つれづれに

つれづれに:すすきにこすもす

 気温が下がって一気に秋の気配である。金曜日は久しぶりに内海の南風茶屋に行き、帰りにすすきを採って来て、玄関の壺(↑)にこすもすといっしょに入れた。すすきで一番印象に残っているのは大分県飯田高原の九州芸術の杜で個展(→「小島けい個展 2009に行きました。」)をしたときに見た周りの景色の中である。こすもすとすすきがあちこちに咲いていて、風に揺れていた。九州芸術の杜のオーナーは牧場も持っていて、牧場の周りにもすすきとこすもすが一斉に咲いていた。夕暮れ時に撮った写真(↓)である。10日間ほどギャラリー夢(→「<ギャラリー夢>に行ってきました!」)の2階に泊めてもらった。夜は真っ暗で、星がこの上なく美しかった。まわりにはあけびもあちこちになっていた。採るとすぐに勢いをなくすので、採って持っては帰れなかったが。子供の頃からあけびに馴染んでいる人は、あけびを見ると「おいしそう!」と言うが、私の場合、妻の絵の材料だったので「食べるもの」と繋がらない。芸術の杜が遠くなかったら、続けていたかもしれないが、熊本まわりでも延岡まわりでも、電車でも5時間、実際には東京より遠い。今年も東京世田谷のCafe & Gallery Roomerで、個展の予定である。(→2022年個展案内)今年もコロナの影響で本人は自宅待機で残念だが、はや10年目である。

 猛烈な暑さの時期が何とか過ぎて、朝晩の気温も下がってくた。吉祥寺の娘が昼間でも11度でダウンを着ているとズームで言っていたので、間もなく秋が一気に来そうである。季節は確実に過ぎている。

こすもす(小島けい画)

 最近なかなかこすもすを気軽に採れるところがなかったが、今日道端の雑草の中に咲いている秋桜(↓)を見つけた。百本以上もありそうなので、気兼ねなしにもって帰れそうである。昨日は剪定鋏を持っていなくて、少しだけしか摘めなかったが、蕾を3本持って帰り、前に妻が絵に使うために採って来ていたあけびの葉とすすきといっしょに入れた(↑、上の写真)

 こすもすも最初の頃にたくさん描いて何枚も絵になり、カレンダーにも残っている。(→「秋桜」)花そのものもたくさん描いているが、猫ちゃんや犬ちゃんとの組み合わせも多い。色がやさしいからかも知れない。この3年の10月はこすもすで、すべて注文してもらった絵である。2020年の分は、大分の個展に行っている時に、店(→「<夢色工房>をお訪ねしました!」)にカードを置いてもらっていたが、えらく気に入ってくれた人がいて、その人の結婚のお祝いである。今は愛媛に住んでいるらしい。犬の名は寅次郎。馬は牧場のぼんちゃんである。一番下は娘の友人の母親から頼まれたもので、今月の絵である。

「私の散歩道2020~犬・猫・ときどき馬~」10月

「私の散歩道2021~犬・猫・ときどき馬~」10月

「私の散歩道2021~犬・猫・ときどき馬~」10月

つれづれに

つれづれに:白鷺

 一昨日見つけたこすもすの写真を撮りにでかけた。先にいつも出かける生産者市場に行った。清武川の橋を渡ったところにある。胡瓜がなくなり、大根もあと少しになっていたからである。8時から開いているが、その時間に行くのは難しい。今日も10時前になった。大根は跡形もなかった。台風のあと大根そのものが出回らなくなっている。量販店に野菜を置くようになって、北海道産が100円台後半の値段で出ていたが、そこもなくなっている。あるのがわかったからだろう。

清武川の橋を渡る時に、白鷺がたくさん川の中にいるのが目についた。冬場にはよく見かける。たぶん白鷺だと思う。折角カメラを持って行ってたので、川の中の白鷺を撮ろうと、渡った先の堤防の上を西に少し行って河川敷に行こうとしたとき、白鷺が一斉に飛び立った。

 近くで撮るには、じっと待って気配を感じさせないようにするしかないだろう。時間的に余裕がなかったので、飛び立って行った先の写真を撮った。近くの繁みに最初から数羽停まっていたが、そこに合流するようだった。待機(↓)して危険が去ったら、また元の川中に戻るのだろう。白鷺の邪魔をするつもりはなかったが、写真を撮るのも難しいものである。

 白鷺はよく見かけるが、姿が美しい。小さい頃に住んでいたところから電車で1時間ほどのところにある城が白鷺(しらさぎ)城(↓)と呼ばれている。小学校の1年生の遠足で連れて行かれた時は、改修中だった。その後も改修されて再公開されたとニュースで言っていた。大学までの写真は一枚もないが、小学校1年生の城を背景に撮った集合写真の残像はある。60年以上も前のことである。

