つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:歯医者さん

 宮崎に来て2年目の秋に、思わぬところから講演の依頼があった。「宮崎市とその周辺の歯医者さん有志が、毎日見ている小さな口の中ばかりでなく、他の世界のことも知ろう」と月一回集まって開いている勉強会に呼んでもらったのである。南九州大の「海外事情研究会」の依頼と同じように、宮崎ではあまりないことである。1987年にアメリカで大ヒットし、翌年の3月に大都市で封切りされた「遠い夜明け」(↑、→「セスゥル・エイブラハムズ氏への手紙」)は4月に宮崎で、その後、都城と延岡で上映されていたが、同時期に封切りされたイギリス映画「ワールド・アパート」は福岡までしかこなかった。南アフリカの白人ジャーナリストの自伝『南アフリカ117日獄中記』をもとに娘が脚本を書いた映画で、しみじみとした味わいのある映画である。(→「『ワールド・アパート』 愛しきひとへ」、↓)アフリカ人の監督による自主映画「アモク!」は大都市だけでごく僅かな人が観ただけである。暗くてやり場のない映画なので、娯楽映画とは程遠く、日本で興行が成り立ったとは思えないが。1990年2月12日にマンデラが釈放されているから、その直前の話だった。釈放されたマンデラは西側諸国に経済制裁の継続を訴え、100万個の住宅建設を宣言した手前、各国を回って金集めに忙殺されていた。日本にも来て国会で話をしたが、日本政府は特定の政党に金は出せないと屁理屈をつけて一円も出さなかった。1987年にANCのタンボ議長が来日した時は、雀の涙ほどの4000万を出して、アフリカ人政権を支援しているのでアフリカ人政権が誕生した時にはよろしくとでも言うつもりだったのか。そんな状況を知ってか知らずか、宮崎にもアパルトヘイトに関心のある人がいたというわけである。

主人公役のバーバラ・ハーシー(小島けい挿画)

 生きても30くらいまでかと諦めていた後遺症はいろいろ自覚出来たが、中でも歯は悲惨だった。先行きを考えないので手入れをしなかったし、甘いものが好きな上に、最初に家の近くでかかった歯医者が酷かった。今ならウェブの書き込みを見て、ある程度診療程度を確かめられるが、歯が痛くなるとすぐ近くの歯医者に駆け込むのが当たり前だったから先のことまでは考えが及ばなかった。そういう時代だったと言えばそれまでだが、酷い歯医者もいるという前提でものを考えなかった。コロナ騒動が始まって義歯で助けてもらった歯医者には行けなくなったので、その歯医者さんの勧めもあって歯石取りと定期健診のために近くの歯科医院を探した。ウェブの評判を見て治療してもらったが、評判通りだった。

クリニックの近くの宮崎神宮

 宮崎に来たときに、まだ生きるなら歯の手入れも大切なのはわかっていたから、恐る恐る近くの歯医者を訪ねてみた。デンタルクリニックという看板は如何にも今風だった。講演を頼まれたのはその歯科医院の院長からだった。一通りの治療を終えた後、定期的に検診に通うように言われた。予防のための治療である。治療の段階でも納得したが、今以上に悪くならないために予防する定期検診は理に適っている。以降、かかさず検診を受けて、治療を始めた頃の状態をほぼ維持してもらえたのは院長のお陰である。治療の前後によく話をした。書いた記事や本を渡していたので、読んで集まりに講師として誘ってくれたようで、有難い話だった。

講演の内容は海外事情研究部のと併せて「自己意識と侵略の歴史」(1991年)にまとめた

 院長が六十代の半ばに「もう抜歯はしないので‥‥」と、他の歯医者を紹介された。2度ともあまりしっくり来なかった。院長が七十を過ぎて暫くしたころ「体力のあるうちに抜歯した方がいいですね」と言われ「そろそろ終活も‥‥」とも言われた。私はまだ定年退職まで少しあったので、すんなりと受け入れられずにいた時に、娘が「私が通っている歯医者さんなら抜かずに治療してくれるかもよ」と言ってくれた。吉祥寺で遠かったが、夏に何回か通った。最初、辛うじて残っている歯を見て「何とか残したいんだよね。歯は百年は持つように出来ているから。しかし、間に合うかなあ‥‥」と言った。レントゲン撮影をしたあと、写真を見ながら「残したいなあ‥‥」と言って治療を始めた。お蔭で義歯を入れてもらって、奥歯でものが噛めるようになっている。十年は違いそうである。コロナ騒動が始まる前の夏のことで、よく思い立って何回も通ったものだと感心する。その冬に定期健診に行く予定だったが、コロナ騒動が始まってしまった。行けないままだが、通える日が来るかどうか。
 次は、装画、か。

