つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:ゴンドワナ

 

1983年から5年間大阪工大(↑、→「大阪工大非常勤」、7月11日)のLL準備室(→「LL教室」、7月12日)を使わせてもらい、補助員3人に助けてもらいながら、英語の授業をさせてもらった。LL装置を駆使して編集した映像や音声をふんだんに使ったので、ただ読むだけの授業よりも楽しく過ごしてもらえたのではないかと思っている。英語が苦手な工学部の学生の英語へ抵抗感が少しでも和らいでくれていたら嬉しい限りである。ある日、補助員の一人が、近くのビデオショップで借りたベータのテープをダビングして渡してくれた。当時はビデオショップもたくさんあり、店でもベータとVHSのテープがまだ半々くらいだった。アフリカ系アメリカの歴史を辿る授業を手伝ってくれている中で、その映画が役に立つと考えて、借りて来てダビングしてくれていた訳である。それが「アーカンソー物語」(↓)だった。

「つれづれに:あのう……」(2022年6月28日)

 

「アングロ・サクソン侵略の系譜10:大阪工業大学」続モンド通信13、2019年12月20日)「アーカンソー物語」は1957年に実際に起きた事件を元に作られた2時間ほどの映画で、元大統領ビル・クリントンの地元アーカンソー州のセントラルハイ高校(↓)が舞台で、Crisis at Central Highが原題である。

「つれづれに:修了と退職」(2022年7月9日)

アフリカ系アメリカの歴史にも節目になる出来事がたくさんある。この「アーカンソー物語」は公民権運動の中の節目の出来事の一つである。

 

アングロ・サクソン侵略の系譜10:「大阪工業大学」

大阪工業大学(ホームページより)

大阪工業大学は私の「大学」の第一歩でした。

1983年3月に修士課程を修了したものの、博士課程はどこも門前払い(→「アングロ・サクソン侵略の系譜7:修士、博士課程」「続モンド通信9」2019年8月20日)、途方に暮れていましたが、4月から大阪工業大学夜間課程の英語3コマを担当出来ることになりました。業績も2本だけでしたが、結果的にこの3コマが、それからの「大学」の教歴の第一歩となりました。

一度非常勤を始めると他からも声をかけてもらえるようで、当時は1コマが100分、一番多いときは週に16コマを担当、一日の最多授業数は5コマ。専任の話も3箇所決まりかけましたが、5年間は浪人暮らし。最後の2年間は嘱託講師、この時の2年分の私学共済の年金が出ていますので、文部省向け任期付きの専任扱いだったようです。

大阪工業大学ではLL(Language Lavoratory)教室を使わせてもらいました。LL装置と補助員3名の予算も付き、昼夜間とも、一般教育の英語の授業で使われていました。関連の雑誌や新聞などを使い、映像や音声や中心の授業が出来たのは幸いでした。補助員のESS(English Studying Society)の学生3人には、ビデオの録画やコピーなど、色々助けてもらいました。

終戦直後に生まれ、小学生の頃からテレビや電化製品の普及に伴う急激な生活様式のアメリカ化を経験しましたが、どうも心がついて行きませんでした。元々アメリカとその人たちの母国語としての英語への反発もありましたし、中学校や高校での入学試験のための英語にも馴染めませんでしたので、大学では英語そのものより、一つの伝達の手段としての英語を使って何かが出来ればと考えました。結果的に、後の原点になりました。

リチャード・ライトの作品を理解したいとアフリカ系アメリカ人の歴史を辿る過程で読んだLangston Hughesの”The Glory of Negro History” (1958)がテキスト(青山書店)、Alex HaleyのRoots (1977)とバズル・デヴィドスンのAfrican Series(NHK, 1983、45分×8)が映像の軸でした。まだアフリカのことをやり始めたばかりでしたので、The Autobiography of Miss Jane Pittman、The Crisis at Central High(「アーカンソー物語」)、We Are the Worldなどの貴重な映像も手に入れました。

