つれづれに

つれづれに:深い河

 1998年の4月に宮崎医科大(↑)に来て、医学科生の英語の授業が始まった。「英語科」「同僚」が赴任の年の秋から在外研究にでかけたので、一年目と二年目は1・2年生の授業を持った。二年目の1年生の授業でも、非常勤で行った「大阪工大」「LL教室」の補助員に作ってもらったカセットテープでポール・ロブソン(↓、Paul Robeson, 1898-1976)の「深い河」を聴いてもらった。LPからカセットテープにデータを移してもらったので、出だしは金属針をLP盤に置く時のトンという音と、曲が始まるまで針と盤が擦れるジャーッという音が入っている。歌を聴いたあと、「誰か歌わへんか?100点つけるで」と誘ってみたら、東側の窓際の中ほどに座っていた学生が突然立ち上がり、朗々と「深い河」(Deep River)を歌い始めた。学科試験で入った28歳の既卒組で、恰幅もよく、声もよかった。「教室で学生が歌ってくれる歌を聞けると‥‥」、そんな豊かな気持ちになった。あとで、グリークラブのメンバーで、「深い河」は定番の曲で、その年も歌ったと聞いた。もちろん100点をつけた。次の年から、入試制度が大きく変わり、小論文重視の入学試験になった。

 奴隷として炎天下で重労働を強いられる農園では、ワーク・ソング(Work Song)を歌いながら農作業を続け、小屋やその周りではみんなで集まって踊りながら歌っていたようだ。アレックス・ヘイリーの小説『ルーツ』(↑)を元にして作られたテレビ映画は「ルーツ」の中に、バイオリンの上手な老人の弾く曲に合わせてみんなが踊る場面がよく登場する。老人は主人公クンタ・キンテの教育係のフィドラーである。逃亡を試みる主人公クンタ・キンテの監視役を命じられていた。有名なルイス・ゴセット(Louis Gossett, Jr.)がクンタの良き理解者役を好演している。バイオリン(俗語でfiddle)がうまいのでフィドラー(fiddler)と呼ばれて、みなから慕われている。奴隷たちはそのうち教会に行くようになり、白人の聖歌隊(Choir)が歌う讃美歌(Hymn)、聖歌(Psalm)、ゴスペル(Gospel)、スピリチャル(Spiritual)などの教会音楽を聴くようになった。「深い河」もスピリチャルの一つで、歌詞は旧約聖書(The Old Testament)の2章「出エジプト記」(Exodus)から来ている。

深い河 故郷はヨルダン川の向こう岸/ 深い河 主よ / 河を渡り 集いの地へ行かん

Deep river, my home is over Jordan, / Deep river, Lord, / I want to cross over into campground.

福音の恵みを求めて / すべてが平穏な約束の地へ /
深い河 主よ / 河を渡り 集いの地へ行かん

Oh don’t you want to go to that gospel feast, / That promis’d land where all is peace? / Oh deep river, Lord, / I want to cross over into campground.

エジプトのヘブライ人家族に生まれたモーゼが、神から使命を受け、エジプトで奴隷にされていたヘブライ人をエジプトから連れ出す話である。モーゼたちは40年かけて、神が与えると約束してくれた土地に達したとされている。その東の境界がヨルダン川らしい。「下り行け、モーゼ」(Go Down Moses)と「ジェリコの戦い」(Joshua fit the battle of Jericho)をいっしょに考えると流れがよくわかる。

私は宗教に詳しくないので人の知識の切り売りである。聖書は英文をどこかで手に入れ、本に引用されている日本語の文章に出会うと、英語で確認する程度だ。もちろん最初の「創世記」(Genesis)は読んではみたが。神が天地を創造する前はvoidだと言われても「その前はどんなんやったんやろ?」という疑問は消えないし、有ると無いのほかに「ないかも知れないしあるかも知れないし」というのもあるんやないかと思う私は、有無の二元論でものを考えるようにはできていない。

ヨルダン川(↓、Jordan River)は、新約聖書では洗礼者ヨハネがキリストに洗礼を授けた神聖な川と記述されているらしい。イスラエル、レバノン、シリアの国境が接するゴラン高原やアンチレバノン山脈周辺を水源として北から南へ流れて死海へ注ぐ総延長425kmの川らしい。この写真では「深い河」には見えないが。

