つれづれに

ロシア語

六甲山系が背後に見える木造2階建ての講義棟(同窓会HPから)

ロシア語を取ったのは入学後4年目である。大学でバスケットボールを再開してから近くの中学校でコーチの真似事をするようになり、そちらを優先して2年留年していたからである。

5回目くらいに初めて授業に出たら、受講生が私以外に二人、人数は申し分なかった。(→「第2外国語」、4月4日)当てられても素直に謝ったあとは黙っているつもりだったのだが、成り行きとは言え、最初から思いとはまるで違う方向に進んでしまった。

6時過ぎに少し遅れて入って来た担当者が、開口一番「京都産大の授業が終わったあと、名神高速を百キロ以上でぶっ飛ばして来たんだが。」と息せき切ってしゃべり始めた。どうやらロシア学科の専任らしかった。そのうち「私は世界的な学者で、名前も知れ渡っている。」と言い始めた。従って、私は忙しい、専任の教授だがⅡ部にも授業に来てやっている、それも世界的に有名な学者がである、だから少しくらい遅れても仕方ない、私にはそう聞こえた。偉くない人が偉そうにする、あれか。ひとことすみませんと言えば済むのになあ、そんな風に考えているうちに授業が始まった。当てられて、訳すように言われた。ひと月以上も経ってから、準備もせずに授業にのこのこやって来た、それがどうにも我慢ならなかったようだ。その通りだから、私としては謝るしかない。

「初めてですいません、やって来ていません」

「やって来てない?おまえ、昼間は何をしてるんだ?」

「昼間は、寝てますけど」

(授業から帰ったあとも興奮して寝られずに夜中じゅう起きて本を読んでますので)を、意図的にとは言え、省いたのがよろしくなかったらしい。夜中じゅう起きてるんやから、昼間寝んともたんやろ。

「若いのに、惰眠を貪るとは何事か!」

烈火のごとく怒り始めた。ここで止めればよかったが、ぷいと壁の方を向いた。火に油を注ぎたかったらしい。怒りは収まらず、怒鳴り続けていたようだった。次の時間からが、大変だった。

大人数だと避けようもあるが、3人だけである。初回のこともあるし、自分で責任を取るしかない。購読?どこまで進むかわからないけど、準備するしかない。母音の数が13もあるみたいやし、格の変化も煩雑そう、言われっぱなしも癪に障るし。準備に毎回何時間もかかった。根に持つとは相手も大人げない、授業ではいつも喧嘩腰で、細かいことろまで質問して来る、初修やねんから、そんなとこまで知らんやろ。二十数回も続いた。最後のころ、冬場だったと思うが、授業前にいっしょに授業を受けていた女子学生が二人、揃って私の席までやって来た。

「またやってもらえませんか?」

「?」

「あのう、最近やってくれはらへんので、進むのが早くて、早くて。このままやったら、試験範囲がどんどん広がって試験の時に大変そうなんで、またやってくれませんか?」

事務局・研究棟への階段(同窓会HPから)

毎回毎回体力を消耗し、必要以上に気も遣ったが、授業はなんとか終わった。単位は無事取ったものの、あまり後味はよくなかった。のちに早稲田の博士課程の試験に第2外国語が要るのがわかって、ロシア語も考えたが、役に立ちそうになかった。結局、フランス語で受験した。

ロシア語の人の話を書いていると、無意識のうちの自分の思い上がりを思い知る。市立大学の教員は地方公務員で、公務員は全体の奉仕者である。人の税金で給与をもらっているので、「専任だが夜の授業もしてやっている」は思い上がりである。自分がいるところに学生が来ていると思っているのかも知れないが、学生がいるから職にありつけているのだけだ。勘違いも甚だしい。そういう人は教えてやっていると思って疑わないのかも知れないが、たかだか第二外国語の購読である。教えてもらわなくても、自分で出来る。概ね、教師がやれることは知れている。生得的な能力に僅かな刺激を与えてその能力を引き出すきっかけを作るくらいにはなっても、それ以上でも以下でもない。そもそも、人が人に何かを教えられるなんて考えること自体がおこがましい。そうわかっていながら、時間と手間をかけて授業の準備をして資料を配り得意げに授業をすると、何だかやったような気になってしまう。たかが英語教師で、学校を出れば、ただのおっちゃん、今はただのおじいちゃんなんやから。

