英語 Ma1(2)

6月13日(17日の日曜日になってしまいました。)

9回目の授業でした。
先週は授業がなかったし、今回の授業の終わったあとにまた書けなかったんで、何とか書いとかないとね。

最初に日程の確認、

6月20日(水)は、2コマ目は通常通り、4コマ目に合同授業(7月18日の代わり←ゲストさんの試験)、合同授業の最初に3章の筆記試験。

コメント(何人か言ってもらったかいな)、3章のチェック、エボラの新聞記事(菊川さん)の途中まで。

次回は新聞記事の続きと、1976年のエボラ騒動と「アウトブレイク」→独立とコンゴ危機→植民地時代(レオポルド2世のコンゴ自由国)→ベルリン会議・植民地分割と映像を観てもらい、1996年のザイール崩壊とカビラについて少し解説をして、時間切れかな。

4コマ目は、3章の筆記試験のあと、ヨーロッパ人が来る前のアフリカの話です

最後にERの感想文を出してもらいました。

配ったプリントは:

①The neo-colonial stage: Mechanism and realities Chapter 3 Comtemporary issues 2 Zaire’s Turmoil(B4表裏1と表1)→次回曲を紹介するザイールの崩壊とカビラ(写真↓)についてです。

②The Colonization of Africa(B4表裏2)→合同授業でするヨーロッパ人が来る前のアフリカの話です。目を通しておくとわかりやすいです。(日本語訳がいる人はメールででも掲示板ででも連絡してくれれば、メールで送るか参考ファイルに置くよ。)

③は①の日本語訳です。少し解説したけど、結構引用文もあって難しい内容なので、日本語訳がある方がええと思って印刷を頼みました。日本語訳(B4表裏1、表1)

④Looking Back in Anger: Life in Mobutu’s Zaire(B4表1)→モブツ圧政時にボランティアに鯉の養殖に行っていたアメリカ人青年の見た実態を書いた記事。

⑤少し解説をした歴史かデヴィドソンと元タンザニア大統領ニエレレの記事(B4表裏1)

⑥ Africa and its Descendants 2 Chapter 2 The neo-colonial stage: Mechanism and realities(B4表裏3)→2冊目の英文の1章で全体の半分を占めています。今の新しい形態の先進国の搾取構造について書きました。日本ではめったにお目にかかれないと思います。難しいので、日本語訳がいる人はメールででも掲示板ででも連絡してくれれば、メールで送るか参考ファイルに置くよ。

また、来週に。

英語 Rb1(3)

6月14日(17日の日曜日になってしまいました。)

9回目の授業でした。
先週は予備日で授業がなかったし、授業の終わったあとにまた書けなかったんで、何とか書いとかないとね。

トーイックの話を、また繰り返してしてしまったねえ。スコアを上げる気やったら、過去問をやって基本分をインプットする、それで800までは行くやろ、ま、実際自分でせなあかんし、最後は自分でするしかないけどね、だいぶ繰り返して話をしてるねえ。

リスニング、リーディングの過去問もする前に時間切れ、結局①を終わっただけ、やったね。

田村さん(46~60)が来てなかったんで僕がさっとやり、坂元さん(61~70)、吉松くん(71~80)、齋藤くん(81~90)、中尾さん(91~100)で最後まで行きました。それぞれしっかりやれてたね。

それで筆記試験をやるか、と聞いたら、希望者はちらほら。あなたらのクラスはやると思ってたから、そーなんやと思いました。

十年以上も前になると思うけど、医学科の6年次にカリフォルニア大学のアーバイン校のER(救急)に1ヶ月実習に行った別所が帰って来てすぐに僕の部屋にお土産を持って来て、たまさん、医者になってからも医学用語は必要なので後輩には試験をしてやって下さいと言いました。試験でもないと実際はなかなか一人では出来ないので、たまさん、お願いしますよ、と言ってました。
別所は神戸大学の経済か経営を出て関西電力で働いたあと医学科に来た学生で、最初から大人の佇まいで本来は他の人にお節介をするタイプではなく、英語も、患者の言うことがわかれば必要以上に英語をしゃべる必要はないと考えている、割とスマートであっさりした性格、その別所がわざわざ僕の部屋に来て言うんやからと、その次の年から別所の話をしてから学生が納得したら筆記試験をやってるけど、一年の時期は、たぶん先が長いことや、受験から解放されてほっとしている感じが強くて、全くしようとしない学生もいて。問題を作り、採点するのがあほらしくなって途中でやめることもあったけど、今年は2つのクラスとも筆記試験をやっているなあ、とあなたらのクラスに目をつぶって手を上げてもらいながら、思いました。
筆記試験を、インプットする機会に、というのはええと思うんやけどね。
ま、そんな面倒臭いこと、作る側にみんなへの愛着がなかったらたぶん出来ないと思うんやけどなあ。

