つれづれに

つれづれに:夏の花

 焼けるような暑さで外に出るのも億劫になる頃に、元気に咲いている花もある。「ハイビスカス」(↑、小島けい絵のブログ)の大きな赤い花びらは「明石」ではあまりお目にかからなかった花である。南国の雰囲気が漂う。家の近くだけでなく、白浜に通うに道の両脇のあちらこちらに赤い花が咲いているのが目に入る。「宮崎に」来た時に真っ先に描いてもらった花の一つだ。

「小島けい2004年私製花カレンダー2004 Calendar」7月

 今年は黄色い花も見つけた。春の花はまだ花が残っているが、来年回しにして夏の花を書くことにした。すぐ秋の花になりそうな気配も少しして来たので‥‥。いつくらいから妻がその月の絵をちゃっちゃっと描いてカレンダーを作ってくれるようになったのかはっきりとは覚えていないが、ひょっとしたら「中朝霧丘」の頃から描いてもらっていたかも知れない。残す発想が出たのが2004年(↑)だから、何回書いても、残しておけばよかった、惜しいことをしたという気がする。時間をかけて丁寧に丁寧に描く注文を受けて描く絵と違って、正確さや間違いなど一切気にしないで描く分、粗削りだが勢いがある。水彩は塗り直しがきかないから、一発勝負で迫力もある。と言うほど、本人は意識して描いてる風でもないが。

「小島けい2005年私製花カレンダー2005 Calendar」8月

 木花に引っ越しをして来てから、妻は自転車で清武の乗馬クラブ COWBOY UP RANCH(清武町大字今泉甲6618)に通い始めた。小学生で西宮の関学の近くに住んだことがあって、その頃から馬に乗りたいと思い始めたそうだ。都会と違って、料金も格段に安い。たまたま行った牧場主(↓)が馬を褒めて育てるやり方で大事に大事に馬を増やしていた。

「私の散歩道2020~犬・猫ときどき馬~」12月

 その牧場主が絵を買って下さった第一号だが、牧場に出入りする人もそのうち注文をしてくれるようになった。可愛がっている鸚鵡のクーちゃんをという話になった。鳥は初めてだったが喜んで描いていた。牧場に来てくれる獣医さんの友人で、絵を医院に飾ってくれている獣医さんから聞いて注文してくれたようだ。

「私の散歩道2015~犬・猫ときどき馬~」3月

 横浜の人で娘さんとゴールデン(↓)で描いた。旅先から絵葉書が届くこともある。今も遣り取りが続いている。クーちゃんは元気らしい。牧場でたまたまいっしょに行った時、母親といっしょに娘さんも来ていて挨拶をした。高校生くらいだったと思うが。

「私の散歩道2013~犬・猫ときどき馬~」8月

 家の近くにもハイビスカスを植えている家が多い。盆過ぎからずっとたくさんの花を咲かせている樹もあって写真を撮ったつもりが、カードの中には入ってなかった。入っていたのは、この一枚(↓)だけだった。

 今日はブログを更新している時に、急に全体がものすごく小さくなって慌ててしまった。ブログを管理している人にメールをして、更新も途中になったままだった。近頃は前日に更新しているが、今日は日付が変わってしまった。お休みなさい。

つれづれに

つれづれに:暑い日々

 暑い日々が続く。畑にいる時間や散歩をして草花や樹の様子を見ているときは、旧暦の24節気が身近に感じられる。「昔の人はうまいこと言うなあ」と感心することが多い。ただ今のこの暑さというか熱さというか、こういう事態が続くと吹っ飛んでしまう。年齢とともに皮膚が弱くなり、焼けるようにひりひりすることもある。汗の臭いがきつく感じられることも多い。何回も風呂に入って汗を流すが、それでもなかなかである。高校と大学時代に過ごした部屋はトタン屋根で、南側に窓がなかった。別の屋根に拵えた部屋に行くための階段があったためである。トタン屋根で風が通らず、最高のコンディションである。若くて肌も堪えてはいたが、苦しかった。何軒か行ってた家庭教師先には皆クーラーがついていたので、その時ばかりは過ごしやすかった。家庭教師代をまかなえる家はクーラーも設置可ということか。一度、台風でトタン屋根が飛んだことがある。それもそれまで吹き荒れた雨風が急に止んで、青空が見えたのである。台風の目の中に入っていたようだ。その経験は初めてだった。そのあとしばらくして、また猛烈な雨と風が吹き荒れた。もちろん、部屋の中は水浸しである。貴重な経験だったが、大変だった。今の家は雨漏りもしないし、少々の雨でも家の中にいればあまり音もしない。天国と地獄である。黒澤明の「天国と地獄」でも。研修医を演じる山崎努がうだるような暑さの中のぼろアパートの一室から、丘の上に立つ三船敏郎が演じる金持ちの家を見上げていた。丘の家には戦後まもなくの時代でもエアコンがついていた、と思う。

