つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:ハワイ

 ハワイに行った。エンパイアステイトビルディング(↑)に登った時、エスカレーターで途中の階で降ろされ、展望台へのエレベーターを待つ人混みを見て以来(→「ニューヨーク」(6月21日)、名所と称される所には行かないと決めていたが、家族で有名なハワイに行き、ワイキキの浜にも行ってしまった。「ライトシンポジウム」(7月22日)で伯谷さん(↓)からの「MLA(Modern Language Association of America)」での誘いを引き受けたとき、「サンフランシスコは日本から一番近いですから、家族も連れていらっしゃいよ」と言われた。

 帰ってそのことを話したら、妻も二人の子供も大はしゃぎだった。大学院に行き始めてから子供との時間も増えていた。「中朝霧丘」(6月17日)の家に3人で転がり込んだあと息子が生まれ、母親代わりをさせてもらって、更に子供との時間が増えていた。妻の父親も含めて5人でよく食べに出かけた。その日、妻は料理を作らなくてもよかったし、私も後片付けをする必要がなかった。明石駅前の商工会議所のビルの1階にあるレストランに行って、「明石城」(↓、7月1日)を眺めながら食事を楽しんだ。舞子海岸近くにある舞子ヴィラのレストランも食べやすかった。妻の父親は学校には行くべきだと考えていたが、私たちはそうは思っていなかったので、学校のある日に4人で出かけることもあった。サンフランシスコもその延長だったようである。妻は折角だからビジネスクラスにしようと言うし、子供二人も大はしゃぎで嬉しそうだった。下が5歳だったのでサンフランシスコまで一気に行くのはきついと思い「ハワイに寄るんもええかもな」と思い着きで言ってみたら、「ハワイに行ける!ワイキキで泳げるやん」とさらに大騒ぎになった。

 伊丹空港を発ったのはクリスマスの夜で雪でも降りそうな寒さだった。日本とハワイとの時差は19時間だそうで、ホノルルに着いたのはクリスマス当日の朝だった。北半球の真冬の夜に飛行機に乗って、南半球の真夏の朝に着いたというわけである。太陽がきらきらと輝き、目にまぶしかった。空港からタクシーに乗って、ワイキキ浜のそばのホテルに直行した。途中、窓から外を眺めていた息子が「サンタクロース(↓)や、真っ赤な服着て浜を走ってるで」と、大きな声で叫んた。真夏に赤い服を着て、暑いやろなあと思いながら、私もサンタクロースが走っている方を見た。

 いつも通りホリデイ・インクラスで予約したが、ホテルもすこぶる快適で、部屋のベランダで沈む夕日(↓)を堪能した。3人は浜の勝っちゃん店という日本食屋を気に入って、各自好き勝手に注文をしておいしそうに食べていた。3人は英語はしゃべれなかったが、支障はないようだった。ワイキキ浜の近辺には日本人も多かったように思う。妻が浜でスケッチしていたら、スケッチされた少女の母親が近づいてきて是非売ってくれと紙幣を出し始めた。妻は恥ずかしそうに、どうぞもらって下さいと言いながらスケッチを渡していた。担任した高校生が「修学旅行」(6月1日)の文集を自発的に作ったとき、職員何名かと47人全員の似顔絵を描いてもらったが、それぞれぞくっとするほど特徴を捉えていた。今は犬や猫や馬の絵を頼まれて描くことが多いが、肖像画の需要があれば喜ぶ人も確実に増えると思う。

 ワイキキのホテルと浜(↓)で充分に寛いだあと、1987年MLAの会場のサンフランシスコに出発した。
 次は、サンフランシスコ2、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:エイブラハムズさん1

 ニューヨークからトロントまで飛行機で1時間ほど、空港からはバスに乗って45分ほどでセントキャサリンズに着いた。玄関のドアをノックしたら、エイブラハムズさんが現れた。微妙な瞬間だった。手紙には来て下さいとは書いたが、日本からほんとに来たか、そんな表情だった。奥に女優のような金髪の女性(↓)が座っていて、こちらを向いていた。

 アメリカに来て1週間ほど、電話が繋がらないままだった。ニューヨーク(↓)のホテルで電話をしながら、このまま帰ることになるのかと諦めかけたとき、電話の向こうで声がした。長期の休暇に出ていたらしい。充分予測出来たのに、そんなことも考えずに飛行機に乗った。「北アメリカに来たら電話して下さい」という手紙の指示に従ったわけだが、それにしてもよく会えたものだと、今なら言える。

