つれづれに

つれづれに:ZoomAA

 いま書いてみたいと思っている題材が二つある。一つは英語を使うためにやり始めた歴史を絡めた題材と、小説を書きたいと思った意識下の深層にかかわる題材である。

「英語で」しゃべる機会を持てるように定期的にズームで集まるようになった。経過報告や補足を書くのにタイトルが必要になったので、題材のアフリカ系アメリカ史に因んでZoomAAを選んだ。African America HistoryのAAである。

毎回の報告と補足を書こうと思っている。十数回はかかると思うが、その後は未定である。

どちらも、小説の修作に使わせてもらうつもりである。小説を書き溜めてはいるが、いつかどこかの出版社が売れると判断して新人賞に選んでくれると勝手に決めているだけである。もちろんフィクションなので、いろいろ工夫は要るが、骨子になる部分をたくさん書いておけば、原稿の依頼が来るようになったときに助けにはなるだろう。

横浜の出版社の人から言われてあれこれ書いて本も何冊か出してもらったが、元々職業作家になるつもりだったので、経済的に食べる分だけ稼げればいいという基本は変わっていない。本を出したいという気持ちはない。

どうなるかわからないし、後期高齢者になりかけているので、残された時間も限られている。やれることはやりたい。

資料にしている1冊目英文書『アフリカとその末裔たち』

つれづれに

ZoomAA第2回目報告(2023年12月17日分)

「ルーツ」30周年記念DVD

 奴隷船のことをやり、奴隷船の映像、売買の会話、ブラックミュージックを初めて見聞きした。教科書で情報としては理解していたが、視覚、聴覚と五感を使って学ぶことでただ知っているだけでなくより深く理解し奴隷問題を具体的に想像できるようになった。そのため、最後の質問の時間では、奴隷に言葉を教えたのかとか、子供も奴隷として捉えられていたのかなど、これまでよりも細かい部分の質問内容になっていたように思う。(MN)
 2回目は奴隷船に絞った。ポルトガルやスペインが南米や中米で好き勝手できたのは、航海術が発達したからだと聞いてことがある。文明の度合いが低かったヨーロッパは西アフリカの文化のレベルの高さを知っていたし、東アフリカの帆船の制度の高さを知っていた。確証はないが、その技術を奪ったんだと思う。向かい風でも進むことが出来る東アフリカの帆船の紹介の「アフリカシリーズ」の映像と、帆船の船底(slaveship hold)でも奴隷船の船長と一等航海士の遣り取りの映像を紹介した。当時の白人の考え方や奴隷の扱いがわかる。紹介したスピリチャル→「下り行け、モーゼ」の歌詞も旧約聖書(The Old Testament)の第2章「出エジプト記」(Exodus)からである。(YT)

ゴールデン・カルテット

つれづれに

ZoomAA第1回目報告(2023年12月3日分)

アフリカからアメリカに奴隷を運んだ奴隷船

 “A short history of black Americans” in Africa and its descendantsの内容をやり、格差が仕組み的にうまれている事を学んだ。実際に先住民の方が奴隷としてどのように捕まえられているのか動画を見る事リアルに感じて参加者一同衝撃を受けていた。(MN)
 90分なので、今回は→「誰が奴隷を捕まえたのか?」に絞った。大規模な大西洋の奴隷貿易を始めたのはイギリス人の金持ち層だが、アフリカ人の金持ち層と手を組んで奴隷を集めた。実際に捕まえていたのはアフリカ人で、「ルーツ」の奴隷狩りと海岸で奴隷船の船長と奴隷狩りが相談する場面を見てもらった。金持ち層は自分の利益を得るために、奴隷貿易も利用したのである。その構図は、先進国の金持ちが第3世界の金持層ちを組んで利益を貪っている現在の構図と同じだ。公教育では、開発や援助の名の下に先進国が第3世界を助けていると教えられる。アフリカは可哀そうだから援助しなければと信じている人も多い。奴隷たちが押し付けられた教会の歌の歌詞に自分たちのリズムやビートをのせて歌い継いだスピリチャルの一つ→「深い河」を聴いてもらった。(YT)
アメリカ映画「ルーツ」の主人公クンタ・キンテ

つれづれに

つれづれに:→「水仙」(すいせん、小島けい絵のブログ)

小島けい画「水仙とぴのこ」

 昨日「冬景色」で畑の水仙の写真を載せ、久しぶりに「今年も水仙が咲き出したか」の句も添えた。もちろん、山頭火が借りた山口防府市の農家の空き家を其中庵と呼び定住し始めて少し落ち着いた頃に詠んだ「ここにも水仙の芽かよ」の模作である。すいせんは好きな花の一つでいろいろと思い出すことも多い。

 →「水仙郷襖絵」もその一つである。早くに→「諦観」を感じ「生きても30くらいやろな」と余生のつもりでその日を遣り過ごしていたから、結婚も考えたこともなかったが、生きていると、正確には死なないでいると何が起こるかわからないものである。結婚をして、子供も出来た。淡路島の黒岩水仙郷(↓)に行ったのは、結婚して次の年に生まれた娘がまだお腹の中にいる頃である。妻が産休に入ってすぐに、明石港からの連絡船で淡路島に渡ってすいせんを見に行った。宮崎にいると淡路島の自生の水仙郷の話を聞くことはまずないが、二人とも海を隔ててはいるもののそう遠くないところに住んでいたので、電車の中や駅などの水仙郷の広告を目にしていた。

 結婚した当初は朝霧駅(↓)近くのマンションに住んでいたが、出産前後は妻の父親と住んでいた→「中朝霧丘」の家で過ごしたあと、新しく出来た職員住宅に3人で入った。産後の休みの間に、入り口の真新しい襖一面に水仙郷の絵を妻が描いた。甘酸っぱい香りが漂ってくるくらいの優しい絵だった。引っ越しのときに、どうして持ち出さなかったのかが悔やまれる。二人が働いている状態で、娘がよく熱を出した。熱がなかなかさがらなかったある日「わたし、家に帰る」と言って、父親の家に3人で転がりこんだ。妻を亡くして老けかけていた妻の父親は孫と最愛の娘が転がりこんで来て、若返った。→「明石」は思っていた以上に、居心地がよかった。生まれ育ったところがひどすぎた反動もあったかも知れない。

 結婚したのは、書きたい思いが残っていたからだろう。1浪しても受験勉強ができなかったので→「夜間課程」で手を打って大学(↓)に行き始めた。その頃は(→「大学入学」)授業料や電車の定期代がかなり安かったが、→「牛乳配達」ではきつかった。何年かのちに、家庭教師を頼まれるようになって経済的にも、気持ちの上でも少し余裕が持てるようになった。(→「家庭教師1」、→「家庭教師2」、→「家庭教師3」、→「家庭教師4」

 書きたい気持ちに気づき始めたのは、夕刊に連載していた立原正秋(↓)の小説を読んだときからである。文章との相性がよかったのかも知れないが、自分と社会のことを考えるようになり、おそらく無意識の深層に少しだけ触れるようになったような気がする。その意味では、30を過ぎても生き在(ながら)えているのは、その作家のお陰かも知れない。よかったのか、わるかったの‥‥。