家から見えた紡績工場

 春の花をささっと書くつもりがもうずいぶんと時間がかかっている。その期間、24節気のことが頭からすっかり抜けていた。畑にも出られずに、季節を感じられないほどだったというわけである。今年は立秋が8月7日からで、その辺りまで季節を辛うじて追いかけていたが、それ以降吹っ飛んでしまっていた。暑すぎたのである。畑に出る自信がなかった。いろいろ試すつもりだったが、畑にも出られず、春先に植えた夏野菜が実をつけているのに、それを採りに出るのも難しかった。オクラ(↑)は虫がつくと葉が巻いてしまうので、希釈した酢をかけないとと思いながら、実も採れなかった。大きくなり過ぎると包丁も入らない。大きくなっているのがわかっていながら、出られなかったわけである。次の節気の処暑が8月23日に始まり、 今日の9月8日から白露が始まる。処暑「厳しい暑さの峠を越した頃です。朝夕には涼しい風が吹き、心地よい虫の声が聞こえてきます。暑さが和らぎ、穀物が実り始めますが、同時に台風の季節の到来でもあります」とあるが、実際はまだ峠を越した感じがしない。朝晩が涼しくなったら、また畑を再開したい、と思えるといいのだが。オクラはまだ峠を越していない。虫でやられた箇所は切り取って、希釈した酢を撒き、追肥もしたい。南瓜の柵も途中になったままで、蔓が伸び放題、一昨日隣との境の草を取った時は、危うく隣の家に蔓の先が侵入しかけていた。樹に蔓を蒔いて、大きな実が2個なっていた。金木犀の垣根にも蔓が這っているので、実は期待できそうである。

柿(↓)がすっかり大きくなっている。大きな台風が来て落とされなければ300個近くあるかも知れない。一時期取り入れるのも洗うのも剥くのも干すのも面倒臭くなっていたが、今年はその頃には暑さも過ぎていそうなので、大丈夫そうである。去年は6個しか干し柿にできなかったのでお裾分けも叶わなかったが、今年は何軒が持っていけそうである。保存食とは言え、甘いので冷蔵庫に入れていても黴が生える。二人ではそうたくさんは食べられない。やっぱりお裾分けしかない。

 23日から始まった処暑も昨日7日で終わり、白露に入る。処暑は厳しい暑さの峠を越した頃で、例年なら朝夕には涼しい風が吹き、暑さが和らぐはずだが、相変わらず暑いまま。辛うじて空が秋の気配を見せ始めたものの、まだ昼の暑さは続きそうである。白露は、夜中に大気が冷え、草花や木に朝露が宿り始める頃らしいので、遅れても例年に追い付くことを祈るのみである。畑に出る気になりますように。秋刀魚と梨と南瓜の季節らしい。畑に出られないお陰で、一面が南瓜(↓)天国である。

つれづれに

つれづれに:黒人研究の会、その後

 「黒人研究の会」を辞めた。誰かに辞めろと言われたわけではないが、どちらかを選んで辞める結果になった。
黒人研究の会が神戸市外国語大学(↑、事務局と研究棟)の人たちが始め、入会当時も例会参加者にその関係者が多かったので、他に選択肢がなかったとは言え、「大学入学」を決めていなかったら、おそらく研究会とは無縁だったと思う。修士論文をリチャード・ライトで書いたのも購読の時間にライトのテキストが使われていたからだ。高校教員歴5年で「大学院入試2」を受け、「教職大学院」(↓)に行ってライトで修士論文を書いた。作品の背景やアメリカ黒人の歴史を知りたいと研究会に入ったのも自然の流れだったと思う。

 修了しても博士課程に入れてもらえないと考えて、業績も必要だったので「黒人研究」(↓)にも書かせてもらった。毎年1本ずつ書いた。実質的に月例会に来ている人も少なかったし、辛うじて会誌の発行を続けている程度だったので、自然に例会案内や会誌の編集も手伝い、会報も出すようになっていた。毎年の「黒人研究の会総会」の案内もやり、総会ではたいてい裏方をやっていた。

