つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:しゅうさく

元々「つれづれに」は徒然草の「心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば‥‥」くらいの気持ちで書くつもりで始めた。HPもブログも授業がある時は毎日複数ページを更新していたので、そこに「つれづれに」を書き込んだりしていた。しかし、授業がなくなる暫く前辺りから、小説を書き始めて、すでに2回出版社に送っている。「小説を書く時間を確保するために大学を探し、芥川賞か直木賞でも取れたら‥‥」という話を、世話になっていた出版社の社長さんにしたら「賞は出版社が売るための便法だから、辞めといた方がいい」と言われた。そのあと、雑誌の記事や註釈書や翻訳書や本を次々と言われて、それをこなしているうちに、定年退職の年になってしまった。「普通は自費出版で1冊200万か300万か要りますが、玉田さんはいいですよ」とは言われたが、結局は印刷物になった本をせっせと学生に買ってもらうことになった。自分の学生の頃は「注釈書と翻訳書はしたくない」と思っていたが、気がついたら注釈書2冊と翻訳書1冊が印刷物になっていた。

大学の教員になっても業績は求められるので、どこかの学会からでも印刷物を出す必要はあった。もちろん公務員を業績がないから辞めさせるのは実際は難しいし、統合してわかったが、何年も業績がなくても平気な人が結構いた。ただ、そのつもりではなかったが教授になって、平気な顔も出来ない立場になってしまった。そういう事情もあって、本や雑誌の記事は業績になった。学会のものとは違うが、理系ばかりの中だと中身まで見る人がいるわけではないので、本だけで充分のようだった。英語だとなお評価が高い。英文書も2冊ある。科研費も出版物が多かったから、もらえたみたいだし。

出版社の社長さんがなくなってやっぱり「小説を書こうと思って大学に来たんだから‥‥」と思い直して、何年か前に小説を書き始めた。本はもういいので、出版社が売れると判断してくれればいい、という感じだ。最初に小説を書こうと思った時と少し趣は違うが、そういう風に生きて来たみたいだ。

2003年にホームページを作ってもらって授業で使い始めてから、すっかりパソコン仕様になってしまった。もちろん元はボールペンや鉛筆で原稿用紙を使って書いていたが、授業で使っているうちにすっかりその仕様になってしまった。群像に出した時は、手書きで原稿用紙に書いたが、手がその作業に耐えれなくなってしまっている。無駄な抵抗は辞めて、パソコン仕様で行くことにした。

だから、「つれづれに」が小説のしゅうさくになってしまったのである。修作か習作かはわからないが、小説の一齣を「つれづれに」に書いている感じだ。そうでないと「つれづれに」を毎日は書けない。本当は出版社が売れると判断してくれた時点で「つれづれに」は終わるつもりをしていたが、先行きは不透明である。

お盆前から咲いているハイビスカス(↑↓)がまだ咲き続けている。炎天下に咲き続けるのは、やはり南国の花で、ハイビスカスも妻に描いてもらった花の一つである。カレンダーにも入っている。(→「ハイビスカス」「小島けい絵のブログ」)

「私の散歩道2021~犬・猫・ときどき馬」8月

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:畑と節気

畑にいる時間や散歩をして草花や樹の様子を見ているときは、旧暦の24節気が身近に感じられる。「昔の人はうまいこと言うなあ」と感心することが多い。ただ今のこの暑さというか熱さというか、こういう事態が続くとすべてが吹っ飛んでしまう。年齢とともに皮膚が弱くなり、焼けるようにひりひりすることもある。汗の臭いがきつく感じられることも多い。何回も風呂に入って汗を流すが、それでもなかなかである。高校時代に過ごした部屋はトタン屋根で、南側に窓がなかった。別の屋根の上に継ぎ足した部屋に行くための階段があったためである。階段を上がって一度外の物干しの場所を通って別の部屋に行くようになっていた。トタン屋根で風が通らず、これ以上ない最高のコンディションだった。若くて肌も堪えてはいたが、苦しかった。何軒か行ってた家庭教師先の家には皆クーラーがついていたので、その時ばかりは過ごしやすかった。一度台風でトタン屋根が飛んだことがある。それもかなりの雨風が急に止んで青空が見えたのである。台風の目の中に入っていたようだ。それからまた雨風が続いた。貴重な経験だったが、大変だった。今の家は雨漏りもしないし、少々の雨でも家の中にいればあまり音もしない。天国と地獄である。春の花をささっと書くつもりがもうずいぶんと時間がかかっている。その期間、24節気のことが頭からすっかり抜けていた。畑にも出られずに、季節を感じられないほどだったというわけである。今年は立秋が8月7日からで、その辺りまで季節を辛うじて追いかけていたが、それ以降が暑すぎたのである。畑に出る自信がなかった。いろいろ試すつもりだったが、畑にも出られず、春先に植えた夏野菜が実をつけているのに、それを採りに出るのも難しかった。オクラ(↑)は虫がつくと葉が巻いてしまうので、希釈した酢をかけないと、と思いながら、実も採れなかった。大きくなり過ぎると包丁も入らない。大きくなっているのがわかっていながら、出られなかったわけである。次の節気の処暑が8月23日に始まり、 9月8日には白露が始まる。処暑は「厳しい暑さの峠を越した頃です。朝夕には涼しい風が吹き、心地よい虫の声が聞こえてきます。暑さが和らぎ、穀物が実り始めますが、同時に台風の季節の到来でもあります」と解説にはっ説明はあるが、実際はまだ峠を越した感じがしない。朝晩が涼しくなったら、また畑を再開したい、と思えるといいのだが。オクラはまだ峠を越していない。虫でやられた箇所は切り取って、希釈した酢を撒き、追肥もしたい。南瓜(↓)の柵も途中になったままで、蔓が伸び放題、一昨日隣との境の草を取った時は、危うく隣の家に蔓の先が侵入しかけていた。樹に蔓を蒔いて、大きな実が2個なっていた。金木犀の垣根にも蔓が這っているので、実は期待できそうである。

