つれづれに

つれづれに:葛(くず)

小島けい画

 昨日、木花神社(↓)の境内でほんのり甘酸っぱい香りが漂っていた。葛(くず)である。最近は新規に出来た農産物の販売店での買い物を兼ねて歩いている。行き帰りに回り道すれば1時間程度の距離で、時間的にはちょうどいい塩梅(あんばい)である。

 「長距離の自転車は鼠径(そけい)部の血流を圧迫しているかも知れませんね」と言われて以来、電動自転車を立ちこぎしているせいか、太腿(ふともも)の筋肉が衰える一方である。そこで、せめて散歩で利用する高台への147段と木花神社の99段(↓)の階段を利用しない手はないと考えて、少し実行している。若い頃の勢いだと遣り過ぎるのは目に見えているので、抑え気味ではあるが。

葛は秋の七草の一つに入っている。妻は宮崎に来てから本格的に絵を描き出したが、それまで描いていた油絵から水彩に切り替えた。油絵は上から塗り潰せるがその分体力が要る。京都に二人で日本画を観に行ったが、精密でこちらも体力が要りそうだったので、水彩に決めた。一発勝負で、描き替えがきかない。

最初は借りた家の近くにあった市民の森に自転車ででかけて、毎日花菖蒲を描いていた。ほかにもいろんな花を描いた。絵の材料を集めるのは私の役目で、葛もよく採ってきた。その頃は、線を引き、ちゃちゃと絵を描いて、毎月私専用のカレンダー(↓)を作ってくれた。その時は使ったあとは何気なく捨てていたが、たまたま残している分もあった。今になっては「折角の絵、勿体ないことしたなあ‥‥」とつくずくと思う。まさかパソコンを使い、ブログまで更新することになるとは夢にも思わなかった。後の祭りである。注文してくれる人に気遣いなしに描いた絵は、粗いが好き勝手で勢いがある。

 葛はしかし、蔓(つる)植物、他の樹には厄介者である。まわりの木々を蔓で覆(おお)ってしまう程の生命力があり、ひと夏で10mぐらい生長するらしい。散歩の途中で見つけた小振りの藪椿を手折って持ち帰り、妻の絵とカレンダーや本の表紙絵にもなった。その椿の樹が蔓にやられて、この惨状(↓)だった。たぶん隣の人が思い余って、下草だけ払っていたが、夏になると元の木阿弥(もくあみ)である。

 椿の絵のカレンダーと表紙絵である。

2009年度のカレンダー→「私の散歩道2009」の表紙絵の元の絵

「小島けい2004年私製花カレンダー2004 Calendar」1月

「2011年花カレンダー」(長崎の企業が採用)

『さざん・くろーす 広野安人戯曲集』(1996/5/22)

 葛もカレンダーにもなり、妻はエセイ「私の絵画館」でも、通っている牧場にいた2頭の馬に添えて描いた絵の解説を書いている。→「ピノキオとマックスと葛」(小島けい「私の絵画館」55、2014年8月31日)

 9月も20日を過ぎているが、いまだに日中は34度ほど、夜になっても23度程度の日が続いている。とても日中に畑作業は出来ないが、夕暮れ時に何とか少しずつ畝(うね)を拵(こしらえ)ている。大根と秋用の胡瓜(きゅうり)は少し大きくなった。しかしまだ、畝第1号は全部完成していない。しばらく葛の季節が続く。予報によれば、十月の初旬までこの状態が続くそうである。金木犀はどうなるんやろ?

小島けい画

つれづれに

つれづれに:海の青さ

青島の砂浜

 昨日も自転車に乗って、白浜の鍼灸整骨院に通えた。有難いことである。秋の気配が少しし始めた。海の青さである。ほんとうに色鮮やかだった。秋のこの頃独特の色である。台風の影響もなく、だいぶ普段の天候に近くなった。もちろん、降るとかなり激しい雨になることもあるが。

青島の参道より少し南側、観光客もだいぶ戻って来ている

 少し前、散歩の途中で枇杷(びわ)の新地開拓が出来た。何年か前まで作られていた畑の東と南側に植えられている樹(↓)である。南側の分で大き過ぎて葉が採りにくい樹もあるが、何本かは高くなくて、背を伸ばさなくても葉が取れる。人通りも多くないので、取りやすい。昨日も枇杷の灸(きゅう)をしてもらった。2回目である。一回に3枚の葉を背中に当てて、電気で熱を加えてもらっている。