 宮崎医科大学(↓)に決まったあとも大阪工大で行われた総会の日の「黒人研究の会シンポジウム」でも発表者の一人にしてもらった。小さな研究会で人もそう多くなく、地道に研究を続けている人の話も聞けるし、時折大物の話も聞けるし満足だった。宮崎は遠いので毎月は月例会に参加出来ないが、年に何回かは出張で行ける、と思っていた。シンポジウムは医大での初めての出張だった。

 黒人研究の会の総会でやった2度のシンポジウム「現代アメリカ女性作家の問いかけるもの」と「現代アフリカ文化とわれわれ」が本になった。先輩が話をして出版社の社長さんに出してもらった。そこまではよかったが、両者の考え方が基本的に違い過ぎた。本には200万も300万も実際にかかるようで、出版社の人は共著者全員で費用を分担するか本を捌くかが当然と考えていたが、著者の方は十名以上の大学の教員で、著者には無料で献本があり、収入もあると考えていた。本を売るという発想はなかった。この差は大きい。大体、アフリカやアフリカ系アメリカの本を誰か買って読むと思っているのか?書いた側が自分の書いたものは有益でおもしろいと自己満足しているだけである。もちろん売れそうになくても貴重なものもある。ポルトガルに壊されて廃墟になったキルワ島のことを博士論文にした人がいる。おそらく京大か東京外大の卒業後の職場が辛うじてある系列の人だと思うので、キルワがその後繰り広げられるアングロ・サクソン系の500年に及ぶ侵略の皮きりだったという歴史的な認識があったかどうかは怪しいが、博士論文自体は歴史的価値のあるものである。売れないかも知れないが、出版する価値はある。

キルワ島に向かうバズル・デヴィドスン

 しかし、人の書いたものをああだこうだ、作家の技法がどうだという程度のものを集めてどんな価値があるというのか?書いた一人として、後ろめたいばかりである。後ろめたい気持ちを持ちながら、課題の参考図書にして学生に買ってもらったから、余計に後ろめたい。その後、その形態で、その出版社に残っていた本まで学生に買ってもらうことになった。全学共同体制は実質的には全学無責任体制である。この場合は、総著者無責任体制だった。結局、今後出版社とこのまま関係を続けるのか、黒人研究の会の人たちと関係を続けるのかを、200万か300万かが絡んで、選択することになった。「リチャード・ライトとアフリカ」を書かせてもらったが、共著『箱舟、21世紀に向けて』(↓)はうらめしい本となった。理由を理解してもらえるはずもなく、黙って研究会を辞めた。理解してもらえるなら、辞めることもなかったわけである。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:市立大学

有識者会議だったか有識者懇話会だったかに出席した。おそらく宮崎観光ホテル(↑)でだったような気がする。報道陣も来て、真下から写真を撮られた。撮られた写真をみたことはない。宮崎に来た当初、髭と外国人は狙われたようだ。ある日、近くの肉屋さんで店の人から妻が「あんたのご主人なんしとっと?」と聞かれたそうである。ある日引っ越しをして来てから、昼間でも買い物に来るのが解せなかったようだ。すぐには聞かないし、髭の本人には怖くて聞けない。ある日、勇気を出して妻に恐る恐る聞いたわけである。聞いて見ると、テレビに映ってたらしい。大学祭があって、そこを歩いていたとのことだった。そう言えば、土曜日も授業があった頃で、大学の研究室に寄って、大学祭の出店がある駐車場を通って旧宮崎大学の非常勤に行った日である。知らなかったが、取材陣が構えていたカメラの前を通ってしまったらしい。

会議は宮崎市長がどうしても作りたいという市立大学の設立に関するものだった。医科大(↑、講義棟)に推薦してもらった人から、行くように言われた。断れる立場でもなかったし、参加したわけである。一度目の会議は市長や政財界の人が集まったらしい。その提言を受けて、2回目は宮崎周辺の有識者に意見を聞くということだったのか。1回目のメンバーには、市長の他に宮崎銀行の頭取とか宮崎交通の社長とか政界、財界の人が多かったような気がする。誰も本人は偉いと思ってるんやろな、と思った記憶があるから、たぶんその辺りのメンバーだったと思う。座長は旧宮崎大学(↓)の元学長だった。そういうことか。私を推薦してくれた人が元学長の取り巻きだったんだ。世話した若手に「行って来い」と声をかけたわけである。会議のメンバーを見たら、私が一番若かった。40になる前である。

