つれづれに

つれづれに:黒人史の栄光

 「黒人史の栄光」:“The Glory of Negro History” (↑、1964年)は詩人ラングストン・ヒューズが語るアフリカ系アメリカ人の歴史である。侵略を意図していたポルトガル人の水先案内人・通訳として黒人が初めて北アメリカに来た頃から、奴隷制、南北戦争を経て1950年辺りまでの歴史を、詩人らしく、歌や詩を交えながら語っている。

今なら、西洋諸国の侵略欲の犠牲になって無理やりアフリカ大陸から北アメリカに連れて来られた悲惨な歴史を栄光と言われても‥‥という気持ちを持ちそうだが、大学のテキストで読んだと時はあまり考えなかった。すべてを諦めて30くらいまでと思っていたし、アフリカ系アメリカだけでなくすべてに関心がなかったからである。そもそも、歴史もほとんど知らなかった。

 このテキストを読んだあと、専門の特殊講義「黒人文学入門」(↑)を受講した。特別に関心があったわけではなかったが、専門の購読のテキストでライトに次いでヒューズと黒人作家が続いたから、取ってみるかと聞きに行ったわけである。その範疇で卒業に必要な何単位かを取る必要もあったし。当時の神戸商科大学から来ていた非常勤講師が担当で、この「黒人史の栄光」のテキストの編註者の一人でもあった。奴隷体験記やらの話などもあったと思う。

その後ライトで修士論文を書くためにアフリカ系アメリカ人の歴史を辿る中で、自分の中の反体制の意識に気づき始めた。ライトは奴隷制や奴隷制で作られた体制にまともにぶつかっていたので、作品もその色彩が強かった。先にライトの作品を読んで自分の中の意識に気づいていたら、ヒューズや「黒人史の栄光」を批判的に見ていたと思う。

リチャード・ライト(小島けい画)

 ヒューズには寛容や慈愛という文字が似合う。奴隷として辱めを受けてながら耐えて生き延びた人にも寛大だった。白人たちと妥協しながら黒人たちの地位向上のために遅々とした歩みを続けていた「全国黒人地位向上協会」(NAACP)にも優しい目を向けていた。本文にも好意的に紹介されている。白人優位・黒人蔑視の意識に激しく抗議するライトやマルコム・リトル(↓、小島けい画)とは、趣が違う。

ヒューズの寛容さは、ひょっとしたら少し出自に関係あるかも知れない、と「黒人史の栄光」のテキストの編註者が巻末に載せてくれているヒューズの殺祖父母くらいまでの系譜を見たときに、ふと思った。その系図では父方はみな白人で祖父方の曽祖父はスコットランド系酒造業者と政治家・国務長官、祖父方の曽祖父はユダヤ系奴隷商、母方の祖父は国会議員・外交官、政治家・商人、曽祖父は白人農園主で曽祖母は家政婦とある。奴隷制でいい思いをした側である。奴隷商人に荘園主までいる。それもだいぶ金持ち層で、体制を維持した加害者側である。母方の曽祖母が唯一黒人、農園主が家政婦に手を出したということだろう。肌の色も白人に近く、黒人でも比較的裕福な家庭で、コロンビア大学に進学している。在学中にアフリカ航路の船に乗り込んで、大学は中退したようである。父親に捨てられ、母親が弟と二人を南部で育て、シカゴでは生活保護を受けていたライトの境遇とはずいぶんと違う。

「黒人史の栄光」の本文は Langston Hughes Reader(1978)の中に入っている。本文を自らが朗読し、歌や詩を盛り込んでSmithsonian Folkways Recordからレコード(↓、LP)を出していて、今はウェブでCDか音声データを購入できる。私は黒人研究の会の人からLPを借りて、大阪工大のLL教室の補助員の学生にカセットテープにデータを移してもらった。授業でも使っていたので、パソコンを使うようになってからは音声ファイルにして学生にもコピーをして渡していた。本人の声を聞ける貴重な歴史的資料でもある。