次回はヒアリングとリーディングの過去問を何題かずつ出来るとええね。

そのあとは、またエボラの話に戻るつもりです。ヨーロッパ人が来る前のアフリカの歴史や、ユッスー・ンドールやサリフ・ケイタなどの歌も紹介出来るとええけどねえ。

また、来週に。

アフロアメリカの歴史と音楽(前期用)

6月14日(17日の日曜日になってしまいました。)

9回目の授業でした。
先週は予備日で授業がなかったし、授業の終わったあとにまた書けなかったんで、何とか書いとかないとね。

最初に三つの山の話

①が奴隷貿易と奴隷制、
②南北戦争と反動、
③公民権運動とその後

を大枠で辿ったあと、

南部の大荘園主と、奴隷貿易で潤った資本で産業化の結果生まれた北部の産業資本家が奴隷制を巡って起こした市民戦争=南北戦争の話と、3%の支配階級=大荘園主が奴隷所有者と大半の労働者階級=奴隷と貧乏白人の間にカラーライン(人種隔離政策)を引いて人種差別(賃金格差)を利用した実態について再確認しました。

北部(共和党)が担いだリンカーン(写真↓)が大統領になって南北合一のために戦争はしたものの経済力が拮抗していたために最終的な決着はつかずに、北部の自由な黒人の参戦の見返りに出した奴隷解放令だけが残り、元奴隷にとっては体制が変わる(賃金が上がる)ことはなく、奴隷が小作という名前に変わっただけでした。

北軍の占領政策は行われたものの北軍が去ったあとの南部の寡頭勢力の反動は凄まじく、1896年の隔離すれども平等という最高裁の判決を引き出してしまいました。

カラーラインを維持するために、奴隷制で貧乏白人を奴隷狩りや奴隷の調教師に雇ったように、貧乏白人を利用してリンチやKKKで元奴隷を締め付け続けました。

 

その文脈で、畜産草地の松浦さんと中田さんがKKKの成り立ちやその後について詳しく発表してくれました。非常にわかりやすく、しっかりとまとめられてたね、今回も。

少ししか時間がなかったけど、スピリチュアルの続きでGolden QuartetのGo Down, Moses,とJoshua Fit the Battle of Jericoを聞いてもらい、1990年にBSで放送されたゴスペルの旅の冒頭、元巨人選手クロマティの地元マイアミの教会の紹介の場面を見てもらったところで時間切れでした。
次回はその続きで、ゴスペルをたっぷり観て、聴いてもらうつもりです。

反動の時期の映像も少々紹介して、公民権運動に繋げたいと思っています。1950年、60年代の公民権運動は資料も多いし、リトルロックの高校事件、キング牧師(写真↓)、バスボイコット運動、マルコムX、ワシントン大行進など、調べて発表して欲しいと思っています。

この土日も、課題読めなかったなあ。8コマの授業でアップアップ、です。

また、来週に。

南アフリカ概論(前期用)

6月12日

9回目の授業でした。

二つ目の山、40~60年代のアフリカ人による抵抗運動

①1955年の国民会議と反逆裁判

→②PACの抗議行動が引き金になったャープヴィルの虐殺

→③マンデラの逮捕とリボニアの裁判の流れをまとめたあと、

先に②についての冨山さんと原田さん(地域2年)の発表先を聞きました。公表されている情報できれいにまとめてたね。落ち着いて発表もなかなか、ファイルもみやすかったです。

配ったプリント7:英文①の日本語訳2、英文②1、ラ・グーマ1、歌2、翻訳など1

歌も何曲か紹介しました。

最初にポール・サイモンが心酔していたエルビス・プレスリーの映像を紹介、

そのあとグレースランドの最初の曲Township Jiveと、最後のコシシケレリアフリカ、それにSoweto Gospel Choirのコシシケレリアフリカ、ついでにサリフ・ケイタの曲とミリアム・マケバのSoweto Bluesを聴いてもらいました。


エルビス・プレスリーの映像で観たB・B・キングが言っていた「教会で歌うゴスペル、教会の外で歌う世俗的なブルースも内容は同じ」という言葉は、ブラックミュージックを理解する上での一つの指標になると思います。

