つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:修了と退職

 一昨日から小暑(しょうしょ)、梅雨が明け、暑さが本格的になる頃で、今年は7月7日から、23日の大暑までの期間らしい。アゲハチョウや鰻に七夕の季節である。昨日は久しぶりにいつものコースを歩いて来た。歩くのが基本やなあと思いながら気持ちよく歩けた。その途中の「急傾斜崩壊危険個所↑」(→「 歩くコース1の④」、2021年7月11日)の近くでアゲハチョウを三匹別々に見かけた。陽射しが強かったが、先週、木崎浜の帰りにアキアカネがたくさん飛んでいるのを見かけた。季節は確実に移り変わっていて、すぐに秋が来そうである。台風4号で少し生活のリズムがおかしくなったが、大した影響もなく済んでくれたので、ほんとうに助かった。

 修士論文は提出が締め切り日ぎりぎりになってしまったが、受け付けはしてもらえたので、当初の目的は果たしたわけである。あとは、高校(↓)に行き、校長に退職を願い出て認めてもらうだけだった。早めに校長室を訪ねた。教職大学院に行く前の5年間、いろいろと好き勝手を許してくれた校長の鉄ちゃんが、入学の前の年に退職でいなくなっていたので、初対面の校長だった。

 鉄ちゃんはいなかったが、守ってくれた元担任の教務主任は健在で、気持ちの上では心強かった。「管理職」そのままの校長の顔を見たとたん、あちゃーと思ったが、話を聞いて「大学で頑張って下さい」とすんなりと認めてくれた。再養成の期間が終われば、元の学校に戻るのが前提で、県の教育委員会が推薦し、県から給与も出ているいるわけだが、当時は教員採用試験の倍率もそこそこあったし、辞める教員がほとんどいなかったので、比較的スムーズに辞めることが出来たんだと思う。次の職場の予定の目途も立たないのに、辞める人もいなかったらしい。とにかく、大学の職を探すための最低条件の修士号の取得と高校の退職は、無事クリア出来そうである。
嫌なことは可能な限り避けるという範疇に式の類も入っていたので、県からの派遣で勤務日にあった式にも出なかったが、修了式(↓)と英語分野の懇親会にも出てしまった。ゼミの担当者に博士課程の推薦書を依頼する必要もあったし、ゼミ生が二人なので、避けようがなかったという事情もある。それに、英語分野の人といっしょにいても嫌な思いをしないで済んでいたので、自然に、顔出ししとくかという気持ちになった。

 3人を家に招待してお昼を食べたこともあるし、修了してしばらくは音信があった人もいたし、公立中学で英語で授業をしていた52歳の「同級生」には、後日、東京の自宅まで訪ねて英語訳の相談に乗ってもらったりもした。予想通り、よく出来る人だった。日曜日に押し掛けて、長時間付き合ってもらった。休日までお父さん大変そう、大丈夫かなという感じでお茶を運んで来てくれた娘さんの表情を見て、申し訳ない気持ちで一杯になった。自分の書いたものを英訳して、ファーブルさんに見て欲しかったとは言え、それほど切羽詰まっていたからだと思う。人に助けてもらってばかりの、恥ずかしいことだらけの人生である。
次は、大学院入試3、か。

つれづれに

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つれづれに:修論あれこれ

 修士論文の提出がぎりぎりになってしまった。入学してすぐにテーマと読む作品も決め、夏にはアメリカに資料探しに行ってめぼしい資料は手に入れ(→「ニューヨーク」、→「古本屋」、→「ハーレム分館」、→「ハーレム」、6月21~24日)、戻ってからはずっと書き続けていた。しかし、提出日前日は徹夜になり、当日大学には、事故を心配してタクシーで2時間ほどかけて行くことになってしまった。1982年の1月31日の夕方のことで、仕上がった修士論文は “Richard Wright and His World” である。

青山書店大学用教科書

 修士論文では、中編「地下に潜む男」(↑、"The Man Who Lived Underground," 1944)を軸に、中編以前の3作品とそれ以降の3作品を分析して、ライトがアメリカ社会に蔓延(はびこ)る白人の人種主義に対する抗議一辺倒から、より普遍的なテーマを求めて推移していったことを論証した。(→「リチャード・ライトの世界」、2019年5月20日)

