つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:広島から

 ある日、広島から電話があった。「私が前にいた大学で今度人事があるので、あなたを推薦しようと思いますが、どうですか?」ということだった。大学の職探しを始めてから5年目、電話をくれた人とは院の初日に初めて会った。(→「院生初日」、6月12日)修了式の日に会ったのが最後で(→「修了と退職」、7月9日)、本当に久しぶりだった。思いもしなかった死角からの電話だった。英語科の説明会では「高校では一杯一杯の生活で疲れ果て、常に寝不足気味だったので、ゆっくり休みに来ました、休めれば充分です」と正直に言ったが、「専攻は決めてもらわないとゼミも決められないので困る」と言われた。修士論文はライトで書き、大体の構想も決まっていたので、出来ればアメリカ文学に少しでも関連があればと英語学の助教授に頼みに行ったが、文学の教授がいるので組織運営上難しいと断られた。(→「ゼミ」、7月7日)その人である。英語学は苦手なので授業も取り損ねたが、大学(↑)の研究室には時々遊びに行っていた。いつも大歓迎だった。気さくな人柄で、話もし易かった。今から思うと好みも聞かずに、明石名物の丁稚羊羹などの和菓子を手土産に持って行くことが多かった。まだ若かったので、30代、40代が主体の歳を食った「学生」に少し軽めに見られていると感じたが、話してみても軽めに見られる理由はわからなかった。時々わらじを履いて廊下を歩いているのを見かけたので、そんな辺りが理由だったかも知れない。私も変わり者とよく言われていたので、何となくわかる気もしたが。裸足でわらじを履くのが水虫によかったのかも、知れない。

 突然の話でよくわからなかったが「よろしくお願いします」とすぐに返事をした。ただ、「女子短大」「二つ目の大学」、大阪工大(↑、→「工大教授会」、8月7日))と三つも人事がつぶれていたし、頼みの綱の先輩の人事もうまくいかなかった直後でもあったので、心のどこかでは、どっちみちまただめだろうという気持ちの方が強かった気がする。「宮崎は遠いですが、大丈夫ですか?」と念を押されたが、遠い近いの問題のようにも思えなかった。それからその人は「このあと教授から電話がありますが、話を合わせて下さい」と付け加えた。最初何のことか飲み込めなかったが、人事の話をしたとき教授から「玉田くんより相応しい人を推薦しますから、その人事、こっちに下さい」と言われたが「私は玉田くんを推薦したいのでと断りました」と説明してくれた。「玉田くんより相応しい人」が当時高専の教員だった教授の息子さんだったのか、息の合っていたもう一人のゼミ生だったのか。

 しばらくして教授から電話があった。「このたび宮崎で人事の話がありましてね。私は玉田くんを推薦したいと思いますが、玉田くんはどうですか?」といつものように丁寧な口調で聞かれた。英国紳士風に、のようである。そして、履歴書を送った。
「8月にはラ・グーマ(↑)の話を聞きにカナダやし、12月には「MLA」(8月3日)でサンフランシスコ(↓)やし、それまでに発表の原稿もせなあかんし」と毎日ばたばたして人事のこともすっかり忘れていた。大阪工大での嘱託講師が2年目で、工大も含めて週に16コマに増えていた。火曜日は午前中に2コマして移動、工大で夜が3コマでフル回転だった。研究会の会員から京都の女子大の非常勤を言われていたが、それ以上は責任が持てないし、通うのも時間がかかるので断っていた。専任の話を考えてくれていたのかも知れない。文学部だった。カナダから戻り、イギリス人のジョンにエイブラハムズさんのインタビューの聞き取りを頼んで英文を完成させてから、「ゴンドワナ」に訪問記を書いた。(→「アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・エイブラハムズ」、1987)結構な時間がかかった。9月の中頃に、また広島から電話があった。「残念でしたね。教授会で過半数を取れずに採用されませんでした。また機会もありますから、気を落とさないように、ね」と言われた。4度目だった。
次は、宮崎に、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:工大教授会

