つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:二つ目の大学

 今年は一昨日の7月23日から大暑(たいしょ)で、8月7日からの立秋まで続く。大暑は一年でもっとも暑さが厳しく感じられる頃で、土用の鰻や、夏祭りや花火大会の季節である。盆を過ぎると朝晩も過ごし易くなり、秋もすぐそこである。庭のオクラ(↑)と瓢箪南瓜の葉の勢い(↓)がずいぶんと増して来た。(花の写真はどちらも去年の分)

 二つ目の大学は4年制文系の私学で、住んでいた「明石」(6月16日)からは東の方、大阪府の南にあって、がらの悪さと言葉の悪さで悪名高い土地柄である。それだけ離れていると、さすがに身上調査はなかったようだが、今回は、教授会は通ったが、理事会が押す人に決まった、という結果だった。この前の人事もそうだったが、私を推薦してもいいことは何もないと思われるのに、二度も推薦をしてもらった。今回理事会とやり合った人は一面識もなく、人からの推薦で世話を焼いてくれただけである。聞かなかったが、おそらく推薦してくれた人の後輩だったような気がする。どちらも人事が成立しなかったとは言え、頭が下がる思いで一杯だった。捨てる神あれば、拾う神ありである。こちらが何か悪いことをしたような気になってしまった。申し訳ないという気持ちが、先に立った。
 その人が直後に送ってくれた手紙が手元にある。「せっかく応募いただいたのにあんな結果になってしまって申し分けありません。私学とはそんなものといってしまえばそれまでですが、それにしてもあまりにも教学を無視した理事会のやり方に憤りを覚えます。英語の専任が一人になろうと、理事会側の人事しかすすめないという露骨な対応は、教授会側の怒りを高めています。今度の辞令交付では、理事会側が推進したメンバーを客員講師とし、次は専任にと無理強いしてくるのは必至です。こんな中で、どこまでできるかわかりませんが、可能性を最大限に追及してみたいと思います」と書かれている。達筆で、誠実そうな人柄が偲ばれる文面である。次の手紙では「私は組合の委員長をしていまして、引き続き教授会として理事会側と交渉を続けますので、非常勤として来てもらえませんか」と書かれていた。既に大阪工大と二つの学院大学で結構なコマ数になっていたが、火曜日に2コマ引き受けることにした。家から大学まで2時間ほどかかるので朝早くにでかけた。その日は大阪工大で夜間に3コマ入っていたので、移動も含めて長時間の5コマの日になった。
 非常勤の条件が「ネクタイを締める、出席半分で単位を出す」だったのにはびっくりしたが、お昼休みにベンチで座っていたら、隣のベンチにいた学生が「わいABCもわからへんねん」と言ってたので納得した。非常勤講師室で、誰かが「この大学、やくざが作ったそうで。女性の非常勤は、顔で選ぶらしいですな」とまことしやかに話しているのを聞いた。2年間授業を担当して非常勤講師料も貰ったが、授業にならなかった。座って授業を聞くのが元々苦痛なんだから、無理に座らせることもないだろう、と感じる大学だったわけである。40人くらいの再履修のクラスで、行ったら誰もいないことがあった。非常勤講師室でその話をしたら「あれきつですよねえ」と言う人がいたから、私の持ったクラスが特別だったわけでもないらしい。少し待っていたら4人が来て、雑談を始めた。一人が「せんせ、アメリカ行ってんてな。白人とやったことあるん?わい、台湾でやって来たで」、もう一人が「わい、大阪のぼけの高校で街宣車乗ってたで」、更にもう一人が「お前もか、わいもやで」、最後の一人が「何言うてんねん、わいの親父やくざやで」、百聞一見に如かずである。後に国立大の医学科で授業をしたとき、「授業が出来る!」と泣きそうになった。
 大学の学部、大学院、大学の職と、よくもまあ、これだけ色々と次から次へと何かが起こるものである。
 次は、嘱託講師、か。

