つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:ゴンドワナ

ゴンドワナ大陸

 2年後のサンフランシスコの「MLA(Modern Language Association of America)」ではラ・グーマで発表することに決め、資料を探し始めた。「ミシシッピ」(7月22日)の本屋さんのリチャーズさんから本Alex La Gumaが届いて急にいろいろと回り始めた。カナダに亡命中の著者のエイブラハムズさん(↓)に手紙を書いた。その頃にはすでに誘われていた出版社の雑誌に記事を送っていたので、まだ南アフリカの歴史もよくわからないのに、同時並行でラ・グーマについても書いていたわけである。

 出版社の人とは先輩に薦められて「横浜」(7月20日)で会ったきりだったが、ある日、先輩から「出版社の人があんたにも書いてくれ言うてるで。貫名さんの追悼号に、あんたも書いてみるか?」と言われた。先輩はすでに出版社の雑誌にも記事を書いて、何本か活字になっているようだった。貫名さんとはゼミの短い間しかいっしょにいなかったので書けるほど知っているわけではなかったが、何とか書いて出版社に送った。(→「がまぐちの貯金が二円くらいになりました」、1986年)それがゴンドワナ(↓)だった。

 ゴンドワは大昔の大陸のようで、ウェブで調べれば、約 5 億 5千万年前に、南半球にあった大陸で、今の南アメリカ、アフリカ、インド、南極、 オーストラリアとマダガスカル島などが集合しており、そのうちゴンドワ大陸が浸食して日本列島が出来たらしい。雑誌に書かせてもらうようになって時々横浜の出版社に行くようになったとき「どうしてゴンドワナなんですか?」と聞いてみたが、答えてもらえなかった。他の質問も大概答えてもらえなかったが、自分で考えるようにということだったのか。よく話に出る縄文時代や縄文人やツングースの侵略などと深い関りがありそうなのは確かだが、億単位の歳月の広がりを言われても、私の理解の範疇を越えている。悪い頭では到底処理不可能である。

 知らないことだらけだったので、先ずはラ・グーマの作品と南アフリカの歴史とエイブラハムズさんのAlex La Gumaを読んだ。作品は出ているものはすぐに手に入れて、初版本などは神戸市外国語大学の黒人文庫から借りて来た。作品は『夜の彷徨』(A Walk in the Night, 1962)、『まして束ねし縄なれば』(And a Threefold Cord, 1964)、『石の国』(The Stone Country, 1965)、『季節終わりの霧の中で』(In the Fog of the Seasons’ End, 1972)、『百舌鳥のきたる時』(Time of the Butcherbird appeared, 1979)の5冊にさっと目を通した。歴史についてはThe Struggle for Africa(↓、1983)の中の “The Struggle for South Africa"と野間寛二郎著『差別と叛逆の原点』(1969)、吉田賢吉著『南阿聯邦史』(1944)、ラ・グーマについてはエイブラハムズさんのAlex La Gumaを繰り返し読んだ。

 ラ・グーマの本は、本人が意図していたように小説というよりも物語で、イギリス英語にケープカラード(ケープタウンに住む『カラード』ーアパルトヘイト下で4つに分類されていた混血の人たち)特有の表現やオランダ系白人の言葉アフリカーンスなども混じっているので、読むのには難儀した。日本でも翻訳されているものや、ラ・グーマの本や人物について書かれた記事もあったので、色々と資料を集めた。非常勤で行っていた桃山学院大学の図書館や神戸市外国語大学の図書館も利用した。貫名さんが購入したと思われるラ・グーマの初版本は、貴重なものである。黒人文庫に入れられているが、今はなかなか入館するのも難しい。十年ほど前に卒業生枠で入ろうとしたが、すったもんだの末に何とか入れてもらったくらいである。誰にでも気軽に閲覧出来るはずの公共図書館だが、古くて傷みやすいというのが入館を拒む理由だった。調べてみて、改めて先人たちの僅かな痕跡を見たような気がした。もっとも、欧米志向の国でアフリカの資料を集めるのは至難の業である。そもそも集めるための元の資料がほとんどない、というべきか。僅かな手がかりを元にラ・グーマについて書きながら、2年後のMLAの発表の準備を続けた。
次は、UCLA、か。

