つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:「アーカンソー物語」

 1983年から5年間大阪工大(↑、→「大阪工大非常勤」、7月11日)のLL準備室(→「LL教室」、7月12日)を使い、補助員3人に助けを借りながら、英語の授業をさせてもらった。LL装置を駆使して編集した映像や音声をふんだんに使ったので、ただ読むだけの授業よりも楽しく過ごしてもらえたのではないかと思っている。英語が苦手な工学部の学生の英語へ抵抗感が少しでも和らいでくれていたら嬉しい限りである。ある日、補助員の一人が、近くのビデオショップで借りたベータのテープをダビングして渡してくれた。当時はビデオショップもたくさんあり、店でもベータとVHSのテープがまだ半々くらいだった。アフリカ系アメリカの歴史を辿る授業を手伝ってくれている中で、その映画が役に立つと考えて、借りて来てダビングしてくれていた訳である。それが「アーカンソー物語」(↓)だった。

 「アーカンソー物語」は1957年に実際に起きた事件を元に作られた2時間ほどの映画で、元大統領ビル・クリントンの地元アーカンソー州のセントラルハイ高校(↓)が舞台で、Crisis at Central Highが原題である。

 1619年に20人のアフリカ人奴隷が売買されて以来、南部では奴隷制で潤った大農園主が民主党を創り代弁者をワシントンに送って大統領にして長い間富を独占していたが、奴隷貿易の資本蓄積で産業革命を起こした西洋は産業社会に変貌して、原材料と労働力を求めて植民地化が進んだ。アメリカでは北部に産業資本家が住み着き富を独占、共和党を結成して南部に対抗した。奴隷の労働力が欲しい北部の資本家と奴隷制を死守したい南部の寡頭勢力の力が拮抗し始めたとき、殺し合いを始めた。南北戦争である。一応北部の勝利に終わり、1863年に政治的折衝で奴隷解放宣言が出たが、実質的な奴隷解放宣言は1954年の公立学校での人種隔離は違憲という最高裁の判決まで持ち越された。歴史的に見ても、大きな転機だった。その最高裁判決に従って、白人の高校に黒人が入学した1957年に起こった事件がリトルロック高校事件で、その映画が「アーカンソー物語」(↓)というわけである。

最高裁判決が動き出したのが1957年のようで、判決に従ってそれまで行けなかったアーカンソー州州都にあるセントラルハイ高校に黒人の生徒が入ろうとした時に、州が連邦政府の言うことを聞かなったので騒ぎが大きくなった。アメリカは日本より地方自治体である州の権限が強いようで、州が最高裁の判決に従わなかったわけである。このあと大学でも同じような入学騒ぎが起きているが、アラバマの知事が大学の入り口に立って入学を阻止しようとした事件は有名で、アラバマ州知事フォーバス(↓)は南部反動勢力の象徴になった。公民権運動時代に作られた映画「招かれざる客」で白人富豪の父親に黒人医師との結婚を反対されたとき、アラバマ州知事に反対されても結婚するわよ、と娘が言い返していたが、リベラルを気取っていた白人の間ではアラバマ州知事=反動勢力が浸透していたようである。最後は大統領が介入して、力ずくで最高裁の判決に従わせた。1963年のことである。

 映画では受け入れをスムーズにするために苦悩しながらも協力してことにあたる校長と副校長(↓)、州兵に校門で追い払われる黒人生徒、帰宅しようとしてバスを待つ生徒を口汚く罵る白人生徒の群れ、連邦政府軍に守られて登校する黒人生徒、校門近くに押し寄せ、群れて怒号を浴びせる父兄、怒号が渦巻く中で不安そうに授業を受ける白人と黒人の生徒、そんな高校のキャンパスでの出来事が描かれている。

 校門の近くで群れて怒号を浴びせる父兄の場面を見ると、校門でもみくちゃにされた大学院の入学試験の場面(→「大学院入試2」、→「分かれ目」、6月10日~11日)を思い出す。その場に居合わせた人にしか感じられな何かがあったように思うが、歴史的に見れば、それもほんの歴史の一コマなのだろう。中間管理職を利用して締め付けを強化したい国や文部省と、そうはさせまいと闘う日教組、憲法に従い、黒人の公民権実現に向けて最高裁判決を具現しようとする連邦政府と、それに対抗する南部の寡頭勢力と白人父兄(↓)、そんなところか。白人警官の黒人射殺事件をきっかけに始まったブラックライブズマター(Black Lives Matter)も根は想像以上に深く、「アーカンソー物語」の延長線上にある。
 次は、紀要、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:「ウィアーザワールド」

