つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:揺れ

 「百万円」(4月30日)の時より、揺れが大きかった。今回母親が持ち込んだ話は億に近い数千万の借金、前回私は人に金を借りてまで生きてはいけないと方向転換をしたが、またである。毎朝牛乳を配って五千円、週に一度の家庭教師で三千円、そんな時に百万円すぐに用意して、もないが、定収入のためだけになった地方公務員に億に近い数千万は別世界の話である。母親が結婚した相手に愛想をつかせて忌み嫌い、資金を搔き集めて好きな手芸店を開いて自立しようと藻掻いたが(→「戦後?①」、2021年11月24日)、力尽きたということらしい。
 破綻したのは①資金、②店の経営、③家の購入、④金貸し、が原因である。
 ①資金は夫の退職金と家の売却金と借金で、購入した店は集合市場の一画である。1階が店舗、2階が住宅だった。高度経済成長以前の公務員の給与水準は低く、早期退職の退職金が多いはずがない。家も元市営住宅の古家で資産価値はなく、狭い土地だけの価格も知れている。店舗の購入資金が足りたかどうか。
 ②店舗の購入資金も怪しかったのだから、運転資金は借金、店を閉めた時、姫路の問屋が素人を言いくるめて買わせた在庫が相当残っていた。手芸店の売り上げなど、たかだか知れている。あれだけ仕入れて、どう資金繰りするのか。最後は手形に追われて、無理をしたらしい。
 ③その状況で80坪ほどの土地を購入して家を新築、しかも造園と仏壇に各々百万以上もかけたらしい。2千万以上を3銀行がよく貸し付けしたものだ。私は手元がなくてローンを組んで今の家を購入したが、最初は元金が減らず、利子を払うだけという感じだった。金を借りるというのはそういうものだろう。少し考えれば、破綻しない方が不自然だとわかる。問屋と銀行にいいように食い物にされた、ということだろう。
 ④しかし、それだけで億に近い数千万にはならない。どうも、金貸しに手を出していたらしい。最初は頼母子講の小金を元に人の真似をして高利で金を貸し、味を占めて小欲が膨らんでいったようだ。サラ金と張り合うつもりだったのか。最後はサラ金と店の経営が絡まって、どうにもならなくなったらしい。
 電話をかけて来たとき、だいぶ怯えていた。サラ金に追いかけられでもしたのか。市場の人の相談に乗っていたのが、共産系の民生で、その弁護士と会って欲しいと言われた。明石の法律事務所の人で、事務所を訪ねて話を聞いた。
 「全体の借金が億に近い数千万だが、サラ金関係の金も多く、この際一挙に片づけときましょう。第3抵当まで入っているので、第1抵当の返済を継続し、店舗と家を処分した分を一律1割5分配当、出来れば在庫を換金して、第1抵当の返済に充てる、サラ金の窓口はあなたにお願いします。それでどうですか?」共産系は清廉潔白だけあって、凄い。第1抵当以外は1割5分配当というのは、金を借りて払えないから第1抵当以外は1割5分で勘弁してもらい、あとはチャラにということである。信用金庫などは抵当が流れたら一円も入って来そうにないので、8割5分を諦める方が得策と判断するのか。一番心が痛んだのは、造園業者である。仕上がったら支払う約束で請け負ったのに、いきなり1割5分配当の通知、心が痛む。それほど、自分の家が欲しかったのか。
 サラ金と会ったのは一度きりである。裁判所で弁護士と3人で会った。自分がした借金ではないし、支払いの義務はないというつもりだったが、現実の前では空しい。共産系の弁護士でなかったら、家族もサラ金の被害を受けていたかも知れない。所長が京大卒で党員、その人は京大を出たあとその事務所で経験を積んでいたらしい。その後、愛媛の松山に帰り開業、遣り取りは今も継続中である。人権派の弁護士で、原発の差し戻し請求などの弁護団もなかなかやめさせてくれないと手紙に書いていた。アパルトヘイト否!の講演会に招待してもらい、松山まで出かけた。何が縁になるかわからないものである。
 次は、余震、か。