長谷川 一約束の地』ヨルダン川」から

 教室でロブソンの曲を聴いたあと「誰か歌わへんか?」と聞いたとき「Deep river, my home is over Jordan, / Deep river, Lord, / I want to cross over into campground. / Oh don’t you want to go to that gospel feast, / That promis’d land where all is peace? / Oh deep river, Lord, / I want to cross over into campground.」と、学生は立って歌ってくれたわけである。

ロブソンが1940年に “Deep River / All Through The Night" のアルバムを出してから、「深い河」はよく知られるようになったそうである。今はウェブで曲を簡単に入手できる。ポール・ロブソンとマヘリア・ジャクソン(↓)のCDは人の助けを借りたり、アメリカに行ったときに買ったりして、だいぶ集めた。在外研究でテネシーに行った同僚が「ポール・ロブソンのマニアがいましたよ」とお土産に何枚かCDをくれた。1988年か89年くらいの話である。今はそんなマニアは、そう多くないだろう。

つれづれに

つれづれに:ブラックミュージック

 ブラック・ミュージックが奴隷にされた人たちが残し、後の世代の人たちが歌い継いだ特別な音楽だと気づいたのも、英語の授業の時だった。書くために大学の職を求めて職歴5年の資格で「教職大学院」で修士号を取ったものの、博士課程(→「大学院入試3」)に門前払いを食らい、先輩の助けを借りて大学で非常勤講師(→「大阪工大非常勤」)をしながら、業績を拵えて、待った。その非常勤の英語の時間に、「黒人史の栄光」(↑、“The Glory of Negro History,” 1964)をテキストに使い、音声や映像や雑誌や新聞の記事を使いながら授業をやった。テキストの中に歌も紹介されていたので、黒人研究の会の人からどっさりとLPレコードを借りて、「LL教室」の補助員にカセットテープを作ってもらった。ヒューズが朗読した「黒人史の栄光」のテープも含めて、たくさんの音楽のテープを作ってもらった。

 初めて聴く曲が多かった。低い声のポール・ロブソン(↑、Paull Robeson, 1898-1976)のLPも何枚かあった。弁護士になるか、フットボールの選手になるか、俳優・歌手になるかを迷ったそうだ。2メートル近くの巨漢の低音は、響く。教室では「ディープ・リバー」(Deep River)と「ジョンブラウンの亡骸」(John Brown’s Body)を聴いてもらった。

マヘリア・ジャクソン(↓、Mahalia Jackson, 1911-1972、小島けい画)のLPも何枚かあった。教室では「勝利を我等に」(We Shall Overcome)を聴いてもらった。ゴスペルの女王と呼ばれるだけあって、声量は抜群である。

 ゴールデンゲイトカルテット(↓、Golden Gate Quartet)のLPもあった。ゴスペルは元々白人の教会で歌われていたので、もちろん白人ゴスペルもあるが、白人ゴスペルの歌詞に自分たちのリズムやビートを乗せた黒人ゴスペルもある。研究室に来てくれた既卒組は学生時代にアメリカに留学して白人がホストファミリーだったらしいが、白人のゴスペルをよく聴いていたそうである。毎年ゴスペル界で活躍した人に与えられる賞(Gospel Award)の対象者は、白人黒人の両方である。黒人ゴスペルは伝統的な(traditional)のと現代的な(Contemporary)のがある。現代的なのはかなり編曲されて、歌の幅も広い。ゴールデンゲイトカルテットは伝統的ゴスペルで、4人のコーラス・グループである。 1935年に結成され、メンバーはたびたび入替っているそうで、1959年には日本にも来たらしい。最初聴いたとき、黒人が歌っている感じがしなかった。軽快な曲が多い。