 一次資料の7編に加えて、二次資料の伝記や新聞や雑誌の書評やアメリカ人の書いた博士論文なども含めて、読む量が半端ではなかった。7編はじっくりメモも取りながら何回も読んだが、それぞれ大変だった。短編集『アンクル・トムの子供たち』(↑、Uncle Tom’s Children, 1940)の子供や死後出版『ひでえ日だ』(Lawd Today, 1963年)の青年の会話の「黒人英語」に手こずってしまった。『アメリカの息子』(↓、Native Son, 1940)は大冊でもわくわくしながら一気に読めたが、同じくらいの大作『アウトサイダー』(The Outsider, 1953)と『長い夢』(The Long Dream, 1958)は、少々観念的過ぎて、読むのにも難儀した。

 伝記はライトの作品よりも更に分厚く読むだけでも大変だったが、ファーブル(Michel Fabre)さんの『リチャード・ライトの未完の探求』(The Unfinished Quest of Richard Wright, 1973)には、気持ちの上でも実際的にも一番お世話になった。その時点で、将来直接お会いする機会があるとは夢にも思っていなかったが。(→「リチャード・ライト死後25周年シンポジウム」、2019年3月13日)しかし、この修士論文を納得いく形で書けたのは、ファーブルさん(↓)のお陰である。

 ワープロもパソコンもない時代である。神戸の高架下で手動のタイプライター(↓)をたぶん一万五千円で買って、ゼミの発表の時に使った記憶がある。初めはそのタイプライターと白の修正液を使っていたが、途中からはちょうど出始めた電動タイプライターを買って修士論文を仕上げた。白の修正テープも役に立った。

 買った当初はキーを見ないで打ついわゆるブラインドタッチもやってはみたが、いまだに出来ないままである。締め切り間際にはずっと座ってキーを叩いていたが、それでもぎりぎりだった。二人目の子供が生まれたのが十月の金木犀の香る時期で、母親代わりをさせてもらったおかげで、二時間おきにミルクを飲ませながら、タイプを打つことになった。もちろん子供が覚えているわけもないが、電動タイプライター(↓)のぎこちないリズムが子守歌になっていたかも知れない。
次は、修了と退職、か。大学院の修了と高校の退職が重なった頃の話である。

つれづれに

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つれづれに:ゼミ

 「夜間課程」(↑、3月28日)ではゼミは3年生の時に1年だけで、担当者も私も自主休講が多かったせいか(→「がまぐちの貯金が二円くらいになりました」、1986年)、ゼミらしい時間がほとんどなかった感じだが、山の中の院(→「キャンパスライフ2」、6月15日)では、入学した最初の週から修士論文を提出する1月末までゼミの時間は続いた。

 国語と英語の壁を取り払う「言語表現」が教職大学院の目玉だっただけあって(→「大学院大学」、6月13日)、入学した時点で自動的に「言語表現学会」の会員になっていた。経緯はどうであれ、業績が必要だった私には「黒人研究の会」とは別の発表の場があるのは有難かった。修士課程が終わるまでに、「言語表現研究」(↑、2019年10月20日)で1本、「黒人研究」(↓、2019年9月20日)で2本が活字になった。口頭発表も合わせて5回ほどさせてもらった。時間に追われっぱなしで何の準備も出来ずに駆け込んだ挙句の2年間のわりには、上出来だった。どちらも業績欄に項目がある。

 1学期のゼミはワーズワーズやキーツの詩を一つ一つ丁寧に「味わう」時間だった。担当者は英文学専攻で詩人のキーツをやっていたらしい。ゼミ生は二人、もう一人は現役入学の学生だった。野球で有名な神戸の私立高校で野球をやっていたらしく、大半が現役の教員だったので、教員再養成のコースには極めて珍しい例だったと思う。明石から高校に通っていたらしい。英国紳士風の担当者に私は合わせられなくてゼミの時間は居心地が悪かったが、二人はえらく波長が合ったのか、学生の方が合わせたのか、ほぼ心酔の域に達していた感じだった。私が歩み寄ろうとしなかったから余計に、かわいく見えたのかも知れない。二人で楽しそうにキーツ論議をやっていた。あとでわかったことだが、授業で毎回していた英詩の話は。何冊かあった著書の中にそっくりそのまま載っていた。もう一人のゼミ生は、予めその本も読んで、優等生の答えを褒められて楽しそうだった。話し方も英国紳士風に穏やかで、毎回、丁寧に丁寧に豆を挽いて珈琲を淹れてくれた。