大阪工大(HPより)

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:ゴンドワナ

 

1983年から5年間大阪工大(↑、→「大阪工大非常勤」、7月11日)のLL準備室(→「LL教室」、7月12日)を使わせてもらい、補助員3人に助けてもらいながら、英語の授業をさせてもらった。LL装置を駆使して編集した映像や音声をふんだんに使ったので、ただ読むだけの授業よりも楽しく過ごしてもらえたのではないかと思っている。英語が苦手な工学部の学生の英語へ抵抗感が少しでも和らいでくれていたら嬉しい限りである。ある日、補助員の一人が、近くのビデオショップで借りたベータのテープをダビングして渡してくれた。当時はビデオショップもたくさんあり、店でもベータとVHSのテープがまだ半々くらいだった。アフリカ系アメリカの歴史を辿る授業を手伝ってくれている中で、その映画が役に立つと考えて、借りて来てダビングしてくれていた訳である。それが「アーカンソー物語」(↓)だった。

「つれづれに:あのう……」(2022年6月28日)

 

「アングロ・サクソン侵略の系譜10:大阪工業大学」続モンド通信13、2019年12月20日)「アーカンソー物語」は1957年に実際に起きた事件を元に作られた2時間ほどの映画で、元大統領ビル・クリントンの地元アーカンソー州のセントラルハイ高校(↓)が舞台で、Crisis at Central Highが原題である。

「つれづれに:修了と退職」(2022年7月9日)

アフリカ系アメリカの歴史にも節目になる出来事がたくさんある。この「アーカンソー物語」は公民権運動の中の節目の出来事の一つである。

 

アングロ・サクソン侵略の系譜10:「大阪工業大学」

大阪工業大学(ホームページより)

大阪工業大学は私の「大学」の第一歩でした。

1983年3月に修士課程を修了したものの、博士課程はどこも門前払い(→「アングロ・サクソン侵略の系譜7:修士、博士課程」「続モンド通信9」2019年8月20日)、途方に暮れていましたが、4月から大阪工業大学夜間課程の英語3コマを担当出来ることになりました。業績も2本だけでしたが、結果的にこの3コマが、それからの「大学」の教歴の第一歩となりました。

一度非常勤を始めると他からも声をかけてもらえるようで、当時は1コマが100分、一番多いときは週に16コマを担当、一日の最多授業数は5コマ。専任の話も3箇所決まりかけましたが、5年間は浪人暮らし。最後の2年間は嘱託講師、この時の2年分の私学共済の年金が出ていますので、文部省向け任期付きの専任扱いだったようです。

大阪工業大学ではLL(Language Lavoratory)教室を使わせてもらいました。LL装置と補助員3名の予算も付き、昼夜間とも、一般教育の英語の授業で使われていました。関連の雑誌や新聞などを使い、映像や音声や中心の授業が出来たのは幸いでした。補助員のESS(English Studying Society)の学生3人には、ビデオの録画やコピーなど、色々助けてもらいました。

終戦直後に生まれ、小学生の頃からテレビや電化製品の普及に伴う急激な生活様式のアメリカ化を経験しましたが、どうも心がついて行きませんでした。元々アメリカとその人たちの母国語としての英語への反発もありましたし、中学校や高校での入学試験のための英語にも馴染めませんでしたので、大学では英語そのものより、一つの伝達の手段としての英語を使って何かが出来ればと考えました。結果的に、後の原点になりました。

リチャード・ライトの作品を理解したいとアフリカ系アメリカ人の歴史を辿る過程で読んだLangston Hughesの”The Glory of Negro History” (1958)がテキスト(青山書店)、Alex HaleyのRoots (1977)とバズル・デヴィドスンのAfrican Series(NHK, 1983、45分×8)が映像の軸でした。まだアフリカのことをやり始めたばかりでしたので、The Autobiography of Miss Jane Pittman、The Crisis at Central High(「アーカンソー物語」)、We Are the Worldなどの貴重な映像も手に入れました。

