つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:「ルーツ」

30周年記念DVD版の表紙

 「黒人研究の会」(6月29日)の例会にも参加し、アフリカ系アメリカとアフリカの歴史も齧(かじ)り始めていたが、「ルーツ」(↑)を見るのは初めてだった。大阪工大(→「大阪工大非常勤」、7月11日)の「LL教室」(7月12日)のモニターで初めて見せてもらったが、強烈だった。さっそく授業で使うことにした。大学のときのテキスト(↓)を使うことに決めて授業を始めたが、アフリカ系アメリカの歴史にこれほどぴったりの映像があるとは思わなかった。

 「ルーツ」はアフリカ系アメリカ人の作家アレックス・ヘイリーのRoots (1976) を基に作られたテレビ映画である。その年にアメリカで大ヒットし、その次の年に日本でも大好評だったと聞く。私は高校の教員の頃でテレビもなかったので、まったく知らなかった。ただ、古本屋を回っている時に、作家の安岡章太郎が日本語訳した分厚い2巻本(↓)がたくさん並んでいたのをかすかに覚えているが、映画化されているとは知らなかった。

 テキストに使ったのはラングストン・ヒューズ(Langston Hughes, 1902-1967)の“The Glory of Negro History” (1964年)で、以下の出だしで始まる。

It is glorious this history of ours! It is a great story – that of the Negro in America! It begins way before America was America, or the U. S. A. the U. S. A. It covers a wide span, our story. Let me tell it to you:

(Sound effect: boom of sea waves)
(Sound effect: whistle of wind)

自らが朗読してレコード(LP)も出しているので、文字通り詩人が物語ったアフリカ系アメリカ人の歴史である。奴隷貿易と奴隷制の時期が1部、南北戦争と公民権運動が始まる頃までが2部で構成されており、当時生存中の著名人にも演奏や朗読を依頼している。授業では主人公クンタ・キンテがガンビアの河口で遭う奴隷狩り、クンタが運ばれる大西洋上の奴隷船(↓)、アメリカに陸揚げされたあとかけられた奴隷市、売り飛ばされた農園、逃亡を企てたのちの鞭打ちの場面などを授業で見てもらった。

 2ケ国語放送の録画だったので、日本語か英語かでしか見られなかった。歴史的な内容はテキストで予め読んでいるし、英語でとも思ったが、早口の黒人英語が分かり難かったので日本語で見てもらった。映像はインパクトがあったと思う。学生はみな食い入るように観ていた。その後日本語字幕のついたVHSが出たので購入して、その映像を観てもらった。パソコンを使うようになり、2007年には30周年記念版のDVDが出て映像が鮮明になった。授業では時間が限られているので、ある場面を切り取った映像ファイルをたくさん作った。この頃は、テキストに併せて、LPから音声化してもらったポール・ロブソン(↓)やゴールデン・ゲイトカルテットなどのスピリチャルやゴスペルを聴いてもらったり、映画から撮ったマヘリア・ジャクソンのゴスペルやルイ・アームストロングの演奏などを観てもらった。「真夏の夜のジャズ」のアームストロングによる「聖者の行進」のトランペット演奏とそのあとのジャクソンのゴスペルは圧巻である。

 テキストの「黒人史の栄光」と「ルーツ」の映像を使いながら、改めてアフリカ系アメリカ人の歴史と、アフリカの歴史についても深く知りたくなった。後に全学用の教養科目でアフリカ系アメリカ人の歴史と音楽を担当したが、この頃やっていたことが土台になっている。
次は、本田さん、か。岩波書店の『アメリカ黒人の歴史』を書いた人についてである。

ラングストン・ヒューズ

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:LL教室

 大学での初めての授業は大阪工大のLL教室でだった。教授だった先輩は33歳で兵庫県教育委員会の指導主事になり、現職教員の研修をする研修所でまだ普及途上にあったLL(Language Lavoratory)装置を使って、現職教員の研修をやっていたと聞く。「ま、ビデオをつけて流してただけやけどな。」と本人は言っていたが、当時最先端のLLを使って「楽して、楽しんでいた」というわけである。研修所でLLを使った授業の研究報告も書いたに違いない。その業績で大阪工大から講師で採用される話が来たとき、時の上司にあたる県の副知事が直談判して「講師で採用か?」と凄んだらしい。その甲斐あって、めでたく助教授で採用されたそうだ。私が世話になった時は既に教授になっていて、LL装置と補助員3名の予算も付けて、実際に自分もその部屋を使って授業をやっていた。大学から口がかかるとは大したものである。おまけに副知事に口添えまでしてもらうとは。黒人研究の会では編集を一手に引き受けていたし、後には同窓会の会長もやっいた。「最新の同窓会誌やで」と冊子が届くこともあった。強者(つわもの)躍如である。