 2学期からは英詩購読はなく、書いたものを見てもらうか、修士論文の英語を添削してもらう時間になった。言語表現学会で口頭発表もするように言われて、二人で準備して別々に発表した。修士論文は英語での提出なので、ある程度書いた分をその都度一文一文丁寧に添削してもらえるのは有難かった。何十年も英語に接している人の英語は、それなりに含蓄があって、その点は感心し、納得の行く時間になった。「修了するまでに髭を剃らせるのが私の目標」と他の学生に漏らしていたと聞くが、目標は達成されないまま終わってしまった。英文学と米文学と分野が違うのでほとんど口出しされずに、我儘放題させてもらえたのは、幸運だったと思う。
 次は、修論あれこれ、か。

つれづれに

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つれづれに:余震

 億に近い数千万の「揺れ」(7月5日)が大きかった分、余震もなかなかだった。①第1抵当の返済、②在庫の処分、③母親の生活、の余震が長く続いた。親の借金を子供が支払う法的な義務はないなど、現実の前では空しいものである。逃げるのが一番だが、逃げる先が見えてしまう性(さが)はどうしようもない。弁護士の提案が一番いいとは理解したが、①第1抵当の返済、が前提である。つまり抵当権を行使されて競売で安く買い叩かれるのを防ぎ、何とか配当率を上げる、そういう提案だが、それも借りてもいない子供自身が返済するというのが大前提である。法的義務の話を切り出せる立場でも、雰囲気でもなかった。現実には母親が拵えた借金を子供が払う、にかわりはない。在庫処分の額を第1抵当の返済に充てても、月々の返済は相当な額である。到底一人では払い切れず、弟二人と分けることにした。もちろん分割返済である。五人兄弟だが、それぞれの形で家を出ている。生まれ落ちた先が元々おかしいのだから、正常な反応だったのかも知れない。借金騒ぎの前まで下の弟と妹は家出していたが、弟だけは戻って来ていて、母親と新築の家に住んでいた。知ってか知らずか、連帯保証人にもなっていた。結婚を期に私と上の弟夫婦は家を出た。とっくに姉は逃げるように結婚をして出て行っていたし、下二人は家出中だった。一人になる父親は、出ていくんか、とぽつりと呟いていた。
兄弟はそれぞれの形で苦しんで来ていたわけだ。女性3人はいつも自分の不幸をひとのせいにしていたが、人のせいにする気にもなれず、誰かを憾む気にもなれなかった。だから、可能な範囲で、母親の借金を分担すればいいと考えて、男三人で第1抵当の返済を分担したのだが、下の弟はまた逃げてしまった。上の弟と私の負担が、増えた。

 ②在庫を処分して第1抵当の返済に充てるという弁護士の提案も頭では理解できたが、並大抵ではなかった。私と弟夫婦で六百~八百万ほどの在庫を売ることにしたが、三人とも商売とは無縁だ。弟夫婦は車両造りの技師と看護師、私は口だけ動かす教師、弟のハイエース(↑)に毛糸など(↓)を積んで土日に行商である。土日の行商は、もちろんきつかった。弟の妻は今でも影響がある程の大病をして、私の娘は失語症になった。何とか百万くらいは現金化したような気もするが、代償の方が大きかった。

 ③結婚を期に私が上の弟と家を出たあと、家を売ったことも、父親が粗末なアパートに入ったことも知らなかった。出て行くときは衣類と段ボールひと箱しか持って出なかったので、部屋に置いていたものはすべて消えてしまった。住む家がなくなった母親の生活の面倒も、私が引き受けざるを得なかった。当初はサラ金の恐怖でしおらしかった気もするが、数年ほどおとなしくしたあと、いなくなった。その間、返済の他に母親用に家賃と決まった額を出した。私たち夫婦二人の給料がざるに水を入れるように消えていくのが、虚しかった。宮崎に来てから、どこかの役所や病院から何度か電話がかかって来たが、旧姓で届いた最後の手紙は開けなかった。離婚は考えたことがないと妻は言ってくれるし、私がした借金ではないが、この頃のことを思うと心が痛む。
人は生まれながらにして平等などとどの口が言えるのか?子供は親に孝行?親が子供に勉強しろ?
すべて絵空事で虚しい。自分がそんなところに生まれたことを憾むのも、先が見えて虚しい。生きて30くらいかと思いながら、思わず結婚して子供も出来た。心の中では過去をいまだに払拭出来ない部分もあるが、私と妻や子供との生活に、無意識に過去を引き摺らないという気持ちは働いているようだ。こどもが「人は生まれながらにして平等などとどの口が言えるのか?」と思わなくても済んでいたら、嬉しい限りである。
次は、ゼミ、か。修士論文を書いていた大学院(↓)のころの続きである。