ASCII.jp:住みたい街ランキング上位「吉祥寺」多様性こそが強み ...

吉祥寺駅前

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:海外事情研究部

 宮崎に来た次の年に、非常勤で顔を合わせるようになった女性から講演を頼まれた。その人が顧問をしている海外事情研究部が大学祭で講演会を企画しているので、そこでアフリカの話をしてほしいということだった。宮崎でアフリカの話を頼まれるのは初めてだったので、事情を聞いた。海外事情研究部は、海外渡航や他大学との交流などの広範な活動をしているサークルだった。部が出来てからその年が25年目で、その年の統一研究テーマが「アフリカ」だったらしい。活動の一環で大学祭でアフリカ関係の講演会を開くので、私が顧問の人から頼まれたというわけである。顧問の人は県北の私大(↓)の講師で、私と同じ日に非常勤に来ていて、私と同じように誘われて教育学部の助教授の人の部屋にお昼を食べに来ていた。

 実践的な英語をやっていたようで、友人の福岡アメリカ文化センターの副センター長を紹介してくれた。特に興味があったわけではないが、いっしょにアメリカ文化センターに行ったことがある。アメリカ文化センターは、終戦直後のアメリカ化の一環でいくつかの都市に創られたようで、昔神戸にもあったと聞いたことがある。古本屋で見つけたカーター・G・ウッドスンの『私たちの歴史の中の黒人』という本の裏扉にアメリカ文化センターの蔵書印が押してあったのを思い出した。誰かが返却しないで売り飛ばしたか、廃棄処分にしたものが流れたのか、どっちやろ?としか思い浮かばなかったが‥‥。本は印字も剥げかけて古びていたが、黒人が初めてハーバードで博士号を取った人の本で、アメリカ黒人の歴史を辿る時は必読の本である。探していたので、僅か1000円で手に入ったのは幸運だった。センター長はアメリカ人で、実質的にセンターを運営しているのは日本人、如何にもアメリカの政策らしい。敗戦からずいぶんと経つのに、後遺症は残っているということか。

部長と顧問の人と

 大学では部員から大歓迎を受けた。大きな広い講義室で、日本人全般が持っているアフリカ観、この500年余りのアングロ・サクソン系の侵略の過程で植え付けられた白人優位・黒人蔑視の意識などについて話をしたあと、南アフリカに入植したオランダ人とイギリス人の話を、アパルトヘイトと日本の関係などを詳しく解説した。今なら映像や音声を交えながらやると思うが、その時はタイトルの「アフリカを考える—アフリカ、そして南アフリカ」を念頭に置きながら、黒板に南アフリカの地図を書いて、「自己意識と侵略の歴史」の話をした。アフリカを考える機会になってくれていたら嬉しい限りである。

 講演会の後、部員に部室に誘われてしばらく話をした。部長の人はリーダーシップがありそうなタイプで、全国唯一剪定師の資格が取れるのでこの大学にきましたと言っていた。部室は煙草の煙りで一杯だったが。この部長は「いつか南アフリカに行ったら、連絡します」と言い、その後も研究室に来てくれた。居合わせた医学生から大学祭での審査員を頼まれて、大学祭にも参加してくれたようである。卒業後は千葉に帰って起業したらしいが、ある年、南アフリカのおみやげがどっさりと送られてきた。「南アフリカに行って来ました。たまさんが話してくれた通りの南アフリカでした」と中の手紙に書かれてあった。「ラ・グーマの育ったケープタウンに家族で行くつもりで在外研究の申請をしたが、文化交流の禁止を理由に文部省に却下されて、僕は南アフリカに行けずじまいやけどなあ」
次は、歯医者さん、か。

講演の内容を「自己意識と侵略の歴史」にまとめて「ゴンドワナ」(1991年)に書いた

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:アパルトヘイト否!