And a Threefold Cord(神戸市外国語大学の黒人文庫の東ドイツ版)

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:ラ・グーマ

 「ライトシンポジウム」(↑、7月22日)で伯谷さん(↓)からの「MLA(Modern Language Association of America)」での誘いを引き受けたとき、当然ライトに関してだと思っていた。しかし、しばらくして手紙が届き「もちろんライトでも大丈夫ですが、出来れば、私のEnglish Literature Other Than British and Americanという小さなセッションで発表してもらえるとありがたいです」と書かれてあった。アフリカについては「黒人研究の会」(6月29日)の例会でも話をだいぶ聞いていたし、ライトのイギリス領ゴールドコースト(ガーナ)への紀行文Black Power(↓)を読んで書き始めた(「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」、1985)ところだったので、英語で作品を書いているアフリカの作家で発表してみるかという気になった。

 歴史も知らないし、作品も読んだことがなかったのっで、先輩に相談することにした。先輩はすでに、南雲堂から『アフリカ文学の世界』(↓)という本の日本語訳をを橋本福夫さんといっしょに出していて、すでに一冊もらっていた。橋本さんはライトの日本語訳でも名前を見かけていた有名人である。編者のコズモ・ピーターサさんにはこのあとカナダの会議で会っている。先輩はケニアや南アフリカについてもいろいろ書いているようだった。少し考えてから「ラ・グーマという南アフリカの作家はどや?」と言った。数日後、資料と1981年の川崎での会議に来日した時に撮った写真(末尾の写真)を一枚渡してくれた。ほとんど知らない分野なので、先輩の助言通りにラ・グーマをやってみることにした。

少し調べてみると、1925に南アフリカのケープタウンに生まれて、六十年代にイギリス経由でソ連に亡命している。最後はキューバのカストロに世話になって、1985年に60代の若さで亡くなっているようだ。亡命前に書いた本が外国で認められて、亡命後も本を出し続けていたようだ。夫人と二人の子供は今も亡命中らしい。日本では最初の作品『夜の彷徨』が大学のテキスト(↓)になり、日本語訳も全集の中に入っている。黒人研究の会でも少し発表した人もいるようだが、本格的にやっている人はいないと先輩が言っていた。先ずは最初の2冊を読んでみるか。先に本を手に入れないと。そんな感じで始まった。

 ある日、ミシシッピ州オクスフォードのリチャーズさんから本が一冊届いた。ずばりタイトルがAlex La Guma(↓)だった。見てみると、結構本格的で、大学の博士論文のような作家論、作品論だった。本人がいない今、この人がラ・グーマのことを一番よく知っているかも知れない。ライトのシンポジウムの翌年に再びミシシッピ大学に行った際、また大学近くのスクウェアブックス(→「ミシシッピ」、7月22日)に寄り、店主のリチャーズさんにこの人に関する本があったら送って下さいとAlex La Gumaと書いたメモを渡していたが、それがラ・グーマの出発点になるとは、人生何が起こるかわからないものである。

 著者を調べたら、南アフリカの人でラ・グーマ(↓)と同じように亡命をして、今はカナダの大学の教員をしていることがわかった。会いに行くしかないだろう。手紙を書いた。
次は、ゴンドワナ、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:ミシシッピ

 「ライトシンポジウム」(↑、7月22日)でファーブルさんに会えたものの自分の思いが伝えられずに悔しい思いをしたので、英語をしゃべる努力をすることにした。(→「リチャード・ライト死後25周年シンポジウム」、2019)その直後に伯谷さん(↓)から「MLA(Modern Language Association of America)」での発表を誘われて、勢いで引き受けてしまったが、英語での発表を考えると英語に慣れる必然性を感じた。その意味でも、もう一度アメリカに行きたくなった。1981年に初めてアメリカに行った時は、「サンフランシスコ」(6月19日)→「シカゴ」(6月20日)→「ニューヨーク」(6月21日)の後にライトの生まれたミシシッピに行くつもりだった。しかし、ニューヨークの 「古本屋」(6月22日)で本を買い過ぎて、予定を変更せざるを得なくなり、セントルイス経由で帰って来てしまった。前回は資料探しが中心だったのでそれでよかったとは思うが、今度こそはライトの生まれ育ったミシシッピを見ながら英語にも慣れる、それでいくことにした。1986年7月、シンポジウムがあってからまだ一年も経っていなかった。3回目の渡米だった。