 「MLA」(↑)に向けて準備を始めた1986年の夏くらいだったと思うが、「今度人事があるで。採れるとええけどな。書類は嘱託のを使える出さんでええで」と先輩から言われた。一般教育の英語で専任を二人採用するらしい。工学部の英語科は工学系の専門課程を担当するわけではないので、余程のことがない限りこの人でないと困るという事態になることはない。つまり、流動が激しいのである。機会があれば、違う大学に異動する。夜間の同級生で先輩に無理して採ってもらった講師がいたが、線が細く、業績的に見ても先輩がいる間の異動はなさそうだった。旧帝大系から教授の世話で来た講師は、そのうちどこかに異動しそうな気配だった。先輩に紹介されたことがあるが、いかにも腰掛けでいるだけですという雰囲気を漂わせ、上から見られているようで嫌だった。どちらも英語学が専門らしかった。人事は頻繁にあるようで、先輩から大学で後ろ盾があるような話も聞かなかったので、人事では無理をしていたかも知れない。LLを導入して設備を備え、補助員3名の予算も確保していたから評価はされていたようだが、一般教育に多額の予算を計上するのに反対した人がいたかも知れない。民主主義の建前は過半数だから、人事も工大(↓)教授会次第というところか。

 博士課程の受け入れはないと知った時も途方に暮れたが(→「大学院入試3」)、院修了後1年目の「大阪工大非常勤」、2年目と3年目の「二つの学院大学」でも非常勤、4年目の1986年に「嘱託講師」(7月25日)と教歴の方は順調だった。業績の方も「黒人研究」(→「黒人研究の会」、6月29日)、「言語表現研究」(→「言語表現学会」)、大阪工大の「紀要」「横浜」の出版社の「ゴンドワナ」(↓)と着実に増えていた。

 二つの人事(→「女子短大」、→「二つ目の大学」)はだめになったが、二つ目の大学は理事会側と交渉中である。相変わらず先行き不透明だったが、先輩の大学の人事の話を進めてもらえている。子供二人としっしょにいる時間も増えたし、家事をやらせてもらう時間もずいぶんと増えた。研究会の毎月の例会案内もあるし、「こむらど委員会」の行事にも参加、横浜で出版社の人と会ったあと暫くしてからは雑誌にも記事を書かせてもらうようになっていた。「ライトシンポジウム」に行ってからは、カナダのエイブラハムズさん(↓)宅訪問(→「エイブラハムさん1」、→「エイブラハムさん2」)、サンフランシスコの「MLA」と行動範囲もずいぶんと広がっていた。あとは専任のくちだけである。そんな感じで順調に流れていたが、MLAから戻ったあとの2月半ば頃に「あかんかったわ。いつもはもっと前の教授会で人事をするんやが、今回に限ってワシがアフリカに出張してる間の2月に教授会を入れられて。わざとやな。もう一人の嘱託の人とあと一人、学長の推す人や」と、悔しそうに先輩が呟いた。先輩でもだめか、人事がだめになるのは3度目である。これも「途方に暮れた」のうちか、とも一瞬は思ったが、何の不満もない。先輩には感謝である。
次は、広島から、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:「遠い夜明け」

 1987年の7月にエイブラハムズさんを訪ねたり、年末に「MLA」(8月3日)で「ラ・グーマ」(7月27日)の発表をしたり、南アフリカに関わる時間が増えていた。年明けに「遠い夜明け」の試写会があった。「こむらど委員会」(8月5日)の会報で知って前売り券(↑)を買い、三宮の映画館に一人で出かけた。結構な人の入りだった。直前に大阪府高槻市にUDF(United Democratic Front)のアラン・ブーサックさんがゲストの集会に参加した。ブーサック師と紹介があったので、牧師のようだった。マンデラなどANCの指導者は投獄されていたが、聖職者は逮捕されていなかったということか。開始時間直後に、緊急事態が発生してブーサックさんが来られないので、急遽楠原さんに話をしてもらうことになったと司会者が説明した。『アパルトヘイトと日本』(↓)の著者が壇上にいた。どんな話をしたか忘れてしまったが、南アフリカの事態がかなり緊迫しているのは伝わって来た。1988年の年明けの話である。

