つれづれに

 

つれづれに:木花俯瞰図

 

散歩している時に、すごいものを見つけた。江戸時代後期の木花俯瞰図である。「木花地域まちづくり推進委員会」が年末に新たに作成した案内板の中に含まれていて、俯瞰図は木花神社の宮司が所蔵しているらしい。散歩の途中に何回か表札で宮司の名前を見かけたことがある。委員長は公園脇に家のある方のようで、公園や神社の手入れをしている姿を時々見かける。出来た野菜をもらったこともある。普段神社は無人だが、年に何回かは行事が行われているようで、代々引き継がれた宮司が祭祀を執り行い、氏子の地域の人たちが協力して神社を整備、保存しているようである。江戸時代から受け継がれてきたとても貴重な俯瞰図だ。

絵心のある人の絵は想像力を掻き立ててくれる。木花神社の北に法満寺があったのを知ったのは最近だが(→歩くコース2の)、なかなかイメージが湧かなかった。神社があったと思われるところに、今は人家が何軒かあるからかも知れない。この俯瞰図で、少しイメージが湧いた気もする。寺は神社より小さく描かれているので、規模はそう大きくなかったようである。寺の横に木花集落が並んでいるが、高台にある神社と寺と、木花集落との高低差は描かれていない。

江戸時代後期(1735年~1868年)に描かれた図で、描いた人の名前はわからないらしい。図を見ると木崎浜と内海の位置が今とだいぶ違う。図では清武川と加江田川が河口付近で合流し、清武川の北側に木崎浜が描かれているが、今は清武川と加江田川がほぼ並行に流れ、二つの川の間に3~4キロメートルほどの木崎浜がある。それと、曽山寺浜と青島海岸までが湾曲に描かれているが、今はほぼ直線である。一番奥に内海が描かれているが、現在は岬の陰になって木花神社からは見えない。砂浜や河口は変化が激しいので、地形が大きく変わったかのかも知れない。目測を誤った可能性もある。

描かれている左手(北端)の木崎浜から右手(南端)の内山集落(現在の高岡町で、子供の国の西)までの南北の範囲、奥(東端)の内海から手前(西端)の法満寺と木花神社までの東西の範囲を俯瞰するには、位置的に見て、木花神社のかなり西にある高台か高い山から見る必要があったはずである。しかし、実際にはその辺りにはそれほどの高さの高台や山はなかったようだし、方角的に見てその方角からは岬(現在ホテルサンクマールの南側の突き出たところ)に隠れて内海は見えなかったと思われるので、たぶん木花神社、法満寺近くの高台から見たものに恣意的に手を付け加えて描き上げたのではないかと思う。

と、簡単に閲覧できるウェブの地図や写真の基準に慣れてしまっているもっともらしい感想だが、多少の誤差があっても、絵には写真とは違う何かがあるような気もする。内戦もなかった江戸時代の後期に、この俯瞰図、いったい何のために、誰が描いたのだろうか。描いた絵が代々引き継がれて、木花神の案内板に載せられ、後の世の人たちに紹介されるとは夢にも思わなかっただろう。描いた人に会って、いろいろ尋ねてみたい気もする。

次回は俯瞰図の続きで、法満寺を菩提寺にしていたらしい飫肥藩などをめぐって、か。

3月が始まった。24節気の雨水(うすい)がもうすぐ終わり、3月5日からは啓蟄(けいちつ)である。だいぶ気温も高くなり、大根に薹が立ち始めた。また、虫の季節である。「玄関のドアを開けたら、沈丁花がにおって来たよ」、と遠くで妻が言っている。