 その堤防に黄色い彼岸花が咲いていたので、2枚写真に撮った。堤防下の家の人が植えたもののようで、写真を撮っているのをちらっちらっと控えめに見ていた。気軽に声をかければよかったのだが、声を掛けそびれてしまった。

 前から黄色いハイビスカスを撮りたいと思っていたので、会社の前に自転車を停めて、撮った。お盆前から咲いていて、他のハイビスカスはほぼ終わってしまっているが、そこのはまだ勢いがあった。赤の花が多い。最近はところどころで、黄色の花も見かけるようになった。

 写真を撮り終わって道路の向かいを見たら、見慣れない看板がかかっていた。新しく生産者市が出来たようである。自転車を停めて中に入ろうとしたら、年配の男性から「ハイビスカス、お好きですか?」と聞かれた。「ああ、持主さんでしたか?黄色のハイビスカスは珍しいですよね」と答えた。写真を撮っているところを向かいから見られていたわけである。店先で薩摩芋を焼いて売っていたので、向かいの会社の年配の人が店を開いたようである。経営者が引退した雰囲気だった。「まさかないやろな」と思いながら店に入り探してみたら、大根があった。150円である。まだ知られていないが、知られるとすぐに品切れしそうである。すぐ近くのエ―コープが新装開店して盛況だから、品物さえしっかりとしていれば、人は来るだろう。着眼点は悪くない。また利用できそうである。そのあとこすもすの写真を撮りに行った。

つれづれに

つれづれに:堀切ですすき

 久しぶりに内海の南風茶屋(↑)に行った。白浜でマッサージをしてもらったあと、海岸道路を通って、3時半に間に合うように店に着いた。4時が閉店時間である。一時期学生や同僚とよく食べに行った。南風饂飩が少し関西風な感じで大きな鉢に一杯、野菜もたっぷりである。普段は肉や魚はほどんど食べないが、あまり無理をしない程度に食べている。チキン南蛮や魚の煮つけなどの小皿も出てくる。今日はすべて食べた。女主人と調理師さんとも顔馴染である。今日もわざわざ厨房から出て来て、しばらく話をした。

南風茶屋内から見える内海港

 今の家から白浜までが45分、そこから20分くらいかかるので、20キロ強だと思う。宮崎の橘通くらいまでと同じくらいの距離だ。行きはホテルサンクマールの横を通って海岸道路(↓)を通った。車が2台、3人が釣りをしていた。サイクリングの男性とすれ違い、年配の男性を追い越した。年配の人は、覆い繁った草を刈り払いながら進んでいた。内海よりの道路はだいぶ雑草が大きく垂れて来ていて、通り難い個所もあった。途中のフェニックス道の駅へ登る階段は草で遮られて登れない感じだった。出口もがけ崩れのような状態で大きな石ころが散乱して通れなかった。少し手前のコンクリートの階段を、下りて押して通った。

 帰りは旧道を通り、坂を登ってフェニックス道の駅でしばらく自転車を停めた。いつ見ても堀切峠の見晴らしは抜群である。道の駅の前の展望台からの見晴らしもいいが、少し北に行った駐車場の手前から見る景色も雄大である。こちらは普段でもあまり人がいないから、なおいい。少し手前にも小さなベンチが二つ置いてあって、そこからの眺め(↓)も素敵だ。この前通った時に初めてベンチに気づいた。駐車場に車を停めて堀切峠の一番高い所から何度も眺めたが、すぐ南のベンチには気づかなかった。お勧めの場所である。

 坂を下りているときに、薄い色のすすきを見つけた。あとしばらくするとあちこちで見かけるようになるが、今年最初のこの色の薄である。10本ほど持って帰った。ずっとTシャツに素足で来たが、今日はワイシャツと靴下を2枚履いた。だいぶ気温が下がっているので、冷やさないためである。素足はその時は気持ちがいいが、冷やすとそのあとが大変である。

 意識しないと気づかないが、薄にもいろいろな種類がある。出始めは一本一本が細く、取りにくいタイプである。取り易いのは、花(?)の部分を持って引っ張ればスポッと取れる。今日取った色の薄いすすきは取りにくいタイプである。もうしばらくして気温がぐんと下がると、黄土色よりも色の濃いこげ茶色のすすきが多くなる。このタイプはスポッと抜けるので取りやすい。何日かで枯れすすきになってしまう。木花台に登る坂道の上に咲いている大きなパンパース(↓)はもう盛りを過ぎているようだ。木花台の土手に誰かが植えていて、毎年2か所、同じ場所に咲く。咲き初めは真っ白である。

