つれづれに

つれづれに:雑誌記事2

朝晩少し気温も下がって来たので、何とか畑を再開したいと思うようになっている。雨よけに温室まがいの柵を拵えたが、とまとは失敗したし、南瓜の柵も途中までは勢いがよかったし、横に渡す竹(→「 竹取の翁、苦戦中・・・」)も切ってきてはいたが、猛暑にはお手上げだった。大根と細葱とレタスを先ず蒔いて、それからである。南瓜(→「南瓜に勢いが」、→「 南瓜の花が・・・」)だけはこれから実が大きくなってお裾分け出来そうである。そのうち渋柿(↓)が色付くと獲って洗って剥いて干してと時間を取られそうである。いっときすっかり作業をする気持ちも萎えていたが、また復活しそうな勢いである。干し柿は献上品にもなったそうだから、昔から伝わる保存食、有難い自然の恵みである。

発行年月が数字通りではないので正確ではないが、「ゴンドワナ」に書いたのは1986年6月の6号から1991年10月の19号までの5年間ほどである。6号(1986年6月)の貫名さんの追悼号(↓)から7号(1986年7月)まで少し期間が空いていたと思うので実質期間は5年足らずのような気がする。貫名さんの原稿を送ったとき、これ一回限りかなと思った記憶がある。連載するとは全く考えていなかった。その期間は毎号一つか二つか三つの記事を書いた。「宮崎医科大学 」に決まる前も週に16コマの非常勤の合間に書いていたが、着任してからも同じペースで書いていたことになる。「宮崎に」来てからすぐに編註書を2冊頼まれて、そちらにも結構な時間を取っているので、毎日、目一杯書いていたことになる。

ラ・グーマの作家論はすでに出していたので、継続的に作品論を書いた。「MLA」で発表したものに手を加えて、第1作の『夜の彷徨』の文学手法についてである。「夜」と「彷徨」のイメージが交錯しながら物語全体を覆い、作品の舞台ケープタウン第6区(カラード居住区)の抑圧的な雰囲気を見事に醸し出している、という話である。→「『夜の彷徨』上 語り」(11号)、→「『夜の彷徨』下 手法」(↓、13号)

赴任してから半年後に公費出張の第1号で参加した黒人研究の会創立30周年記念シンポジウム「現代アフリカ文化とわれわれ」も12号(↓)にまとめて書いたものを出した。→「アパルトヘイトを巡って」(シンポジウム)

5月のメイデイにロンドンに亡命中の映画『遠い夜明け』の原作者ドナルド・ウッズさんが大阪中之島のデモに参加すると「こむらど委員会」の会報で知っていたが、行けなかったのは今でも心残りだ。医学科の授業で学生に観てもらっていた『遠い夜明け』の原作者だったので「学生に映画を観てもらっていますよ」と直接伝えたかったのだが、果たせなかった。まだロンドンに亡命中で、マンデラが釈放されるのも、アフリカ人政権が出来るのも、先行き不透明な時期だったので、余計に心残りである。そのあとカナダの「ラ・グーマ記念大会」で同じくロンドンに亡命中のラ・グーマ夫人ブランシさん(↓)や主に北アメリカに亡命中の南アフリカの人たちに会ったから余計にその思いは募る。ウッズさんはアパルトヘイトが廃止されたあと、イギリスと南アフリカを行き来したが、南アフリカには戻らないまま亡くなっている。

宮崎に来て頼まれた松山(→「アパルトヘイト否!」)と南九州大学(→「海外事情研究部」)での講演と、宮崎市内の「歯医者さん」の集まりで話した内容も「アパルトヘイトの歴史と現状」(14号、↓)にまとめて、お世話になった弁護士さんや東雲学園の人たち、南九州大学の学生と顧問の人、歯医者さんや歯科助手の人たちに雑誌を送った。ラ・グーマでMLAの発表をするために歴史を辿り始めたが、三つもまとまった話ができたお陰で、南アフリカの歴史の大枠が見えてきた。それが最大の成果だった。機会を与えてもらえたのは、有難い限りである、後に大学が統合をして教養科目を持つことになったとき「南アフリカ概論」が持てたのも、この辺りの経験があればこそだった。「南アフリカ概論」には、ある年1クラス542人の希望者があり、その年だけ受講者をすべて引き受けたが、課題を読むのに2か月もかかり、成績の締め切りに危うく間に合わないところだった。

18号には「『ワールド・アパート』 愛しきひとへ」の映画評を書いた。南アフリカの白人ジャーナリスト、ルス・ファーストの自伝『南アフリカ117日獄中記』をもとに、娘のショーン・スロボが脚本を書き、クリス・メンゲスが監督したイギリス映画『ワールド・アパート』である。『遠い夜明け』に続いて上映されたが、残念ながら九州には来ても福岡止まりだった。アパルトヘイトによって傷つけられた母娘の切ない相克に焦点があてられ、なかなか見応えのある映画である。妻に挿画を頼んだ。よく雰囲気が出ている。