柿がすっかり大きくなっている。大きな台風が来て落とされなければ300個近くあるかも知れない。一時期取り入れるのも洗うのも剥くのも干すのも面倒臭くなっていたが、今年はその頃には暑さも過ぎていそうなので、大丈夫そうである。去年は6個しか干し柿にできなかったのでお裾分けも叶わなかったが、今年は何軒が持っていけそうである。保存食とは言え、甘いので冷蔵庫に入れていても黴が生える。二人ではそうたくさんは食べられない。やっぱりお裾分けしかない。

次は、春の花6、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:春の花5

 「ほぼ初めての春の花」「春の花2」「春の花3」「春の花4」に続き、春の花5で、芍薬(しゃくやく)と牡丹(ぼたん)とアネモネである。

 立てば芍薬座れば牡丹 歩く姿は百合の花

 と言われてきただけあって、その花もどちらかというと清楚で、豪華である。元々落語家やはなしかが女の人の容姿を言うのに使ったらしい。つい口に出るくらいだから、七七七五のリズムがよくていろいろな所で使われてきたということか。装画に言われたわけではなかったが、花屋の店先で見つけて鉢植えを買って書いてもらった。カレンダー(↑)にも入っている。百合はお盆の前後に、道端や線路脇や土手など、あちらこちらで咲いている。

 牡丹はやっぱり豪華である。こちらの家に引っ越してきてから神宮の植木市で3本買って植えていたので、毎年豪華な花(↓)が咲いていた。三本とも枯れてしまったので、去年の三月にまた植木市にでかけて、二本買って来た。木陰に植えて下さいと教えてもらった。南側の一番陽の当たる場所に植えていた。知らぬが仏である。カレンダー(↓)にも残っている。

小島けい「私の散歩道2010~犬・猫・ときどき馬」5月(企業採用分)

 見事な華を切って部屋に運び、その日のうちに妻が仕上げてカレンダーの原画になった。実際の華を真近かに見ながら描いただけのことはある。絵に勢いがある。額に入れても、なかなかである。一枚は今手元にはない。寺に牡丹がたくさん咲くので牡丹寺になるように、絵を分けてもらえませんかと言って下さる方がいて送ったからである。

「私の散歩道2010~犬・猫・ときどき馬」5月

 高校の教員の時に出会った人(→「ホームルーム2」、→「修学旅行」)から「親父が牡丹の絵をわけて欲しいと言ってます」と言われた。実家が香川のお寺だそうで、お兄さんが住職をしているらしく、その寺に飾りたいとのことだった。有難い話である。丁寧に包装して絵(↓)を届けた。

 「親父が家庭訪問に来て欲しいと言ってますけど‥‥」と言われて会いに行ったのがその人との最初である。何を話したのかは覚えていないが、いまだに年賀状が届き、私もカレンダーを送り続けている。仲人を頼まれた。「すべての社会の規範をもう一度取捨選択して取り込み直そう」(→「諦めの形」)と心に決めて、出来る限り入学式(→「大学入学」、→「院生初日」)、卒業式、結婚式、葬式など、式の類は避けていたので断りたかったが、父断り切れなかった。本人からは「上司二人のうち一方に頼むと角が立つので、髭だけ来てくれたらいいから。たまさん、お願い!」と言われて妻といっしょに出かけた。披露宴では「髭だけ来ました」とだけ挨拶をした。寺に飾ってもらっているのは奇跡である。

 寺に参詣に来たたくさんの人(↓)に絵のカードに作者紹介を書いて配って下さったそうである。二十代に出会って以来続く、有り難い、有り難い縁である。

寺に集まった檀家の人たち

 次は、春の花6、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:春の花4

 「ほぼ初めての春の花」「春の花2」「春の花3」に続き、春の花4である。まだ続くかも知れない。今回は木蓮(もくれん、↑)と梔子(くちなし)である。

「私の散歩道2011~犬・猫・ときどき馬~」表紙(企業採用分)