ラングストン・ヒューズ

ルーツの主人公クンタ・キンテ

バズル・デヴィドスン

一般教養の英語だったのは幸いです。受験のための英語から言葉としての英語への切り替え。偏差値で煽られ答えの解った謎解きを強いられる中で意図的に避けられている問題を取り上げて、自分と向き合い、自分や社会について考える、それまで気づかずに持っていた価値観や歴史観、自己意識を問いかけるという後の授業形態がこの頃に出来上がったように思います。(宮崎大学教員)

大阪工業大学の紀要には以下の4つを載せてもらいました。↓

“Some Onomatopoeic Expressions in ‘The Man Who Lived Underground’ by Richard Wright” Memoirs of the Osaka Institute of Technology, 1984, Series B, Vol. 29, No. 1: 1-14.

“Symbolical and Metaphorical Expressions in the Opening Scene in Native Son" Chuken Shoho, 1986, Vol. 19, No. 3: 293-306.

“Richard Wright and Black Power” Memoirs of the Osaka Institute of Technology, 1986, Series B, Vol. 31, No. 1: 37-48.

「Alex La Gumaの技法 And a Threefold Cordの語りと雨の効用」 「中研所報」(1988年)20巻3号359-375頁。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:女子短大

大阪工大(HPより)

 大学の話が来た。初めてのことである。思わぬ人からで、住んでいた「明石」(6月16日)から西へ電車で1時間足らずの町にあるクリスチャン系の女子短大だった。電話でだったか、直接だったかは覚えていないが、「黒人研究の会」(6月29日)の会員だった女性の推薦だった。夫が近くの国立大学の教授で、旧帝大系の大学の先輩に当たる人がその短大の学長をしているらしかった。(→「黒人研究の会総会」、7月23日)典型的なその当時の人事で、誰かの推薦で教歴と業績が見合うだけあれば人事成立というパターンである。
推薦をしてもらえたわけである。その女性は例会で見かけるくらいで、話をしたのはその時が初めてである。研究会でやっていたことを評価してくれたのかも知れない。例会に参加し始めた時はその女性をあまり見かけなかったが、それから暫くして同じ女子大の女性と毎月参加するようになり、アフリカ系女性作家でのシンポジウムの話も出ていた。アメリカ文学会で理事もやり、地道な研究も続けているようだった。ライトのシンポジウムに行った直後に話が来たので、職もないのにシンポジウムのためだけにミシシッピまで行ったり、2年後に「MLA(Modern Language Association of America)」、2月20日)で発表(↓)する予定を聞いて、世話を焼く気になってくれたのかも知れない。

 当日、妻と二人で出かけた。学長室で会ったとき「来年から来てください。新学期の始まる前に、またお会いしましょう」と言われた。既に履歴書も見て、採用を決めていたようだった。12月か1月かだったように思う。寒い時期だった。3月に再度学長室を訪ねたとき、「その話はなかったことに」と言われた。推薦してくれた人も学長も言えない事情があるんだと感じて、理由は聞かなかった。たぶん、気の毒で言えなかったんだろう。借金をして夜逃げした母親である。短大には附属中学も高校もあって、隣には同じ系列の男子校もあった。私の住んでいたところから通う人はほとんどいなかったが、小学校のときに遊んでいた人が中学からそこに通っていた。親が薬剤師で、インテリの雰囲気が漂い、兄も同じ学校に通っていた。おそらく身上調査である。標準以上の子弟の通うクリスチャン系の短大に、地元近くで、親が借金をして夜逃げをした教員をわざわざ雇う理由がない。「自分がした借金ではないし、支払いの義務はないというつもりだったが、現実の前では空しい」(→「揺れ」、7月5日)である。
次は、二つ目の大学、か。推薦してくれた人も思わぬ事態を気の毒に思ったのか、二つ目の大学を紹介してくれた。その話である。