次は一般教養、か。

旧暦では、春分から数えて15日目頃、今年は今日4月5日が清明の始まり、清らかで生き生きとした様を表わす「清浄明潔」を略したものらしい。宮崎では散りかけているが、桜の季節でもある。白木蓮も終わり、紫木蓮が咲き始めた。

紫木蓮が咲き出した

つれづれに

第2外国語

六甲山系が背後に見える木造2階建ての講義棟(同窓会HPから)

大学と→「運動クラブ」(3月29日)の自由な雰囲気はよかったし、英作文の『坪田譲治童話集』も素敵だった。(→「英作文」、4月2日)学生運動まがいの入学式やクラス討議、学舎のバリケード封鎖と機動隊による強制撤去なども(→「授業も一巡、本格的に。」、2019年4月15日)、高校までの閉塞感に比べたら新鮮で、その時にしか味わえなかった出来事である。充分に満足だった。

英作文のテキストに使われた文庫本『坪田譲治童話集』の前身か

高校までなかったものの中に第2外国語があった。元々語学は演習科目で半期で1単位、講義科目の半分である。そういう扱いのせいか、医学部ではそれを担当する語学の講座の予算は他の講座の半分だった。医者から見れば、語学の教師?という扱いなんだろう。数の問題である。外国語が専門だけあって、その偏見はなかったように思う。逆に語学の教師だらけで、法経商コースで、例えば商法を専門にしていた人は肩身が狭かったかも知れない。

外国語大学だけのことはある。第2外国語は学科があるフランス語、スペイン語、中国語とロシア語から選択出来た。通年で週に2回、8単位が必修だった。いつか役にたつかも知れない、おもしろそうなど、少しでも興味の持てる言語を普通は優先するようだが、私の選択基準は人が多いかすくないか、たくさんの人は苦手だ。欧米志向が浸透していたからだろう。案の定、フランス語とスペイン語はやたら人が多かった。選択肢は二つ、中国語を取った。その方が少なそうだったからである。

事務局・研究棟への階段(同窓会HPから)

出席は半分以上と聞けば、半分以上は休んではいけないと考えるようだが、私は半分以上は出てはいけないと思っていた節がある。週に30週と規定されているのは今と同じだが、実際には25~6週が多かった。従って、通年なので出席は多くて13回だった。最初から行くのも気が引けるので、最初に教室に顔を出すのが大抵は夏休み前の7~8回目くらいになっていたような気がする、中国語も他の科目と同じように考えていたが、初めての外国語というのを忘れていた。8回目くらいに出た最初の授業が読みの試験、さすがに、お手上げである。辞書や教科書も買っていたのに、最初の時間で、また来年やな、と思ってしまった。2年目にまた履修届を出して、今回は初回だけでもと顔を出したら、人で溢れ返っていた。とっさに事態が呑み込めなかったが、どうやら1972年は中国との国交回復の年だったようである。前年度が4人だったのに、まさか国交回復で教室が人で溢れ返るとは。世の中について行きようがない。結局この年もまた、また来年やな、で終わってしまった。買った辞書を使う機会もない。

国交回復の年に間違いなかったかが怪しくなって、「1972年中国」で検索してみたら、外務省が「日中国交正常化45周年・日中平和友好条約締結40周年を迎えて日本と中国は,2017年に日中国交正常化45周年,2018年に日中平和友好条約締結40周年という,節目の年を迎えました。」の情報を出していた。40年や45年が節目かどうかは知らないが、あれから、半世紀の歳月が流れたようである。

次はロシア語、か。

満開の桜の下は、お昼寝の場所のようである

つれづれに

英作文

ほぼ田植えが済んだ田んぼ

田植えがほぼ済んでいる。まだのところはこの土日で終えるだろう。すっきりとは晴れてくれないが、そろそろ畑も虫が活発に動き出す頃である。今のところレタスも何とかやられてないが、あと10日ほどもすれば、見るも無惨な姿を晒しそうである。今年はやられてしまう前に、根ごと洗ってせっせとお裾分けをしている。長持ちするようにポットに植え替えている人もいるようだ。昨日も吉祥寺に住んでいる娘にレタスや豌豆や葱もいっしょに荷物を送ったが、最近は長持ちするように根をつけたまま売ってる野菜が増えてるよ、と言っていた。

