英語 Ma1(1)

<連絡事項再確認>

5月15日(水)も1コマ目は通常授業、4コマ目は用語2章の残りと3、4章。

試験が必要な人は単独でも複数でも協力するよ。メールで時間と場所を決めて、やろ。

<今回は>

1コマ目が4回目、4コマ目が5回目の授業でした。

1コマ目はBSEのたんぱく質が病原体になりうる話が1960年代のネーチャーに出たとか、いろいろ。早く自分のやりたいことをみつけて、自分のために自分の意思で勉強しぃや、みたいな話です。

The struggle for AfricaのTHE CONFLICT BETWEEN THE BRITISH AND THE BOERSとThe UNION OF SOUTH AFRICA ANS RESERVESを岩崎さんがやってくれました。

それしか出来なかったねえ。

次回はTHE APARTHEID REGIMEとTHE POLICIES OF APARTHEID(一色くん)と

Mass MOBILIZATION AND OPPRESSIONとTHE ARMED STRUGGLE(大崎さん)は是非やらんとね。映像も見てもらえる時間があるとええけど。

南アフリカの歴史背景の大きな山の一つ①ヨーロッパ移住者がアフリカ人から土地を奪って課税して安価なアフリカ人労働者の一大搾取機構を打ち立てた、だけ終わりました。

<次回は>

②アパルトヘイト政権とアフリカ人の抵抗運動、を。

もう一度その辺りを貼っときます。

*1652年にオランダ人が到来
*1795年にイギリス人がケープを占領
*1806年にイギリス人が植民地政府を樹立
*1833年にイギリス人がケープで奴隷を解放
*1835年にボーア人が内陸部に大移動を開始(グレート・トレック)
*1854年頃には海岸線のケープ州とナタール州をイギリス人、内陸部のオレンジ自由州とトランスバール州をオランダ人、で棲み分ける
*南アフリカは戦略上そう重要ではなかった
*金とダイヤモンドの発見で状況が一変、一躍重要に
*1867年キンバリーでダイアモンドを発見
*1886年1ヴィトヴァータースランド(現在のヨハネスブルグ近郊)で金を発見
*1899年金とダイヤモンドの採掘権をめぐって第二次アングロ=ボーア戦争(~1902)
*イギリスの勝利。
*1910年南アフリカ連邦成立(イギリス人統一党とアフリカーナー国民党の連合政権、統一党が与党、国民党が野党)

4コマ目は1、2章(途中まで)の解説と発音練習、専門分野の名称は尾関さんがやってくれました。

まだ読んでない人は各章の紹介→例文→解説→練習問題をやってからPronunciation of Termsを繰り返し覚えや。

1、2章の圧縮フォールダー(zip)はすでに置いてあるけど、あらたに3・4章を置いときます。ダウンロードできない人はメールしてくれたら他の方法を考えられると思います。

来週、また。

今日の分の日本語訳、貼っときます。細かいところは見比べてや。

THE COLONIZATION OF SOUTH AFRICA 南アフリカの植民地化

 When Europeans arrived in the southern part of Africa, different peoples had been living there for some centuries. Groups of San people lived in the mountains and on the edges of the deserts in the southeast. They hunted rock rabbits, lizards, locusts and so forth. Near them lived the Khoikhoi who herded cattle and had more permanent camps than the San. They sometimes intermarried.

南部アフリカにヨーロッパ人が到着した時、そこにはすでに何世紀にも渡って様々な民族が住んでいました。サンの人々はいくつも集落を造って南東部の山や砂漠の端に住んでいました。その人たちは岩兎や蜥蜴や蝗などの狩りをして暮らしていました。サン人の近くには、家畜を飼うコイコイ人が住んでいて、狩りをして移動するサン人よりは定住型の生活を営んでいました。時にはサン人とコイコイ人は結婚することもありました。

The Europeans began to settle down in the latter half of the 17th Century on the initiative of the Dutch East India Company. The Dutch traders had out-rivalled the Portuguese and taken over the spice trade with Asia. Because the voyage to Asia was long, the Company built a depot of provisions at the Cape of Good Hope in 1652. A small white settlement was to grow vegetables and supply other services for the Company. The colony was completely dependent on the Company, among other things for the supply of arms. The Dutch colonialists called themselves Boers. It means farmers in Afrikaans, their Dutch dialect.

オランダ東インド会社に率いられて、17世紀の後半にヨーロッパ人は定住を始めました。オランダの貿易商はポルトガル人との競争に勝ち、アジアの香辛料貿易を引き継ぎました。アジアへの航海は長いものでしたので、会社は1652年に喜望峰に食料を補給するための基地を築きました。その小さな白人入植者の居留地は野菜を育て、会社のために色々なものを提供しました。居留地はすべてを会社に依存していましたが、なかでも武器の供与は全て基地任せでした。オランダの植民地主義者たちは自らをボーアと呼びました。それはオランダ語由来の言葉であるアフリカーンス語で、農民という意味です。

Disputes between the Boers and the Company made them move further inland. The first people they met were the Khoikhoi, whose pasture they conquered. Worse still for the Khoikhoi, the settlers forced them to hand over their cattle. It so was the very basis of their social system. The Khoikhoi were forced to work for the European settlers. The whites’ intrusion meant catastrophe for the San. Only a few San escaped and fled into the Kalahari desert. Their descendants live to this day under much more primitive conditions than did their forefathers in their rich soil.