ミシシッピ州ナチェズ空港

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:黒人研究の会総会

 「黒人研究の会」(6月29日)の例会でさっそく「ライトシンポジウム↑」(7月22日)の報告をした。ヒューズ(Langston Hughes、1902-1967、→「大阪工大非常勤」、7月11日)、ライト(Richard Wright、1908-1960)、ボードウィン(James Baldwin、1924-1987)、エリスン(Ralph Ellison、1914-1994)は例会でもよく発表されて来たみたいだったし、関心も高かったと思う。例会のあと、何通か問い合わせの手紙をもらった。今ならその日にメールが何通かというところか。シンポジウム(↓)でライト自身が主演したアルゼンチン映画『アメリカの息子』が上映されたとき、小型のカセットレコーダーで録音していたが、そのテープの複製依頼もあった。(→「リチャード・ライト国際シンポジウムから帰って(ミシシッピ州立大、11/21-23)」(1985, 英語訳: “Richard Wright Symposium”

 入会してから半年に一度ほど口頭発表をやり、そのうちの一つをまとめて会誌「黒人研究」に出した。「リチャード・ライト作『地下にひそむ男』のテーマと視点」↓、第52号(1982)、「リチャード・ライトと『残酷な休日』」、第53号(1983)、「リチャード・ライトと『ひでえ日だ』」、第54号(1984)、「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」第55号(1985)と毎年順調に書いた。「修士論文」(6月18日)にまとめる前に口頭発表させてもらい、まとめたあとも活字に出来るように続けて口頭発表もさせてもらった。

 毎月の例会の案内のほかに、入会案内や会誌や会報も編集して、発送もやった。こまめに手紙も入れて送ったので、ずいぶんと個人的な繋がりも増えていたような気がする。
例会に参加するのは神戸や大阪の人が多かったが、6月の総会には全国の会員が集まった。会員も減り、会誌の発行だけで手一杯だったようなので、少しずつ原稿を依頼して会報も発行した。出はじめめの頃のワープロを使って作成したようだ。普段手紙の遣り取りをしていると、原稿を依頼しても書いて貰える確率は高くなった。当然書く内容も、気持ちのこもったものになって、読む方も興味深く読める。創設者の貫名さんが亡くなられた時は、追悼号(↓)を出した。奥様に原稿を依頼したら、丁寧な原稿が届いた。その年の総会には出席されて、会員の方へ生前の貫名さんの逸話を紹介したり、弔問のお礼などを述べられていた。戦争のときの話になり、「毛布の中で声を出さないように咽び泣いていたのを覚えています。よほど悔しかったんでしょう」としんみりと話しておられた。共産党の神戸市会議員で、かくしゃくとした姿が印象的だった。娘さんも共産党から神戸の市長選に立候補されたと聞く。ずいぶんと歳月が流れた。

 総会には東京や愛知や小倉や福井などからも会員が集まった。ある年は、間宮林蔵さんのお孫さんにあたるローレンス・マミヤさん夫妻が出席された。どんな経緯で来られたかは知らなかったが、会場の世話もあり、話をする機会もあった。「ニューヨークに来られたら、家にも来てください」と名刺を渡された。ニューヨーク(↓)から列車で北に一時間ほどのプーキープシィにあるヴァサー・カレッジで歴史か何かの教授をされているとのことだった。日本語は話せないようだったので、拙い英語で話をした。

例会や案内や会誌、会報の編集・出版は地道で大変な作業だったが、業績のために入会して発表もさせてもらっていたので、気負いなく続けられたと思う。アフリカに関してはほとんど知らなかったので、入門的な時間になった。たまに「本田さん」(7月14日)のような大物の話も聞けるし、有難い空間だった気がする。
次は、女子短大、か。