 ラ・グーマと同じように亡命したと言うことだった。二十歳の時にANCの車で国境を越え、タンザニアとインド経由でカナダに渡り、市民権を取って博士課程を修了したらしい。今はブロック大学文学部(Humanities)の学部長(Deans)、学生は4万人ほど、直前に寄ってきたUCLAの規模と似ている。「ミシシッピ」(7月22日)の本屋さんのリチャーズさんが届けてくれたAlex La Guma(↓)は博士論文を元にして本に仕上げたらしい。作家論と作品論が本格的だったので、やっぱり博士論文だったんだと納得した。

 来た時にドア越しに見えた白人女性は再婚相手で、その女性の子供もいっしょに住んでいた。エイブラハムズさんにも離婚した南アフリカの人との間に大学生の子供がいて、出入りしていると言っていた。女性の子供は中学生の女の子で、夕食のあとアブドラ・イブラヒムという南アフリカの歌手の曲に乗って、エイブラハムズさんと軽快に踊っていた。

 一日目の夜はエイブラハムズさんが料理(↓)を作ってくれた。インド風のカレーやナンはおいしかった。ズールーとインドの血が混じっているそうなので、アパルトヘイト体制の下では「カラード」と分類されたと言う。3回刑務所に入れられたらしい。自分で英語をしゃべるようになると決めてからそう経っていないので、聞き取れる自信もなく、用意していた超小型のカセットレコーダーで録音させてもらった。ジョンに聞いてもらって、雑誌に使うつもりだった。録音した拘置所の部分である。
「私が拘置所に初めて行ったのは12歳のときですよ。サッカーの競技場のことで反対したんです。アフリカ人の子供たちと白人の子供たちの競技場があって、黒人の方は砂利だらけで、白人の方は芝生でした。すり傷はできるし、ケガはするし、だからみんなを白人用の芝生の所まで連れて行ったんです。そうしたらみんなで逮捕されました。それから、人々があらゆる種類の悪法に反対するのを助けながら自分の地域で大いに活動しました。だから、3度刑務所に入れられたんです。」

 中学生の女の子ともだいぶ仲良しになった。(↓)お返しに餃子を作ったときも横でいろいろ手伝ってくれた。家ではよく強力粉で皮を作り、大きなボール一杯の具でたくさんの餃子を作って焼いていた。ただ、ミンチ肉も小葱もないカナダでは、日本のようには行かなかった。女の子は珍しいのか、これは何?あれは何?と質問攻め、楽しかったが、料理の英語は聞いたことがなかったので返事に困った。言葉がなかなか出て来なくて、苦戦した。エイブラハムズさんとはしっくり行ってないのか、ずっと近くにいていろいろ話しかけてきた。
次は、エイブラハムズさん2、か。

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つれづれに:エイブラハムズさん2

 丸々3日間も泊めてもらった。しかし、手紙で「行ってもいいですか?」と書いて押しかけたほとんど知らない人をよく泊めてくれたものだ。しかも日本人である。南アフリカの白人には世界中の非難をものともせずに貿易を続けてくれた名誉白人でも、アフリカ人にとってはまるで違う。選挙権も認めず人権を無視して弾圧を続ける白人政府に抗議しただけなのに、無差別に発砲されたシャープビルの虐殺(↓)を機に、国連も経済制裁を強化して外からの圧力を強めた。

 50年代に入りアフリカに吹いた変革の嵐(The Wind of Change)に乗って南アフリカでも国民会議を開き、自由の憲章を採択して解放に向けて動き出していた矢先で、そう遠くない時期にアパルトヘイト政権が崩壊して多数派アフリカ人の時代が来ると誰もが信じて闘っていた。そこに水を差したのが日本と西ドイツで、親書を出して経済制裁を何とか凌ごう躍起になっている白人政府と、第二次世界大戦で途切れていた長期の通商条約を恥ずかしげもなく結んで白人政府に加担した。八幡製鉄、今の新日鉄は5年の長期契約を結んだ。