 いつもの曽山寺浜の橋辺りの景色も鮮やかだった。

 先週初めて気がついたのだが、橋の名前は「みらいはし」(↓)である。運動公園の整備に合わせてと、青島マラソンの短いコースの整備のために歩行者と自転車専用のきれいな舗道が造られたようである。今日はたまたま青島海岸の剪(せん)定した植樹を一杯に積んだトラックが後部ランプを点滅させてゆっくりと走っていたが、普段見かけるのは散策の人かサイクリングの人か、自転車の脇にボードを乗せたサーファーである。外国人も多い。誰もが軽く挨拶を交わす。大抵は笑顔である。

 曽山寺浜の舗道の脇に小さな公園がある。舗道が黄色く塗られていて、岸壁の向こうに見える青い海(↓)もなかなかだった。いつもその公園のトイレを使わせてもらっている。少し手前でアロエを採った手を洗うためである。ハンドソープも備えられている。「取らないでください」と書かれているので、持って帰る不届きものがいるのだろう。その奥にサーフショップがあり、併設のレストランはいつも客で賑わっている。最初は店も狭く、人もそう多くなかったそうだが、牡蠣(かき)料理を出し始めて人気が出て、店も広げ、アウトドア―用の席も増やしたそうである。全国の牡蠣を取り寄せていると言う。昨日はサイクリング途中らしきたくさんの人たちが自転車を公園脇に寝かせて、日焼けした若者が外の席を占領していた。

 みらいはしを渡って少し行くと、こどものくにで、淡いピンク塗装のホテルが見える。ワシントニアパームがよく似合う。

 1980年代の後半に宮崎に来た時には、宮崎観光ホテル近辺以外では、このパームビーチと市街地の北側にシーサイドホテルとサンホテルがあった。南アフリカの作家を招待したとき(「ミリアムさんを宮崎に迎えて」「ゴンドワナ」15号2-8頁、1990年)は、シーサイドホテルに泊まってもらって、近くの一ッ葉の海岸に案内した。残念ながら、一ッ葉の砂浜は砂が流れてしまったと聞いた。パームビーチは買収されて名前が変わっているし、他の二つもなくなっている。今のシーガイヤの前身が、オーシャンドームを作ったときは、近くにきれいな海があるのに室内プールとはと不評を買った。その後、すぐに潰れた。

 こどものくにに、パンパースの群生がある。フェンスを越えて入って採るわけにもいかない。パンパースは、はや盛りが過ぎたようである。

 ハイビスカスをあちこちで見かける。この頃から霜が降りる前辺りまで、息長く次から次に花を咲かせる。いかにも南国の花である。写真は鍼灸整骨院の道路の向かいに咲いている花である。

 折生迫(おりゅうざこ)の辺りで、ピンクの彼岸花を見かけて採ってきた。青島港を利用する漁船が繋がれている場所(↓)の近くである。昨日はちょうど何隻か港を出て行っていた。漁に出ていたのか?

彼岸花を採る人は少ないので、採り放題である。あちこちに咲いている、何個所かで赤の彼岸花も採った。室内に飾ってみて知ったのだが、ほぼ1週間は咲いている。すぐに勢いがなくなる花が多いので、意外だった。帰りに立ち寄った農産物店の前に自転車をとめて買い物をしていたら、向かいの事務所から戻ってきた顔馴染(なじみ)の店員が「ピンクの彼岸花、珍しいですね」と感心したように話しかけてきた。店を出たあと、また事務所に行くてめに出て来たようだったので「どうぞ」と言って3本お裾分けをした。事務所に飾られているような気がする。

つれづれに

つれづれに:枇杷(びわ)

 先週の金曜日に白浜に行ったとき、いつもの曽山寺浜から青島に架かる橋の辺りの景色が鮮やかだった。台風の影響と暑さのせいで、長いこと澄んだ感じの鮮やかな海や空の色が見られなかったが、久しぶりの鮮やかさだった。風がきつかったせいもある。家から出てすぐの道から見える加江田の山(↓)も澄んで、くっきりと見えた。