本田さんの『アメリカ黒人の歴史』

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:ライトシンポジウム

 ある日、「黒人研究の会」(6月29日)の会員から電話があった。秋にライトのシンポジウムがあるからいっしょに行きませんかという誘いだった。ファーブルさんも来るらしかった。ファーブルさんと会うことを考えたことはなかったので、会えるんやと思ったら急に会いたくなった。その場で「行きましょう」と返事をした。ファーブルさんには「修士論文」(6月18日)で『リチャード・ライトの未完の探求』(↓、The Unfinished Quest of Richard Wright)を読んだ時に変に感動して、自分の書いたもののレベルも知りたくて、英訳(→「修論あれこれ」、7月8日、→「紀要」、7月18日)といっしょに手紙を書いてパリの自宅に送っていた。実際に会えるとは考えてもみなかった。(→「リチャード・ライトの世界」、2019年5月20日)

 その人は早稲田の博士課程を修了したあと愛知にある私学の専任をしていて、会の案内やら総会やらで面識もあった。ライトに関心があるらしく、会誌に私が書いているのを読んでいたようだ。11月の終わりにミシシッピ州立大学であるという。ホリデイインに泊ると言ったら「私もそこに泊りますから、前日にホテルでお会いしましょう」と言うことだった。事情を知らなくてメンフィス(↓)まで行ってバスに乗ろうとしたが、当日便はもうないらしく、タクシーを使う羽目になった。2時間ほどかかった。ドルと円の換算機能が働かずに、きっと3~4万円は払った気がする。オックスフォードという州の北側にある閑静な大学街で、約束通りその人が先に来てホテルで待っていた。

 当日の朝、会場に行ったらファーブルさんと他の何人かが写真を撮ってもらうところだった。「よく来ましたね、こっちにいらっしゃい。一緒に写真を撮りましょう」と手招きしてくれた。最初の写真はその時のものである。ライトの死後25周年の記念シンポジウムだったらしく、雑誌が特集を組んで、その中にもこの写真が紹介された。翌日の地元の新聞にもこの写真が使われたらしく、参加者にコピーが配られた。受付では資料(↓)もたくさん配られた。

 普段本でしかお目にかかれない人たちがたくさん集まっていた。ゲストスピーカーも大抵は本で読んだことがある人たちだった。普段の会話なら難儀したと思うが、いつも読んでいる語彙と重なることが多かったからか、大体内容は理解できた。しかし、学会でじっと座ったままで聞いてばかりは、基本的には苦手だ。ファーブルさんが来ている、それだけで来たようなものだったから、何とか最後まで座っていた。その夜、ファーブルさんが泊っていた寮の一室に呼んでもらった。日本からの留学生や出張で来ていた学者に伯谷さん(↓)というゲストスピーカーも同席していた。ライトに関する論文集で名前を見かけたことはあったが、よくは知らなかった。→「リチャード・ライト死後25周年シンポジウム」(2019年3月13日)

 ファーブルさんは「手紙をくれてましたね。今日の発表でもあなたと同じ擬声語について話をしてる人がいましたねえ。私をMr. Fabreと呼ぶけど、私はヨシ(yoshi)と呼んでるので、ミシェール(michel)と呼んで下さい。その方が公平だから」と言っていた。偉い人は偉そうにする必要ないもんなあ、と感心しながら聞いていた。ただ、英語をしゃべるのを拒んで来たせいで、思うように言葉が出て来なかった。いっしょに来ていた人が「玉田さん、英米学科でしょ。私が通訳しましょか?」と見兼ねて言っていた。英訳を渡したんやから、今度は自分で英語をしゃべればいいか、とぼんやりと考えていた。最後の辺りで、伯谷さんが話しかけて来た。あなたの近くの淡路島出身、広島大4年の時にアメリカに来て、今はオハイオ州ケント州立大学で英語教授、そんな話だった。最後に「玉田さん、再来年のサンフランシスコのMLAで発表しませんか?」と誘ってくれた。シンポジウムに参加するとも思ったことがないのに、アメリカの学会で発表である。しかし、気持ちとは裏腹に、「そうですね」と返事をしていた。日本語で聞かれたせいもあったかも知れない。「サンフランシスコは日本から一番近いですから、家族も連れていらっしゃいよ」「そうですね」そういうことになってしまった、らしい。
次は、黒人研究の会総会、か。

会場の人たち