松山城

つれづれに

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つれづれに:手入れ

 10月から通い始めたマッサージの治療が、2月からは二週間に一度のペースになった。少し落ち着いて来たというところだろう。いつだったか「治療の記録、コピーして来ましたで。わたし目悪いでっしゃろ。いつも通りの拡大コピーですけど」とA3の手書きの治療記録のコピーを渡してくれた。その時は気軽にありがとうございますとだけ言って受け取ったが、今となっては手書きのとても貴重な記録だ。記録には当時住んでいた「中朝霧丘」、6月17日)の家の電話番号が書いてあった。中朝霧丘からは明石駅(↑)まで自転車で、駅からはバスと神戸電鉄(↓)を使った。昭和58(1983)年から平成4(1992)年までの分である。初回58年10月/23日: 上15/下120→58/120、10/31: 48/108、11/8: 54/114→66/114、11/14: 50/108→66/110、11/21: 52/102→64/110、11/28: 38/104→60/110、12/5: 50/100→66/110、12/12: 74/110→70/106、12/19: 60/120→70/110、59年1/9: 56/110→66/108、1/24: 46/102→70/108、1/30: 58/104→72/112、が三か月余りの血圧の推移である。血圧がだいぶ落ち着いてきたと判断されたのだろう。そのあと、隔週の治療に切り替わった。

 陽気でよくしゃべる人でいろいろな話を聞いた。夫婦はどちらも眼に障害があるが、子供さん二人は障害もなく元気だと聞いた。開業する前は神戸の新開地の店で、20分のショートと言われる短い時間のマッサージをたくさんこなしていたらしい。しかし、一人にじっくり時間をかけて治療したいと思うようになり、三木市の住宅地(↓)に家を購入して開業、一日に6人程度、じっくり時間をかけてマッサージをすることになった。一度来た人は次の予約を入れて帰って行くので、三か月ほど先まで予定がびっしりと詰まっていた。痛いが、治療の効果がきっちりと出ていたということだろう。

 自分の体のことなのに、それまであまり意識をして考えたことがなかったので、なるほどなあと感心することが多かった。血の巡りやリンパの流れもよく話に出たが、毛細血管のこともよく話をしてくれた。「運動せんかったり冷やしたりしたら、毛細血管が少のうなって血の流れが悪うなりますやろ。運動が足りて毛細血管がようさん出来たら、血のめぐりもようなって調子よろしいですわな。相撲取り、あんだけ太ってるように見えてますけど、毛細血管の塊りでっせ。血色もよろしおます。」「車に乗るようになって運動せんようになり、調子を崩す人も多おまっせ。運動せんさかい、毛細血管が少のうなって血の巡りが悪うなりますもんね。おまけに冷房で体冷やして。そら、血の巡りも悪なりまっせ。」そう言えば、「採用試験」(5月8日)の準備のとき、冬の寒い時期に粋がって和服を着て暖房もなしに一晩中座ったまま本を読んだりしていたから(→「作州」、3月14日)、調子を崩したのも考えたら道理である。頭の方はそれまで使ってなかった分詰め込めたかも知れないが、体はそうはいかない。それまで鍛えるために川の堤防(↓)を30キロほどを走っても余り息も切れないくらいだったから(→「作州」、3月14日)、相当な運動量だったと思う。それが、運動をぴたりとやめて一日中座って本を読みだしたのだから、外からは見えないが作られる毛細血管が極端に少なくなっていたに違いない、当然血の流れにも異変が起きる。きついマッサージで細胞が破壊され再生され、運動も並行してやったので、毛細血管も以前ほどではないにしても、生活に支障がない程度には作られるようになったということだろう。

当初から、体を冷やさないように、カイロをつけるように言われた、腰とお腹と両足首と脹脛の間に2つ、計4つもである。感覚が麻痺しかけていたときは、カイロをつけていても寒い感じがするくらいだったが、よくなってくる熱く感じて着けていられなくなった。それだけ調子が戻って来たということだろう。ベンジンを入れて使う金属製のカイロは結構面倒臭かったが、背に腹は代えられず、長い間忠実に利用した。その後、使い捨てカイロを使うようになっている。使う個数も多くて二つ、つけている期間も短くなり、外す時間も長くなった。体を冷やさないように気を遣うことが多くなった。内臓の温度を下げないように、温かいものを取るようにもなっている。

 「血をめぐらすために、焼けた砂浜を歩いて海水で冷やす、それを繰り返すのもよろしいでっせ」と言われて、夏の暑い日に、近くの大蔵海岸(↓)に行き、砂浜を歩く→海水に浸ける、その作業を繰り返した時期もある。「明石」(6月16日)に住み始めて以来、大蔵海岸の砂浜に降りたのはその時が初めてだった。
 その後隔週に一度が、月に一度、最後はふた月に一度のペースになり、治療から体の手入れに変わった。西洋の対処療法に一番欠けている、予防の医学の経験則的実践である。
 次は、「揺れ」、か。

つれづれに

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つれづれに:体の悲鳴

 危うく死ぬところだった。ずっと体が重く、背中や最後辺りは頭の先まで痺れていた。背中を伸ばして寝られないことが多かった。黒髪も半分は白髪になっていた。大学(↑、→「夜間課程」、3月28日)でバスケットボール(→「運動クラブ」、3月29日)を始めてからは鍛えるためにずっと体を動かしていたのに、採用試験の準備を始めてからは(→「採用試験」、5月8日))、憑りつかれたようにほとんど座り詰めだった。一年間、ずいぶんと無理を続けた。一年が終わる頃から、その兆候はあった。