ルス・ファースト役バーバラ・ハーシー(小島けい画)

つれづれに

つれづれに:雑誌記事

1988年4月に「宮崎に」来る頃にはだいぶ雑誌に書いた記事も溜まっていた。大学の職を探そうにも、構造的に途中から博士課程(→「大学院入試3」)に入れてくれないみたいだったので、教歴と業績を少しでも積んでいくしか道はなく、浪人の期間が長くなった分、業績も溜まっていたというわけである。研究誌以外で書いていたのは門土社の雑誌「ゴンドワナ」である。創刊号の表紙(↑)には1984年9月と印刷されている。実際に発行された年月と数字は必ずしも一致してはいないが、雑誌は発行されて実物も残っている。最初に「横浜」で社長さんと会う少し前くらいに創刊されていたようである。A5版(A4の半分)32ページで、定価が600円、ハイネマンナイロビ支局のヘンリー・チャカバさんの祝辞、作家の竹内泰宏さん、毎日新聞の記者篠田豊さんなどの投稿もある。どれも原稿料なしである。エンクルマの翻訳などを精力的に出していた理論社のα(アルファ)でさえも7号で廃刊している。アフリカ関係のものは売れないのだから、出版されただけでも奇跡に近い。

貫名さんの追悼号(↑)が1986年6月で、そのあと7号(↓、1986年7月)に記事を二つ書いた。「アレックス・ラ・グーマ氏追悼-アパルトヘイトと勇敢に闘った先人に捧ぐ-」は、ミシシッピの会議で会ったファーブルさんから届いたAfram Newsletterの中のラ・グーマへのインタビュー記事を日本語訳したものである。パリにはフランスに植民地化された国から人が集まっているが、ラ・グーマにインタビューしたサマンさんもその中の一人である。住所を教えてもらってコートジボワールに手紙を書いて、諒解をもらった。「アフリカ・アメリカ・日本」は当時の南アフリカを巡る状況を書いたものだが、その時点では、すぐあとにマンデラが釈放されて、アパルトヘイトが廃止されるのは推測の域を出ていなかった。

その後、8号(1987年5月)、9号(6月)、10号(↓、7月)で、ラ・グーマの作家論を書いた。(8号→「闘争家として、作家として」、9号→「拘禁されて」、10号「祖国を離れて」)1987年12月の「MLA」に向けて準備している時にまとめたものだ。10号ではラ・グーマの伝記家の訪問記が出ている。発行年月は1987年7月だが、訪れたのはその少しあとである。→「アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・エイブラハムズ」

11号(1988年4月)にはエイブラハムズさんへの手紙の形式で「遠い夜明け」(↓)の映画評を書いた。1988年に医学科で授業をするようになってから、必ず「遠い夜明け」を見てもらうようになっていた。最初の年はまだ字幕版がなかったので、その前の年に「ニューヨーク」で買ったVHSの英語版を観てもらった。当時はプロジェクターの質も悪く、分厚いカーテンを閉め切って真っ暗にしないと見え難かった。2時間40分もある長編映画なので、字幕なしで大丈夫かと心配したが、暗い中で目を凝らして見る限り、寝ている人は誰もいなかった。「わいABCもわからへんねん」という大阪の私大(→「二つ目の大学」)では授業そのものが成立しなかったので「長い映画を、それも字幕なしの英語版を暗い中でつけても誰も寝てないわ」と思うだけで感激して、天国に思えた。

亡命を強いられたエイブラハムズさんや他の南アフリカの人たちと映画の中のウッズが重なって、涙が止まらなかった。暗かったので見られなくて済んだ。今は学生が映像に慣れてしまっているからか、寝てしまう人も多い。今は昔である。その当時「映像を使っていたのは、たまさんだけだった」と、研究室に来てくれていた当時2年生の次郎さんから聞いた。→「セスゥル・エイブラハムズ氏への手紙」

他にもこの時期に何本か書いている。いざと言う時に備えて業績が要ったとはいえ、3年足らずの間に、研究誌の他にもたくさん書いていたわけである。週に16コマの非常勤に行きながら、いつ決まるともわからないままの浪人の時期だった。

つれづれに

つれづれに:仕上げ

春にも見かけるがこの時期も咲いている甘草(かんぞう)

昨日4つ目の小説が何とか終わった。最後までなかなか書けなかった最初の部分に時間がかかったが、自然にさらっと書けた。長いこと書きながらイメージがわかなくて、何やかややっているうちにある時イメージが形になって、終了、そんな感じである。

垂れ具合がなかなかいい百日紅(さるすべり)

「つれづれに」を「しゅうさく」に使うつもりは毛頭なかったが、何となく部分を書いて、それを集めて修正するのもありかと思いついた。長丁場になると書いたものが重なる時があるので、重なった部分をどう繋ぐかという新たな問題も出て来るが、軸がしっかりしていれば微修正で済む。