 大学(↑)でも、しっかりと予算を引っ張って来ていたようだ。予算を引っ張ってくるのも、教授の力量だから、私もその恩恵にあずかったということだろう。工学部の学生の課外活動の一つESS(English Studying Assocation)の顧問も引き受け、代々ESSの部長と主要な部員を補助員に使い、その予算も確保していた。私の授業でもその学生3名の誰かがずっとついていてくれた。ESSの部員だけあって、英語にも関心があり、質のいい人たちだった。おまけに工学部の学生、機械にめっぽう強い。授業の補助も頼りになるし、ビデオの編集やダビングも気軽にやってくれた。今ならパソコンの相談にも乗ってくれそうである。壊れるので貸すのを渋る人もいるが、運よくブラック・ミュージックのレコード(LP)をごっそりと借りて来た時も、何なくレコードからカセット・テープにデータ移行をやってくれた。編集やダビングには時間がかかるものだが、授業補助と併行しながら確実にやってくれた。4年目に3年任期の嘱託講師にしてもらったが、宮崎に決まるまでの5年間は本当に世話になった。妻の絵のグループ展に神戸まで来てくれたし、明石の家にも来てくれた。宮崎に来た後も、二人が宮崎まで遊びに来てくれた。いまだに遣り取りが続いている。大事な出会いとなった。

 夕食は大学の近くの店屋に出かけて、四人で楽しく食べた。大阪の饂飩(うどん)や丼物の中でも、かなりおいしい方だったと思う。この時期に集めた映画やドキュメンタリーや音楽のビデオが、その後の授業の基本資料の中心になった。中でも貴重だったのは「ルーツ」(↑)、「アフリカシリーズ」(↓)、「ウィアーザワールド」、「アーカンソー物語」である。大学の時も、高校の教員をしている時も、結婚後もテレビがなかったので世の中の流行には疎く、1977年にテレビで話題になった「ルーツ」も、1983年にNHKで放送された「アフリカシリーズ」も、アフリカ飢餓キャンペーンでマイケル・ジャクソンが作ったウィアーザワールドも知らなかった。先輩の録っていたものをダビングしてもらった孫テープなので画質はよくないが、どれも貴重な財産である。パソコンを使うようになってから、ビデオテープから動画ファイルにデータ移行して、長い間役に立った。希望者にはデュリケーターという何枚も複製できる機械でコピーしてDVD-Rの形で配った。

 当時はビデオショップも多く、ビデオはベータとVHSが半々だった時代である。補助員の一人が「ビデオショップでベータのテープを借りてダビングしときましたよ」と、ある日渡してくれた。「アーカンソー物語」(↓)である。1954年に公立学校での人種差別は違憲であるという判決、実質的な奴隷解放宣言が出た後、実際にビル・クリントンの地元アーカンソー州の州都リトル・ロックの高校で起きた事件を映画化したものである。
次は、「ルーツ」、か。

つれづれに

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つれづれに:大阪工大非常勤

 1983年4月から始まった大阪工業大学(↑)での非常勤の意味をその時はそう深くは考えなかったが、履歴書を書くときにその重要性がわかるようになった。大学を応募するときに提出する履歴書には学歴、教歴、業績が不可欠だからである。教員再養成の大学院にしろ形式的には教育学修士と記入出来るし、教歴の欄には大阪工業大学一般教育英語科非常勤講師と書ける。先輩の助けを借りて、まだ少ない業績と教育学修士の書類で非常勤にしてもらい、大学の教歴が始まったというわけである。どの博士課程でも受け入れてもらえないのだから、それしか大学の空間を確保する手立てはない。