政財界か。そう言えば、少し前に読んだ記事は「商用でヨハネスブルクを訪れた」と誇らしげに書いてた人も、宮崎の財界人だったなあ。都会では南アフリカののアパルトヘイト政権への経済制裁に協力してイトウヨーカドーやダイエイ(↓、当時あった宮崎ダイエー)などで商品のボイコット運動が行われている時期だった。

「500坪 (1650平方メートル) の敷地に10メートルのプール、三つの浴室のついた120坪 (396平方メートル) の建物、それにバーベキュー用の中庭がついている。読者は家賃はいくらだと思われるか。日本では手が出ないし見当がつかないと言われるだろう。
南アフリカ、ジョバーグ (商業都市ヨハネスバーグの現地名) でのお話である。場所は都心から車で30の住宅地。月の家賃は日本円にして5万円である。このくらいで中級という。では高級の基準となると……最低でも1000坪 (3300平方メートル)はあるだろう……。
某日本商社の支店長宅に招かれた。白人高級住宅地真ん中、敷地面積2600坪 (8580平方メートル)、4面のテニスコート、15メートルのプールと6台駐車できる車庫、建物は250坪 (825平方メートル) 大木の植わったすばらしいこの庭園つきのこの豪邸が日本円で2600万円。では億の家はどのくらいの大きさか。たまたま、1億2万という家を尋ねた。敷地1万2000坪 (39万6000平方メートル) で、プールやテニスコート、それに建物、庭園は想像がつくだろう。また馬屋がついている。金持ちの条件には馬は欠かせないのかもしれないが欧米型だろうが、その馬を世話する人が四人は必要なので、その人たちの家、そして馬の運動場。なにしろ、日本の金持ちと規模を異にする。」

そんな体質の政財界人が答申した議題の一番目が、女子大にすることだった。「うちは女の子は関門海峡からは出さない」と医大の同僚が言っていたくらいだから、それが地域の大半の声なのだろう。会議に義理はないので「今の時代に女子大て何ですか?男も女も同じ教育をしておいて、新しく作る大学は女子大ですか?不自然なので、反対です。女子大でなければいけない納得できる根拠を示して下さい」とだけ発言した。高校(↓)の職員会議で「制服て何ですか?必要なんですか?何を着ようと自由やないですか?制服は廃止しましょう」と立ってしゃべった時と似た感情になった。

行くところがなくて行った夜間が神戸市立だった。大学(↓)にいる時に、100万都市でも大学を運営するのは難しいと聞いたことがあったので、30万都市で大学?としか思わなかった。その市長のことはよく知らなかったが、家の近くの道路が市長道路と呼ばれていたから、名前は知っていた。そう言えば、道路の延びる先に市長の家があると誰かが言っていたな。その前の市長も港近くに前の市長道路を引っ張って来たとも誰かが言っていた。実際には道路工事の予算をつけるのに陰に陽に力を発揮したと言うことか。高速道路を造る際に、ぐーっと曲げて都城に道路を引っ張って行ったのは地元選出の国会議員、医科大に組合を作らせずに文部省よりの大学にしたのも国会議員、そんな話も聞く。地方ではよくある話だと言えばそれまでだが、公平さに欠ける。高速道路を曲げたら、所要時間も長くなるし、経費も嵩む。組合がなければ、労働条件が守られにくい。旭川であったような歪な独裁が長年続く可能性もある。

博士課程に途中から入れなかったのも、当事者が好き勝手出来るなあなあの旧弊が当たり前だったから。議長には地元で長い間唯一の大学だった時の学長を呼んだわけである。しかし、議長の声がよく聞こえなかった。元宮大の家庭科の女性教授の言うこともしどろもどろだった。年寄りでもいいが、せめてはっきり相手に聞き取れる言葉を使ってもらわないと。1時間10000円のアルバイトと割り切っていたが、参加したあと「1回目は地元政財界の声を聞いた。2回目は地元有識者の声を聞いた。文句あるか?」、市議会で議案を通す必要がある規定の会議だったんだ、そんな風に思えた。

宮崎公立大学(↓)が出来た後、頼まれて非常勤に行くことになるとは思わなったが、大学は男女共学だった。授業に来ていた男子学生に「女子大を創ると言われて、会議で反対してよかったねえ?」と言ってみたら「7割が女子学生なので、女子大みたいなもんですよ」と返事が返ってきた。しかし「数が少なくても、男子学生も入学できるやん」