 紫木蓮は馬といっしょにカレンダーになっている。馬を描ける人は多くないらしいが、自分が牧場COWBOY UP RANCHに乗馬に通って、馬の背中にも乗り、毎回牧場中の馬たちに挨拶をして人参をやっているからか、なかなか馬の表情がいい。紫の色には品があり、その当時載せてもらっていた玄風も満足してくれただろうか?カレンダーにもなっている。

 木蓮は家に植えてなかったので、探す必要があった。絵に使う花や実を探すのは私の役目で、紫木蓮の枝も何回か頂戴した。いい枝が見つかってもらおうとしたが、ちょうど交番の前だったこともある。それでも結局、頃を見計らって枝を何本か摘んで無事持ち帰り、カレンダーの表紙絵になった。ごめんなさい。

「私の散歩道2013~犬・猫・ときどき馬~」3月

 木蓮(→「紫木蓮」)は「明石」の家の庭にもあった。100坪余りの家で南側にきちんとした庭もあった。梅と松と沈丁花と木蓮が毎年花を咲かせていた。小さな娘を連れて転がり込んで二人が働いていたので(→「中朝霧丘」)、時間の余裕がなかったこともあったが花まで気が行かなかったのが実際のようだ。それでも梅のかすかな香りや沈丁花の春を告げる香りは感じたし、「木蓮」(小島けい絵のブログ)の臙脂がかった紫色には気品があった。毎年大きな花を咲かせていた。その時はそれが木蓮だと持ってたが、白木蓮もあると意識したのは宮崎に来て、それも今の家に引っ越しをして来てからである。一軒一軒が広くて庭があり、大抵の家は大事に樹を育てている。「白木蓮」 も多い。

「私の散歩道2009」4月

自転車に乗って角を曲がったら急に白木蓮が浮き上がって来た、そんな感覚を何度か味わった。一面が浮き上がったように見えるときがある。何日か前も、ある日、散歩の途中に振り返ったら、急に白木蓮が浮き上がって来るような感覚になった。夕方、まだ明るい時間だった。次の日、確かめてみたくて前日に通ったコースを辿りなおしたが、薄暗くてわからなかった。また、明るいうちに出かけたら、振り返った時に白木蓮がくっきりと浮かんで見えていた(↓)のがわかった。

 妻の絵のブログ「Forget Me Not」は私が更新している。検索エンジンを探してもらって、訪問者と訪問数を毎日確認してだいぶ経つが、アメリカやソ連や中国など色んなところから、結構な人が観に来てくれている。スウクライナの訪問数も多い。英語訳をつけることにした。木蓮、辛夷(こぶし)や泰山木(たいさんぼく)などのモクレン科は一般にMagnoliaが使われているらしい。ブログの場合は絵があるので、泰山木はMagnolia、白木蓮はWhite Magnolia、紫木蓮はPurple Magnolia、辛夷Kobushi Magnoliaでいくことにした。

 梔子も明石ではあまり目にしなかったが、大学のキャンパスの駐車場の垣根になっていたので、その時期に蕾をもらって、人に贈ったり、研究室に飾ったりした。梔子も泰山木(たいさんぼく)もにおいがいい。泰山木は大きくてどこにでもある樹ではないのであまりこの辺りでは見かけない。宮崎医科大学に来た時、バス停から降りで研究棟にさしかかる辺りに大きな泰山木の樹があった。気づいていた人は少ないだろう。学生は車に乗って駐車所に行くし、近くの廊下は2階の建物の下で、ちょうど樹のある所は窓枠で見えないからだ。中庭の一部が駐車場になり、研究棟の改築の時に飯場のプレハブ用の2階建てが建って、中庭が使えない時期があった。その後プレハブを次の工事用にそのまま使うかどうかの議題が出た時、教授会で卒業生とそうでない人の間で一悶着あった。どちらも中心メンバーも多く、卒業生の母校愛をめぐって発言が続いた。その前に運動場を潰して駐車場を作ることが承認されて駐車場問題は片付いていたのに、中庭に駐車場の撤去の話題はでなかった。開学当初の中庭を愛する人たちの議論に中庭の駐車場の撤去を誰も言い出さなかったのが気に鳴った。泰山木2本はどうなったか?樹には災難だった。改築のどさくさに桐後されて、来客用の駐車場になってしまった。誰も気に留める人がいなかったようである。
 梔子は「死人にくちなし」で縁起が悪いと言っていた出版社の社長さんが一枚だけ装画(↓)に使っていた。気にしな素振りを見せたのか、切羽詰まっていたのか。「死人にくちなし」である。
 次は、春の花5、か。

「私の散歩道2010~犬・猫・ときどき馬~」6月

佐藤喜志夫『「エデンの東」のようで』