 大学も「夜間課程」(↑、3月28日)だったので、夜間の非常勤にはまったく抵抗はなかった。ただ、大学での授業は初めてだったし、工学部とも全く縁がなかったので、自分で考えてやるしかなかった。自分が嫌だったものを人に押し付けるのも嫌だし、映像や音声もたくさん使って英語に馴染めない学生も楽しめる方がいい、自分に関係あるものを選ぶ方が力が入るし、準備もし易い、などを考えると、修士論文で文学作品を理解するために辿ったアメリカ黒人の歴史がよさそうである。大学の時は関心がなかったので眺めるだけだったが、購読の時間に使った詩人のラングストン・ヒューズが書いた黒人の歴史(↓)がいい。本人が朗読したLPから拵えてもらったカセットテープもあるし、テキストの合間に黒人音楽も挿入されている。それで行くことにした。

 工学部なので専任なら学生の必要性を考えて工業英語(Technical English)を担当したかも知れないが、私が担当したのは一般教養科目の英語である。今もそうだが、専任より非常勤の方が経済的に安く済むという経営者側の論理でどの大学も非常勤をたくさん採用していた。当時は文部省の縛りで英語の必修単位数自体が多く、それだけ英語の非常勤講師も必要だったという事情もあった。私学だけでなく国公立大学でも非常勤は多そうだった。非常勤率が9割を超えている大学もあったと言われていた。後にその大学に行くことになったが、お昼休みにベンチで座っていたら、隣のベンチにいた学生が「わいABCもわからへんねん」と言ってた。行く前に噂で聞いたことはあったが、ほんとやったんやと変に感心した。非常勤を引き受ける時の雇用条件が、ネクタイを締める、出席半分で単位を出す、の二つだったので、なるほどと得心してしまった。非常勤率9割以上と言われても、そやろなあと頷くしかない。その大学で入試問題が漏れたと問題になったことがあったが、何が問題なのかさっぱりわからなかった。地元の学生は大学の名前を言いたがらなかったと聞く。
大阪工大はそんな大学ではなく、学生はいたって真面目で、優秀な人もたくさんいたようだ。ただ、工学部全般では英語の苦手な学生が多いようで、その点は授業の時に感じることがあった。全員と個人的にしゃべったわけではないが、「英語が出来てたらいちだい(大阪市大)かふだい(大阪府大)に行ってたのに」という学生も結構いたように思う。
非常勤を引き受けた英語が教養科目で助かった。自分で何をするかを決めればよかったからである。もちろん購読も個人的にはどちらかというと好きだし、人の教科書を使って短い時間に採点出来る試験問題を作るのが一番簡単ではある。周りも大抵はそんな感じの人が多かった。パソコンやプロジェクターを使う時代ではなかったので、尚更その傾向が強かったように思う。しかし、思わず大学の授業を持つことになったとは言え、自分が嫌だったことを人に強要するのも嫌だし、本来言葉は話したり、聞いたり、読んだりして楽しめるものだから、自分も楽しめるように、そんな工夫をすることに決めていた。アメリカに行ったおかげで、英語への抵抗感もだいぶ減ったし、授業が英語を使ういい機会になりそうである。使えれば、役に立つことがあるかも知れない。
大阪工業大学(↓)ではLL(Language Lavoratory)教室を使わせてもらった。非常勤では授業をして帰るだけの場合が多いのだが、教室にいた補助員の学生3人とも仲良しになり、気軽に過ごせる居場所になったのは有難かった。その出会いが、予期せぬ宝物となった。
非常勤講師料だが、たぶん1時間が8000円、1コマは100分2時間換算で16000円、毎月3コマ分48000円が振り込まれた。一年目の収入である。聞いた話を総合すると、私学はす毎月払いで、関西の私学が一番非常勤講師料が高かったようだ。その後何個所頼まれた大学の中では1コマ24000円の桃山学院大学が一番よかった。2万円を切っていたのは大阪工大だけだった。理科系は設備費に予算を食うからというもっともらしい理由である。関西では大阪経済大学が一番高いやろ、紀要を書いても補助金がでるくらいやから、と誰かが言っていた。月額48000円が始まりだったが、充分に有難かった。機会をくれた先輩に、感謝である。
次は、LL教室、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:大学院入試3

