1月7日
12回目でした。
この辺り、毎日体を崩さないようにするだけでいっぱいいっぱい、毎回ブログを書くのもなかなか。
もう1週間が経って、授業の前の日になってしまいました。何とか書いとこうと思います。
折角大きな部屋を使ってやっているし、来年取りやめたアフロアメリカの歴史と音楽(3年生、2年生には学士力発展科目として取ってくれた人が多かったのにね)のかわりに、出来ればまとまって話をしておきたいと後期はやってきたけど、トーイックの過去問などをやると、それはそれで時間がかかるし。でも、何とか一本は映画を観てもらえるように、前回の続き、南北戦争から反動→公民権運動と一気に話をして、1963年のワシントン行進のときにキング牧師が言った夢の一つ、元奴隷の息子と元奴隷主の息子が同じテーブルに座って・・・・というのをそのままハリウッドに持ち込んだ映画「招かれざる客」(Guess Who’s Coming to Dinner)を50分余り観てもらいました。途中で切ったとき、声が出てたから、それなりに惹きつけるところがあったんやろな。
あした(月曜日振替)は、その続きを60分ほど、そのあと時間があれば、少し前後の事情も補足して、歌を少々。反動の時期に産まれたブルースStrange Fruitやシカゴブルース、それに公民権運動の時、特にワシントン大行進のときのテーマソングWe Shall Overcomeなども聴いてもらおうと思います。
わりと大雑把に南北戦争(北部の産業資本家と南部の寡頭勢力の労働力の奪い合い)→反動→公民権運動(南北戦争の妥協の産物奴隷解放の実質化=公民権を求めて闘った)と走ったので、少し補足しときます。
北部共和党が担いだリンカーンが大統領になったとたん南部はアメリカ合衆国から脱退したので、リンカーンの最大の目的は南北合一になり、南北戦争。しかし、経済的に拮抗している北軍と南軍が戦っても元より最終的な決着はつかず、一応の決着をつけるために北部の自由黒人の参戦を認めて何とか勝利、その見返りに出した解放宣言は、もちろん奴隷の権利や生活を保障するものではなく、実質的な解放宣言は1954年の最高裁の判決。
そんな流れです。
その間、激動の時代、いろいろな事件がありました。
1896年の隔離すれども平等の最高裁の判決を覆した1954年の最高裁での公立学校での人種隔離は違憲という判決に従って、実際に黒人の高校生が白人の高校に入学する際に起こったアーカンソー州リトルロックの高校事件。その事件を題材にした映像「アーカンソー物語」(Crisis at Central High)の一部をみてもらいました。
白人の狂気、PTAの凄まじさ、今の時代にはほとんど見られない光景やけど、僕が受けた大学院での日教組の反対運動や、入学する1年前の東大安田講堂での学生と機動隊の攻防など、身近にあった光景です。
(僕が諦観を抱き世の中に関心を持てなくなった入った大学でさえも、まだ学生運動のなごりで、授業をしないで毎日クラス討議→学舎封鎖(写真↓神戸市外国語大学旧学舎)→機動隊による排除を冷ややかに眺めていました。)
黒人生徒の入学を阻止するのために州兵が出動、それを大統領命令で州兵を連邦政府軍の配下に置いて、今度は連邦政府軍が出動、それまでは考えられなかった天と地が逆さまになったような事態、公民権運動の間はずっとそんな状態が続いていたようです。
その大学版のミシシッピ州立大学の映像は観てもらえなかったけど、ワシントン大行進の映像は少し観てもらいました。
また、あした、あと3回やね。
たま
冬休みにHPや出版社のブログからこのブログにたくさんの記事を移しました。アフロアメリカの歴史について書いたものも移してあります。 <3>~<5>と<17>は、今読めばわかりやすいと思います。それもあって、冬休みに時間をかけました。 ↓
<17>→「アフリカとその末裔たち2(4)アフリカ系アメリカ人の音楽」(No. 90 2016年2月9日)
→「アフリカとその末裔たち2(4)アフリカ系アメリカ人の音楽」