ラングストン・ヒューズ

ルーツの主人公クンタ・キンテ

バズル・デヴィドスン

一般教養の英語だったのは幸いです。受験のための英語から言葉としての英語への切り替え。偏差値で煽られ答えの解った謎解きを強いられる中で意図的に避けられている問題を取り上げて、自分と向き合い、自分や社会について考える、それまで気づかずに持っていた価値観や歴史観、自己意識を問いかけるという後の授業形態がこの頃に出来上がったように思います。(宮崎大学教員)

大阪工業大学の紀要には以下の4つを載せてもらいました。↓

“Some Onomatopoeic Expressions in ‘The Man Who Lived Underground’ by Richard Wright” Memoirs of the Osaka Institute of Technology, 1984, Series B, Vol. 29, No. 1: 1-14.

“Symbolical and Metaphorical Expressions in the Opening Scene in Native Son" Chuken Shoho, 1986, Vol. 19, No. 3: 293-306.

“Richard Wright and Black Power” Memoirs of the Osaka Institute of Technology, 1986, Series B, Vol. 31, No. 1: 37-48.

「Alex La Gumaの技法 And a Threefold Cordの語りと雨の効用」 「中研所報」(1988年)20巻3号359-375頁。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:女子短大

大阪工大(HPより)

 大学の話が来た。初めてのことである。思わぬ人からで、住んでいた「明石」(6月16日)から西へ電車で1時間足らずの町にあるクリスチャン系の女子短大だった。電話でだったか、直接だったかは覚えていないが、「黒人研究の会」(6月29日)の会員だった女性の推薦だった。夫が近くの国立大学の教授で、旧帝大系の大学の先輩に当たる人がその短大の学長をしているらしかった。(→「黒人研究の会総会」、7月23日)典型的なその当時の人事で、誰かの推薦で教歴と業績が見合うだけあれば人事成立というパターンである。
推薦をしてもらえたわけである。その女性は例会で見かけるくらいで、話をしたのはその時が初めてである。研究会でやっていたことを評価してくれたのかも知れない。例会に参加し始めた時はその女性をあまり見かけなかったが、それから暫くして同じ女子大の女性と毎月参加するようになり、アフリカ系女性作家でのシンポジウムの話も出ていた。アメリカ文学会で理事もやり、地道な研究も続けているようだった。ライトのシンポジウムに行った直後に話が来たので、職もないのにシンポジウムのためだけにミシシッピまで行ったり、2年後に「MLA(Modern Language Association of America)」、2月20日)で発表(↓)する予定を聞いて、世話を焼く気になってくれたのかも知れない。

 当日、妻と二人で出かけた。学長室で会ったとき「来年から来てください。新学期の始まる前に、またお会いしましょう」と言われた。既に履歴書も見て、採用を決めていたようだった。12月か1月かだったように思う。寒い時期だった。3月に再度学長室を訪ねたとき、「その話はなかったことに」と言われた。推薦してくれた人も学長も言えない事情があるんだと感じて、理由は聞かなかった。たぶん、気の毒で言えなかったんだろう。借金をして夜逃げした母親である。短大には附属中学も高校もあって、隣には同じ系列の男子校もあった。私の住んでいたところから通う人はほとんどいなかったが、小学校のときに遊んでいた人が中学からそこに通っていた。親が薬剤師で、インテリの雰囲気が漂い、兄も同じ学校に通っていた。おそらく身上調査である。標準以上の子弟の通うクリスチャン系の短大に、地元近くで、親が借金をして夜逃げをした教員をわざわざ雇う理由がない。「自分がした借金ではないし、支払いの義務はないというつもりだったが、現実の前では空しい」(→「揺れ」、7月5日)である。
次は、二つ目の大学、か。推薦してくれた人も思わぬ事態を気の毒に思ったのか、二つ目の大学を紹介してくれた。その話である。