 ヒューズ、ライト、ボールドウィンは翻訳が比較的多い。註釈書にも木島始『ラングストン・ヒューズ詩集』(思潮社、1969)、木島始『ある金曜日の朝(作品集)』(飯塚書店、1959)、齋藤忠利『ニグロと河(詩集)』(国文社、1962)、齋藤忠利『黒人街のシェイクスピア(詩集)』(国文社、1968)、浜本武雄『笑いなきにあらず(黒人文全集5)』(早川書房、1961)が紹介されている。私より20ほど上の世代の人たちで、黒人文学の草分けである。木島さんはジャズ関係でよく雑誌やメディアに出ていたし、齋藤さんは黒人研究の会の総会で一度会ったことがある。岩波新書『アメリカ黒人の歴史』の本田さんと一橋で同僚だった頃である。浜本さんはライトのものを翻訳していたので、名前は知っていた。この辺りの本は、神戸と大阪の古本屋を巡っている時にわりと見かけた気がする。黒人文全集は古本で購入した。全集もLangston Hughes Readerもうかかわることもないかと処分してしまった。全集は翻訳は読まなかったので、資料として置いておくだけだったが。こんな文章を書くなら、Langston Hughes Readerは置いておいてもよかったのに

ラングストン・ヒューズ(Langston Hughes, 1902-1967)

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つれづれに:アフロアメリカ史を

小島けいカレンダー「私の散歩道2022~犬・猫・ときどき馬~」10月

 10月になった。最近周りにあまりコスモスは見かけないが、季節は確実に巡っているようである。もうすぐ来年度のカレンダーが届く。

今回はアフリカ系アメリカ人の歴史である。母親から突然「百万円」借りてきてと言われ人に借りたものの、30くらいで死ぬにしても人に借りてまで生きてはいけないと思い直して「採用試験」の準備をして高校の教員になった。書くために大学の職を求めて職歴5年の資格で「教職大学院」で修士号を取って準備を始めた。その時書いた「修士論文」のテーマに選んだのがアフリカ系アメリカ人の作家リチャード・ライト、その作品を理解するために自然と歴史を辿り始めた、というわけである。

リチャード・ライト(小島けい画)

 そのつもりでやり始めたわけではないが、途中でそうだったんだと気づくことがある。一度気づくと、実は元々意識下の深層にあったもので、それに気づいただけに過ぎないと思えることがある。意識下の深層に気づいたことを書きたくなった。実際に触ると冷たいとか熱いと感じるなどの現象と違って、意識の中の問題なのでうまく書けるかどうかもわからないし、それが実際にそうなのかも確かめようがない場合もある。しかし、高校の時に摺り込まれた無意識の常識と同じように再確認する必要がある。つい生き存らえてしまった意識の深層を探るのに時間がかかっているが、今回は大学の職が決まって大学で時を過ごす中で考えたことが中心になる。二つ目の大きな山になりそうだ。少し時間がかかるかも知れない。

 ラングストン・ヒューズ(↑、Langston Hughes, 1902-1967)の “The Glory of Negro History” (↓、1964年)が私の最初のアフリカ系アメリカ人の歴史である。如何にも詩人の書いた歴史で、華がある。アフリカ人がアメリカに連れて来られるようになった頃から公民権運動が始まる頃くらいまでの詩人から見た民衆の物語である。詩人らしく、自ら朗読してレコード(LP)にも残している。当時生存中の著名人の演奏や朗読を織り込んだ貴重な歴史資料でもある。アフリカから無理やり連れて来られた人たちが受け継いできた音楽も盛り込み、レコードをカーター・G・ウッドスン博士に献じている。

 本格的に歴史をするのであればハーバード大学でアフリカ系アメリカ人として初めて博士号を取ったCarter G. WoodsonのThe Negro in Our History (1922)ゼミの担当者貫名義隆さんが翻訳したWilliam Z. FosterのThe Negro in An American History (1954)(『黒人の歴史―アメリカ史のなかのニグロ人民』、大月書店、1970年)シカゴ大のJohn Hope FranklinのFrom Slavery to FreedomA History of Negro Americans (1980)などを読むのだが、私の力量を越えていたので、先人たちの手を借りた。ヒューズの“The Glory of Negro History”、ライトの12 Million Black Voices、マルコム・リトゥルのMalcolm X on Afro-American Historyアレックス・ヘイリーのRoots、本田創造さんの『アメリカ黒人の歴史』、それとテレビ映画「ルーツ」である。おおまかな全体像を掴む助けになった。

12 Million Black Voices

 今日で73歳になった。授業でセネガルのユッスー・ンドゥール(↓)の曲をかけている時にたまたま誕生日が同じなのを知った。ただし、1959年生まれ、私より10歳年下である。フランスはイギリスとの植民地争奪戦で遅れを取り、イギリスの植民地より条件が悪い地域しかなく、人と制度などを利用しての間接統治は出来なかったので、直接統治の形態を取らざるを得なかった。同化政策なので、パリが中心である。セネガルで成功したらパリで活躍というパターンが多い中で、首都のダカールにスタジオを持ってそこを拠点に活動をしたらしい。なぜか、1990年のネルソン・マンデラ釈放記念コンサートや1994年のウッドストックロックフェスティヴァルなどの世界の大きなイベントにも招待されていた。日本にもたびたび来て、ファンも多かった。宮崎のツタヤでもオブラディ・オブラダの入っているアルバムJOKOが売っていたから驚きである。アフリカものの2枚のうちの1枚だった。