 1988年に宮崎に来たとき、南アフリカの状況は緊迫していた。日本はアフリカ人から土地を奪ってオランダ人とイギリス人が勝手に作った政府と手を組んで高度経済成長を満喫していたが、多数派のアフリカ人を押さえ込み続けるのは経済的に効率がよくないと感じ始めたアメリカや西洋諸国は、1980年代に入ってからアパルトヘイト体制に変わる制度を模索し始めた。先進国主導の基軸は変えないで、亡命を強いられてザンビアのルサカにいたANC(アフリカ民族会議、旗↓)を担ぎ出し、「民主主義」を装う体制である。他のアフリカ諸国と同じように、アフリカ人の政権と手を握って、実質的には経済を支配するという政策である。産業資本家、金持ち投資家にとって、莫大な利益を確保し、富を増やし続けられるのであれば、大統領がアフリカ人でも何ら問題はない。実利の前に、肌の色は関係ない。

南アフリカの国旗 | アフリカ | 世界の国旗 - デザインから世界 ...

 大筋はそうだが、アフリカ人側は微力ながら西洋諸国の経済制裁を訴え続けていた。その結果、大都市では南アフリカ政府とあからさまに取引をしている大企業やスーパーは不買運動の対象になった。しかし、利益優先の大企業が手をこまねいている訳がない。都会でボイコットされた南アフリカの輸入品のワインや果物の缶詰は、せっせと地方の量販店に流していた。ダイエー(今はなき宮崎ダイエー、↓)やイトーヨーカドーで不買運動が行われていた関西から来てみたら、実際に南アフリカ産のみかんの缶詰が量販店に山積みされていた。大きな缶詰に100円の値札が貼られていた。

 しかし、抵抗を続ける人たちもいた。アパルトヘイト否(ノン)! もそういった抵抗運動の一つである。アパルトヘイト否国際美術展は1983年からアパルトヘイトが廃止された時まで世界中を巡回した。日本では1988年から2年間にわたり194か所で開催されている。その美術展が愛媛県松山(会場だった東雲学園↓)に来た時、講演会に呼ばれた。声をかけてくれたのは、母親の謝金で世話になった弁護士だった。(→「揺れ」、→「余震」)京大をでたあと、明石の法律事務所で働いていたときに世話になった。その後もやり取りが続いていて、宮崎に移ったことも知らせていた。当時その弁護士はヨットに乗っていて「水平線」という冊子を毎年送ってくれていた。私の方は書いたものや出してもらった本や妻の絵で作ったカードなどを送っていた。書いたものを見て、南アフリカの歴史の講演を思いついてもらえたようだった。まだやり始めたばかりで、南アフリカやアフリカ全般についての全体像がはっきりしていない頃だったので、拙い話になってしまって、今でも申し訳ない気持ちで一杯である。

 しかし、その後、教養の科目で南アフリカ概論を何年も担当して、しっかりとこの時のお返しをしたと思っている。借金の相談をしただけの縁で、講演会に呼んでもらえる幸運が舞い込んだわけである。西洋諸国の思惑通り、投獄した法律を変えずに同じ法律でマンデラを無条件釈放して、1994年に大統領職につけた。融和委員会を立ち上げて白人と和解する、何ともめでたい手前味噌である。タンザニアの大統領ニエレレ(小島けい画、↓)がコンゴのカビラに早期の民主主義的な選挙実施を迫る西洋諸国に「道義的にみて、お前ら、そんなことが言えた義理か?少しは恥を知れ!」とアメリカ大手の新聞に書いていた通りである。白人優位・黒人蔑視がまかり通る。
 次は、海外事情研究会、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:非常勤