ミシシッピ州ナチェズ空港

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:黒人研究の会総会

 「黒人研究の会」(6月29日)の例会でさっそく「ライトシンポジウム↑」(7月22日)の報告をした。ヒューズ(Langston Hughes、1902-1967、→「大阪工大非常勤」、7月11日)、ライト(Richard Wright、1908-1960)、ボードウィン(James Baldwin、1924-1987)、エリスン(Ralph Ellison、1914-1994)は例会でもよく発表されて来たみたいだったし、関心も高かったと思う。例会のあと、何通か問い合わせの手紙をもらった。今ならその日にメールが何通かというところか。シンポジウム(↓)でライト自身が主演したアルゼンチン映画『アメリカの息子』が上映されたとき、小型のカセットレコーダーで録音していたが、そのテープの複製依頼もあった。(→「リチャード・ライト国際シンポジウムから帰って(ミシシッピ州立大、11/21-23)」(1985, 英語訳: “Richard Wright Symposium”

 入会してから半年に一度ほど口頭発表をやり、そのうちの一つをまとめて会誌「黒人研究」に出した。「リチャード・ライト作『地下にひそむ男』のテーマと視点」↓、第52号(1982)、「リチャード・ライトと『残酷な休日』」、第53号(1983)、「リチャード・ライトと『ひでえ日だ』」、第54号(1984)、「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」第55号(1985)と毎年順調に書いた。「修士論文」(6月18日)にまとめる前に口頭発表させてもらい、まとめたあとも活字に出来るように続けて口頭発表もさせてもらった。

 毎月の例会の案内のほかに、入会案内や会誌や会報も編集して、発送もやった。こまめに手紙も入れて送ったので、ずいぶんと個人的な繋がりも増えていたような気がする。
例会に参加するのは神戸や大阪の人が多かったが、6月の総会には全国の会員が集まった。会員も減り、会誌の発行だけで手一杯だったようなので、少しずつ原稿を依頼して会報も発行した。出はじめめの頃のワープロを使って作成したようだ。普段手紙の遣り取りをしていると、原稿を依頼しても書いて貰える確率は高くなった。当然書く内容も、気持ちのこもったものになって、読む方も興味深く読める。創設者の貫名さんが亡くなられた時は、追悼号(↓)を出した。奥様に原稿を依頼したら、丁寧な原稿が届いた。その年の総会には出席されて、会員の方へ生前の貫名さんの逸話を紹介したり、弔問のお礼などを述べられていた。戦争のときの話になり、「毛布の中で声を出さないように咽び泣いていたのを覚えています。よほど悔しかったんでしょう」としんみりと話しておられた。共産党の神戸市会議員で、かくしゃくとした姿が印象的だった。娘さんも共産党から神戸の市長選に立候補されたと聞く。ずいぶんと歳月が流れた。

 総会には東京や愛知や小倉や福井などからも会員が集まった。ある年は、間宮林蔵さんのお孫さんにあたるローレンス・マミヤさん夫妻が出席された。どんな経緯で来られたかは知らなかったが、会場の世話もあり、話をする機会もあった。「ニューヨークに来られたら、家にも来てください」と名刺を渡された。ニューヨーク(↓)から列車で北に一時間ほどのプーキープシィにあるヴァサー・カレッジで歴史か何かの教授をされているとのことだった。日本語は話せないようだったので、拙い英語で話をした。

例会や案内や会誌、会報の編集・出版は地道で大変な作業だったが、業績のために入会して発表もさせてもらっていたので、気負いなく続けられたと思う。アフリカに関してはほとんど知らなかったので、入門的な時間になった。たまに「本田さん」(7月14日)のような大物の話も聞けるし、有難い空間だった気がする。
次は、女子短大、か。

本田さんの『アメリカ黒人の歴史』