つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:お別れ

 その時はそうも思わなかったが、私たちが宮崎に行ってしまったら会うのはこれが最後になると知って「中朝霧丘」の家に来て下さった人がいた。妻からその人の話はよく聞いていたが、お会いしたのはその時が初めてである。妻が異動して通った高校で同僚だった人である。中朝霧の家の最寄り駅はJR朝霧駅(↑)で、一駅西が明石駅(↓)、次が西明石駅でその駅までは複々線である。その区間も含めて海側には神戸と繋がっている山陽電鉄が走っている。公共の交通の便はいい。市立商業高校はその私鉄沿線にあったので、妻は明石駅から山陽電鉄を使っていた。その人の家は海岸近くの高校と私鉄の駅のすぐ近くにあったようである。

 私よりだいぶ年上の人で、戦前に旧京都帝国大學の法学部に入ったらしい。妻の父親が九州の国立大工学部を出て、私たちが転がり込んだ家に定住するまで大手の紡績会社の技術職として工場を転々としていたが、工場長の待遇はかなりのもので、スラム同然の地域に住んでいた私と比べると、同じ時代に生きていたとはとても思えなかった。多くの人が大学に行ける今とは違って国立大学に行く人の割合は極めて少なく、その中での旧帝大系の東大は別格、それに次ぐ大学である。卒業して順調に行っていれば、相応のポジションにいて、相応の生活をしていたはずである。その人がどういう経緯で市立商業高校(↓)の英語教師をしていたのかはわからないが、二人目の息子が生まれた直後で妻が一番大変な時期にお世話になった。家事に育児に私の母親の借金にとほんとうにぎりぎりの毎日だったし、一年目から担任していたクラスでは「わたしせんせの言うことわからへん」と言われることも多く精神的にもきつかったから、学校での理解と助けは特別だった。産休明けに妻が担任を持たずに済んだのも、図書部所属で長に配慮してもらったお陰である。授業時間以外は図書室の一室であまり気を遣わずに過ごせたので、大部屋の職員室にいなくても済んだ。同じ時期に産休明けで出て来た同僚が、どうしてあの人だけ担任を持たなくていいの?と漏らしたと聞く。

 その後、妻は神戸市の普通科の新設校に異動し、最後は家の近くの自分の通った高校(↓)に異動した(→「再び広島から」)が、ずっとその人との遣り取りは続いていたようだ。いつの頃からか、年末に弟の家とその人の家のおせち料理も作るようになっていた。高校の職と子供二人の世話に食事や家事だけでもかなりの負担だったのに、共働きの弟夫妻も母親の借金返済のために大変な思いをしていたので、せめておせちでもと毎年渡すようになっていた。ちょうどお世話になっている時期だったので、その人にも日頃のお礼にとおせちを持って行くようになった。その人は妻を33歳で亡くして以来、障害のある幼い娘さんを一人で育てていた。年末には二人で「魚の棚」に出かけ、昼網の鯛や生きた海老を買い込んで、妻が料理した。煮物には時間もかかる。妻の母親からは結婚したら料理をするから、今は料理せんでもいいよと言われて育ったようなので、料理の経験はなかったが、結婚した最初から家で料理もしてくれたし、弁当も作ってくれた。妻の父親も子供ももちろん私も、毎回おいしく食べさせてもらっていた。運んだおせちも、いつもなかなかの味だった。昼網で仕込んだ魚介類は、酒好きのその人には格別だった気がする。

 その日はお昼前に家に来られた。妻がおせちの支度をしている間、お昼と夜の二食の相手は私の役目だった。お酒が大好きな人で、日本酒の熱燗をちびりちびりやりながら、ほんとうにおいしそうに食べていた。私は今はまったく飲まないが、その頃はビールを少しは飲んでいた。元々アルコールは体に合わないようだし、無理やり飲まされる場所を極力避けていたこともあって、酔い潰れたことはない。酔う前に、戻してしまうことが多かったのは、無意識に体の防御作用が働いていたのかも知れない。その日は、ビールを少しずつ飲んで、もっぱら聞き役に回った。素敵な人の話は長時間聞いていても、飽きることはない。楽しいひと時だった。十時くらいだったか、そろそろお暇をと立たれて玄関で挨拶をしたとき、人目を憚らずにはらはらと涙をこぼしておられたが、その人の生き方の結晶のような涙に思えた。おせちを抱えて、暗闇の中を帰っていった。私たちはいつでも会えると考えていたが、会ったのはその時が最後だった。年賀状は毎年届いて歌が添えられていたが、ある年から年賀状も来なくなった。妹さんから、少しぼけが入り出しまして、というはがきをもらったのが最後である。
 次は、横浜から、か。