 最初は歌を聴いてもらうだけだったが、そのうち映像も溜まって行き、観て聴いてもらうようになっていった。それと可能な限り、関連の雑誌や新聞の記事や、本からの抜粋なども印刷して配るようになった。解説も書いた。最初は農園で働かされているときにワーク・ソング(Work Song)を歌い、小屋やその近辺でいっしょに踊りながら歌っていたようだが、そのうちキリスト教もあてがわれて教会に行くようになった。そこで聞かされたのは聖歌隊(Choir)が歌う白人の讃美歌(Hymn)、聖歌(Psalm)、ゴスペル(Gospel)、スピリチャル(Spiritual)などの教会音楽だった。「シカゴ」のミシガン通り(↓)の橋の袂で白人青年がトランペットで拭いていた「共和国の戦いの賛歌」(The Battle Hymn of the Republic)も、日曜日に教会で歌われている讃美歌だった。その歌詞は聖書(The Bible, The Testament)、特に旧約聖書(The Old Testament)からが多かった。

つれづれに

つれづれに:慈しむ心

(「黒人史の栄光」の編註者に送られた写真)

ヒューズは詩人で、芸術が心で昇華されて表出されたものだと理解している。それを思わせるのが、ダンバー(↓、Paul Laurence Dunbar, 1872–1906)の詩 “Little Brown Baby” である。

わが子と戯れる父親について詠まれた短かい詩である。

輝く瞳の愛しいわが子よ / こっちに来て、パパのお膝にお座り / 閣下、何をしておられたのでありますか?お砂のパイでもお作りでしたか? / 涎掛けを見てごらん、パパと同じくらい汚れているね / お口を見てごらん、きっと、糖蜜だろうね / マリア、こっちに来て、この子の手を拭いてやってくれないか / 蜜蜂が来て、この子を食べちゃいそうだから / ねばねばして、甘いからね!

そのあと父親は、一日じゅうも笑みも絶やさない可愛いわが子を見つめながら、突然からかい始める。「パパはお前なんか知らない、きっといたずらっ子だと思うよ」「戸口からこの子を砂場に投げちゃおう」「この辺りに、いたずらっこなんて要らないから」「この子をお化けにやっちゃおう」「お化けよ、お化け、戸口から入っておいで」「ここに悪い子がいるから、食べてもいいよ」「父さんも母さんも、もうこんな子は要らないから」「頭から爪先まで飲み込んじゃって下さい」そう脅された子供は、ぎゅっと父親にしがみつく。そして、最終連。

ほらほら、やっぱり、ぎゅっとしがみついて来ると思ったよ。/ お化よ、もう帰っておくれ、もうこの子はあげないないから。 /もちろん、迷子でもないし、いたずらっ子でもないよ。 / 父さんを許してくれるいい子で、遊び相手で、喜び。 /さあ、ベッドに行って、お休み。 / お前が、いつも平穏無事で、こうして素敵なままでいられたらどんなにいいだろうね。 / お前がこのまま私の胸の中で、子供のままでいられたらどんなにいいだろうね。 /輝く瞳の愛しいわが子よ!

アフリカ系アメリカ人の言葉「黒人英語」で書かれたこの詩は、難しい。仕事帰りと思われる父親が小さなわが子と戯れる様子は微笑ましいが、最後の仮定法の二行に来ると、ほろっとしてしまう。「仮定過去」は「現在事実の反対の仮定」を意味するので、「お前が、いつも平穏無事で、こうして素敵なままでいられたらどんなにいいだろうね。 / お前がこのまま私の胸の中で、子供のままでいられたらどんなにいいだろうね。」は実際には叶わない現実である。

ダンバーは早くから詩を書いて白人の編集者に認められて国際的に有名になったそうだが、33歳の若さで亡くなっている。ダンバーの生きた頃は、アフリカ系アメリカ人には厳しい時代だった。奴隷貿易で富を得た南部荘園主と、奴隷貿易で蓄積した資本で産業革命を起こしてのし上がった北部産業資本家が、奴隷制をめぐって南北戦争で殺し合ったが、経済力の拮抗する対立の最終決着はつかなかった。法的な奴隷制廃止を妥協点に、戦争を終わらせた。結果、アフリカ系アメリカ人は奴隷から小作人に名前が変わっただけ、苦しい生活は変わらなかった。それでも、1890年代から1920年代にかけて多くの元奴隷が自由を夢見て南部から北部へ流れた。しかし、北部も南部にまして厳しかった。土地制限条約でシカゴならサウスサイド、ニューヨークならハーレムにしか住めなかった。白人のぼろアパートに高い家賃を払わされて住むしかなく、スラム化した街はますますひどくなる一方で、安価な単純労働しか求められないアフリカ系アメリカ人にはことのほか厳しい現実だった。その父親の言葉だと思えば、切ない。ライトはその当時の北部シカゴの様子を『1200万の黒人の声』(↓、1941)の中で書いてる。たくさんの写真と詩のような文章が印象的である。