 考えれば4度目の大学院入試だった。前回3回は修士課程(→「大学院入試」、5月10日)、→「大学院入試2」、6月10日)、今回は博士課程である。修了前に三つ、次の年にも一つを受験して、また落ちることになった。大学入試6つ、修士2つと合わせて12回も不合格で、不合格通知も届かなかった気がする。高い受験料を払っているのだから、通知くらいは出してもいいのにと思うが、受験する側が弱いのが通例らしい。日本では、正確には当時の日本では、大学院入試は独特の慣例的な制度、と言えば聞こえがいいが、つまりはずっーと続いてきたなあなあの馴れ合いの制度があったようで、知らなかっただけの話である。今も基本的に変わっているようには思えないが。後に大学院を担当する立場に立ってその実態を知るとは、その時点で思いが及ぶはずもなかった。高校の教員を辞めたものの、博士課程も受け入れてもらえそうにない、あとは人との繋がりとその時に必要な教歴と業績を準備出来るか、のようだった。先輩には教歴を頼んだものの、この時点では先行きはまったくの不透明、まさに途方に暮れるという表現が相ぴったりだった。

 人が多く集まるだけあって、関西は東京に次いで何ごとにつけても選択肢の幅が多い。博士課程の場合も、文学部系統なら旧帝大系も含めて4つ選択肢がある。その三つを受けた。一つは先輩から話のあった大学、あとの二つの学部もそれなりに入学が難しい部類で、博士課程を出れば、大学の口は世話してもらえそうな大学だ。先輩から話を聞いて、ある日その人が勤務する甲南女子大学(↑)を訪ねた。校門でもみくちゃにされた(→「分かれ目」、6月11日)因縁の大学だ。まさか違う形で校門をくぐるとは思わなかったが、閑静できれいなキャンパスだった。研究室で話を聞いた。また、あちゃーである。いやに高圧的だった。「博士課程に行きたかったら、十年は聴講に通うしかないな。私も働きながら十年かかったから」要約すると、そういうことだった。心が動かなかった。そうまでして、という気持ちが先に立った。その後、先輩が気を遣って新年会に夫婦同伴で誘ってくれたが、やっぱりその人に合わせる気になれなかった。外から博士課程を受験しても受け入れられるわけがない、ということのようで、受験料も払い、10枚の概要もつけた修士論文と併せて書類を提出し面接も受けたが、すべて意味のないことだったらしい。他の二つの大学も同様で、面接を受ける前後で、招かれざる客であると強く感じた。学内の顔見知りの学生と私のような外からの学生に向ける視線があからさまに違ったからである。私のゼミの担当者はそんな事情を知っていたのか、知らなかったのか。丁寧な推薦書を丁寧な字で4つも書いてくれたが、その英国紳士風を心でどう受け止めればいいのか。次の年も懲りずに、今回は、非常勤をしながら週に1、2度新幹線で通うつもりで、東京の自由な学風で知られる私学を受験した。たまたま、先輩が世話をして同じ英語科で当時講師をしていた同僚が、私の受験した私学の政治経済学部の教授になっていたので、先輩から非公式に試験結果を調べてもらうことが出来た。修士論文と英文購読は80、第2外国語は50が合否の基準で、私は修士論文が82、第2外国語が72、英文購読が20だったそうである。問い合わせがあっても準備万端というわけである。「外部からはそれなりの方法を講じない限り何度受験しても無駄ですのでご注意下さい。出来れば、受験自体をお控え下さい」と受験要綱に記載するわけにもいかないか。それでは受験料が入らないか。院の受験料も馬鹿にならない、筈である。
28年いた医学科は臨床医になる人が多く、基礎医学専攻の場合でも他大学への院進学は閉鎖的ではないので推薦書を書くくらいの関わりしかなかったが、退職後の再任用では名古屋大と広島大に進学する人に、予め直接担当者に会って話を聞いてもらうように強く勧めた。名古屋大と広島大なら、大学の空間を確保できる可能性は高い。博士課程の入試でも、嫌な思いをしなくて済む。時代や学部にもよるとは思うが、どうも入試との相性がよくなかった、らしい。
その後しばらくして、先輩から「4月からの工大(↓)での非常勤、決めといたで。一年目は取り敢えず夜間3コマやけど、それでええか。履歴書も書いといてや」という電話があった。
次は、大阪工大非常勤、か。

大阪工業大学(ホームページより)