つれづれに:借家に(2022年8月15日)
HP→「ノアと三太」にも載せてあります。
つれづれに:借家に
最悪の宮崎初日は宿泊所を移動して朝を迎えた。二日目も雨で、やはり肌寒かった。入る予定の借家に向かった。タクシーに乗り、中心街の橘通や宮崎駅を越えて、宮崎神宮駅(↑)より少し北の地域にある借家に15分ほどで着いた。紹介してくれた人の持ち家で、百坪余りあるようだった。10年余り住んでいた中朝霧の家と同じくらい位の敷地なので、狭い思いはしなくて済みそうである。話では、旧宮崎大学はこのあとすぐの4月1日から家から20キロメートルほど南にある学園木花台に移転する予定だった。宮崎神宮辺りに県立図書館などの文化施設があり、その近辺に教育学部と農学部と工学部の別々のキャンパスがあるらしかった。推薦してくれた人は元々旧宮崎大学農学部におられた方で、通勤圏内に分譲されていた新築の家を購入されていたようだが、これから行く宮崎医科大学に異動したので、通勤圏内の南宮崎駅近くに新築の分譲住宅を新たに購入したと聞く。宮崎駅から大淀川を越えて駅一つ南の駅付近である。今は宮崎駅近辺に中心が移っているが、昔は南宮崎駅辺りが中心だったらしい。宮崎交通の経営する宮交シティというショッピングセンター(↓)があり、今はなきダイエーも入っていた。その人が異動で新しい家に移ったあと、そのままにしていた家を借りたというわけである。
大学の英語科には同僚となる助教授の人がいるらしく、私が着任するのでその人が秋から在外研究に行けるらしく、現在持っている農学部の英語の非常勤を任せたいらしかった。全学の英語は教育学部の英語科が世話しているようなので、まだ旧校舎にいる英語科の人に会いに連れて行ってもらえるらしい。新学期の始まる前に二人で会いに行ったら、私が通った神戸の大学と同じように木造の2階建ての建物だった。建てられた時期が同じで、仕様が似ていたんだろう。教育学部の前身が旧宮崎女子師範学校で、このあと文科系の大学が用地を活用すると言っていたが、作るかどうかも含めて話し合いはこれからだそうである。人口が30万人ほどの地方都市に大学?と思ったのは、百万都市の神戸市でさえ、市立大学を維持するのは財政的に難しいというような話を聞いたことがあったからである。前身が農業専門学校と工業専門学校だった農学部(↓)と工学部も近くにあったらしい。同僚に紹介されたのは教育学部英語科の主任の人だったようで、上智大出身でイギリス文学が専攻、言葉遣いも丁寧な英国紳士風、だった。
家は1階は6畳3部屋に台所兼食堂、2階は6畳2部屋で、東側の玄関先と南側に庭、西側に広い畑があった。子供が2階、私は西の6畳、妻は6畳二間続き、テレビを6畳二間続きに置いたので居間を兼ねそうである。南北の風通しはよさそうである。南が2軒、東が1件、西が1件と隣り合わせだが、西は畑が間にあるので直接接しないでもよさそうである。北側がわりと近いので、今のところ家がないのは有難い。妻の父親が滞在するときは、子供部屋にどちらかに泊ってもらい、子供に移動してもらうことになりそうだ。
妻は引っ越し作業が落ち着けば、毎日でも描きたいとうずうずしている。娘は近くの小学校に、息子は幼稚園に行くことになりそうである。幼稚園はすぐ近く、小学校もそう遠いなさそうで、どちらも近いうちに挨拶を済ませておこう。少し東に県道があり、そこから東に少し行けば日向灘である。自転車も運んで来ているので、いろいろ探ってみよう。この日、郵便受けに最初の郵便物が届いた。予め引っ越し日を知らせていたので、この日に着くように出されたものらしい。出版社の社長さんからの分厚い手紙だった。
次は、初めての郵便物、か。
すぐ近くにあった宮崎神宮
つれづれに:お別れ(2022年8月12日)
HP→「ノアと三太」にも載せてあります。
つれづれに:お別れ