まだやられていないレタス

英作文に『坪田譲治童話集』を選んだ人は素敵だった。大人扱いをする大学の雰囲気も自由で新鮮だったが、『坪田譲治童話集』には心底恐れ入った。

文庫本だったので、たぶんこれが前身か

もちろん始まるまで授業について考えたことはなかったが、英米学科だけのことはある。一年生から月水金に英語(英書購読、英作文、英会話)があり、火木が第2外国語(フランス語、スペイン語、中国語、ロシア語から選択)と教養科目だったと思う。土曜日もまだ授業があった気もするが、定かでない。夜間課程は一日に2コマしかないので、128単位を4年間で取ろうとすると、落とさず全部取っても、4年生で5コマほど空きが出る程度である。教職課程を取ると、一つも落とさずに取る必要がある、と学生便覧をみて思ったことがある。その後、あっさり留年したので、見てもさほど意味がなかったとは思うが。

授業のあった講義棟、木造2階建て、背景は六甲山系(同窓会HPから)

まさか後に英語の教師になって、高校では英作文の授業を持ち、大学で医学生の英語の授業を担当して医学英語までやって、研究を装って科学研究費を交付され、南アフリカの作家の書いた英語の物語を日本語訳するとは思いもしなかった。

「日本語訳『まして束ねし縄なれば』」(2021年6月20日)

本が売れないと出版社は持たないので、アフリカのものは普通は出版されない。日本人の一般の意識から考えて、アフリカのものを出版しても売れる見込みが全くない。他にもケニアの作家の評論集とエイズの小説を日本語訳したが、出版されないままだ。一冊を日本語訳するとなると、分量にもよるが、まるまる2年くらいは最低限かかる。教科書と翻訳だけは避けたかったが、流れで断れなかった。

未出版のままの評論

それで改めて、『坪田譲治童話集』の凄さがわかる。よほど英語に自信がないと、その本は選べない。大学で使った教科書の類はほとんど残っていないが、たぶん購入した教科書は『坪田譲治童話集』 (新潮文庫)で、1950年初版の改訂版だったような気がする。

高校の教員は教科書が決められていて、さほど使う資料を大幅に工夫する余地は残されていないが、大学は個人の裁量にまかされている場合が多いので個人差が大きい。しかし実際には、高校の延長のようなことをしている人が多い。人の教科書を学生に買わせて、30分くらいで採点出来る筆記試験をして成績を出している。それが、一番楽だからである。自分の受けてきた授業にそう不満を感じなかった人たちだろう。私は英語だけではないが、教科書をなぞるだけの中高の授業が嫌だったから、自分が嫌だったものを人に強要するのも気が引ける、そんな思いが強かった。高い教科書を平気で指定する人もいるが、資料はできるだけ自分で作って、印刷して配ることが多かった。そのうち、出版社の社長さんから薦められてテキストも4冊出版してもらった。学生に買ってもらったが、そう高くなかったし、自分で書いたものなので、勘弁してもらった。→「ほんやく雑記②「ケープタウン遠景」」

「編註書And a Threefold Cord 」(2021年7月20日)

『坪田譲治童話集』を選んだ人は、マスコミで大口をたたく人のせいで有名になった大阪の北野高校を出て神戸外大に入り、卒業したあとは北野高校で教員をしたあと神戸外大で教員になったらしい。私が出会った時はアメリカ文学が専門の教授、40十代初めのようだった。私の場合、初めての大学着任が38か9、教授就任が53か4である。文系にしては、かなり早い方だろう。授業でアメリカに留学している頃の話をしてくれたような気もする。当時は1ドルが360円で長いこと動かなかったので、留学も難しかったと思うが、在外研究を利用したと思う。私が利用した頃は、長期で9か月、短期で3か月の経費が出ていたが、その前はもっと期間が長かったらしいので、たぶん一年かもう少し長くアメリカに滞在出来たのではないか。

ニューヨークのマンハッタン遠景

本人の資質にアメリカ滞在、さり気なく童話集を選べるほど英語に自信を持っていたんだと思う。ただ、相手が悪かった。いくら授業を持つ側が素敵で有能でも、授業は一方的にするわけではない。受ける側が問題である。私のように場違いな人は別にしても、半分は似非夜間学生、である。大学紛争でクラス討議が長かったので授業のコマ数は多くなかったが、学生の反応を見て、後期に入るとすぐに、やっぱり無理でしたね、英文法でもやって基礎からやりますか、と『坪田譲治童話集』はあっけなく、終わってしまった。今なら、『坪田譲治童話集』、その人といっしょにやってみたい気がする。その人は胃癌を患い、共通一次試験の監督をしている時に具合が悪くなって、急逝した。高校で私の英語のクラスにいて、当時夜間課程の学生だった人と自宅にお悔やみに行ったが、知らない弔問客は迷惑だっただろうなと反省しきりである。52歳だった。