 1988年の4月に宮崎医科大学(↑)に決まって大学に行ったとき、推薦してくれた人に英語科の人を紹介され、その人から後期からの非常勤講師を頼まれた。3月28日に来たあと大学に顔を出し、非常勤の世話をしてくれる教育学部の人がある旧校舎に連れて行ってもらった。挨拶に行ったのが街中の旧校舎で、そのあとすぐに今の宮崎大学のメインキャンパス(↓)に引っ越しをしている。教育学部の敷地にはしばらくしてから新しい大学が建った。新設大学の設立時の会議に参加したので、旧宮崎大学の移転や公立大の創立の時に近くにいたわけである。

 宮崎に来るまでの5年間も非常勤に行ってはいたが、今回は専任があって相互に助け合うという構図なので基本的にずいぶんと違った。教職大学院(↓)で修士号は取ったものの、大学の職を得るには学部から入学して博士課程を終えるのが一番の近道のようだったが、受験勉強をしなかったから初めからその道はなかった。途中からと思って遣り始めたが、他から博士課程には入れてもらえない構造的な壁は現実的に結構厚かった。どこでも公募はやっていたが、実質的な公募は少なかったので、履歴書にある学歴と教歴と業績を積み重ねて、推薦してもらうのを待つしか道はなさそうだった。非常勤をやりたかったわけではないが、他に方法はなかった。1年目は先輩に世話してもらった「大阪工大非常勤」のあと、「二つの学院大学」も頼まれ、5年目は週に16コマも持っていた。今回は農学部の2コマだった。

 非常勤に来ていた人とも知り合いになった。専任の助教授の人が気さくで、誘われてその人の部屋でお昼を食べるようになった。医大の研究室はすぐ近くだったが、お昼を挟んで2コマだったのでどこかで食べる必要があった。弁当を持って行って、いっしょに食べた。そのうち人が加わり、そこで知り合いになる人もいたわけである。前に非常勤に行っていた大阪や神戸と違って、こちらでは大学そのものがあまりない。名前を聞いたのは高鍋の南九州大(↓)、市内の産経大、都城の高専くらいだった。必修の数が多かったのでコマ数もかなりの数だったので、とても選任だけで足りなかった。他は専任を持っていない人が担当していたことになる。宮崎での非常勤探しは難しかったようで、2年目からコマ数が増えて行った。まだ高校のALT(英語指導助手)やコミュニケーション英語は制度としてなかったので、英語がしゃべれるだけの外国人が溢れる事態はなく、外国人はちらほらだった。教育学部英語科は中学校の英語課程の英語を担当していて、教授が4人助教授が3人外国人教師1の8人体制だった。業績がなくても年齢が来れば教授になれるなあなあの昇級人事で、教授が多く、完全な逆算三角形である。労働条件を管理職と交渉する組合に守られて、普通にしていれば教授に昇格して教授で定年を迎える、終身雇用と年功序列、外から見ればあまりにも生ぬるい国家公務員の体質の典型だった。後に統合するとは思ってもみなかったが、二つの大学を比較するとその体質が浮き彫りになり、逆三角形の構図が崩れた。

 一年目の後期に担当したのは農学部だった。一般教養枠の英語だったが、中高のように「英語」をするのではなく「英語」を使って何かをする、学生もいっしょにやる、が基本で、映像や音声、雑誌や新聞をふんだんに使った授業は、最初は戸惑う学生もいたが、楽しそうだった。「誰か調べて来て発表せえへんか?」と聞いたら「はい」「はい」と返事があって、活気があった。特に植物生産や森林緑地や海洋生産や獣医とかの名前が浮かんで来るので、その人たちが率先して発表してくれたんだろう。有名なセネガルのユッスー・ンドゥール(↓)の発表をしてくれた人が、宮崎市内でオブラデエィオブラダの入ったJOKOのアルバムを見つけて来てみんなに音楽を聞かせてくれたときは「へえー、宮崎にもユッスー・ンドゥールのCDがあるんや」と感心した。まだ持っていなかったので、JOKOはコピーさせてもらった。毎年授業であった学生が医学科の研究室まで遊びに来てくれていたから、少しは興味を持ってもらえたのかも知れない。その時の学生でまだ遣り取りが続いている人もいる。
 次は、アパルトヘイト否!、か。