 「黒人研究の会」(6月29日)の月例会で時折発表する人はラングストン・ヒューズ(↑)と遣り取りがあるらしく、色々な話をしてくれた。有名になるとアフリカ系アメリカ人の作家はハーレムから出ることが多いが、ヒューズは今もハーレムに住んでいるとか、独身だとかの話である。遣り取りは「黒人史の栄光」(↓)に註をつけて大学のテキストを作る時に直接本人に手紙を出した時から始まったそうである。「本人にまえがきを書いてもらい、ヒューズ自身が本文を朗読したレコード盤(LP)まで送ってくれた」と鼻高々だった。私もLPを借りる恩恵に預かったという訳である。大阪工大のLL準備室で、カセットテープを作ってもらった。歴史的な宝物である。

 本人の朗読以外に、歌や演説なども入っていた。修士論文でライトの作品を読んでいる時に、アフリカ系アメリカ人の歴史を辿る必要性を感じたが、独特の経緯を持つ音楽、いわゆるブラック・ミュージックを知る必要性も同時に感じていた。ただ音楽の遺伝子を賦与されていないと思われる私のような人間にも、LL準備室でダビングしてもらった「ウィアーザワールド」(↓)は、ブラック・ミュージック入門の役目を果たしてくれた。黒人霊歌のように一人で歌うのを録音したのとは違って、別々の場面(カット)を集めて作品を仕上げる映画のように、たくさんのカットを編集して作られた「ウィアーザワールド」は、私でもぞくぞくした場面が何個所かあった。

 ブラック・ミュージックが独特の経緯を持つのは、アフリカ系アメリカ人がアングロサクソン系の人たちにアフリカ大陸から無理やり連れて来られたからである。アフリカの言葉を奪われ、侵略者の英語を強要されても、その歌詞を借用してアフリカのビートやリズムを加えて自分たちの歌にして、歌を通して代々魂を伝えて来たからだ。アフリカ系アメリカ人の子供たちは小さい頃からそんな魂の歌スピリチャルやゴスペルを聴いて育っている。「ウィアーザワールド」を作ったマイケル・ジャクソンもその一人である。やがてジャズやソウルやブルースやラップなどの新しい形の歌を作り出しながら、その魂は連綿と受け継がれて来たが、いっしょに歌ったアリーサ・フランクリンやレイチャールズはソウル音楽の担い手である。映画『奇妙は果実』で主演を演じたダイアナ・ロス(↓、マイケル・ジャクソンと)は父親が五人別々の子供を持つバイタリティ溢れる母親だが、日本武道館の五万円席がほぼ即日完売だったと聞く。

 そんな大物がエチオピアの飢餓キャンペーン(↓)で何人も集まって歌うのだから、迫力がないわけはない。音感に欠ける私にはブラック・ミュージック入門の一曲となった。
次は、「アーカンソー物語」、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:「アフリカシリーズ」

 「黒人研究の会」(6月29日)の月例会ではアフリカとアフリカ系アメリカの発表が半々だった。ときたま『アメリカ黒人の歴史』(↓)の著者本田さんのような大物が来ることもあった。大概は学会に招待されたり個人的な所用などで神戸か大阪に来たついで発表してくれていたようである。1983年の飢餓キャンペーンか何かでどこかの大学に招待されたセネガルの詩人センベーヌ・ウスマンさんが来たこともあった。まだアフリカに馴染がなかったので、どの程度の人か知らなかったが世界的に著名な詩人らしかった。誰かが「日本に何か出来ることがありますか?」と聞いたとき、「何もしないことが一番です。何かしてもらって、今まで碌なことがなかったわけですから。アフリカのことはアフリカでやりますから、放っておいてもらえると有難いです」と答えていた。その時はよく意味がわからなかったが、アフリカの歴史を辿るようになってこの500年ほどの間にアングロ・サクソン系を中心に西欧諸国のやってきたことを知るにつれて、ウスマンさんの真意がわかるようになった。肌の色は同じでも西洋と組んで生き延び、富と権力に溺れる似非アフリカ人でなければ、ウスマンさんと同じように考えているはずである。

 ちょうどその頃に大阪工大のLL教室の補助員にダビングしてもらった「アフリカ・シリーズ」の映像は何よりだった。先輩が録画したものの孫テープで映像は鮮明ではないが、とても貴重なものである。「ハーレム」(6月24日)の本屋さん(↓)で手に入れた著書The Struggle for Africaと併せて、アフリカ史をみて行く上での指針になっている。

 「アフリカシリーズ」(1983)はNHKの45分8回シリーズで、元タイムズ記者バズル・デヴィドスン(Basil Davidson、最初の写真)のドキュメンタリーを編集し、日本語で放送された番組である。The Struggle for Africa(1982)もどちらも1980年代前半に出たもので、第二次世界大戦後好き勝手をし続けたアメリカの一人舞台が崩れ始めた時期に呼応する。それまでのアメリカ中心の制度では回らなくなったということのようである。「アフリカシリーズ」が500年の横暴側の筆頭イギリス人の内側からの内部告発、「先進国」の経済的譲歩を提起しのアフリカ再評価のすすめといったところか。前半でヨーロッパ侵略以前のアフリカ大陸の紹介、後半は奴隷貿易→アフリカ分割・植民地支配→第二次世界大戦後再構築された多国籍企業による経済支配を映像で浮き彫りにしている。