 アフリカ人にとっては手痛い裏切りだった。それを機にアフリカ人側はそれまでの非暴力を捨てて武力闘争を開始、アメリカやイギリスや日本の支援を受けて白人政府は警察力と軍事力に更に予算をつぎ込んで締め付けを徹底して、指導者をほぼ全員逮捕した。国を救うはずのロバート・ソブクウェ(↑、小島けい画)やマネルソン・マンデラ(↓)を拘禁し続けた。そんな裏切りの国から、来たのにである。

 本当は博士論文を書いたように学者が一番いいが、解放した時に祖国のために役に立てるように管理職に就いているという。このあと、東海岸のノバ・スコシアの小さな大学の副学長を引き受け、マンデラが釈放されて1994年に大統領になった時は、公募でマンデラのテレビ面接を受けて、6万人の学生がいるウェスタンケープ大学(↓)の学長になったと、記事と手紙をくれた。この時話してくれていた長年の夢が叶ったわけである。

 しかし、シンポジウムで伯谷さんに誘われてMLAでの発表を決め、戻ってラ・グーマでの発表を決めて準備を始めたものの、南アフリカの歴史も政治情勢も、インタービューを受けるには基礎知識がなさ過ぎた。だから、余計によく付き合ってくれたと感謝する。丁寧に、丁寧に子供を諭すように話をしてくれた。本当はもっとアフリカ民族会議(ANC)に寄付をするつもりだったが、カナダドルで1000ドルしか渡せなかった。母親の借金や定職がない中で4回もアメリカに来たりしていたので、それが精一杯だった。

 ラ・グーマ(↑、小島けい画)も亡命していたので、書いたものの保管も大変だったと思う。エイブラハムズさんは最初学者としてラ・グーマの話を聞いて親しくなったようだが、最後は書いたものの管理も頼まれていたようだった。ラ・グーマがキューバで急死したあとも、夫人のブランシさんを助けて励ましていたようだ。ラ・グーマとエイブラハムズさんの関係を聞いて、種田山頭火と大山澄太さん(↓)の二人を思い出していた。行乞していた山頭火が旅先から飯塚で炭鉱医だった木村緑平さんに書き溜めた日記をどっさり送り、それを広島の大山澄太さん(↓)が整理して、死後資料をまとめて世に送り出している。二人は山頭火と雑誌「層雲」の俳句仲間だっただけである。

 歴史的な資料が今読めるのはそういった人を思いやれる周りに恵まれていたからだと思う。エイブラハムズさんのAlex La Gumaを読んでいるとき、行間に同じにおいがした。最後の夜に「ヨシ、来年ラ・グーマの記念大会で発表するか?2年前に予定してたけど、アレックスの急死で、ブランシさんはそれどころじゃなくて。だいぶ落ち着いたみたいで、来年の夏にその記念大会の予定、もちろんブランシさんがゲストで北米に亡命している南アフリカの同胞とソ連からも来てもらうつもり。ヨシは日本の状況も話してくれたら」と言われた。MLAに続いて、英語での発表とうことらしい。キューバから来られる夫人のブランシさんに会えるわけだ。急展開である。3日間いっしょに過ごしながら、エイブラハムズさんはラ・グーマのかけがいのない友人でもあり、良き理解者でもあったんだ、としみじみと実感した。
次は、ハワイ、か。
行ったときのことは「ゴンドワナ」(↓)に詳しく書いた。(「アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・エイブラハムズ」、1987)

 8月になりました。「私の散歩道~犬・猫・ときどき馬2022~」8月(↓)

つれづれに

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つれづれに:UCLA

 「MLA(Modern Language Association of America)」で発表する準備を始めた頃、「ミシシッピ」(7月22日)からラ・グーマの本が届いた。住所を調べて著者のエイブラハムズさん(↑)に手紙を書いたら、ある日「北アメリカに来たら電話して下さい("Come to the North America and call me."という手紙が届いた。北アメリカに行って、電話するしかない。早速、旅行会社で飛行機の予約をした。