小島けい「私の散歩道2022~犬・猫・ときどき馬」3月

授業

Zoomトーイック:今後について

立春が過ぎ、雨水(うすい)の節気に入り、三寒四温で春になる頃やけど、まだまだ寒いねえ。明石市中朝霧丘という優雅な地名のところに住んでるときに、庭の梅の樹にみかんを二つ切りにして刺しておくと、色んな鳥が来くので、毎年みかん類を切らさず刺してました。宮崎での続けています。今のところ目白と碑よと、もう1種類碑よより少し大き目で色の濃い鳥が毎日来ています。今朝は早くから来て、庭に下りたりもしてました。
22日(火)11時から12時前まで、Zoomトーイックの今後についての話し合いました。地域は3年まで試験を受けないといけないけど、始めた時に期限を決めてなかったこともあり、学年が変わる前に今後の方針を決めておいた方がいいと思ったんで、中原さんに連絡をしてもらってZoomでやりました。そのまとめです。
参加者:中原さん、大野くん、田中さん。
中原さんに伝言:植村くん、迫田さん、得能さん(インターンシップのため)。
参加予定欠席:内田。
(ずっと)連絡なし:ミルくん、山田くん。
*①今後も続けたい:大野、田中、植村(伝言)
 ②自分でやる:中原、迫田(伝言)、得能(伝言)
 ③未確認:内田
*①新たに大野くんが連絡係、Lineを作成。日時は続ける人で新たに決める。
*②自分でやる場合、必要なら連絡してもらえればいつでも対応(たま)。
*取り敢えず、来年の3月まで。
途中でも言ったけど、楽しくないと成果も上がらないと思うので、Zoomトーイック自体が面白くなるといいね。自分でやる人は連絡してもらえれば、いつでも対応するよ。
たま
田圃に水が張られ、田植えの準備が始まっています

つれづれに

つれづれに:田植え準備

加江田神社の展望所から

 田に水が張られ始めた。田植えの準備が進んでいるわけだ。台風が来る頃から逆算して田を起こし、水を張るようだ。まだ一割程度だが、そのうちどの田にも水が張られ、三月の終わり頃には田植えが始まる。過去の「つれづれに」にも、田植えの準備について書いている。→「春めいてきました」(2013年3月11日)

奥正面が室内練習用のドーム、左手が総合公園入口

 最近はわりとよく歩けている。昼間は暖かいので汗ばむほどで、体を冷やさなくて済む。今年は東京でも雪が積もったそうだから、穏やかでほんとうに助かる。陽が射してくれると、余計に有難い。暖かい昼間に、一番長いコースを歩くことが多い。高台の公園から墓地を通って加江田神社により、木花駅の南側踏切からサンマリーン球場の見える県道で折り返し、木花駅脇の踏切を渡って、小学校、中学校脇を通って戻る一時間ほどのコースだ。最近は木花駅からコース2を逆に辿って公園から家に戻る場合もある。鳥用の柑橘類の実を拾うためである。誰も実を摘まないまま次の花を咲かせる樹から落ちる実を拾うだけだが、柑橘類の宝庫だけあって、来てくれる鳥たちに充分に出せるだけの実が拾えるのは、有難い。さすが南国である。「 歩くコース2」→、→、→、→、→(2021年7月30日~9月10日)

今日もマッサージで全身の手入れをしてもらいに白浜に出かけた。天気のお知らせでは最低気温が0℃とあっただけあって、曇り空で風も冷たかったので、海の色がもっと深いと予想していたが、それほどでもなかった。実を切るような寒さで晴れている時の色の濃さはなかった。