次回もう一回国民会議からリボニアの裁判までの話をしてから、「アフリカの蹄」をみてもらうつもりです。

<附録1>

まとめの意味で、アパルトヘイト体制とアフリカ人の抵抗運動に関して箇条書きにしておきます。

第二次世界大戦で大きくヨーロッパの国力が低下

→それまで抑圧されていた人たちが独立・自由を求めて闘争

→南アフリカでも、旧世代に飽き足らない若者がANC青年同盟(1943)を結成してデモやストライキなどで激しく闘争を展開

→当時の与党イギリス系の統一党は事態の収拾が出来ず

→1948年に総選挙→アフリカナーの野党国民党はアパルトヘイト(人種隔離)をスローガンに掲げ、人種によって賃金の格差をつけ、本来社会の最底辺のプアホワイト=アフリカーナーの大半の農民を優遇することを約束

→白人人口の60%のうちの大半のプアホワイトが国民党に投票→オランダ系アフリカーナーが議席の過半数を獲得

→アパルトヘイト政権の誕生

→体制を強化(人口登録法で人種の明確化、集団地域法で居住区を限定、共産主義弾圧法で反体制勢力を弾圧)

→アパルトヘイト政権に対抗してANCの闘争は激化

→1955年にクリップタウン郊外で全人種による国民会議、自由憲章を採択→指導者156名を逮捕して裁判にかけ、全員の死刑をはかる

→結果的には無罪

→ANCの中でアフリカ人だけで戦うという理想派(ソブクエがリーダー)とアパルトヘイトを廃止するためなら白人とも共産主義者とも共闘する現実派(マンデラ・タンボがリーダー)が1959年にANCを分裂させる(白人にとっては願ってもないチャンス、アフリカ人側の抵抗力が半減)

→1960年3月ソブクエがパス法不携帯で警察に出頭して法改正を迫る戦略を開始、マンデラは時期尚早と不参加

→シャープヴィル・ランガなどで警官が無差別に発砲(シャープヴィルの虐殺)

→社会は騒然、ソブクエは逮捕され、政府はソブクエ一人のためにソブクエクローズを制定してロベン島に孤独拘禁

→騒乱に乗じてANCがパス法を焼く闘争を展開

→それまでの非暴力戦略を捨てて武力闘争・破壊活動を開始

→政府は非常事態宣言を出して弾圧を強化

→国連は非難決議・経済制裁を開始

→白人政府は親書を各国に送り協力を要請→日本と西ドイツだけが要請に応じて通商条約を再締結

→見返りに白人政府は居住区に関する限り白人並に扱うという名誉白人の権利を附与

→マンデラは国外に出て資金集め・ロンドンのBBCで武力闘争開始宣言

→アパルトヘイト政権は弾圧を強化

→帰国後マンデラは逮捕され裁判にかけられる

→1964年マンデラ他8名に終身刑、以降1990年まで獄中生活。指導者は殺されるか、国外逃亡か、獄中かのいづれかで、指導者はいなくなる暗黒時代に

→日本は東京オリンピックを開催して高度経済成長の時代に突入

<附録2>

破壊活動法の新聞記事でアレックス・ラ・グーマを紹介したので、少し補足しときます。

ラ・グーマも今日話をしたアフリカ人の抵抗運動のケープのカラード(200万人)の指導者です。

1987年にラ・グーマについてサンフランシスコの会議で発表することになった時、ラ・グーマのことを知りたいと思いました。日本では断片的な情報しかなく、ラ・グーマが生きていれば会いにも行けたんやけど(ラ・グーマは亡命先のハバナで心臓発作のために85年に急死してました)

・・・そうこうしている時にミシシッピの本屋の人からセスゥルのAlex La Gumaという本が届いて。読んでみると一番信憑性がある気がして、早速手紙で会いに行ってもいいですかと書くと北アメリカに来たら電話して下さいと返事があったね。1987年の夏のことです。当時大学を探そうと高校をやめて無職やった身には千ドル(多分当時十数万円)は大きかったけど、ANCへの寄付にと渡したお金は、見も知らぬ「敵国」にっぽんからやって来た胡散臭い日本人を丸々三日間泊めて下さった南アフリカの友人への僕の気持ち、やったんかな。

幸いそのあとに宮崎医科大学に辿り着き、出版社の關さん(テキストを出してくれてる門土社の社長さん)の薦めと支援があって、ラ・グーマのテキストを2冊と『縄』の翻訳本を出してもらいました。