merlassesは砂糖黍の絞り滓、口のまわりをべとべとにして汚くしているのは、長くて汚い仕事から戻って来た俺といっしょ。今は俺の胸の中で何とか平穏にいてもらえるが、大きくなって仕事があっても安い辛い仕事ばかり、カラーラインを越えようものなら、白人のリンチが待っている。このまま、俺の胸の中にいてくれたらなあ‥‥という父親は願う。しかし、父親の願いは叶わない。ささやかな願いも、現実の前には虚しい。二つの仮定法は「反実仮想」、願っても現実は実際には違うという父親の諦めの表現である。家族を守るべき父親も、愛しいわが子を前に、無力感を味わうしかない。現実が厳しすぎたのである。人種差別反対を声高に唱えるより、無力な父親の心情をほろりと伝えるこの詩の方が、読む人の心にぐさっと刺さる。その詩が「黒人史の栄光」の1890年代から1920年代辺りの想定で収められている。詩は本来自己充足的なものだが、その場所にあるとその詩は輝きを増す。ヒューズの人を慈しむ心が溢れている、詩からもそんなメッセージが伝わってくる気がする。

キチンネットと呼ばれた元白人用のアパートのトイレ(『1200万の黒人の声』)

アメリカ文学会の人が詩の題 Little brown baby wif spa’klin’ eyes に「きんきら目玉の小さな褐色の赤ちゃん」と日本語訳をつけていたが、せめて「輝く目をした愛しいわが子よ」と日本語訳をつけないと、ヒューズやダンバーさんに申し訳がない。蛇足:英文

Little brown baby wif spa’klin’ eyes, / Come to you’ pappy an’ set on his knee. / What you been doin’, suh – makin’ san’ pies? / Look at dat bib – you’s ez du’ty ez me. / Look at dat mouth – dat’s merlasses, I bet; / Come hyeah, / Maria, an’ wipe off his han’s. / Bees gwine to ketch you an’ eat you up yit, / Bein’ so sticky an’ sweet goodness lan’s!

Dah, now, I t’ought dat you’d hub me up close. / Go back, ol’ buggah, you sha’n’t have dis boy. / He ain’t no tramp, ner no straggler, of co’se; / He’s pappy’s pa’dner an’ playmate an’ joy. / Come to you’ pallet now – go to yo’ res’; / Wisht you could allus know ease an’ cleah skies; / Wisht you could stay jes’ a chile on my breas’ / Little brown baby wif spa’klin’ eyes!

つれづれに

つれづれに:寛容

 昨日2個(↑)だけ柿を干した。辛うじて、落ちないで陽にあたっている。今の時期に色付いている実は柔らかすぎてうまく剥けないし、残して紐を結び付ける枝の付け根がはがれてしまうので、干しても落ちてしまう。色付いてすでに20個ほど落ちてしまったが、それでも樹にはまだ400個くらいはありそうである。

 「黒人史の栄光」(1964)を大学の購読の時間に読み、後に5年間、非常勤講師で行った大学の英語の授業でテキストとして使ったので、本文を何度も読み、ヒューズ(↑)の朗読も何度も何度も聞いた。最後の年は16コマも引き受けていたので、相当な数の授業で使っていたわけである。文章のどこでどの詩を引用し、どこでどの歌が流れていたかをほぼ覚えている。音感欠損症の私の耳にも、どの歌も響いていたと思う。今はウェブでレコード(↓)を元に作られたCDか音声データを購入できるので、確認してみたい。以下が分けて売られている音声データの一覧である。