つれづれに

つれづれに:下り行け、モーゼ

「深い河」(Deep River)は「下り行け、モーゼ」(Go Down Moses)と「ジェリコの戦い」(Joshua fit the battle of Jericho)とをいっしょに考えないと流れがよくわからない。ヘブライ人をエジプト(↑)から連れ出したモーゼが、40年もかけて約束の地に達し、その東の境界がヨルダン川(↑)だったという話には、そもそもなぜモーゼが同胞を連れてエジプトを出たかという話が抜けている。

ポール・ロブソン

ヘブライ人がエジプトと戦争をした。負けたヘブライ人が捕虜としてエジプトに連れて行かれ、奴隷にされたというのが話の始まりである。戦争に負けたときに捕虜になるのは今も同じだ。ウクライナの捕虜の女性がソ連軍に強姦されたと報じられている。西欧諸国に希少金属や鉱物資源を狙われて恒常的に内戦状態のコンゴ東部では銃殺やレイプは常時起こる。婦人科医のデニ・ムクウェゲさん(↓)が2018年にノーベル平和賞を受賞したのは「性暴力によって肉体的、精神的に傷ついた女性たちを20年以上にわたって無償で治療してきた」のが理由である。資源が豊かだったゆえに、西洋諸国に無茶苦茶にされて、今も狂気の世界の最中にいるのに、原因を作った張本人の西洋諸国の賞をもらうとは皮肉なものである。

アメリカのテレビドラマ『緊急救命室』(↓)の「悪夢」の中で、アメリカ人医師といっしょに診療所に向かう車の中で同僚のアフリカ人が「昔は緑が豊かで美しいところだった」と呟く。20世紀の初めに赤道に近いコンゴ盆地に派遣されたアフリカ系アメリカ人牧師はそこに住むルバ人の様子を教会の年報に次のように記している。

「この土地に住む屈強な人々は、男も女も、太古から縛られず、玉蜀黍、豌豆、煙草、馬鈴薯を作り、罠を仕掛けて象牙や豹皮を取り、自らの王と立派な統治機構を持ち、どの町にも法に携わる役人を置いていました。この気高い人たちの人口は恐らく40万、民族の歴史の新しい一ペイジが始まろうとしていました。僅か数年前にこの国を訪れた旅人は、村人が各々一つから四つの部屋のある広い家に住み、妻や子供を慈しんで和やかに暮らす様子を目にしています‥‥」

産業社会に必要な鉱物資源が豊かなために西洋諸国に食い荒らされたコンゴで、日本もODAの予算をつけて、清水建設はコンゴ川に大きな橋を建設した。政府開発援助は先進国が援助や開発の名目で搾取する財政手段の一つで、アメリカの傀儡を永年続けたモブツ独裁政権の財源でもあった。その構図は、もちろん今も継続中である。

エジプトで捕らわれの身となったヘブライ人は結婚も許されていたので、アメリカ大陸に無理やり連れて行かれた奴隷ほどではなかったが、隷属状態は続いていた。年老いた王(ファラオ)の支配から逃れて故郷に連れ戻してくれないか、故郷との間には深い河(↓、Jordan)が流れていてそこまで行っても故郷に辿り着くのは難しいだろうが‥‥、と多くの人が願った。そこに現れたのがモーゼである。こんな場合、神の啓示を受けるものらしい。モーゼはヘブライの捕虜たちを連れて故郷に向かう。そんな話である。その話はモーゼの意志を継いだジョシュアの話「ジェリコの戦い」(Joshua fit the battle of Jericho)に続く。

長谷川 一約束の地』ヨルダン川」から

イスラエルがエジプトの地にあったとき: 我が民を解放せよ / 締め付けは厳しく、もう堪(こら)え切れなかった / 我が民を解放せ

When Israel was in Egypt’s land: Let my people go, / Oppress’d so hard they could not stand, Let my People go.

下り行け、モーセ(モーゼ) / エジプトの地に / 年老いた王に告げよ / 我が民を解放せよと

Go down, Moses, / Way down in Egypt’s land, / Tell old Pharaoh, / Let my people go.

教室ではゴールデンゲイトカルテット(↓、Golden Gate Quartet)の曲を聴いてもらった。軽快で、低い音も響く。「黒人史の栄光」の中に入っているのは「下り行け、モーゼ」(Go Down Moses)だけで、「深い河」(Deep River)と「ジェリコの戦い」(Joshua fit the battle of Jericho)は入っていない。スピリチャルでは「そっと忍んで行こう」(Steal Away)が地下鉄道に関連して含まれている。