山陽電鉄

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:横浜から

 宮崎に引っ越しをする前に、もう一組「中朝霧丘」の家に来て下さった人たちがいる。「横浜」の出版社の社長さんと編集者の人である。二人が来られるというので、先輩にも初めて家に来てもらえた。グギさんの友人も是非にという出版社の社長さんのたっての願いで、総勢4人になった。先輩は筋金入りの酒好きで、指導主事は退任する際に次の人を指名するという旧弊のお陰で33歳の若さで声がかかった強者である。「塩屋の海岸(↑)で釣りしてたら、『わし今年で退職やけど、あんた指導主事どうや』と電話がかかって来てな。いつもいっしょに飲んでる酒友だちからや。33歳の時やったなあ」と話をしてくれた(→「あのう……」)ことがある。その日も→「魚の棚」(↓)の昼網の海老や鰈を肴に好きな酒を飲みながら、終始上機嫌だった。

 グギさんの友人も酒は嫌いではないようで、同じくほろ酔い加減で終始上機嫌だった。黒人という言葉がよく使われるが、ビコが裁判で反論していたように「ブラックと言うよりブラウン」に近い。漆黒というより濃い目のブラウンの感じに近い。酒が入ると血の巡りがよくなって少し赤みを帯びる。ブラウンがかった葡萄色のような色合いである。母国語がギクユ語でナイロビ大学では講義はすべて英語、日本に来てからは日本語、他にもいつだったか、宮崎の大学で「いっしょにバスケットボールの試合をしていた(↓)人がルヒア人だった」という話をしたときに、「ルヒア語もわかるよお」と言ってたから、数か国語は出来るようだった。もっとも英語も日本語も関西訛りが入っているような独特の口調だった。全体にちょっとペースがゆっくりで、せっかちな私は時々苛々して揶揄(からかう)う時もあった。特に「イギリスに侵略されてキリスト教を押し付けられた」と言っているわりには、本人もグギさんもクリスチャンで、当然のような顔をしているのがどうも気に入らなかった。それもあって「侵略されて何がクリスチャンやねん?おかしいやろ」とかみついたら「実は、たまださん、元々ケニア山の麓には神様がいてはって。それがキリスト。ですからキリストは元々白人やないんやねん、黒人やったというわけです。だからクリスチャン」とぶつぶつ言っていた。先輩は「まあまあ」と言いながら、真っ赤な顔で上機嫌が続いていた。

 社長さんは、縄文時代は……とか、アフリカとアジアは……とか、相変わらず壮大な話を展開、先輩とグギさんの友人もその話に同調して意気投合、反アングロ・サクソン系の侵略の歴史認識が前提で話が続いている感じではあったが、聞いてる方はなんだかよくわからなかった。大体、終始そんな調子だった。妻は料理に忙しく、子供たち二人は大人の話を充分に理解しながら、一緒に座って話を面白そうに聞いていた。妻の父親の家の一番いい部屋を長時間独占しての我が物顔、可愛い娘と孫二人のためとは言え、今から思うとその寛容さに感謝するばかりである。わが身の図々しさは、この上なしだった。金大中や金芝河さん(→「1」、→「2」、→「3」、→「4」→、「5」)の死刑判決に抗議してグギさんが川崎で講演したときに後輩として手助けしたために、帰国すれば反体制分子として殺される状況にあったグギさんの友人。グギさんに会いにケニアを訪れ、グギさんの日本語訳を出版し続けている出版社の社長さんと編集者。私とグギさんの友人の非常勤を世話し、グギさんの日本語訳をその出版社から出してもらった先輩。その人たちが酒を飲みながら、主に社長さんと先輩とグギさんの友人が繰り広げた、時代と社会の枠を越えた寄多噺だった。

金芝河さん:『不帰』の扉写真

 宮崎へ引っ越したあとすぐに、黒人研究の会の総会でこの時の3人ともう一人の会員とでシンポジウムを開催した。専任になり損なった大阪工大が会場だった。妻には出版社の社長さんから演劇の本の装画を依頼され、私には雑誌の記事のほか、大学用テキストや翻訳本の依頼もあった。前年のカナダ訪問時に、翌年の発表を言われていたので、着任早々から次から次へとすることが待ち受けていた。
 次は、宮崎へ、か。