その後南アフリカの歴史を見渡せるようになり、ビコやソブクエのような気高い人たちを知るにつれ、その人たちを知らないばかりか、一般にアフリカをさげすんでながめ、加害者でありながら「かわいそうなアフリカを援助してやっている」と考える学生とのあまりの格差に、これは国際交流やグローバルもくそもないな、と思いました。

ラ・グーマのことも、南アフリカの歴史についてもそう知らないで、英語もまだ充分に話せる状態でもなかったのに、一杯マイクロカセットテープを持って行って録音し、帰って来てから、非常勤で知り合ったイギリス人のジョンにお金を出して正確な聞き取りをやってもらって、原稿を作ったんですが、今から思うと、よくもまあ、と思います。

若さは馬鹿さの象徴みたいなもので、よくやるよなあというところです。ただ、もう一度同じ局面があったら、やっぱり同じことをするような気がするけどね。知的な好奇心と言えるほどのものでもないけど、外国に行くのが億劫な今に比べると、行くと考えるだけでもしんどいのに、とため息が出るねえ。

課題図書にもいれている『まして束ねし縄なれば』(And A Threefold Cord)は、顔の見えぬ相手に、それでもアパルトヘイトのことを知ってもらいたいと、或いは後の世の若い人たちーアパルトヘイトが廃止されればアパルトヘイトがあったことも知らない人たちが生まれるだろうからーその人たちのためにとラ・グーマが命をかけて書き残した作品。その思いを受けとるためには、意外と難しい、どっちかというとイギリス英語を読む力も要るし、歴史を見渡す目と本質を理解する洞察力も要るもんねえ。

この本の前に (既に品切れになっている)『夜の彷徨』A Walk in the Night (横浜:門土社、1988年4月12日)を出してもらいました。宮崎医科大学に来てすぐに出したようで(随分と前で日時の後先の感覚があやふややねえ)、当時の1・2年生に使ったと思います。(非常勤として行ってた旧宮崎大学でも使ったかも知れません。)アフリカ系アメリカ人の歴史や文学作品を主に取り上げていましたから、本格的にアフリカことを取り上げるようになった最初のテキストです。今日紹介した新聞記事の中にBANNED BY THE SABOTAGE ACT(破壊活動法によって発禁処分を受けた)と見出しにあった分です。南アフリカ第二の都市ケープタウンを舞台にした作品で、オランダ系と英国系の入植者に侵略され、厳しい状況の中で生きることを強いられている「カラード」社会の一面が生き生きと描かれています。

「カラード」(Coloured)は、アフリカ人、アジア人、ヨーロッパ人の混血の人たちで、人種によって賃金格差がつけられたアパルトヘイト体制の下では「カラード」と分類され、人口の10%ほどを占めていました。ケープタウンに多く、その人たちは特に「ケープカラード」と呼ばれていました。

ラ・グーマはアパルトヘイト体制と闘った解放闘争の指導的な役割を果たしていましたが、同時に、大半が安価な労働者としてこき使われ、惨めなスラムに住んでいる南アフリカの現状を世界に知らせようと物語も書きました。きれいな海岸や豪華なゴルフ場のイメージで宣伝活動をして観光客を誘致し、貿易を推進して外貨獲得を目論む政府にはラ・グーマは脅威でした。

他の指導者と同じように何度も逮捕拘禁され、1966年に英国亡命の道を選びます。その後、キューバに外交官として受け入れられますが、1985年に解放を見ることなく還らぬ人となりました。

A Walk in the Nightの表紙は当時上映されていた反アパルトヘイトのために闘った白人ジャーナリストルス・ファースト親娘を描いた映画「ワールド・アパート」の映画評「『ワールド・アパート』 愛しきひとへ」(「ゴンドワナ」 18号 7-12ペイジ、1991年)を掲載しています。) の一場面をモデルに奥さんに水彩で描いてもらいました。

宮崎には来ませんでしたが「ワールドアパート」もなかなかしんみりとした映画でした。解説を載せておきます。それもDVDにしてますので、どうぞ。

「ワールドアパート」1987年、イギリス映画、1時間53分 eiga.com  http://eiga.com/movie/51078

1961年の南アフリカ共和国。13歳の少女、モリーの両親は反アパルトヘイトの熱心な活動家だった。一家を取り巻く状況は次第に悪化、弁護士の父は国外へ逃亡、ジャーナリストの母もついに逮捕されてしまう。一人になったモリーの不安は募るばかり。ある日メイドの黒人エルシー

