つれづれに

つれづれに:モーゼ?

ゴールデンゲイトカルテット

 アフリカから奴隷とし連れて来られた人たちは、白人の聖歌隊(Choir)が歌う「深い河」のヨルダン川(↓、Jordan River)を大西洋(Atlantic Ocean)に準えたが、「下り行け、モーゼ」(Go Down Moses)の「モーゼ」を誰に準えたのか?

長谷川 一約束の地』ヨルダン川」から

 ヒューズは「黒人史の栄光」(↓)で、多くの逃亡奴隷が北部で奴隷制廃止論者と闘っていたことを紹介したあと「そして奴隷を自由へ導こうとするモーゼのような人が現われた。(And there came a kind of Moses intending to lead the slaves to freedom.)」と書いて、続けている。

「ジョン・ブラウン(↓)は雷と地震をもたらした。(John Brown brought the thunder and the earthquake. )」

白人黒人を含む総勢僅かに23人で、バージニア州ハーパーズフェリーの連邦政府の兵器庫を襲い、武器を奴隷たちに与えた。ジョン・ブラウンの功績をヒューズは「ジョン・ブラウンの蜂起は奴隷を自由にするという点では失敗だった。しかし、奴隷帝国を根底から揺さぶった。奴隷に勇気を与え、奴隷主に恐怖を植え付けた。(John Brown’s uprising was a failure in so far as freeing the slaves then went. But it shook the empire of slavery to its foundations. It startled the world. It aroused the conscience of the nation. It gave courage to the bondsmen and struck terror into their masters. 」と書き、歌を紹介している。

ジョン・ブラウンは奴隷が自由になるようにと望んで死んだ。 / ジョン・ブラウンは奴隷が自由になるようにと望んで死んだ。 / ジョン・ブラウンは奴隷が自由になるようにと望んで死んだ。 / しかし魂は行進し続けている。 / 栄光よ、栄光よ、ハレルヤ! / 栄光よ、栄光よ、ハレルヤ! / 栄光よ、栄光よ、ハレルヤ! / ジョン・ブラウンの魂は行進し続けている。

JOHN BROWN’S BODY

John Brown died that the slaves might be free. / John Brown died that the slaves might be free.  / John Brown died that the slaves might be free,  / But his soul goes marching on.  / Glory, glory, halleluiah!  / Glory, glory, halleluiah!  / Glory, glory, halleluiah!  / His soul goes marching on!

歌は白人女性で詩人・社会運動家のJulia Ward Howe(1819-1910)が作詞し、The Battle Hymn of the Republic(1861)はJohn Brown’s Bodyとともに南北戦争中に軍歌としても流行歌としても歌われた。日本の「権兵衛さんの赤ちゃんが風邪ひいた」のメロディーになっている。

白人が主導して奴隷が武装蜂起したという衝撃は大きく、2年経たないうちに南北戦争が始まった。「シカゴ」のミシガン通り(↓)で聞いた「共和国の戦いの賛歌」は教会だけでなく、南北戦争の戦場でも歌われたのである。ヒューズは第一部をこの曲で締め括っている。

共和国の戦いの賛歌

私はこの目で神さまが神々しく到来される姿を目の当たりにした。 / 神さまは怒りの葡萄(ぶどう)が蓄えられている酒蔵からどしんどしんと歩いて来られる。 / 神さまは目にも止まらぬ速さで剣をお抜きになって運命的な稲妻をお放ちになった。 / 神さまの真実は行進し続ける。 / 栄光よ、栄光よ、ハレルヤ・・・ /

BATTLE HYMN OF THE REPUBLIC

Mine eyes have seen the glory of the coming of the Lord.  / He is trampling out the vintage where the grapes of wrath are stored.  / He has loosed the fateful lightning of his terrible swift sword.  / His truth is marchin’ on.  / Glory, glory, halleluiah . . .