その時はそうも思わなかったが、私たちが宮崎に行ってしまったら会うのはこれが最後になると知って「中朝霧丘」の家に来て下さった人がいた。妻からその人の話はよく聞いていたが、お会いしたのはその時が初めてである。妻が異動して通った高校で同僚だった人である。中朝霧の家の最寄り駅はJR朝霧駅(↑)で、一駅西が明石駅(↓)、次が西明石駅でその駅までは複々線である。その区間も含めて海側には神戸と繋がっている山陽電鉄が走っている。公共の交通の便はいい。市立商業高校はその私鉄沿線にあったので、妻は明石駅から山陽電鉄を使っていた。その人の家は海岸近くの高校と私鉄の駅のすぐ近くにあったようである。
私よりだいぶ年上の人で、戦前に旧京都帝国大學の法学部に入ったらしい。妻の父親が九州の国立大工学部を出て、私たちが転がり込んだ家に定住するまで大手の紡績会社の技術職として工場を転々としていたが、工場長の待遇はかなりのもので、スラム同然の地域に住んでいた私と比べると、同じ時代に生きていたとはとても思えなかった。多くの人が大学に行ける今とは違って国立大学に行く人の割合は極めて少なく、その中での旧帝大系の東大は別格、それに次ぐ大学である。卒業して順調に行っていれば、相応のポジションにいて、相応の生活をしていたはずである。その人がどういう経緯で市立商業高校(↓)の英語教師をしていたのかはわからないが、二人目の息子が生まれた直後で妻が一番大変な時期にお世話になった。家事に育児に私の母親の借金にとほんとうにぎりぎりの毎日だったし、一年目から担任していたクラスでは「わたしせんせの言うことわからへん」と言われることも多く精神的にもきつかったから、学校での理解と助けは特別だった。産休明けに妻が担任を持たずに済んだのも、図書部所属で長に配慮してもらったお陰である。授業時間以外は図書室の一室であまり気を遣わずに過ごせたので、大部屋の職員室にいなくても済んだ。同じ時期に産休明けで出て来た同僚が、どうしてあの人だけ担任を持たなくていいの?と漏らしたと聞く。
その後、妻は神戸市の普通科の新設校に異動し、最後は家の近くの自分の通った高校(↓)に異動した(→「再び広島から」)が、ずっとその人との遣り取りは続いていたようだ。いつの頃からか、年末に弟の家とその人の家のおせち料理も作るようになっていた。高校の職と子供二人の世話に食事や家事だけでもかなりの負担だったのに、共働きの弟夫妻も母親の借金返済のために大変な思いをしていたので、せめておせちでもと毎年渡すようになっていた。ちょうどお世話になっている時期だったので、その人にも日頃のお礼にとおせちを持って行くようになった。その人は妻を33歳で亡くして以来、障害のある幼い娘さんを一人で育てていた。年末には二人で「魚の棚」に出かけ、昼網の鯛や生きた海老を買い込んで、妻が料理した。煮物には時間もかかる。妻の母親からは結婚したら料理をするから、今は料理せんでもいいよと言われて育ったようなので、料理の経験はなかったが、結婚した最初から家で料理もしてくれたし、弁当も作ってくれた。妻の父親も子供ももちろん私も、毎回おいしく食べさせてもらっていた。運んだおせちも、いつもなかなかの味だった。昼網で仕込んだ魚介類は、酒好きのその人には格別だった気がする。
その日はお昼前に家に来られた。妻がおせちの支度をしている間、お昼と夜の二食の相手は私の役目だった。お酒が大好きな人で、日本酒の熱燗をちびりちびりやりながら、ほんとうにおいしそうに食べていた。私は今はまったく飲まないが、その頃はビールを少しは飲んでいた。元々アルコールは体に合わないようだし、無理やり飲まされる場所を極力避けていたこともあって、酔い潰れたことはない。酔う前に、戻してしまうことが多かったのは、無意識に体の防御作用が働いていたのかも知れない。その日は、ビールを少しずつ飲んで、もっぱら聞き役に回った。素敵な人の話は長時間聞いていても、飽きることはない。楽しいひと時だった。十時くらいだったか、そろそろお暇をと立たれて玄関で挨拶をしたとき、人目を憚らずにはらはらと涙をこぼしておられたが、その人の生き方の結晶のような涙に思えた。おせちを抱えて、暗闇の中を帰っていった。私たちはいつでも会えると考えていたが、会ったのはその時が最後だった。年賀状は毎年届いて歌が添えられていたが、ある年から年賀状も来なくなった。妹さんから、少しぼけが入り出しまして、というはがきをもらったのが最後である。
次は、横浜から、か。
山陽電鉄