つれづれに

つれづれに:年の終わりに

曽山寺浜からの青島

 年の終わりに「今年も終わる」とタイトルをつけたまま書けなかった「つれづれに」が「下書き」で残ったまま、年が明けてしまった。折角「今年も終わる」のために撮った写真ものあるので、遅ればせながら本文を書いて「公開」することにした。

特に書くことがあったわけではないが、白浜に最後に行ったのが29日で、すでに年の瀬の気配を感じたので写真に撮った。年末の休みに入ったせいでもあるが道路に車も多少は多かった気がする。普段はそう多くない青島神社への参詣道に、帰りの夕方頃には人が溢れていた(↓)。人混みは苦手なので年末年始に神社にどれだけ人が行くのかを見たことはないが、その人混みを見て少しは予想出来る気がした。

 去年は前立腺癌騒動で慌ただしかったが、一応シロとわかり、数値も下がっている。3ケ月ごとの問診で今年は終わり、2月に血液検査をして経過を見るようだ。マッサージをしてもらっているときに、癌細胞は甘いものを好み、熱に弱いと聞かされ、甘いものをほとんど食べなくなった。甘いものが好きでよく食べていたが、食べなくなると食べたいと思わなくなった。相変わらず、海はきれいだった。白浜の海は穏やかだった。

 →「水仙」(すいせん)を摘んで、玄関とトイレに飾った。何とも言えない甘酸っぱい香りが漂う。そんな年の瀬だった。

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ZoomAA2b:水先案内人

 アメリカに来た最初の黒人は水先案内だった。奴隷ではなかった、とラングストン・ヒューズ(Langston Hughes, 1902-1967、↑)は→「黒人史の栄光」(↓)を書き始めている。西アフリカの金持ち層と手を組んで大規模な大西洋での奴隷貿易を始めたのはヨーロッパの金持ち層だが、その後350年も続いたので、ヨーロッパでは一般の人たちもアフリカ人を蔑むようになり、次第に白人優位・黒人蔑視の意識が浸透して、根付いて行った。

 アフリカの北部はヨーロッパから近く、古くから往来もあった。パリに行ったとき、会いに行ったソルボンヌ大の人が留学生に予め案内役を頼んでくれていたが、その留学生の女性はモロッコの人だった。如何にもパリだという屋根裏部屋(↓)のある小さなホテルを予約してくれていて、そのホテルまで送り届けてくれた。子供たちはモロッコさんと呼んでいた。パリにはアフリカからの留学生も多く、北アフリカのクスクス料理なども人気があり、日常生活の中にアフリカが入り込んでいる風だった。

 中世では西アフリカの文化レベルの高さがヨーロッパでも広く知られていたので、黒人を劣ったものと思わせるものは残っていない、とアフリカを知るイギリス人歴史家バズル・デヴィドスンは→「『アフリカシリーズ』」(↓)の冒頭で紹介している。残されている中世の壁画を見ても、黒人と白人が対等に描かれていて、ヌビア出身の聖モーリスにつかえている侍女は白人である。従って、この500年余りのアングロ・サクソン系の侵略の長さからすれば、「アフリカシリーズ」の「人種差別は比較的近代の病です」は至言である。

 コロンブスの船に乗っていた水先案内人のひとりペドロ・アロンゾ・ニーニョは黒人だったと言われている。1492年のことで、ポルトガルやスペインが南米や中米で遺跡を荒らして好き勝手していた頃である。探検家の一人エスタヴァンも黒人で、モロッコ生まれだった。モロッコにはアフリカ人とアラブ人の混血人種のムーア人が住んでいて、船乗りとして地中海を渡ったり、奴隷や人質としてヨーロッパに連れて行かれたようである。ポルトガルやスペインにはそういった黒人がたくさん住んでいて、水先案内人や通訳としてアメリカ大陸に来たのである。

 1543年には難破した中国船が種子島に漂着、同乗していたポルトガル人が助けられたお礼にと鉄砲を置いて行った。1549年にはフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸している。

 現在のヴァージニア州ジェイムズタウン入植地にオランダの軍船が来て、19人のアフリカ人を売り払った1619年が奴隷制度の元が始まった年である。メイフラワー号で清教徒がやって来る1年前のことである。そんな遥かに遠い、遠い昔の話である。(→「歴史をどう見るか」

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つれづれに:ZoomAA

 いま書いてみたいと思っている題材が二つある。一つは英語を使うためにやり始めた歴史を絡めた題材と、小説を書きたいと思った意識下の深層にかかわる題材である。

「英語で」しゃべる機会を持てるように定期的にズームで集まるようになった。経過報告や補足を書くのにタイトルが必要になったので、題材のアフリカ系アメリカ史に因んでZoomAAを選んだ。African America HistoryのAAである。

毎回の報告と補足を書こうと思っている。十数回はかかると思うが、その後は未定である。

どちらも、小説の修作に使わせてもらうつもりである。小説を書き溜めてはいるが、いつかどこかの出版社が売れると判断して新人賞に選んでくれると勝手に決めているだけである。もちろんフィクションなので、いろいろ工夫は要るが、骨子になる部分をたくさん書いておけば、原稿の依頼が来るようになったときに助けにはなるだろう。

横浜の出版社の人から言われてあれこれ書いて本も何冊か出してもらったが、元々職業作家になるつもりだったので、経済的に食べる分だけ稼げればいいという基本は変わっていない。本を出したいという気持ちはない。

どうなるかわからないし、後期高齢者になりかけているので、残された時間も限られている。やれることはやりたい。

資料にしている1冊目英文書『アフリカとその末裔たち』

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ZoomAA第2回目報告(2023年12月17日分)

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 奴隷船のことをやり、奴隷船の映像、売買の会話、ブラックミュージックを初めて見聞きした。教科書で情報としては理解していたが、視覚、聴覚と五感を使って学ぶことでただ知っているだけでなくより深く理解し奴隷問題を具体的に想像できるようになった。そのため、最後の質問の時間では、奴隷に言葉を教えたのかとか、子供も奴隷として捉えられていたのかなど、これまでよりも細かい部分の質問内容になっていたように思う。(MN)
 2回目は奴隷船に絞った。ポルトガルやスペインが南米や中米で好き勝手できたのは、航海術が発達したからだと聞いてことがある。文明の度合いが低かったヨーロッパは西アフリカの文化のレベルの高さを知っていたし、東アフリカの帆船の制度の高さを知っていた。確証はないが、その技術を奪ったんだと思う。向かい風でも進むことが出来る東アフリカの帆船の紹介の「アフリカシリーズ」の映像と、帆船の船底(slaveship hold)でも奴隷船の船長と一等航海士の遣り取りの映像を紹介した。当時の白人の考え方や奴隷の扱いがわかる。紹介したスピリチャル→「下り行け、モーゼ」の歌詞も旧約聖書(The Old Testament)の第2章「出エジプト記」(Exodus)からである。(YT)

ゴールデン・カルテット