授業では「下り行け、モーゼ」はゴールデンゲイトカルテットの曲で、「ジョン・ブラウンの屍」はポール・ロブソンの曲を聴いてもらった。ロブソンの声量豊かな低音はもちろん、最後に軽快に流れる行進曲のピッコロの音色が広い講義室に響き渡った。

つれづれに

つれづれに:深い河?

長谷川 一約束の地』ヨルダン川」から

 アフリカから無理やり奴隷として北アメリカに連れて来られた人たちは英語もキリスト教も強要されて、自分たちのアフリカの言葉を奪われた。もちろん抵抗する人もいたが、そのうち日曜日には教会に行くようになった。教会では白人の聖歌隊(Choir)が歌う讃美歌(Hymn)などの教会音楽を聴かされた。「深い河」もその一つで、歌詞は旧約聖書「出エジプト記」から来ている。

深い河 故郷はヨルダン川(↑)の向こう岸/ 深い河 主よ / 河を渡り 集いの地へ行かん Deep river, my home is over Jordan, / Deep river, Lord, / I want to cross over into campground. / 福音の恵みを求めて / すべてが平穏な約束の地へ / 深い河 主よ / 河を渡り 集いの地へ行かん Oh don’t you want to go to that gospel feast, / That promis’d land where all is peace? / Oh deep river, Lord, / I want to cross over into campground.

ポール・ロブソン

 モーゼが神から使命を受け、エジプト(↓)のヘブライ人を連れ出し、辿り着いた約束の土地カナンの東の境界がヨルダン川だったわけである。故郷に戻りたいと願うヘブライ人にとっては、ヨルダン川は故郷に戻る前の障壁だった。

 白人のスピリチャル「深い河」を聴いたとき、奴隷たちはエジプトに捕らわれたヘブライ人たちの境遇を自分たちの今に準えた。故郷のアフリカ大陸に戻りたいが、その間には深くて広大な大西洋がある。奴隷にはそれが「深い河」、歌詞のヨルダン川(Jordan River)で、アフリカ大陸と北アメリカの間にある大西洋(↓、Atlantic Ocean)だった。

 奴隷たちにとって「深い河」の意味は時代とともに変わってゆく。南北戦争のころは、奴隷州と自由州の間に流れるオハイオ川(↓)が「深い河」だった。有名なストウ(Harriet E.B. Stowe, 1811-1896)の『アンクル・トムの小屋』の中に出て来る川で、奴隷売買の話を立ち聞きした若い母親イライザが逃亡中に息子抱いて裸足で流氷の上を渡ったオハイオ川である。奴隷州であったが北部との結びつきが強く、中立策をとったケンタッキーと、自由州のオハイオの間を流れていた。北極星を見ながら北部に逃亡するとき、オハイオ川が「深い河」だった。その後、アメリカとカナダの境の5大湖が「深い河」になった時期もあるようである。

 南北戦争が起きたのは、それまで独占していた富を巡って国が真っ二つに分かれて利害が対立したからである。いわゆる市民戦争 Civil War で、この時期の戦争は南部と北部が戦ったので南北戦争と言われる。南部は大農園主が富を独占し、議会制民主主義を利用して民主党を作り、代弁者を首都ワシントンに送って16代まで大統領を独占していたが、奴隷貿易の蓄積資本で産業革命を起こしてから事態は変化して行った。産業化に成功した産業資本家が北部で台頭し、共和党を作って民主党と拮抗するようになっていた。1860年の総選挙でリンカーン(↓)が大統領になって、南部は奴隷制を守るために南部諸州連合を作って合衆国を離脱し、南北戦争となった。産業資本家には労働力が必要で、南部にいる奴隷は魅力的だった、奴隷制を廃止すれば北部に奴隷が労働力として流れる。そのためには奴隷制を廃止する必要があった。南部の寡頭勢力は基盤の奴隷制を廃止するわけにはいかない。それが原因だが、銃で殺し合いをして片方が殲滅するまで戦えば、お互いに被害が大き過ぎる。形だけ奴隷を解放して、戦争を止めるしかない。それだけ双方に力の差がなかったということになる。従って、奴隷解放宣言は形式的なもの、奴隷には土地もなく、食べるものもなく、仕事もなく、結局奴隷から名前が小作人(share-croppers)に変わっただけだった。現物支給の低賃金、他に道はなかったのである。北部に行こうにも、体制側の番犬として雇われた貧乏白人の警ら係やKKK(奴隷狩りや奴隷監督や奴隷調教人をしていたような人たち)に阻まれて、実際には移動も叶わなかった。