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つれづれに:ブログ再開

 秋分で山頭火の「お彼岸花」の句(→「山頭火と彼岸花」)について書いたあと、彼岸花に目が行くようになった。もちろん鮮やかな赤が主流だが、黄色いの(↑)やピンクがかったものも意外とたくさん咲いている。その彼岸花も盛りを過ぎて、すすきの季節である。お盆前から咲いている→「ハイビスカス」(↓、小島けい絵のブログ)がとうに盛りを過ぎていると思っていたら、台風でもやられずに、まだ毎日咲いている。鮮やかな赤い花だけに余計に目に入ってくる。思っていた以上に、あちこちの家に植えられている。黄色い花もある。

 ブログを再開することにした。9月も今日で終わり、明日からは10月である。授業がないので、新学期の準備をしなくていい。時間に合わせて無理やり動かなくていいのがありがたい。だいぶ生活のリズムも変わった。

九月末締め切りのすばる新人賞に応募するつもりで一年ほどそればっかりやってきたが、400字詰め原稿用紙に貼りつけたら600枚ほどになっていた。それに、前回9月末締め切りと思っていた期日が7月末で既に過ぎている。次回が来年の3月末らしいので、今度は期日を意識しながら書くようにしよう。半年あれば、応募要項に合う枚数に書き直せるだろう。200枚か300枚くらいが多く、新人賞の中には100枚台もある。文学界と群像には100枚台の原稿を出した。出版社は売れないと判断したので、構想を練り直して今回の原稿を書いた。書きながら、三つほどの山に分ける方がいい気がしていた。読む方からすれば、あまり長いのも考えものだ。三つも山があるより、それぞれを一つの山の方が焦点がぼけなくていいかも知れない。3部作にするのもありか。1作目が出ても、2作目、3作目の方が大事だと言われる。今回のを基に3作分を併行して書くのも悪くない。

 台風で南瓜の柵(↑)が傾いて、畑も荒れたままである。暑さも何とか凌げるようになっているので、そろそろ冬野菜に向けて、また少しずつ畑作業も始めたい。10月は芽を出しても虫にやられてしまうので、希釈した酢をかけられる程度の作業をしながら、11月に虫の心配がなくなる頃に、大根、葱、レタス、ブロッコリー、絹鞘豌豆(↓)の準備をして、またお裾分けできる程度に作れたらと思っている。

 柿も色がつき始めている。台風の雨風にも落ちないで生き延びた。葉が落とされて実がよく見える。400個から500個(↓)ほどはありそうである。先に10個ほど色づいたので採って剥こうとしたが、すでに柔らかくなってしまっている。普通の熟れ方とは違うようで、剥くのも難しいし、干しても途中で落ちてしまいそうである。元々柿は寒い地方に育つ樹で、寒風の吹きすさぶ中で乾すのがいいようだ。宮崎のような暑いところでは、元々無理がある。切り干し大根は清武や田野の名産になっているが、12月や1月の冷たい霧島降ろしがが吹いて、初めて名産に値する干し大根になる。この時期に実がなるのだから、仕方ない。悪条件のなかでも、ひとつひとつ剥いて干そうと思っている。干す前に熱湯に浸すのも、うまく仕上げるこつの一つらしい。

また、ブログ「つれづれに」も再開である。

つれづれに

つれづれに:山頭火と彼岸花

暑い暑い日々が続いていたら台風が来て、一気に秋になった。昼と夜の長さが同じになる秋分の日辺りの一週間が秋の彼岸で、気が付いたら彼岸花が咲いている。あしたは旧暦二十四節気の秋分で、次の寒露は10月8日、季節は確実に進んで行く。

彼岸花を見ると、山頭火の

移ってきてお彼岸花の花ざかり

が必ず浮かんでくる。昭和7年(1932)に山口県小郡町矢足の農家を借りて移り住んだ日である。其中庵(↓)と名付けたらしい。移って来た初日の日記の最後に載せられている。父親と財産を潰し、妻と熊本に逃げている。一時上京して市役所で働くも、関東大震災で離婚していた妻の家に転がり込んだ。