Track Listing / Smithsonian Folkways Record
Part I – The Struggle: 1 Negroes with the Spanish Explorers / 2 African Chant / 3 Phyllis Wheatley / 4 Oh Freedom / 5 Sojourner Truth / 6 Steal Away / 7 Harriet Tubman / 8 Swing Low, Sweet Chariot / 9 Harriet Tubman, pt. 2 /10  Old Riley /  11 Frederick Douglass / 12 Go Down Moses / 13 John Brown / 14 John Brown’s Body / 15 Battle Hymn of the Republic / 16 Abraham Lincoln
Part II- The Glory / 1 Walt Whitman / 2 Reconstruction / 3 Trouble in Mind / 4 Booker T. Washington / 5 George Washington Carver / 6 Dallas Rag /  7 Little Brown Baby / 8 I’m Not Rough / 9 World War I / 10 If We Must Die Claude McKay /11 NAACP Founding and Activities / 12 Organ Grinder’s Swing / 13 Ralph Bunche(歌が15、誌が4、演説などが11)

 レコード会社が交渉したと思うが、I’m Not Roughのアームストロング(↓、Louis Armstrong、1901/8- 1971/7)とOrgan Grinder’s Swingのフィッツジェラルド(Ella Fitzgerald、1917/4-1996/6)は超大物である。レコーディングの時は生きていたので、直接交渉したということだろう。Little Brown Babyのダンバー(Paul Laurence Dunbar、1872–1906)もIf We Must Dieのマッケィ(Claude McKay、1890–1948)も有名な詩人で、どちらも本人と思しき人が詠んでいる。当時すでに死んでいたので、朗読が残っていたということだろうか。Dallas RagはDallas String Bandが演奏しているようだ。「黒人系のブルースと白人系のストリングバンドを融合したアフリカ系アメリカ人のメンバーによるラグタイムをベースに置いた稀有なストリングバンドで、人種の壁を超えるべく偉大な貢献をしたと言われている。」

 歌に関しては詩人の感性が感じられる選曲である。流れの中でそれ相当の人物を紹介しているのもわかる。しかし、フレデリック・ダグラスやブーカー・T・ワシントンや「全国黒人地位向上協会」(NAACP)を前面に掲げられて、自由を勝ち取った、黒人史の栄光だと結ばれると、腰が引けてしまう。体制に抗議し体を張って抵抗して、白人優位・黒人蔑視の意識変革を訴え続けた反体制の人たちに共感する身としては、である。

 アレックス・ヘイリーの小説『ルーツ』(↑)を元にして作られたテレビ映画は「ルーツ」を授業で使わせてもらった。直に心に響く強烈な場面も多い。その中に、主人公の少年クンタ・キンテ(↓)が売り飛ばされた農園から逃亡して隣の農園に淡い恋心を抱いている少女に会いに行く場面がある。奴隷小屋で一夜をともにしたあと、いっしょに逃げようと誘ったがきっぱりと断られた。白人主人の慰みものになっても「寒さに震えるよりは暖かいところにいたいのよ」と言われた。すぐあと奴隷狩りに捕まえられて足首を切断されて、九死に一生を得、親身に看護してくれた女性と結婚した。一人娘は白人主人の慰みものになって息子を産んだ。

 Frederick Douglassの奴隷体験記とBooker T. Washingtonの『奴隷より身を起こして』(Up from Slavery)を読んだ。少しだけしか読めなかった。文章が読むに堪えなかったからだが、文章がその後の生き方のぬるさを象徴しているように思えたからるある。芸術作品は自己充足的である。言いたいことをそのまま言っても芸術にはならない。マイクを持ってがなっていた全共闘の「我々は‥‥」と同じである。小説や物語として出版する限り、昇華されたものでないと、というのがその理由である。

「黒人史の栄光」の編註者に送られた写真)

 ヒューズは、白人主人の慰みものになっても「寒さに震えるよりは暖かいところにいたいのよ」と言う女性も、読むに堪えない本を書いた人も、白人たちと妥協しても歩み寄る「全国黒人地位向上協会」(NAACP)も、すべて寛く受け容れる度量を持つ。眼差しはいつも優しい。最後まで「ハーレム」(↓)を出なかった人の生き方そのままである。

ハーレムで歌うストリートミュジシャン(『ブルーズ・ブラザーズ』より)

 追伸:ヒューズの声が聴ける”The Glory of Negro History"のデータはいつでも送ります。