の実家を訪れたモリーは、そこでアパルトヘイトの過酷な現実を目の当たりにする……。白人運動家の一家にふりかかる様々な弾圧を、多感な少女のまなざしを通して描く人間ドラマ。

<附録3>

服部くんに頼んで書いてもらったSalif Keitaです。
【サリフ・ケイタ】
西アフリカ、マリ共和国出身のミュージシャンで、ユッスー・ンドゥールと並ぶ、現代アフリカ・ポピュラー・ミュージックのカリスマ。
1949年、現在のマリ共和国の首都バマコの郊外、ニジェール川沿いの町ジョリバに生まれる。彼の家系は、13世紀に古代マリ帝国を興したマリンケ人の英雄、スンディアタ・ケイタの直系であり、王家の血筋を引く高貴な家柄であったことから、アルビノ(先天性白皮症)として生まれた彼は、不吉な徴として父親からも疎まれ、また、周囲の偏見、差別にも苦しめられたという。
幼年期に音楽に目覚めた彼は、音楽家になることを夢見ていたが、「音楽はグリオ(伝統の音楽や叙事詩を伝承する語り部)の家系の者がやるべき卑しい仕事だ」と考える厳格な父の反対に遭い、いったんは教職に就こうとする(グリオは儀式や娯楽には必要とされる一方で、「嘘吐き」「盗人」の代名詞のような社会的に軽蔑された存在でもあった)。しかし、アルビノであることが原因で視力に恵まれず、教師になることも断念せざるを得なかった彼は、結局、父の反対をおして音楽の道へ進むことを決意する。1968年、勘当同然で故郷を飛び出しバマコへ向かった彼は、市場に野宿しながら街角で弾き語りを始め、ミュージシャンとしてのキャリアをスタートしたが、その後、マリ政府が支援していたレイル・バンドやアンバサドゥールというバンド(ともに国営ホテルの専属バンド)にヴォーカリストとして参加する。この2つのバンドからは、後に「イェケ・イェケ」を欧米で大ヒットさせたモリ・カンテ(マリ)をはじめ、カンテ・マンフィーラ、ウスマン・クヤテ(ともにギニア)など、重要なミュージシャンが数多く輩出されている(ちなみに、「カンテ」や「クヤテ」というのはグリオの代表的な家系の名である)。特に、アンバサドゥールは、当初、ジャズやラテンを主なレパートリーとしていたが、サリフらの加入によってアフリカの伝統色を強めたサウンドに変化していき、1978年に発表されたアルバム『MANDJOU』は西アフリカ全域で大ヒットした。この時期のサリフは、マリやギニアの伝統音楽のほか、キューバ音楽、アメリカのソウル・ミュージックやロック、スペインのフラメンコなど多様な音楽の影響を受けたという。その後、NYでのアルバム・レコーディングも経験し、そこからシングルカットされた『PRIMPIN』の大ヒットによって西アフリカにおける人気を不動のものとした(彼らのNYレコーディングの世話をしたのが、当時アメリカ駐在中だったギニアの若き外交官、オスマン・サンコン氏であったという)。しかし、1982年、サリフはアンバサドゥールを脱退し、当時、アフロ・ムーヴメントが興りつつあったフランスのパリへ1984年に移住。1985年にマヌ・ディバンゴ(カメルーン)が企画した、エチオピア飢餓救済のためのチャリティー・アルバム『タム・タム・アフリカ』に、キング・サニー・アデ(ナイジェリア)、ユッスー・ンドゥール(セネガル)、モリ・カンテなどと共に参加し、一躍その名を知られるようになる。
1987年にソロ・デビュー・アルバム『SORO』を発表。当時、流行していたエレクトリックなサウンドとマリの伝統的な音楽スタイルが融合した傑作として国際的な評価を受けたほか、ヨーロッパ・ツアーも大成功を収め、当時の「ワールド・ミュージック・ブーム」を背景に彼と前後して世界デビューを果たした、モリ・カンテ、ユッスー・ンドゥール、パパ・ウェンバ(旧ザイール)らの音楽と合わせて、アフリカ現代ポップスの多様性や魅力を世界に知らしめることとなった。その後、『KO-YAN』(1989年)、『AMEN』(1991年)、『FOLON』(1994年)、『BEST』(1994年)、『PAPA』(1999年)、『MOFFOU』(2002年)といったアルバムを順調にリリースしているほか、彼が好きだというフレンチ・ポップスのカバー集『SOSIE』といった異色作も発表している。
ライブ活動においても、1988年にロンドンのウェンブリー・スタジアムで行われたネルソン・マンデラ(当時、まだ獄中にいた)支援のための大コンサートへ参加したのをはじめ、WOMAD(World of Music and Dance:民族音楽・芸術の祭典)など数多くの音楽フェスティバルやイベントに参加し、その評価を確立した。1997年、マンデラ大統領の80歳を祝う南アでのコンサートでスティービー・ワンダーらと共演。1999年の坂本龍一のオペラ「Life」への参加を含め、何度も来日している。
1991年にマリが民主化されたのを機に、彼は祖国への回帰を強め、現在はパリを拠点に世界的な活動を継続する一方、バマコに設立した彼のスタジオを中心として、マリの才能ある若いミュージシャンの育成にも多くの時間を費やしている。また、社会的弱者にはあくまでも優しく、1990年に自ら設立した「SOSアルビノ」という組織で、自分と同じ境遇で恵まれない人々への支援を続けているほか、来日した際には、自ら申し出て重度障害者施設などを訪問しているという。
彼はアフリカのみならず欧米の様々なミュージシャンとコラボレーションを行い、マリの音楽をベースにした独自の現代アフリカン・ポップスの創造を続けているが、その原動力の根底にあるのは、祝福されない子として生まれてきた彼自身の境遇であろう。「世界は進化するものだ。でも、進化ってなんだい? 進化のプロセスとは、次の世代の裏切りで成り立つものさ。貴族は演奏しないのが伝統だったし、今もそうだ。だが僕の心の奥ではそんなことは問題じゃない。それは暮らしを立てるための正当な方法なんだ。コソ泥になるよりはミュージシャンを選ぶさ」と語る彼の言葉には、正当な貴族にも正当なグリオにもなれなかった彼自身の境遇(および周囲)への強烈な対抗心が感じられる。また、ステージなどにおける容易に他人を寄せつけようとしないかのようなあの独特な緊張感を、彼の高貴な生まれによるものと考える向きもあるが、私には幼い頃からの彼の苦悩が少なからず反映されているように思われる。しかし、アルビノであるという大きなハンディキャップと引き替えに、彼には「アフリカの黄金の声」と称賛される、比類なきヴォーカルと音楽センスが与えられていた。そして、自分に立ちはだかる困難に対して、「苦悩を歌にぶつけるだけだ。過酷な状況が私の力を引き出してくれる」と語ることのできるポジティブさも。
自分自身の存在やアイデンティティを証明するために、そうした天賦の才を最大限に発揮できる方法を模索し続けることで、ユッスー・ンドゥールなどと同様、彼は新しいグリオのスタイルを確立していると言えるのではないだろうか。