教員で学校に行き(→「新採用一年目」、5月18日)、結婚もして子供が出来(↑、→「明石」、→「中朝霧丘」、6月17日)、毎日が一杯一杯だった。ずっと、体が悲鳴をあげていた。若さで持ってはいたが、そろそろ限界に近かったらしい。わたしには弟が二人いる。上の弟の結婚相手は看護師で、結婚を機にしばらく同居したことがある。その弟夫婦が心配して、看護師仲間の話を聞いて「兄貴、かなりきついマッサージらしいけど、行ってみるか?」と勧めてくれた。そう期待していたわけではないが、体も辛かったし、思い切って訪ねてみることにした。明石市の北隣にある三木市の住宅街(↓)に治療院があった。住宅の一室が治療室で、縦長の治療台が二つ、間にドーム型のサウナが置いてあった。治療室の隣に待合室も兼ねた狭い事務所があった。座頭市の主人公のような小太りの中年の人だった。最初に血圧を測って、太い指で私の足の甲をぐっと押しながら「よかったでんな。あとにふた月ほどでクモ膜下でしたな。あぶないとこでしたで」が第一声だった。34歳の時である。血圧は上が120で、下が15だった。

 「すべて、血液とリンパの流れでんな。下が15て、血液がまともに流れてまへんがな。ほんま危なかったでっせ。最初は一週間ごとにきてくれまっか。少し落ち着いたひと月にいっぺん、ようなったらふた月に一回くらいでよろしいでっしゃろ。」先にサウナで体を温めるように言われた。一人用のドーム型のスチームサウナである。うつ伏せになり、肩の辺りまで中に入った状態で1時間ほど、だいぶ汗をかいた。次に電動式のローラーに乗るように言われた。胸と足首の辺りに重しを三つずつ置いて、30分ほどだったと思う。最初なので、背中が痛かったが、我慢できないほどではなかった。それからマッサージが始まった。両脚が最初だった。太い指が筋肉の中まで食い込んで来る。弟の言葉通りかなりきつい。サウナとローラーの時に別の治療台にいた人が「あたたたたーっ、あたたたたーっ・・・・」と大きな声を連発して痛がっていたので、少し意地になって、声を出さないと決めて我慢した。太腿と足の裏など何個所かは肘と全身を使ってぐりぐり、ぐりぐり、結構中まで食い込んで来る。肘と骨が接触するくらいの感じだった。「調子がようないと痛いでっしゃろ。ようなったら気持ちようなりまっせ。脹脛(ふくらはぎ)だけは、ようなっても痛(いと)うおますけどな。」太い指が筋肉の中に食い込んだ。終わったら、ふーっと気が遠くなるような感じだった。次に両腕、最後に肩から腰と尻、要所要所で肘を使っていた。ぐーっと奥まで肘が入ってくる尻の痛さも、また別格だった。逃げようがない。ようそんなに痛いとこ見つけるもんやなと思うほどの2時間だった。歯を食いしばって最後まで声は出さなかったが、気が遠くなるくらい痛かった。脹脛に指が食い込んだとき、その後一度だけ気を失ったことがある。ぐっと歯を食いしばって堪えてはいたが、ふーっと暗くなって意識が飛んだ。きっと痛さの限界を超えていたんだろう。「わたしの場合、ブルドーザーでがあーっと、という感じでんな。」ほんとうに、その言葉通りだった。
2時間悶え苦しんだ後の血圧は、上が120で、下が58だった。1983年の10月23日が初日で、大学院を修了した次の年のことである。毎週の治療は1月30日まで、三か月余り続いた。
次は、手入れか。

最寄りの神戸電鉄緑が丘駅

つれづれに

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つれづれに:魚の棚

 「明石」(6月16日)に住み始めた時は、妻は仕事に食事や子供の世話でぎりぎりの毎日だった。土曜日も授業があった時期で、授業が終わったあと週に一度、前から通っていた神戸の絵画教室で絵を描く2時間を確保するのがやっとだった。私の方はそれに甘えて、授業(→「教室で」、5月21日)と「ホームルーム」(5月24日)と課外活動(→「顧問」、5月30日)を優先する毎日だった。若かったとは言え、よくも妻の体が持ってくれたものである。私は丈夫に生まれついているようだが、妻は元々体も弱かったので、この頃のことを思うと心が痛む。「中朝霧丘」(6月17日)は妻が住んでいた家だったので、その点は気が軽かったようだ。父親は伴侶をなくして以来の一人暮らしで老け始めていたが、目に入れても痛くない娘が突然孫を連れて帰って来たので、一目見てもわかるほど若返っていった。小さい頃も娘は親と離れたがらなかった。保育所に預けてもよく熱を出すし、出る前は悲しげに黙っていることが多かったので、お爺ちゃんといられるのは何よりだった。二人の相性もよく、二人でいるのが楽しそうだった。息子が出来た時は、すでに大学院生活が始まっていたので、私が母親役をさせてもらい、2時間おきにミルクもやった。妻の大変さをしみじみと思い知った。