 「遠い夜明け」は1987年に製作・公開された2時間37分の長いイギリス映画である。7月にエイブラハムズさんを訪ねる前にニューヨークにでVHS版を買っているので、日本ではその前に映画が上映されていたわけである。監督は「ガンジー」や「コーラスライン」でヒットを飛ばし続けていたリチャード・アッテンボローで、デンゼル・ワシントンとケヴィン・クラインが主演だった。当時南アフリカでは映画の撮影が禁止されていたので、ジンバブエでロケが行われた。ウッズとビコが最初に会う美しい場面の近くを、1992年にでジンバブエ大学に在外研究に行き、首都のハラレで家族で暮らしたときに、自転車で通ったことがある。南アフリカのジョハネスバーグをモデルにして街が作られので、街並みが似通っているらしく、ロケには都合がよかったようである。南アフリカの日刊紙デイリー・ディスパッチの記者ドナルド・ウッズがスティーブ・ビコに感化を受けて書いたCry Freedomが原作で、イギリスに亡命したのちに出版されている。ワシントン(↓)がビコを、クラインがウッズを演じている。

 ウッズ(↓)はビコの死因についての査問会を要請して政府の罪を追求したが逆に罪を問われた。家族も警察に嫌がらせを受け、亡命を決意した。友人の助けを借りてボツワナ経由でロンドンに原稿を持ち出し、出版に成功している。1988年のメーデーにウッズも労働組合員といっしょに大阪の中之島でのデモ行進に参加するとこむらど委員会の会報で連絡が来たが、宮崎医科大学に着任した直後で、残念ながら参加出来なかった。ウッズはマンデラが大統領になったあと、一時帰国し、その後はロンドンと南アフリカを行き来していたようである。2001年にがんでロンドンで亡くなっている。67歳の若さだった。

 ウッズがビコの本を書いて亡命しても出版したかったのは、ビコが南アフリカを救える数少ない一人だと信じたからである。1960年のシャープヴィルの虐殺を機にアフリカ人側は武力闘争を始めたが、政府は締め付けを強化、欧米諸国と日本の力を借りてアフリカ勢力の抑え込みに成功した。その結果、地上には指導者がいなくなり、暗黒の時代が始まった。その暗黒時代に立ち上がったのが、まだ警察の手が伸びていなかった学生である。その指導者の一人がビコだった。この新しい世代は、自己意識の大切さを人々に語った。

 映画の中でビコがウッズに白人リベラルの実態と意識を批判した時、ウッズが「仕事もあって、ベンツもあったら、あんたならどんなリベラルに?」と遣り返して握手する二人の出会いの場面は美しい。ビコが白人とは関わりなく、劣悪な環境の中で作られた劣等の意識を払拭し、自分に誇りを持てと黒人意識の大切さを説く裁判の場面には、ぐっと人の心に迫ってくるものがある。ウッズの国外脱出の場面を見ると、同じように亡命を余儀なくされた「ラ・グーマ」(7月27日)やエイブラハムズさん(→「エイブラハムさん1」、→「エイブラハムさん2」、7月30日~31日)を思い出す。長いこと、英語や教養の授業で「遠い夜明け」を学生にみてもらった。
 次は、工大教授会、か。

殴られた警官を殴り返した直後の場面

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:こむらど委員会

 「MLA(Modern Language Association of America)」の発表を「ラ・グーマ」(7月27日)ですると決めて準備しているとき、政治的な構図がぼんやりと浮かんで来るようになっていた。『アフリカは遠いか』(↑)を書いた楠原彰さんではないが、日頃意識しない限りアフリカは遠い存在である。新聞でも雑誌でもテレビでもごく僅かしか報道されない、ように見える。私の場合、新聞も雑誌もテレビもほとんど見なかったから尚更である。1980年代の初めにエチオピアで今世紀最大の旱魃で大勢の死者が出たことも、イギリスではバンドを組んでライブエイド(↓)で募金活動をしたり、マイケル・ジャクソンが曲を書いた「ウィアーザワールド」(7月16日)を大スターが集まって歌ったことも知らなかった。