曽山寺浜にかかる歩行者・自転車用の道路の橋の上から

 風が強く波も高かったのでサーファーはいなかったが、結婚したカップルと親族らしき人たちが砂浜で写真を撮っていた。顔がわからないほど遠くからなので、無断で撮らせてもらった。背景は青島である。浜の手前の旧パームビーチホテルの浜辺のチャペルで式を挙げたあと、撮影に出たようだ。何年か前に、息子たちも同じように浜に出て写真を撮っていた。両親の不仲を見て育ったので結婚はしないと決めていた相手に結婚してもいいなと思ってもらえたみたいで、目出度く二人は結婚した。相思相愛の相手に巡り合えるのは稀有なことなので、相手の人が私たちには天使に見えたほどである。東京の海の見えない所で育った相手が、海の見える所で結婚式をしたいと言ったと聞いたので、それならと旧パームビーチホテルの浜辺のチャペルで式を挙げる手配をした。結婚式までに挨拶をという話もあったが、猫が3匹いるので二人同時に出かけるわけにいかないので、時差で挨拶に行きましょか、と言ってみたら、それじゃ私たちがそちらに伺いますと言うことになった。東京から両親と兄と、仙台に住む叔母の5人が宮崎に来てくれた。こちらは事情があって私たち二人、計8人が式に参加、そのあと会食をした。妻からはしゃべらないでねと言われていたので、その通りにしたのがよかった。しゃべらなければ、聞くしかない。相手がみんな酒好きだったのも幸いした。もりもり食べて、おいしそうに酒を飲んでいた。大成功である。本当は式は苦手なので勘弁して欲しかったが、式をしたい人に反対する気持ちもないので、流れにまかせた。思い返せば、自分たちの式も同じ感じだった気がする。僕は式は苦手だし金もないし出来ればしたくないがと言ったが、私はウェディングドレスは着たい、結局折り合いをつけて、式にはお互い3人ずつ合計8人が参加、その後会食。費用はどちらも「パパ」が出した。計画などあるはずもなかったが、期せずして人数までいっしょの8人だった。場所は今はもう存在しない六甲山頂のオリエンタルホテル。窓から見える百万ドルの夜景。夕食のカレーライスが絶品だった。

 折生迫の県水産試験場内の樹にも毎年お世話になっている。誰も実を採らないので、落ちた実を拾わせてもらって鳥に献上している。去年は幸いここで拾わなくても他で実を集められたので、春に花が咲いてもまだ実が落ちないまま付いていた。今年は、今日初めて落ちた実を1個拾い、持って帰ってきた。あまり食べたことのない橙系の実である。堀切峠下海岸道路について書いた時に水産試験場を紹介した。→「堀切峠下海岸道路②」(2021年11月1日)

水産試験場を過ぎた辺りで、急に海がわっと広がる↑

つれづれに

つれづれに: 大学6:無意識の「常識」6

小島けい手製カレンダー2006年

立春でもまだまだ寒い日が続いている。24節気では4つの季節をそれぞれ6つに分け24のひとまとまりに名前がある。それぞれの期間が約半月ほどで、一般的に始まりの日にその名前が使われるが、その期間をその名前で呼ぶこともあるらしい。今年の立春の始まりは2月4日で、次が2月19日の雨水(うすい)ということになる。畑をしていると、季節の動きがわかって、二十四節気もなるほどと思うことが多い。6日に鞘オクラ、胡瓜、茄子、とまとの種を何とか蒔いた。茄子もとまとも粒がきわめて小さいので、芽が出てくれるといいが。毎日ガラスケースから出して陽に当ててはいるが、今のところ芽は出ていない。

今回も、偏差値や大学の序列などについての無意識の「常識」の続きで、教師についてである。「つれづれに」で「一方的に延々としゃべり続けられて、よくもまあ、おとなしく、黙って、座って、聞き続けられたもんだと、変に感心する。」(→「高等学校2」)、「丸坊主にさせられ、制服を着せられ、通学路まで決められ、毎週朝礼で言いたい放題言われて、よくもまあ、おとなしく、黙っていたものである。」と書いたが(→「高等学校3」)、もちろんその人たちだけのせいでもない。