 大阪工大(↑)も4年目に入り、「LL教室」(7月12日)で授業に付き合ってくれる学生とも親しくなり、非常勤でいっしょだったケニアのムアンギさんとも仲良くなった。もちろん先輩から紹介されたのだが、先輩自身もムアンギさんと同郷のグギさんとも親しかった。グギさんの『一粒の麦』を翻訳していたし、雑誌や紀要などにもいろいろとグギさんのことについて書いていたようだ。一般教育の事務室で夏に補助員3名を含むESSのメンバーがUCLAでジョイントディスカッションをするという予定を聞いて、私とムアンギさんもちょっとUCLAに寄ってみよか、という話になった。私はエイブラハムズさんに会いに行くので、ロサンジェルス廻りでカナダに行けばよかった。ムアンギさんも何か用事があるようだった。「ライトシンポジウム」(7月22日)から帰って2年足らずでMLA発表の準備を始めていたので、英語を使う人にしゃべってくれるように頼んでいたが、ムアンギさんには「ここは日本やから日本語で」と断られた。同じ非常勤のイギリス人のジョンは「いいですよ」と日本語で答えて、気軽に応じてくれた。

 UCLAはカリフォルニア大学ロサンゼルス校( ↑、University of California, Los Angeles)、日本でも有名な総合州立大学である。学生数も多く、5つの学部と7つの大学院、4万人を超える学生と規模が大きい。図書館(↓)も充実しているようである。

 アメリカも4度目である。今回は①ラ・グーマの伝記家に話を聞くために、先ずは北アメリカに行って電話する、が目標である。②その前にムアンギさんとUCLAにいる大阪工大のESSのメンバーに会いに行く、③出来れば伯谷さんのところにもお邪魔して、④その間に電話で訪問日を決定、大体そんな心づもりだった。
 3回ともサンフランシスコ経由だったので、ロサンジェルスは初めてだった。空港を降りたとたん、ムアンギさんが英語でしゃべり出した。「ここはアメリカやから英語で」ということらしい、はいそうですか。日本語も特有の訛りが抜けないが、英語にも訛りがあるようで、私のジャパニーズイングリッシュといい勝負である。UCLAのキャンパスは広かった。ESSの人たちに挨拶したあと、一人で図書館に行ってみた。実は探している新聞があった。ラ・グーマが「ニュー・エイジ」という白人資本の反体制週刊紙の記者をしている時にコラム欄「街の奥で」("Up My Alley")を5年間ほど担当して、相当な数の記事を書いていた。行く前に調べたら、ニューヨーク公共図書館にマイクロフィルムがあるのでそれで拡大コピーをさせてもらうつもりだった。白人政府の一番のパートナーのアメリカが反体制の新聞を置いておくか、まさか?と思いながら、カウンターで聞いてみたのである。係員が説明を聞いてくれて、中に入って行った。たしか、ありますよ、と言っていた気がするが。暫くすると、大きな新聞の束をカートに載せて係員が戻って来た。何と5年分の新聞の現物である。アパルトヘイト体制が強化されて、反体制の新聞が廃刊になっては、名前を変えてまた新しい新聞を出していたらしいが、ラ・グーマがコラムを書いていた記事がカリフォルニアの図書館に送られて、三十年ほどのちにその時の新聞の実物を見ている、と思うと少し心が高ぶってきた。長い時間かかってコラム欄をコピーして、船便で送り、のちに、印刷して英語の授業で配って紹介した。

 ムアンギさんとはロスで別れた。私はオハイオ州の伯谷さんに電話して、お邪魔することにした。オハイオ州のケントなので、エイブラハムズさんの住むカナダのトロント近郊とは近い。そこから電話させてもらうことにした。伯谷さんご夫妻と子供さん(↓)二人が出迎えてくれた。どちらも男の子で、上の高校生はコンピューター関係、下の中学生は音楽の道に進むと言う。どちらも好青年だった。家では日本語、外では英語なので、完璧なバイリンガルだった。上の人に「大変だった?」と尋ねたら「そんなに苦労せずに、自然とどちらも使えるようになりましたよ」と言っていた。

 さて肝心の電話である。手紙で知らせてもらっていた番号にかけてみたが応答がなかった。考えたらあの時期、出張とか長期休暇とかの可能性は高かった筈である。手紙では人文学部(Humanities)の学部長(Deans)をしていると書いてあったから、当然考えるべきだった。結局、三日ほど電話をかけても同じ状態だったので、ニューヨーク(↓)に移動することにした。伯谷さんご家族には本当にお世話になった。ニューヨークで電話が繋がったのは、一週間のちだった。
 次は、エイブラハムズさん、か。