 西海岸から東海岸までは遠いので今回もサンフランシスコ経由でニューヨークに行き、そこから深南部の一つルイジアナ州のニューオリンズ(New Orleans)空港に降り立った。その時はまだブラック・ミュージックについてはよくは知らなかったが、デキシーランドジャズで有名なフレンチクォーターにだけは足を延ばした。ニューオリンズから州都ジャクソン(Jackson)に行き、プロペラ機でライトの生まれたナチェズ(Natchez)空港(↓)に飛んだ。そこからはグレイハウンドバスに乗って移動した。ナチェズだったか、鉄道線路のそばを歩いている時に、同じくらいの背の高さの黒人が急にかけ寄ってきて「金をくれ(Give me Money)」と言ったので少しびっくりしたが、ノーと言ったら、何もなかったように離れて行った。概して鉄道線路脇の住まいはみすぼらしかった。

 ナチェズからライトが一時住んだというグリーウッド(Greenwood)にはバスで移動し、ホリデイ・インに泊った。到着したとき、バス停が乗客の乗り降りで混雑していたので、しばらくぶらついて戻ってみたら待合室のシャッターが下りていた。次のバスまでの間は閉まるものらしい。ホテルに電話するにも電話機が見つからないし、少し歩いていたら警察署が見えたので中で聞いてみた。電話機もタクシーもないそうで、結局パトカーで送ってもらった。日本では、風貌が学生運動の過激派に似ていただけの理由でパトカーが止まって職務質問されたことはあるが、乗ったことはない。とにかく、ホテルまでは着いた。真夏の陽射しがきびしかったが、折角なのでミシシッピ川を見たくて、タクシーを呼んでもらうことにした。フロントで頼んだら、タクシーはないそうだった。車社会なので、田舎のホテルにバスで来る人はいないらしい。フロントの人に聞いてみたら、歩ける距離みたいだったので、歩いて行くことにした。ミシシッピ川の堤防(↓)まで小一時間かかったと思う。

 ニューオリンズからこの辺りを遡ってメンフィス(↓)まで奴隷たちが炎天下の大農園で摘まされた綿花が船に乗せられて移動したわけである。この辺りはコトンベルト(cotton belt)と呼ばれたらしい。

 グリーウッドからミシシッピ大学のあるオックスフォードまでバスで移動した。大学ではシンポジウムを主催したメアリエマ・グラハムさんの研究室を訪ねた。シンポジウムの時は主催者で責任もあったので緊張した表情をしていたが、研究室では「あら、また来たの?」という感じで気軽に接してくれた。下の写真はその時もらったものである。翌日の地方紙と一か月後の研究誌の特集号にも載った写真である。真ん中に映っている人(↓)で、私の隣がその人の先輩のマーガレット・ウォーカーだそうだ。大学に推薦してくれた女性(→「女子短大」、7月23日)が喜んでくれるかとお土産にサインを頼んだが、嫌な顔で断られた。頼み方がよくなかったのか、後味の悪さが残った。

 近くのスクウェアブックスという本屋さんにもまた寄ってみた。アメリカの本屋は古本も扱っていて、『千二百万人の黒人の声』(↓)をたしか二万五千円ほどで買った。1941年の初版本だったから高かったと思うが、私の頭の中の円とドルの換算機能が壊れているので、つい買ってしまった。いっしょに行っていた本の虫のような人でも、さすがに買うのをためらっていたが、知らぬが仏である。古本に関心があるわけではないので、その初版本は裁断してデータにした。残っているのはその際の残骸だけだから、古本の価値はない。折角来たので、2年後のMLAの話をして発表予定のラ・グーマに関するいい本があったら送って下さいと頼んでおいた。リチャーズさんという笑顔の素敵な温和な青年だった。