 最近は買い物も兼ねて歩くことが多いが、一昨日も農産物店に行く前に、木花神社の中を通った。自転車も最近は電動を使って立ってこいでいるので、以前に比べて太腿(ふともも)の筋肉が落ちている。それで、高台の公園に登る階段と木花神社から降りる階段を使って少し筋肉をつけることにした。昔なら往復10回ずつ毎日と言いたいところだが、今日は公園の階段を3往復、神社の階段を1往復にした。それでも、けっこう足に来ている。公園では墓地の近くで彼岸花の写真を撮った。

 去年は清武川の堤防に黄色い彼岸花(↓)の写真を撮りに出かけた。あちこちに咲いているが、花の咲く期間は短い。

 前立腺の生体組織検査を受ける前に、マッサージの他に背中やお尻辺りに何本かの鍼(はり)と鼠径(そけい)部、またの付け根の部分と恥骨の上辺りに電気の灸(きゅう)を同時にやってくれていたが、ここ何回か低温火傷(やけど)の感じが残ったので、枇杷の葉(↓)の灸に切り替えてくれた。葉に含まれている成分が酸性になった血液をさらさらにしてくれるらしい。その成分を癌(がん)細胞も嫌うらしい。それで急遽(きょ)、その枇杷の葉の灸に切り替えてもらった。

 その前に枇杷の話があって、普段はあまり気に留めない枇杷の樹(↓)が目に飛び込んできて、葉を摘んで持って行っていたのである、その時は自分に使ってもらえるとは思ってもいなかったが。

「枇杷の葉、持ってきました。ビワ32で、32枚‥‥。」

いつまで経っても、関西の気質が抜けない。マッサージをしてくれる人が大阪から来た人なので、笑ってもらえたが、たぶん九州の人か東京の人なら、変な顔をされたに違いない。妻なら、諦めたように「反応しようか?」だろう。樹は散歩のコースの途中にあって、普段は人が通らないので気楽に葉を摘んでいたら、犬の散歩に来た女の人から「枇杷の葉、何に使うんですか?」と聞かれてしまった。言いたくなかったが「灸に使います」と答えてしまった。キュウなことで、勝手に口が動いてしまったのである。犬は柴犬だった。32枚は時間がかかり過ぎる。次回からは、10枚にしよう。

 空気が澄んでいると、木花神社の展望所(↓)から見る海と山の景色も一段ときれいに見える。

 青島(↓)もはっきりと見えた。

 えのころ草、百日紅(さるすべり)、甘草(かんぞう)と、何とか花瓶に入れられる花を摘んで来ている。もう少ししたら、薄(すすき)が摘めそうである。何種類かあって、あまり採る人もいないので、採り放題である。

 辛うじて、薄の親分(↓)を1本だけ摘んで来たが、こっちの方はなかなか摘める場所が見つからない。ふだんはパンパースと呼んでいるが、薄の親分で検索したらパンパスグラスと紹介してあった。住んでいる団地の坂の土手の上の辺りのも採り難いし、白浜に行く途中にある子供のくにの庭園内の見事なパンパースを忍び込んで取ってくるのもさすがに憚(はばか)られる。新地開拓が必要である。

つれづれに

つれづれに:彼岸花を

(小島けい画)

 金曜日に白浜に行ったとき、途中で何個所か彼岸花を見つけてたくさん採ってきた。彼岸花はこの頃に咲く花で、突然にょきと姿をあらわす。「つれづれに」でも何度か書いているが、定年退職の頃にも書いている。→「彼岸花が咲き出しました。」(2015年9月10日)

その中では、時々見かけていた蛍についても書いた。本学の正門を通って医学部に行く途中の左手に県の農業高校の実習林があって、その辺りを自転車で行き来している時にみかけた。暗くなってからその辺りを通っていたということだろう。

まだ蛍が飛んでいます。例年梅雨に入る前に見かけるのですが、今年は梅雨がやたらと長く、梅雨が明けたころには蛍も終わりかと思ってました。しかし、梅雨明けにたくさんの蛍が飛んでいるのを見かけて嬉しくなりました。それでもお盆も過ぎれば見かけなくなるだろうと思っていましたら、数は少なくなってはいますが、九月の今時分まで飛んでいるのを目にするのは予想外でした。いつくらいまで、生きていられるものなんでしょうか。
 宮崎に来て二十八年目になりますが、医大が出来たころは周りは蛍が一杯やったと、医大に紹介して下さった人に聞いたことがあります。出来たての官舎に住んではったようです。