北部の連邦諸州(自由州)はメイン、ニューハンプシャー、ヴァーモント、マサチューセッツ、ロードアイランド、コネティカット、ニューヨーク、ニュージャージー、ペンシルヴェニア、オハイオ、ミシガン、インディアナ、イリノイ、ウィスコンシン、アイオワ、ミネソタ、カンサス、オレゴン、カリフォルニアの19州である。1980年代に6度渡米したが、私が行ったのはニューヨーク、ニュージャージー、オハイオ、イリノイ、カリフォルニアの6州だけである。

奴隷州ではあったが北部との結びつきが強く、中立策をとった境界州はデラウェア、メリーランド、ケンタッキー、ミズーリ、ウェストヴァージニア(1861年にヴァージニアから分離、63年に州昇格)の5州である。

南部のアメリカ連合国加盟(奴隷州)はヴァージニア、ノースカロライナ、テネシー、アーカンソー、サウスカロライナ、ジョージア、フロリダ、アラバマ、ミシシッピー、ルイジアナ、テキサスの11州で、通常、ルイジアナ、ミシシッピ、アラバマ、ジョージア、サウスカロライナの5州は「深南部」(Deep South)と言われる。私はテネシー、ミシシッピー、ルイジアナに少し行っただけである。わずかに9州しか行っていない。アメリカはとても広い。

1864年アメリカ地図

 国内でも行っていない県は多い。北半分はほどんど行っていない。行ったからどうと言うことはないが、さまざまな人が暮らしているわけである。生きても30くらいやろと早々に諦めなければ、行ってみたいという好奇心に動かされて、多くの人がやっているように大きな学会を利用して公費で全国を回っていたかも知れない。あとからなら何とでも言える。

十年余り暮らした明石はほぼ日本の真ん中、明石城を軸にした城下町だった

つれづれに

つれづれに:ジェリコの戦い

長谷川 一約束の地』ヨルダン川」から

 故郷に戻りたい、間にヨルダン川(↑)が流れていて渡れそうもないが、誰か奴隷の状態から救ってくれる人が現れてくれないか、その願いが「下り行け、モーゼ」(Go Down Moses)、ヨルダン川が「深い河」(Deep River)の歌になった。旧約聖書(The Old Testament)の2章「出エジプト記」(Exodus)の話である。

ポール・ロブソン

 モーゼがヘブライ人たちをエジプトから連れ出したあと、約束の地カナンにジョシュアも含め何人かを偵察に出した。戻って来た人たちはカナン攻略は無理だと反対したが、ジョシュアは神の導きに従って行くべきだと言った。モーゼから約束の地への許可を得て、モーゼの死後ジョシュアは意志を継いで民を率いてヨルダン川を目指した。激流に行く手を阻まれたが、神の奇跡が起きて川は干上がり、一行は川を渡りきった。ジェリコの街では壁に阻まれるが、司祭の角笛の先導でジェリコの街を6日間周回して城壁を打ち崩し、ジェリコ攻略を果たした、というのが「ジェリコの戦い」(Joshua fit the battle of Jericho)という歌になった背景らしい。モーゼたちが約束の地に辿り着くのに40年かかったらしいが、どこかに駐留していたということか。

ジョシュアはジェリコのいくさを戦った ジェリコ、ジェリコ / ジョシュアはジェリコのいくさを戦った / そして、砦の壁は崩れ落ちた

Joshua fit the battle of Jericho / Jericho Jericho; /Joshua fit the battle of Jericho / And the walls came tumbling down.