大正7年(1918)弟二郎自殺する。
8年(1919)木村緑平と初対面。単身上京。
9年(1920)妻咲野と離婚。臨時雇いとして一ツ橋図書館に勤務。
10年(1921)父死去。東京市役所に正式に就職。
11年(1922)熊本に一時帰る。東京市役所を退職。
12年(1923)関東大震災に遭い、熊本に帰る。

酔って市電に飛び込んでも死にきれず、得度、堂守になっても落ち着けず、旅に出てた。

13年(1924)酒に酔って市電を停める。報恩寺に連れて行かれ、禅門に入る。
14年(1925)出家得度、耕畝と改名。座禅修業。味取の観音堂の堂主、近在托鉢。
15年(1926)観音堂を去り、行乞放浪の旅に出る。放哉死去。
昭和2年(1927)山陰地方を行乞。
3年(1928)四国八十八ヶ所巡り行乞。放哉墓参。
5年(1930)宮崎地方行乞。熊本市内で自炊生活。「三八九居」と名付ける。
6年(1931)『三八九』一、二、三集を出す。咲野のもとに、後に再び旅に。
7年(1932)川棚温泉結庵に失敗。小郡町矢足に結庵、其中庵と名付ける。

生まれた近くの農家でのしばしの定住だった。

昭和七年九月廿一日

庵居第一日(昨日から今日にかけて)。

朝夕、山村の閑静満喫。

虫、虫、月、月、柿、柿、曼殊沙華、々々々々。

・移ってきてお彼岸花の花ざかり

・蠅も移って来てゐる‥‥

近隣の井本老人来庵、四方山話一時間あまり、ついでに神保夫婦来庵、子供を連れて(此家此地の持主)。

――矢足の矢は八が真 大タブ樹 大垂松 松月庵跡――

樹明兄も来庵、藁灰をこしらへて下さった、胡瓜を持って来て下さった(この胡瓜は何ともいへないいうまさだった、私は単に胡瓜のうまさといふよりも、草の実のほんとうのうまさに触れたやうな気がした)。

酒なしではすまないので、ちょんびりショウチュウを買ふ、同時にハガキを買ふことも忘れなかった。

今夜もうよう寝た、三時半に起床したけれど。

・さみしい嘱託の辛子からいこと

・柿が落ちるまた落ちるしづかにも

日記の中の樹明兄は近くの農業学校で教員をしていたようで、大山澄太や木村緑平などと同じような人のいい人たちである。俳友だけの縁で、乞食同然の山頭火のために神保夫婦(此家此地の持主)と交渉して住めるようにあれこれ尽力したわけである。家賃も何もかも、お布施だったのか。山頭火はそういう人たちに生かされていたということだろう。もちろん、そんな人たちばかりではない。其中庵に入る前は川棚温泉で住むことを断られている。地域を挙げて、住まんでくれと意志表示したわけだ。行乞とは言え、働きもせず、わけのわからぬ俳句を詠む乞食同然の生き方を川棚温泉の人たちは受け入れなかったのである。後の世代の川棚温泉の人たちは何もなかったかのように、山頭火ブームに乗って「山頭火の愛した川棚温泉」という文句を観光宣伝に使っている。温泉の好きな山頭火は「千人湯」(↓)に通ったらしい。

私と違って裕福な家に生まれても、楽しく暮らせるかどうかは自分次第ということか。勧められた相手と結婚して子供まで出来ている。日記などを見る限り、相手はまともな人のようである。夫と父親についていくしかなかったとは言え、いっしょに熊本に逃げて、酔って死にきれない相手は得度して旅に出てしまった。妻の咲野さんも大変な人生である。自分を持て余しながら、周りに散散迷惑をかけながら、山頭火は生き恥を晒していたわけか。句には人恋しさやどうしようもない自分や山や花やらがごちゃまぜで、それでも「移ってきてお彼岸花の花ざかり」の句には、長いどうしようもない旅のあとにしばし訪れた定住のほっとした安堵感がある。芸術作品は自己充足的なものらしいが、困ったものである。「 なんで山頭火?」、→「山頭火の生涯」、→「防府①」、→「防府②」はすでに書いた。「熊本へ」、「熊本で」、「宮崎へ」、「熊本から」、「再び宮崎へ」、「宮崎で①」、「宮崎で②」、「宮崎で③」「其中庵へ」、「其中庵で①」、「其中庵で②」、「松山へ」、「風来居」を書くつもりだが、少し時間がかかりそうである。