<附録4>

ミリアム・マケバの訃報情報から

1932年3月4日にヨハネスブルク(Johannesburg)で、スワジ(Swazi)人の母親とコサ(Xhosa)人の父親の間に生まれた。南アフリカの人気バンド「マンハッタン・ブラザーズ(Manhattan Brothers)」の女性ボーカルとしてデビュー。1959年の全米ツアーで、その名を世界に知らしめるにいたり、アフリカ大陸を代表する伝説的な歌姫となった。2005年に引退を決意し、さよならコンサートを世界各地で開催した。

生涯に5回結婚したが、1968年に3人目の夫、米国で急進的な公民権活動を展開していたブラックパンサー党(Black Panthers)の指導者ストークリー・カーマイケル(Stokely Carmichael)氏と結婚した際には、米国内で怒りを買い、いくつかのコンサートがキャンセルされるとともに契約も解消されるという事態にまで発展した。

生活はしばしば困窮した。ひとり娘が1985年に36歳で亡くなったときには、ひつぎを買うお金も持ち合わせていなかった。

自伝の中で、子宮頸(けい)がんをわずらっていることを告白。アルコール中毒とのうわさは否定した。

1987年に米歌手ポール・サイモン(Paul Simon)が「グレースランド・ツアー」で、南アフリカの隣国ジンバブエで公演を行った際には、マケバさんも参加した。(今日観てもらった分です。)1990年代初頭にマンデラ氏が釈放され、アパルトヘイト体制が崩壊すると、約30年ぶりに帰国を許された。

1990年に来日し、東京の昭和女子大学のコンサートで「ソウェトブルーズ」を歌い、BS2の赤道音楽14日間の中の一つとして放送された。今日はそれを観てもらいました。