ギデオンのような強者の話をしてもいい / サウルのような戦士の話をしてもいい / しかし、ジェリコの戦いでの / あの雄々しいジョシュアに敵うものは誰もいない

You may talk about your kings of Gideon, / You may talk about your men of Saul / But there’s none like good old Joshua / At the battle of Jericho.

ジェリコの砦に向って / ジョシュアは槍を手に行進した / 「さあ、雄羊の角笛を吹き鳴らせ」、とジョシュアは叫んだ / 「戦いの行方は私の手の中にある」

Up to de walls ob Jericho; / He march’d wid spear in han’ / "Go blow dem rams" horns, ÅhJoshua cried, / "Kase de battle am in my han’."

雄羊の角笛が鳴り始め / 笛が響き始めると / ジョシュアは子供たちに叫ぶように命令した / そして、あの朝 / ジェリコの壁は崩れ落ちた

Den de lam’ram sheep horns begin to blow, / de trumpets begin to soun’, / Joshua commanded de chil’en to shout, / An’ de walls come tumblin down. / Dat mornin’

「ジェリコの戦い」は合唱曲としても歌われていて、ウェブには合唱コンクールの動画がたくさん置かれている。小学生が歌う映像もある。ジャズのスタンダードナンバーとしても定着しているらしい。

教室では「下り行け、モーゼ」と同じく、ゴールデンゲイトカルテット(↓、Golden Gate Quartet)の曲を聴いてもらった。やはり軽快である。最初の何年かは、学年全体が入れる大きな教室で、台車に載せたテレビといっしょに持って行っていたカセットテープレコーダーの出力を大きくして聴いてもらっていたので、低い音も教室に響いていた。「ジェリコの壁は崩れ落ちた」(de walls come tumblin down)を繰り返すところでは、如何にも壁が崩れ落ちる感じさえした。

この「ジェリコの戦い」も「深い河」もヒューズの「黒人史の栄光」には入っておらず、紹介されているのは「下り行け、モーゼ」だけである。しかし、スピリチャルやゴスペルなどのブラックミュージックを紹介するうえで、どうしても聴いてもらいたかった3曲だったので、解説も交えながら3曲を続けて聴いてもらった。

旧宮崎大学の教育学部はエバーグリーン大学と交換留学制度をやっていて、ある年、非常勤の英語の授業で知り合った工学部の学生がその大学のジョシュアという学生を紹介してくれた。授業で「ジェリコの戦い」を聞いてもらっていたので、その学生とあったとき、最初に"Did you fight the battle of Jericho?" と聞いたら、「古いこと知ってますね」と言われた。それから二人はその年、よく医大の研究室まで遊びに来た。工学部の学生は京大の文学部を受けたが不合格で「4月に入ってから入れる大学はないかと文部省に電話したら、宮城と宮崎を言われて、宮崎に来ました」と話していたが、翌年特別に準備もしないでまたセンター試験を受けた。東京外大のモンゴル語学科に入学して、東京に戻って行った。ジョシュアくんは帰国して大学に戻ったと聞いた。

医学科で授業を始めた時はまだ自分のテキストがなかったので、非常勤の頃にやっていたアフリカ系アメリカの歴史や音楽の内容が多かったが、徐々にアフリカ全般、南アフリカやコンゴやケニア、エボラ出血熱やエイズなどの医療問題も絡んでくるようになった。その流れの出だしが、スピリチャルやゴスペルなどのブラックミュージックだったかも知れない。

つれづれに

つれづれに:畑再開

 街に行ってたので、更新するのが夕方の6時を過ぎている。平和台の餃子屋さんと街中のお茶屋さんに2か月に一度くらい通っている。どちらも顔馴染になっている。20キロ強の距離だから、この前行った南の方の内海と同じくらいの距離だろう。今しばらくは行けそうだが、先はわからない。コロナがこれほど続くと誰が思ったか。