家の近くで。あちこちに咲いているハイビスカス

小説を書きたいと考え、時間を確保するのに大学が一番いいと思ったのだが、大学というところは、すべき時に受験勉強をして、出たあと職場を保証してくれる博士課程のある大学に入るのが一般的だ。すべき時に受験勉強をしなかっただけで、大学に辿り着くのにえらい大変な思いをして、ずいぶんと時間がかかってしまった。研究室と時間も確保したまではよかったが、出会った出版社の社長さんに芥川賞も直木賞も出版社の売るための便法だから、辞めといた方がいいと言われて、少し気持ちが萎えかけたが、すぐ後に雑誌の記事や註釈本や翻訳書や、英文書まで次から次に言われて、考える暇もなかった。

もうすぐ色付いて作業に追われそうな渋柿

今までと違う理科系の人たちばかりで結構刺激もあった。研究室にいるだけで、いろんな人が訪ねて来てくれて話もしてくれる。一緒にお昼を食べたりしているうちに、みんな医者や看護師になって行った。医者や看護師になってからも続いている人たちもいる。そのうち、タイやアメリカの大学と学生交換も始まり、使える英語も担当するし、看護学科が鍵を握る学部長選や学長選に巻き込まれて、気が付いてみたら、定年退職。そのあとも再任。そのころに社長さんが亡くなって、しばらくした頃に、やっぱり書いてみるかという気になった。これで4冊目である。書いたら本にしてもらえた時と違って、出版社が売れると判断するかどうか。文学界と群像はそう判断しなかったようだが、こんどはすばる、売れると判断してくれるかどうかは、相手次第、教授選と同じだ。まったくの先行き不透明である。今から月末の締め切りまで、「仕上げ」の毎日になりそうである。

家の近くで、百日紅とハイビスカスが重なり合って植わっていた

つれづれに

つれづれに:夏の花2

 「夏の花」の続きの夏の花2で、のうぜん葛である。お盆辺りの暑い頃にハイビスカスと並んで目立つ鮮やかな朱色の花が「のうぜん葛」(小島けい絵のブログ)、蔓が樹に登って垂れ下がるように花をつけている。花をつけているものもあるが、盛りは既に過ぎてしまっていて、花も枯れかけのが多い。中国原産で凌霄花と書き、蔓が「霄(そら)」を「凌(しのぐ)」ほど高く登る様子に漢字を当てたらしい。妻に何枚か花(↑)を描いてもらい、カレンダー(↓)にもなっている。

「私の散歩道2009~犬・猫ときどき馬~」8月

「私の散歩道2013~犬・猫ときどき馬~」7月(企業採用分)

 最近は絵のブログを見に来てくれる人のためにと思って、少しずつ英語訳をつけているので、英語も検索してみた。Campsisが英語名で「曲がっている」という意味のギリシャ語 “Kampsis" が語源で、おしべの形が曲がっているところから来ている。樹はとても寿命が長いらしい。そんな寿命の長い樹を枯らしてしまったことがある。台風か何かでやられたような気がするが、申し訳ないことをした。

 息子の同級生の女性の大切なゴールデン(↓)がなくなった時、こののうぜんかずらといっしょに描かせてもらった。最初保健室で会ったらしいが、時々家にも遊びに来るようになった。息子は東京に行っていない今の家に引っ越してからも、時々妻を訪ねて来てくれている。しばらくおしゃべりをして帰って行く。カレンダー(↓)にも入ってもらった。

アレックスとのうぜん葛

「私の散歩道2011~犬・猫ときどき馬~」7月

 装画にも使ってもらって、本(↓)が残っている。高校の演劇シリーズで、一度奈良の橿原市で全国の演劇大会があったとき、妻と二人で会場に行って、いっしょに本を並べて販売の手伝いをした。アフリカの本と同じで、演劇の本も売れない。元々芸術の分野で生計を立てるのは難しい。医学科で東京芸大を辞めて「当座医者をします。デザインでは食べていきにくいですから‥‥」と言ってた学生がいた。最初は医学をなめていたようだったが、良き友人と出会い、触発されて、本気で医者になる気になっていた。台湾の大学に臨床実習に行き、沖縄中部病院で初期研修を受けた、までは聞いているが、その後は知らない。元気でやっているといいが。芸大に入れない人が聞いたら、怒りそうである。

伊藤隆弘『劇作百花2』

 妻が通っている牧場COWBOY UP RANCH(宮崎市清武町大字今泉甲6618)のツルマルツヨシものうぜん葛と絵になった。

ツルマルツヨシとのうぜん葛

 ツルマルツヨシは1999年の朝日チャレンジカップと京都大賞典を優勝した元競走馬で、現役引退後はJRA京都競馬場の誘導馬をつとめていたが、そのあと牧場に来た。2011年にオーナーが亡くなり、元担当厩務員が「ツルマルツヨシの会」を作って支援している。カレンダー(↓)にも入ってもらった。

「私の散歩道2014~犬・猫ときどき馬~」7月