明舞団地

 明石の住み心地がよかったのは家の居心地よかったことが一番だが、人が多すぎず少なすぎずという人の数や、城もあって気軽に行ける魚の棚があるという街の造りも影響があったように思う。大学の時に三宮(↓)で国鉄から阪急に乗り換える時も、明石から満員電車で大阪の梅田の地下街を通った時も、大都会の人混みの多さに気が滅入って、疲れ果てた。満員電車の中で嗅いだ神崎川の悪臭は、窓が閉まっているのに臭って来るほど強烈だった。大阪工大の夜間授業が終わって帰る時は、大阪駅で人と座席を争う気になれずに、逆方向の新大阪駅まで行って列車に乗っていた。三宮で満員電車に乗る気になれずにやり過ごしていたら、最終列車になってしまったこともある。それでも、ほぼ満員だった。もう少し大都会を避けられない生活が続いていたら、どうなっていたか。

 その点、明石はちょうどいい加減だった。魚の棚なども含めて、城下町の造りが今に生きていたからかも知れない。ときたま、土曜日に時間を見つけて新幹線で京都の錦市場(↓)に出かけていたが、当時も結構な賑わいがあった。(→「藪椿」、3月2日)魚の棚のことを考えるときは、いつもこの錦市場と比較してしまう。地の利を得て、北陸からくる新鮮な海産物などや四方八方から来る人がたくさん集まり、地域にも深く根付いているようだった。明石より規模もかなり大きい。Covid 19騒動の前は、外国人観光客が溢れて違う市場になってしまったと嘆く人も多かったと聞く。コロナで観光客が来なくなったあと、市場はどうなったのか。観光客の受け入れが再開されて、今後はどうなって行くのか、少し気掛かりだ。地元に根付いたあの賑わいを取り戻してくれることを祈るばかりである。

 魚の棚辺りの市場は平安時代に豊かな地下水を利用して京都御所に新鮮な魚を納める店が集まったのが始まりで、今の魚の棚市場の原型は江戸時代の初めに築城された明石城とともに生まれたらしい。宮本武蔵が城下町の町割りの設計を担当したとは知らなかった。町の東部を商人と職人の地区、中央部を東魚町、西魚町などの商業と港湾の地区、西部は樽屋町、材木町とその海岸部には回船業者や船大工などと漁民が住む地区と線引きし、城に近い一等地に魚町を置いたらしい。当時から明石では魚が重視されていて、その東魚町、西魚町にあたるのが現在の魚の棚商店街の原型だそうである。ゼミでいっしょだった人の家は樽屋町にあると言っていたから、中心街より少し西側に住んでいたようだ。

 全長350メートルのアーケードに、特産の魚介類や練りもの、海苔やわかめなどの乾物を扱う100余りの店舗がある。私以外は魚も好きなので、買い物は新鮮な魚が主だったが、通りの曲がり角に新鮮な野菜の店もあり、和菓子屋さんもあった。英語学の助教授の人の所に持って行く丁稚羊羹は駅デパートでも買えたが、名店にあぐらをかいているのか態度が横柄で買う気にはなれなかった。

 小さい頃から魚類は臭いが苦手で食べないが、海がそう遠くないのに新鮮な魚が出回らなかった地域だったことと、給食の影響が強かったと思う。古い鯖をよく吐いた。他にもゴムのような牛肉や特有の臭いのきつい鯨やそれで作った肝油、粉臭い脱脂粉乳に硬い味気ないパン、よくもこれだけ食欲を殺ぐものばかり集められたものである。今でも、魚も肉も苦手だ。魚の棚に並べてある魚は昼網と言われて、生きているのも多かった。目板鰈と海老、鯵などをよく買った。目板鰈と海老はいきたまま鍋に入れるので、鰈がわしがってるよ、と妻がよく言っていた。鰈も海老もほとんど臭いがしなかったので、この時期は普通に食べていた。妻の父親が魚を捌いてくれた。魚の棚が毎日の生活に入り込んでいたということだろう。そんな市場に、私は自転車で買い物に出かけていたわけである。
 次は、台風1号、か。

明石