実習林の近くには小さな川が流れているので、それが水源かも知れない。医大から沖電気を通って赤江に抜ける道の最初の交差点辺りで蛍を見つけて家に持って帰ったことがある。子供二人はまだ小さくて、そのころ使っていた蚊帳の中に入れて暗くしたら、一晩じゅう幽玄な感じで光っていた。ずいぶん前のことなので、ぼんやりとしたイメージしか残っていないが。

まだ小さな川底がコンクリート打ちされていなかったから、毎年帰りに光を見かけたが、工事があってコンクリートの川底になってからは見なくなった。県立看護大が出来て、歩道もだいぶ整備されている。それまでは歩道が狭いかないかで、自転車で行き来するときは、いつも車が近くを通るので、気を遣った。

木花に越してからは、無人の木花神社の近くでも見かけた。近くに小さな池があるので、それが水源かも知れない。家の畑でも何回か見かけた。近くに小川はないので、庭の溜枡と下水の間の水が水源かも知れないとは考えたことはあるが、怪しい。

彼岸花を見ると、やっぱり山頭火の「移り来て お彼岸花の花盛り」の句を思い出す。→「お彼岸花が」(2010年10月14日)

いつものように朝歩いていたら、彼岸花が咲いているのに気がつきました、そう書こうと思ってからもうすでに何日か過ぎました。日中はまだ猛烈に暑いですが、彼岸が近いから咲いて当たり前と言えば当たり前。山頭火が定住を決めて其中庵と名付けた農家に移り住んだとき、

 移り来て お彼岸花の花盛り

 と詠んだようですが、(長いこと読んでないので、正確には、ちょっとあやしい)、こんな時期に定住を決めて、住みだしたんやなあ、と思いました。

散歩の時に高台の公園近くの墓の横で写真を撮って来た

 自殺未遂のあと得度して堂守をしていたが、そこにも安住できずに行乞の旅に出て、長いこと歩き回った。佐賀の嬉野温泉に落ち着こうとしたが、乞食同然のえせ坊主呼ばわりされて定住を拒まれたからである。今頃になって、山頭火ブームに乗り嬉野温泉の宣伝に山頭火を使っているのを見たが、山頭火が生きていたら苦笑するかも知れない。

何とか生まれた山口の農家の一軒家を借りて、定住を果たした。借家に其中庵と名づけて住み始めた頃の句である。人のいい農業高校に勤める俳友が手厚く世話を焼いてくれたようである。

飯塚の木村緑平や広島の大山澄太の助けもあって生き延びてきたが、この頃から死に場所を探し始めた。旅先で書いた日記は頭陀袋に入れて持ち歩いたものもあるが、燃やしたものや散逸したものもある。溜まって日記を旅先から木村緑平や大山澄太に送っていたようだ。後に大山澄太が整理して、春陽堂から出版されたものもある。その人たちのおかげで、今山頭火の句が読めるわけである。駄作も多いが、なぜか人の心に響くものも多い。意識下の原言語に響き、人の意識にのぼって現象化するんだろう。

その「つれづれに」を書いた頃は、統合後木花で共通教育の科目として南アフリカ概論とかアフリカ文化論とかアフロアフリカの歴史と音楽などを毎年何コマか持っていた。2学部が登録出来たようだが、いつも希望者が多く、各クラス150人で勘弁してもらっていた。英語の授業で英文の伝記を使って何回か山頭火も取り上げたことがあった。句の英訳などもやった。そのこともあって、いつか山頭火についても全学の共通教育で1コマやってみようと思っていたので、継続的に行乞記や其中日記なども読んでいた。だから、彼岸花の句が浮かんで来たんだろう。

厳しい暑さの峠を越した処暑(しょしょ、8月23日~ 9月7日)の期間が過ぎ、白露(はくろ、9月8日~ 22日)の期間に入っている。まだまだ暑い日が続き、台風の影響で雨もよく降っているが、何とか朝晩は秋の気配が感じられる。夕方なら、何とか畑にも出られるようになった。大根とレタスと豌豆の種を少し蒔いた。その作業を続けながら、他に葱とブロッコリーの種を蒔こうと思っているが。

白露は「夜中に大気が冷え、草花や木に朝露が宿りはじめる頃」らしい。昼と夜の長さが同じになる秋分(9月23日~ 10月7日)辺りまで作業を続けられれば、冬野菜も目途がつきそうだが。