 オックスフォードから今回はバスでテネシー州のメンフィス(↓、Memphis)に寄った。前回はその日のバスがすでになくて、タクシーを捕まえてオックスフォードに行っただけだったので、しばらく街をぶらついた。三時過ぎだったと思うが、向かいから歩いて来ていた2メートル近くある黒人が、上から「ペーパー?」と突然聞いてきた。「ペーパー?」と不思議に思って首を傾げていたら、今度はゆっくりと「あいむはんぐり I’m hungry.」と口に人差し指を入れながら、怒った声で吐き捨てた。Give me a favor、つまり鉄道線路脇で聞いたと同じ「金をくれ」という意味だったようである。大都市のまだ明るい時間に、それもそれなりの身なりの人から、突然「金をくれ」と上から言われるとは思わなかった。アメリカである。f も v も日本語にない音(おん)だから、favorがpaperに聞こえたわけだが、街の真ん中で知らない人に「紙」はないだろう。想像力の欠如の問題で、先が思いやられる。サンフランシスでの発表は大丈夫?
3回目のアメリカも、英語に慣れるという点では成果があったのではないか、そんなことを考えながら帰国した。
次回は、ラ・グーマ、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:嘱託講師

 二つの人事(→「女子短大」、7月23日、→「二つ目の大学」、7月24日)がだめになった頃に、先輩から「嘱託講師に出きるで」と言われた。嘱託講師は初めて聞く名前だが、黒人研究の会の会員で専任のなかった二人を順々に採用していたらしく、その任期が切れたようだった。契約が有期の3年任期、週に二日で6コマ、月額20万円、専任扱いで紀要にも投稿可能という条件だった。2年目にサンフランシスコであった「MLA(Modern Language Association of America)」で発表(↓)した時は、先輩が気を遣ってくれて旅費の出ない出張扱いにしてくれた。初めて稟議書と報告書も書いた。学会では大阪工大の教員として申し込んだので、会場でOsaka Institute of Technologyと名前が印刷された名札を渡された。専任教員とは思っていなかったが、外から見れば大阪工大の教員だった。

 実際には1年目よりコマ数が増えていたから、授業自体はそう変わらずに月額が増えたのだから、有難い話だった。その時は深く考えなかったが、この時は正職員扱いで年金用に給与から一定額が差し引かれていたらしい。2年間に支払った分の年金が五千円程度だが、私学共済から今も支給されている。私学の非常勤の率が国からの助成金に関わるらしく、表向きは常勤、実際には非常勤というポジションが必要なようだった。大阪工大の場合はそのポジションに嘱託講師という名前をつけていたことになる。教歴の欄にも最初嘱託講師と記入していたが、専任扱いだと知った人が嘱託を取っときましょうと言って、大阪工業大学一般教育英語科講師と書き直してくれた。嘱託講師の期間は入学試験の採点にも駆り出されて、初めて大学入試の採点もした。2日ほど採点して十数万が振り込まれていた気がするが、文系の私学では30万とか40万とからしいよとか、関学が一番高いんちゃうとかと、誰かが言っていた。どの大学でも入試検定料は結構高いし、入試が大きな収入源であるのは間違いない。特に大手の私学では、経営に大きく響くようで、不祥事でも起こして入試の倍率が下がるのは死活問題というわけである。
また先輩のお陰である。「黒人研究の会」(6月29日)、会誌の編集、最初の教歴「大阪工大非常勤」(7月11日、→「あのう……」、6月28日)、授業での「LL教室」(7月12日)、非常勤での「紀要」(7月18日)、それらに加えて今回は嘱託講師である。ある時、大学で大きなパーティーがあり、一般教育の英語科の教員も参加した。先輩は司会進行も任されていた。参加者に外国人も結構いたので、英語での司会が必要で駆り出されたのかも知れない。物おじすることなく場馴れした英語で、堂々としていた。さすがである。教育委員会に大学の誘いがあったのも、こういった面も買われたのかも知れない。この調子で、工学部の中で教授としていろいろこなしているんだと強く感心した。

 この時期に、MLAで発表した南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマの作品論をまとめ直して、「Alex La Gumaの技法 And a Threefold Cordの語りと雨の効用」を「中研所報」(1988年)という紀要(↑)に載せてもらった。工学部の中央研究所の紀要の枠に一般教育も入れてもらっていたようである。最終的には大阪工大とは専任での縁はなかったので、この紀要の抜き刷りは嘱託講師を辞めたあとに赴任した宮崎医科大学(↓)に送られて来た。
次は、ミシシッピ、か。