宮崎医科大学(旧ホームページより、今は宮崎大医学部、花壇の一部は駐車場に)

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:宮崎へ

 私は非常勤ばかりだったので特別に挨拶の必要もなく、先輩に報告するだけでよかったが、妻はやっと家の近くの自分の通っていた高校(↑)に異動出来た一年目で退職することになって、それなりの挨拶もあった。子供も二人あり、異動先近くの父親の家に同居している人がまさか一年目で退職すると考える人はいなかったようで、他の教員とはうまく行かないが頼りにされ始めていた同じ国語科の男性教員が、特にがっくりとしていたらしい。異動した年に県立高校からは珍しく県代表で野球部のチームが甲子園に行った。中学校から、普通なら特待生として私学に引き抜かれる投手二人が入学して来たらしく、あれよあれよろいう間に甲子園に行くことになった。私も妻も高校野球に関心があったわけではないが、担任した生徒は大喜び、当日は子供二人も担任の生徒に混じって応援に行ったようだ。そんなこともあって、ときどき学校帰りに生徒が家に寄ってくれたりしていた。引っ越し前にはわざわざ何人かが挨拶に来てくれた。宮崎に来てからも、何年かは年賀状が届いていた。宮崎の話がなければ、高校を辞める理由もないので、そのまま続けていた可能性は高い。私の大学の口以外は、充分にそれぞれが楽しく過ごしていたわけである。

 本人は二人の出産に家事に育児に、その上私の母親の借金までが重なって大変な毎日、元々体も弱かったので、客観的に見てもそのまま続けるには負荷がかかり過ぎていた。若さと母親の自覚だけで持っていたので、「再び広島から」電話があって「宮崎決まってんて」と話したとき「ほんと、わたし辞めてもいいの?」が第一声だった。また妻の父親が一人暮らしになるが「熊本の人やから九州には馴染みもあるし、気軽に宮崎に来られるから、パパは大丈夫よ」とも言っていた。妻の父親は上3人が男の子で、妻がずいぶん年が行ってから生まれた初めての女の子だったこともあり、ずいぶんの可愛がりようだったらしい。しかし、当の本人はそれほどでもなく、父親が結婚相手の身上調査でもしようものなら「家を出て行くで」と3番目の人に脅されて、父親が私の身上調査を断念したと聞く。一番目の時は実際に調査を依頼して反対をしたが、結局は押し切られたらしい。娘の小学校(↑)と息子の幼稚園にも挨拶を済ませた。

 なかなか大学の職が決まらず、やっと決まった先が遠い宮崎になってしまったが、単身赴任は考えたことはない。4人がいっしょの方がいいと親二人は考えていたし、子供二人は特に反対もしなかった。問題はないと子供の意向について考えもしなかったが、一言聞いておくのが自然だったかも知れない。普段から、親と子もたまたまの縁で、元々別の人間やからと言っていたのだから、尚更である。飛行機で事故にでも遭ったらと心配した妻の意向で、列車で行くことにした。3月28日の朝、西明石駅(↑)から新幹線に乗った。妻の父親と弟夫婦と甥が見送りに来てくれた。小倉で日豊本線の特急(↓)に乗り換え、宮崎に着いた。

 宮崎に着いたのは夕方でまだ明るかったが、雨模様で肌寒かった。知り合いに任せていた宿泊先は国家公務員宿舎だったが、これがよくなかった。トイレと浴場が共用、それに食事がお粗末過ぎたし、建物自体も古くて饐(す)えた臭いもして、侘しい感じが漂っていた。学校が終わってから遅くまで引っ越しの荷造りが続いていたし、荷物を出した後も前の晩まで何やかやと大変だった。当日も朝早くから起きて出る間際までいろいろ出発準備に追われていたし、新幹線はまだしも、小倉からの特急の5時間が特に長かった。宿泊所に着いた時は、ほっとして余計にどっと疲れが出始めていた。元気なら一日くらいは何とか我慢できたかも知れないが、強行日程のあとの妻には酷だった。それに南国だからという思い込みで、3月末の宮崎の寒さへの備えも不十分だった。色んな要素が重なり過ぎたのである。すぐにホテルを探し回って何とか近くのホテル(↓)をみつけて移ったが、辺りはすでに真っ暗で、雨も降り続いていた。何とも後味の悪い、最悪の宮崎初日だった。
 次は、借家に、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:再び広島から