これくらいの気温になると、やっと畑に出る気持ちになって来る。少し前に、畑を再開した。生い茂った草を取り除いて、何とか大根を蒔いた。去年の枯れた鞘(↓)を枝に付いたまま残していたので、鞘から種を採って撒いた。少々小粒だが、すでに芽(↓)が出て大きくなっている。気温が高いので、芽が出るのが早い。元々寒冷野菜なので、冬なら芽が出るのに少し時間がかかる。三か月ほどで出来るので、周期は早い。

 ただ、温かくなってくると、薹が立って硬くて食べにくくなり、花も咲いてしまう。それに、出来るときは一斉なので、二人ではそんなに食べきれない。だから昔の人は、保存用に干し大根(↓)や切り干し大根にしたんだろう。農家の知恵である。それがこの辺りの名産にもなっている。自転車で空港辺りや清武の町に出かけるときによく見かける。清武川の河川敷でも作業が行われている。霧島降ろしが吹く頃が風も乾わいていいらしい。

 干すと小さくなるので、量が要る。だから人工的に作られた化成肥料が大量にまかれる。なかり太くなる。医科大の周りでは切り干し用の大根が作られているので、この時期になると白い肥料の粒を撒く人をよく見かけた。台風の時期に種を蒔くと、芽が出た頃に雨風に叩かれてやられてします。台風が多い年に3回も種を蒔く作業を強いられた人が頭を抱えて立ち尽くしているのを見かけたことがある。今年は大きいのが来て、山間部にかなり被害が出たが、最近はまともに来ていないので助かっている。台風が来てもいいことは一つもない。以前神戸から宮崎まで来てくれた人を生産者市に連れて行ったら、切り干し大根(↓)を買っていた。ほとんど化成肥料ですけどね、と言っても、構わず買っていた。

 少し気温が下がったとはいえ、10月のこの時期はこのままだとまだ虫にやられてしまう。いろいろ試してみた末に、今は10倍ほどに希釈した酢を撒いている。雨が降ると流れるので、根気よく撒き続ける必要がある。11月に入ってさらに気温が下がると、ある時期から酢を撒く心配をしなくて済むようになる。冬野菜全盛である。

台風のあと、大根が急騰していたが、大根そのものが生産者市にもなくなっている。もちろん値段を出せば手に入るが、400円ほどもする。普段は百円前後、一番出回る時期は50円前後になる。量販店に北海道産の百円台の大根が常時置いてあるので、それを東京の息子夫婦に送ろうと思って買いに行ったが、なかった。工夫して、この時期大根を作りたい気もするが、暑さと蚊には勝てないだろう。夏に種を蒔いてみたら芽が出たので、工夫の余地はある。やはり問題は暑さと蚊である。

去年の大根

 柿も例年に比べて動きが少し怪しい。色付いて剥いても熟れ過ぎてぐちゃぐちゃになるか、辛うじて枝を残して吊るしても重さに耐えかねて落ちてしまう。今までこういうことはなかったので、暑すぎた影響かも知れない。20~30個ほど落ちてしまったが、まだ400個近くはあるので大丈夫だろう。1週間前に2個干した分が落ちないでぶら下がっている。一昨日あらたに3個干した分は2個が落ちてしまった。昨日は9個干したが2個が落ちてしまった。残っているのは10個である。

 二日前には雨が降ったので、少し雨に濡れた。朝に急いで部屋に入れて、ドライヤーで乾かした。そのままだと、雑菌にやられるのか真っ黒になってします。寒い地域では雨の降らない寒風に乾せるので、いいのが出来る。この辺りは暑い上に、湿気も高く、雨も降る。雨のたびに柿を出し入れするのも手間である。最近は、重さも応える。発酵食品などもそうだが、手間と暇がかかる。何とか出来上がりそうだが‥‥。落ちても、心配はいらない。まだ400個、充分にたくさんである。手に余る。