8月7日)と続く。あと3週間ほどで暑中が終わることになる。その頃には、少なくとも朝晩は過ごし易くなるだろう。

一昨年と去年で1階の1台と2階の3台のエアコンを新しくした。業者に来てもらうのは気も遣うし億劫だが、工事をしてもらってよかったと毎日しみじみと感じている。年を取った私たちもそうだが、15歳と16歳(↓)の3匹の猫にも、猛暑は生き死にに関わるからである。

結婚を機に家を出たが、それまで住んでいた家は夏は暑く、冬は寒かった。6畳と4畳半2間の元市営住宅に家族6人で引っ越しをした。それまではトタン屋根の同じく6畳と4畳半2間に6人で暮らしていた。小学校の3年生の時だったから、弟2人はまだ幼稚園にも行ってなかった。周りの長屋に父方の親戚が集まって住んでいたようで、暗い、穢い、狭いイメージのスラムのようなところだった。貧乏な人たちは自分たちが貧しいという自覚がない。それが一番嫌だった。いい思い出がない。

その家の近くの川の河川敷(ウェブから)

 スラムのような家に比べて、南と東側に少し庭もあり、狭かったが風通しはよく、明るかった。親戚の姿が視界から消えたのも大きかったかも知れない。裏は少し離れた川の堤防まで畑か空き地で、開放感があった。しばらくして姉と一回り違いの妹が生まれて、兄弟が5人になった。その頃には、すでに両親の関係は壊れていて、どちらもあまり家にいなかった。6畳と4畳半2間は7人には、さすがに狭すぎた。中学校の頃に建て増しされて、ブロックや粗末な建材で、6畳の倉庫と4畳半を先に拵(こしら)え、その上に6畳2部屋と4畳半の部屋を継ぎ足した。私は倉庫の上の6畳に住んだ。北と東に大きな窓はあったが、南側が倉庫からの2階への階段で入り口部分が狭く、風通しが悪かった。風が通らずトタン屋根だったので、夏は暑く、冬は寒かったのである。

家から見えた紡績工場(ウェブから)

 ことに暑中の暑さはこたえた。頼まれて何軒かの→「家庭教師」に出かけていたが、家庭教師にお金を割ける家には、エアコンがついている。その快適さと、自分の部屋の暑さとの間を往復すると、余計に暑さがこたえた。台風で一度、屋根が飛んだ。激しかった雨風が急に止んだと思ったら、急に明るくた。台風の目に入って、トタン屋根が飛んだのである。それあといばらくしてまた雨風が激しくなった。もちろん、部屋は水浸しだった。すべてを諦めたつもりで、生きても30くらいまでやろと思いながら生きてはいたが、毎日生きるだけでも大変だった。

30くらいまでやろ、どころかすでに70をとうに過ぎている。碌(ろく)なこともせずに、生き在(ながら)えてしまった。

引っ越しの時はこの橋を渡っている(ウェブから)

つれづれに

つれづれに:街まで自転車で

 月曜日に街まで自転車で出かけた。耳鼻科(↑)に行くためだ。ついでに餃子屋さんにも寄ってきた。現在自転車で行ける北限である。ひと月ほど前に行った内海の南風茶屋(↓)が、今のところの南限である。それぞれ南北に20数キロくらいが自転車で行動可能な範囲のようである。それだけ範囲が狭くなったのか、まだその範囲で行けるのかはわからないが、今しばらく行けるのを祈るばかりである。

 住んでいる場所の近くでウェブの評判も悪くない耳鼻科を探して行ってみたが、しっくり行かずに、また前から行っていた耳鼻科に通っている。1年に1度くらいだが、耳の掃除をしてもらうためである。耳を触って炎症を起こしたので、公立大(↓)の非常勤の帰りに、たまたま見つけた耳鼻科に寄った。「耳を触るのは人間だけですから」というのを聞いて、そうなんやと変に納得して、1年に1度通うようになった。昔ながらの寡黙な医者で「専門的なことを言ってもわからないだろうから、言うことを聞いていればいい」といういわゆる父権主義(パターナリズム)の典型のような人だった。あまりしゃべらなかったが、黙々と掃除をしてくれて、あれ以降炎症を起こしたことはない。ある時から息子さんが引き継いだ。さすがにパターナリズムの権化ということもなく、普通に会話が出来る。掃除しかしてもらっていないので、専門の腕がどれくらいかはわからないが、気持ちよく掃除はしてもらっている。自転車で通える間は、これからも耳掃除に通いそうである。

 宮崎に来た頃は、宮崎神宮の少し北東辺りの借家に住んでいたので、公立大(→「非常勤」、2022年8月24日)も生活圏にあった。元市長の念願だった公立大の設立の最初の有識者会議というのにも参加した。(→「市立大学」、2022年9月6日)宮崎神宮や県立図書館や総合博物館(↓)もすぐ近くにあった。今回は博物館の駐車場でどくだみを見つけ、摘んでもらってきた。宮崎神宮にもたくさん生えていた。どくだみを酒に浸けて皮膚に効く野草液を拵(こしら)えるようになって、それまで目に入らなかったどくだみが目につくようになった。空き地や街中にはあまりないようで、家屋敷の中か近くが多いようである。幸い、家の敷地内で賄(まかな)えるが、つい目につくとその度に摘んで帰るようになっている。困ったものである。今のところ、毎日20本ほど、湯に浮かべて「なんか効きそうな気がするな」と思いながら、湯に浸かっている。

 めがね屋さん(↓)にも寄った。生活圏で見つけた店屋だが、3軒ほど他の店にも行った記憶がある。近視も乱視もきついので、昔からめがねは必需品である。バスケットをしている時は、よくプレイ中にめがねが壊れたり、歪(ゆが)んだりしていた。レンズもある程度時間が経つと表面に傷がついて見えにくくなる。最近は老眼も入っているので、パソコンの画面を見る時と、普段の時にめがねをかけ代える。高校くらいからだから、当たり前のようになっているが、不便なものである。今回は、表面がだいぶ傷ついて気になり始めたので、レンズを新調した。知らなかったが、夏のセール期間だったようで半額だった。カードで支払うので、値段をあまり考えないのも困りものである。しかし、ずっとこうして来たので、変えられるとも思えない。しゃーないか。

 小暑と大暑の期間が署中らしいが、この期間に長時間自転車をこぐのも大変である。幸い曇り気味だったので、大いに助かった。清武加納のタイヨー(↓)の近くの急な坂道を登り、左手に国際大がある道を通る。小高い山である。最近工事が済んで、歩道を通れるようになって行きやすくなった。車道は狭いうえ、坂道がきつくて下りはスピードが出過ぎるので、通るには危険すぎる。家から30分ほどで、清武加納のハンズマン(↓)辺りに着く。そこからバイパスとの交差点を左折して街まで、大体1時間ほどである。

カメラを持っていくつもりだったが、自転車で坂道を登っているときに忘れて来たのに気がついた。しかたなく、ウェブで検索した画像ばかりになった。