延々としゃべり続けたのも、生徒を丸坊主にして制服を着せたのも、前からやっていたことを普通にそのままやっただけである。教員は団塊世代の私より一回りも二回りも歳上で、大半が戦前の教育を受けていたわけだ。田舎町ながら、神戸まで一時間ほどの距離で国鉄(今のJR)も複線、何駅か東に行けば複々線、経済的に複線を維持するだけの人口を抱えていたわけである。そんな地域で唯一の進学校の教師だったということになる。戦前は進学率も低く大学に行く人もそう多くなかったそうだから、それなりに勉強も出来て高校に入り、受験勉強もして大学に行き、教員になったんだろう。実際、1、2年の担任は数学で広島大、3年の担任は英語で東京教育大(筑波大の前身)だった。神戸大が多く、大阪教育大もいたようだ。高校の教員になった1年目は1、2年で担任だった教員と同僚になって近くの席に座り、教務をやらされた。時間割の作成や授業の実施と運営が主な業務で、教務主任のその人が学校運営の要で、校長が引っ張ってきたこともあり、管理職からも他の職員からも一目置かれていた。その人から兵庫県では広島大卒業生の尚志会という同窓会があり、校長や教頭の橋渡しをしていると言ってたよと隣の席の人から教えてもらったことがある。ある年、その人も尚志会の推薦で筋書き通りに教頭試験を受けたらしいが、次の朝「あほらしいてやっとれるか、わしゃもう辞めや、辞め」と言ってたよとも聞かされた。気質からして、イエスマンになるのが我慢ならなかったようだ。3年の担任は同じ東京教育大出の先輩に引っ張られて指導主事になり、研修所で現役教師の研修をしていたと聞いたが、その後どうなったかは知らない。

高校ホームページから

その人たちは自分たちの生まれた制度にうまく対応して生きただけである。親やその親の世代もまた、同じように生きたに違いない。今の教育制度の枠組みは明治維新で作られた。開国を迫られて鎖国体制を諦めたからである。鎖国の間に、西洋諸国は大きく変貌していた。奴隷貿易の蓄積資本で産業革命を起こして、農業中心から産業中心の社会に変わっていた。原材料と労働力を求めて植民地争奪戦を繰り広げて、経済自体も飛躍的に拡大し、体制を守るための兵器や軍事力も大幅に強化されていた。その強大な力で脅され、開国したわけである。アメリカやヨーロッパの制度や議会制民主主義を借用し、幕藩体制から産業中心の明治政府に移行した。しかし、人が変わったわけではない。明治政府を支えたのは江戸幕府の武士である。第2次世界大戦で体制が大きく変わったが、新体制の中心は戦前の人たちだった。

アメリカ映画「ルーツ」から

ただ、体制が変わっても、生産される富が平等に分配されたことはない。一部の金持ち層の都合のいいように社会は動かされて来た。その人たちは議会制民主主義を巧みに政治家を利用して法を作らせ、富を増やすために役人を育てて自分たちの利益を優先した。戦後も戦前も、武家社会も貴族社会も基本構図はそう変わっていない。稗や粟を食べ、粗末な茅葺の小屋に住んだ時代もある。中学を出たてで紡績工場に就職して「哀史」に残された女工たちもいた。不安定で安賃金の非正規雇用で先の見えない若者も多い。今のように経済規模が拡大し、社会も複雑化すると、余りにも対象が大き過ぎて掴みにくいが、基本構図は同じである。最初にそれに気づいたのは、修士論文でアフリカ系アメリカ人の作家を選び、その作品を理解しようとアフリカ系アメリカの歴史を辿っている時だった……奴隷貿易と奴隷制で法外な利益を上げた荘園主の金持ち層が自分たちの利益を守るために民主党を作り、代弁者を首都ワシントンに送り込んで16代まで民主党が大統領だった構図は、極めて分かり易い。北部で結成された共和党がリンカーンを大統領候補に立てたのは、力をつけ始めた産業資本家の金持ちが、利益を独占してきた荘園主の金持ち層に力で拮抗してきたからである。必然的に奴隷と奴隷制を巡って利害が対立して南北戦争が起きた……

エイブラハム・リンカーン

丸坊主に指定のズック靴を履き制服を着て、通学道路を通ったのも、そういった過去の延長線上にあった、大きな歴史の枠組みの中では、そう思えるようになった。前や隣の席のクラスメイトと同じように受験勉強をして、そこそこの大学に行っていたら、たぶんそんな観方をすることはなかったように思う。挫折をして、諦めて、初めて気づいたのかも知れない。

次回は「丸坊主と制服」か。