 8回は「第1回 最初の光 ナイルの谷」、「第2回 大陸に生きる」、「第3回 王と都市」、「第4回 黄金の交易路」、「第5回 侵略される大陸」、「第6回植民地化への争い」、「第7回 沸き上がる独立運動↓」、「最終回 植民地支配の残したもの」で、アフリカを知らない人でも興味をそそられる内容である。アフリカは国策をもろに受けて最も遠い大陸だから資料も限られるし、その中でものを考え、判断するのは極めて困難な状況だから、その点でもとても貴重な歴史的宝物である。
 次は、「ウィアーザワールド」、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:本田さん

 本田さんは『アメリカ黒人の歴史』(↑)を書いた本田創造さんのことである。「黒人研究の会」(6月29日)の例会で一度だけお話を伺ったことがある。例会に参加し始めて暫くしてからだったと思うので、1984年前後だった気がする。発表のタイトルは忘れてしまったが、発表のあと参加していた人たちが色々質問していたのが印象的だった。まだ大学の職の話もない時期で、アフリカ系アメリカの歴史もほとんど知らなかったので、質問に参加出来なかったのは心残りである。

 当時一橋大学の教授だった。どれくらいの親しさだったかは知らないが、貫名さん(↑、→「がまぐちの貯金が二円くらいになりました」、1986年)に呼ばれて来たようだった。受験勉強もしなかったし、周りに大学に行く者もいない環境だったこともあり、一橋大学と聞いてもずいぶんと遠い存在だったが、妻の兄が3人とも卒業生だと聞いて、少し身近になった。「3商大の応援団の対抗戦があった」と3番目の人が話しているのを聞いて、「3商大?」と疑問に思ったことがある。お兄さんの言ってた三商大は、一橋大、神戸大(↓)、大阪市大で、どこも経済系が強い印象がある。行った高校では神戸の教育は低く見ていたが、経済、経営は評価が高かった。最近、二つ隣の研究室にいた元同僚がスペイン関係で一橋大に教授で行ったので、また身近になった。

 学士力発展科目でアフリカ系アメリカ人の歴史と音楽をやっていた時に、課題図書にしていた『アメリカ黒人の歴史』をウェブで検索したら、1991年に新版が出ていて今も新本が手に入るので、息の長い新書版である。ウェブでの本田さんの情報はたくさんある。大阪出身で東京大の経済を卒業、神戸大文学部で助教授だったこともあるようである。ジョン・ホープ・フランクリンの『人種と歴史 : 黒人歴史家のみたアメリカ社会』(↑、John Hope Franklin, From Slavery to Freedom―A History of Negro Americans, 1980)を翻訳しているとは知らなかった。1993年に岩波書店から出ている。監訳とあるから何人かで担当したんだろう。フランクリンの本は、アフリカ系アメリカの歴史なら、Carter G. WoodsonのThe Negro in Our History (1922)、William Z. FosterのThe Negro in An American History (1954)と併せて必須である。貫名さんはフォスターの大冊『黒人の歴史―アメリカ史のなかのニグロ人民』(↓)大月書店、1970年)を翻訳している。どちらも歴史的な財産だろう。本田さんに比べて、私の黒人研究会報の追悼文が出て来るくらいだから、 貫名さんの情報は極めて少ない。京大卒でも共産系だからだろう。学生運動の時に翻訳原稿を火炎瓶で焼かれても、学生を支援し、再度時間をかけて翻訳して出版したのも歴史的な財産だろうと思う。例会では『アメリカ黒人の歴史』の評判は上々だった。同じ頃出版され、NHKでも顔が売れていた東京女子大教授猿谷要さんの『アメリカ黒人解放史』(サイマル出版会、1968年)の評判は散々だったかすかな記憶がある。

 新書版で、今もなお新版(↓)が出版され続けているだけあって、南北戦争と公民権運動を軸にしたアフリカ系アメリカ人の歴史はわかりやすかった。「アメリカ人の黒人の歴史を、この程度の小冊子にまとめることは、私の能力をいうことを別にしても、大変困難な仕事である。」と本田さんもあとがきで書いているように、大変な苦労があったと思うが、関心を持ち始めた頃に読むのにぴったりだった。その思いもあって、学生の課題図書に入れて学生にも紹介した。今なら本田さんに直接聞きたいこともあるのにと思うが、後の祭りである。
次は、アフリカシリーズ、か。