キャンパス全景(同窓会HPから)

次回は、第2外国語、か。

つれづれに

引っ越しのあと

西側の紡績工場、引っ越した先の家からその工場が見えた

引っ越しのあと、結婚を機に20代の後半で家を出るまで、その元市営住宅に住んだ。家にも家の周りにも学校にもいつも腹を立てていたし、ひどい疎外感を感じてばかりだったので、いい印象がない。しかし、一番多感な時期をそこで過ごした。瀬戸内海の近くで台風もあまり来ず、暑くもなく寒くもなく、そんなぬるい土地柄やから代々住んでる人間が陰気で、意地悪うなったんやろ、家を出た後も長いことそう思っていた。高校まで同じ町に住んでいてその町が大好きだという同僚が近くの研究室に来たが、そんな人もいてはるんやとしか反応出来なかった。以前よりはだいぶ気持ちも和らいだ気はするが、いまだに心のどこかで引き摺ったままなのかも知れない。

普通の従業員が住んでいた長屋式の社宅

前々回の「つれづれに」、「今回いろいろ書いて見て思うのだが、以前に比べてウェブで探せる度合いが格段に高くなった。」(→「運動クラブ、3月29日)と書いたが、今回も調べて見たら、感心するほどの画像があった。工場の古そうな写真↑もその一枚である。当時はさほど気にも留めていなかったが、川の両岸に大きな紡績工場があったので、引っ越す前も後もその工場の影響をもろに受けていたことになる。特に引っ越した後は、前のどぶ川に定期的に染色に使ったあとの廃液が垂れ流されて川全体がえんじ色に染まっていたし、遊び場の範囲内に従業員向けの社宅もあったので、個人的にも関りが深かった。

工場内に入ったことはないが、こういった煉瓦造りの建物↑が多かった。今も社宅や煉瓦の建物が残っているそうである。↓

明石で一時期同居し、宮崎で最期を看取った妻の父親も紡績会社にいたらしい。「よく引っ越しをして、社宅に住んでいたよ」、と妻が話すのを聞いたとき、県住や市住の建物を思い浮かべた。しかし、「家の中に電話ボックスやお手伝いさんの部屋もあったよ」、という話になって、「?」である。

「どんな家やったん?」

「500坪くらいあったかな」

最初は話についていけなかったが、どうやら明治生まれ、大学の工学部を出て紡績会社に就職、そのときは技術肌の工場長として各地を転々としていたようである。そうなんや、紡績会社て、景気よかったんやなあ。スラムのようなところの崩壊家庭で悶々と暮らした世界とは、まったくの別世界にいたんや。おんなじ時代に生きてたのになあ。それしか、反応の仕様がなかった。

最近の中学校(同窓生のface bookから)、当時は木造の2階建てだった

従業員の社宅でもいっしょに遊んだが、その近くの長屋に住んでいる同級生ともよく遊んだ。その時は知らなかったが、親がほとんど家にいなくて放ったままにされていた同級生が多かった。いつも腹を空かせて、落ち着きがなかった。土地柄も最悪で、山口組の本拠地に近いこともあって、そういった親の目の届かなかった少年がのちにぐれてチンピラになっていた。街宣車に乗るような、やくざの予備軍である。中学校ではそういうやくざやチンピラの子弟が学年に必ず何人かいて、よく暴力沙汰を起こしていた。毎日、こわごわだった。家の陰で殴られているのをよく見かけた。成績がよくて生意気な同級生もその餌食になっていたから、私自身殴られてもおかしくなかったが、その頃の遊び仲間の一人が「あいつはやめといたれや」と言ってくれたらしい。駅前のパチンコ屋の横でたまたま会って、喫茶店で話をしたときに「わいが止めたったから、やられんかったんや」と言っていた。

周りは貧しい人たちが多く、長屋住まいの人も多かった。町内に二つ朝鮮部落があった。少し離れた地域には被差別部落もいくつかあった。スラムのようなところに育ったし、周りも貧しい人が多かったが、なぜか何とか力になれないものか、と思うようになっていた。高校で社会活動を最優先したのも、そういった貧しさと関係があった。→「高等学校1」(1月17日)、→「高等学校2」(1月19日)、→「高等学校3」(1月21日)

次回は、家庭教師、か。四月になった。↓

小島けい「私の散歩道2022~犬・猫・ときどき馬~」4月