MLA会場のサンフランシスコゴールデンゲイトブリッジ

 「MLA」に行く前の12月の半ば頃に、再び「広島から」電話があった。「宮崎、決まりましたよ。よかったですね」ということだった。1987年9月の教授会でだめだった同じ人事を再び教授会に出して過半数を取ったそうである。「ありがとうございます」だけでよかったのに「ほんとに遠いとこにいくんですね」とつい口から出てしまった。「そりゃあないでしょ。私が頼んだ教授は『前回は過半数を取れなかったから、一人一人教授のところを回りました』と言ってましたよ。それでやっと過半数が取れたんですから、遠い所はないでしょう。もっと喜びなさいよ」と少し怒り気味に付け加えた。もっともである。元いた大学に私を推薦しようとしたら元上司からその人事をこっちに寄越せと横槍を入れられ、それを断って推薦したのだから、「もっと喜びなさいよ」、と思うのも当然である。教授会の仕組みは知らないが、一度否決された人事を三か月後にもう一度教授会に出して過半数を取るというのは普段ではあり得ないことらしいので、尚更である。

大阪工大(大学HPより)

 「ほんとに遠いとこにいくんですね」とつい口に出てしまったのには、もちろん伏線がある。人事がだめになった(→「女子短大」、→「二つ目の大学」、→「工大教授会」)あと、また声をかけてもらったが、今回もどうせだめやろなという諦めの方が強かった。書く空間が欲しくて大学の職を思いついたが、方向転換は簡単ではなかった。自分の出た大学の大学院(→「大学院入試」)に行く準備をするには、高校教員は忙し過ぎた。(→「教室で」、→「担任」、→「顧問」)教員歴5年で応募できる「大学院大学」にと思ったが、推薦書を頼んだ相手が悪かった。その制度を潰す筆頭で、一喝の下に追い返され、受験当日には校門前(↓)でマイク片手に怒鳴る本人を見て諦めて帰るところだった。途中で受験生に道を聞かれ、車に便乗したものの校門前で降ろされた。群衆に罵られてもみくちゃにされ、勢いで突き飛ばされて、気づけば学内にいた。そのまま受験、漫画のような展開でした。(→「分かれ目」

日教組が陣取っていた甲南女子大の正門前

 予定通り修了はしたものの(→「修了と退職」)、外から博士課程には入れてもらえぬ構造問題の前に(→「大学院入試3」)、途方に暮れた。開き直って、教歴と業績を少しずつを継続、やっと話があったものの、一つ目は、たぶん身上調査ではじかれた。自分の借金でもないのにと思っても、夜逃げした母親には勝てなかったわけである。(→「揺れ」)二つ目は教授会では選ばれたものの理事会側の人事が強行されて、だめだった。三つ目は、教歴と業績で散散世話になっている先輩の大学、採用枠二名でもだめだった。普段は夏休み前に終わる人事をその年に限って先輩がアフリカ出張でいない2月に教授会が開かれ学長側の人事になり、最後の砦もだめだった、「嘱託講師」を続けていた2年目に宮崎の話が来たが、やっぱりだめだった。散々だったが、感謝こそすれ憾んだことは一度もない。どの場合も、世話をして下さる方への申し訳なさが先に立った。見たこともない人にどうしても一言お礼が言いたくなったのはそのためである。妻といっしょに「宮崎に」出かけて、直接お礼を言って来た。それで終わったと思っていたところに、「宮崎、決まりましたよ。よかったですね」という電話だった。つい「ほんとに遠いとこにいくんですね」と、口から出てしまったのである。

宮崎空港

 高校の時に受験勉強をしなかっただけなのに、その後の方向転換も難しいらしい。しかし、宮崎医科大学(↓)に決まって、生活は一変した。妻は商業高校に異動して大変な思いをしたあと、新設の普通科に異動、子供が小さかったので毎日が時間との闘い、気を遣いながらのタクシー通勤だった。その後やっと家の近くの自分の出た高校に異動、ずいぶんと時間的にも楽になっていた。娘は近くの小学校に通い、仲良しも出来、家では大好きなおじちゃんとずっといっしょに過ごせて大満足だった、息子は幼稚園に慣れ始めていた。3人で転がり込んだ中朝霧丘で息子も出来、妻の父親とも何とか折り合いをつけて、生活のリズムが出来始めてきたところだった。そこへある日、宮崎の話が舞い込んだわけである。5人には一大事件で、生活は一変した。
 次は、お別れ、か。

宮崎医科大学(旧ホームページより、今は宮崎大医学部、花壇の一部は駐車場に)