 しかし、ラ・グーマの作品を理解するために歴史に関する本を読み始めてみると、嫌でも南アフリカと日本の関係を考えるようになっていた。1960年の初めに日本は高度経済成長期に突入して目に見えて日頃の生活が豊かになっていくのを体験していたが、南アフリカが同じ時期に暗黒時代に突入したのは知らなかった。主にオランダとイギリスからの入植者はアフリカ人から土地を奪って課税し、アフリカ人を安い賃金で鉱山や大農園や召使として白人家庭で扱き使った。つまり、南部一帯(↓)に極めて安価な賃金で扱き使える非正規短期契約労働者を無尽蔵生み出す一大搾取機構をうち立てていたのである。選挙権も含め基本的人権を完全に無視する白人政府にアフリカ人が抗議して立ち上がったとき、その一大搾取機構を守るために、軍事と警察の予算を増強して全面的にアフリカ人を押さえ込みにかかった。僅か15パーセント足らずの白人側が多数派のアフリカ人を抑え込めないのは誰にでもわかる。抑え込めたのは、白人政府の一大搾取機構に群がって莫大な利益を貪り続けていたアメリカ、イギリス、西ドイツ、日本などの良きパートナーによる全面的協力があったからある。世界的にも第二次世界大戦で疲弊したヨーロッパ諸国から独立しようとアフリカ大陸には「変革の嵐」(The Wind of Change)が激しく吹き荒れていた。南アフリカでも「変革の嵐」に乗ってアフリカ人側は白人政府に果敢に挑んだが、結局抑え込まれてしまった。

 1960年のシャープヴィルの虐殺(↓)を機にアフリカ人側は武力闘争を始めたが、結局南アフリカを救えるソブクエやマンデラなどの指導者は殺されるか、逮捕されるか、国外逃亡するかで、地上には指導者がいなくなり、暗黒の時代が始まった。「ラ・グーマ」(7月27日)やエイブラハムズさん(→「1」、→「2」、7月30日~31日)もこの時期に亡命を余儀なくされている。アフリカ人には、白人政府と良きパートナーの欧米諸国と日本は同罪だった。富国強兵で産業化を目指し、欧米諸国に追い付き追い越せの国策を取る日本にとって、豊かな資源を持つ南アフリカの安価な原材料は不可欠である。国民には政治的実態に気づかせない政策も必要である。アフリカの情報が少ないのは、そういった国策の結果で、大半の人はそれに気づくことはない。豊かになって行く生活を享受しながら「アフリカは貧しい、ODAで援助して助けてやっている」、と考えている日本人が実際には多い。自分が加害者の側にいるなどと、考えたこともない。

 こむらど委員会は反アパルトヘイト委員会の大阪支部だった。「ライトシンポジウム」(7月22日)のあとファーブルさんから届くようになったAFRICAN NEWS LETTER (仏文) の中に1976年にタンザニアのダルエスサラーム大学に滞在していたラ・グーマのインタビュー記事(1987年1月24号)が載っていので、雑誌に日本語訳を紹介した。(→「MLA」、8月3日)同時期にアリューシャの会議に出席していた野間寛二郎さんはラ・グーマに「日本のインテリはアパルトヘイト体制に何をしていますか?黙っているとしたら、加害者と同じです」と厳しく問われて何も言えず、戻ってから後の反アパルトヘイト委員会の人たちと活動を始めたと述懐していた。野間さんは南アフリカに関しても『差別と叛逆の原点』(1969)を書いているし、アフリカで最初に独立したガーナの首相になったクワメ・エンクルマ(↓、小島けい画)の本をたくさん日本語訳している。一つのアフリカを夢見て祖国を独立に導いたものの毛沢東とベトナム戦争終結に向けて話し合っている時にクーデターが起こり失脚、その後ガーナに戻れないで1972年にルーマニアで死んでいる。私も出ている本はほとんど集めたが、膨大な量である。その本を何冊も日本語訳して理論社からシリーズで出版されている。歴史的な宝物である。あとがきに、わからないところはガーナの大使館に通って教えてもらったと書いている。その姿勢が後の反アパルトヘイト委員会を生んだような気がする。私は手紙を書いて会員になり、担当の人から毎月会報のようなものを受け取るようになった。いろいろな案内もあり、集会に出かけた。1980年代後半なので、アパルトヘイト政権の終わり頃のことである。
次は、「遠い夜明け」、か。