会社との間で諍いを起こしてボーア人は、内陸の方に移動しました。ボーア人が最初に遭遇した人たちはコイコイ人で、その人たちの放牧地をボーア人が征服しました。コイコイ人にとって更に悪いことには、入植者達は牛を引き渡すように強要しました。それはコイコイ人の社会システムの基盤そのものでした。コイコイ人はヨーロッパ人入植者に、労働を強制されました。白人の侵入者は、サン人には悲劇的な結末を意味しました。ごく僅かのサン人は逃亡)、カラハリ砂漠に逃げこみました。その人たちの子孫は、今日でも、肥沃な土地に住んでいた祖先たちよりも原始的な状態で暮らしています。

The Xhosa and the Zulu peoples were most numerous in South Africa. Land was owned collectively, but cultivated individually. This might be called a moderate kind of socialism. When these highly developed cultures with their strong military organization clashed with the Boers, they could not be defeated as easily as the Khoikhoi and the San. The Wars of Dispossession started in 1871. The battles were many and fierce during the nine wars. The whites could only consolidate their control over what was formerly African land by crushing these African military kingdoms with superior arms. This process was almost completed in 1881. But the Boers never conquered South Africa completely. Conquest was completed only when the British forces took over the process.

南アフリカでもっとも人口の多かったのは、コサ人とズール人でした。土地は個人ではなく全体で共同所有されていましたが、個人個人が耕やしていました。一種の穏やかな社会主義と呼び得るものかも知れません。強大な軍を持つ高度に発達した文化がボーア人とぶつかった時、コイコイ人やサン人が簡単にやられたように、コサやズールーの人々がやられることはありませんでした。1871年に、略奪戦争が始まりました。9つの略奪戦争では、戦闘も数多く、激しいものでした。白人たちは優れた武器を使って、軍を持つアフリカの王国を破壊することによって、元はアフリカ人所有の土地に対する支配権を確立したのです。この過程は1881年には、ほぼ完成していました。しかし、ボーア人は完璧に南アフリカを征服しわけではありません。イギリス軍がその過程を引き継いで初めて、征服が完了したのです。

Britain feared that French control of the Cape could jeopardize British interests in India and trade with the East, and in 1795 sent a large British force to the Cape and forced the Dutch governor to capitulate. The Boers at once came into conflict with Britain. Britain was looking for raw materials and new markets for industrial goods. Slave trade and slave labour were no longer necessary. But for the Boers slavery was the foundation of their economy, so they resisted all attempts to abolish it. This contradiction resulted in bitter conflicts between them and the British colonialists. In 1833 the British managed to abolish slavery in the Cape. Many Boers, particularly the wealthy ones, left the Cape and moved inland in big ox caravans. This was called the Great Boer Trek. The Boers who stayed in the Cape needed workers for their farms, so they imported workers from Indonesia and Malaysia, Dutch colonies in Asia.

イギリスはインドおよび東洋との貿易で、ケープをフランスが支配することになればイギリスの利益が危険にさらされるかもしれないのではないかと心配しました。そして、1795年にはケープへ大規模なイギリスの軍隊を送り、オランダの植民地相に降伏することを強制しました。ボーア人は、直ちにイギリスと衝突しました。イギリスは、原料および工業製品の新しい市場を探していました。奴隷貿易と奴隷の労働は、もはや必要ありませんでした。しかしボーア人には奴隷制度が経済の基礎でしたから、ボーア人は奴隷制度を廃止する試みすべてに反抗しました。この矛盾は、ボーア人とイギリスの入植者の苦しい対立を生む結果に終わりました。1833年には、イギリス人がどうにかケープの奴隷制度を廃止しました。多くのボーア人、特に豊富なものがケープを去り、大きな雄牛の隊列を組んで内陸に移動しました。これはボーア人の大移動と呼ばれました。ケープにとどまったボーア人は、自分たちの農場のための労働者を必要としましたので、アジアのオランダ植民地インドネシアとマレーシアから労働者を輸入しました。

By 1854 South Africa was divided into four provinces. The British claimed the Cape and Natal, the coastal provinces rich in soil. The Boers had established two inland republics: the Orange Free State and Transvaal, which Britain had to recognize as autonomous.

1854年までに、南アフリカは4つの州に分割されました。イギリス人はケープおよびナタールの土壌の豊かな沿岸地方を要求しました。ボーア人は内陸の2つの共和国オレンジ自由国とトランスヴァールを設立し、イギリスはその2州を自治領として認めざるを得ませんでした。

The number of colonizers of British origin gradually grew. In Natal province sugar cultivation was started on a large scale at the end of the 19th century, and Indians were imported as indentured labour (See Appendix South Africa 1).

イギリスから来た入植者の数は徐々に増えていきました。ナタール州では、19世紀の後半に大規模な砂糖栽培が始められ、インド人が契約労働者として輸入されました。(附録<南アフリカの1>を参照)

The British and British capital became really interested in South Africa only when diamonds were found in 1867 and gold in 1886. This also caused a growing conflict with the Boers, since the rich deposits were found in their republics.

イギリス人とイギリス資本は、1867年にダイヤモンド、1886年に金が見つかったに初めて、南アフリカに本当に興味を持つようになりました。豊富な鉱物がボーア人の共和国で見つかったので、そのことでさらにボーア人との衝突が激しくなりました。

THE GROWTH OF MINING CAPITAL 鉱山資本の成長

The first diamonds were discovered in the area which later was to become the Kimberley diamond fields.

まず初めのダイヤモンドは、その後キンバリー・ダイヤモンドの産地になる地域で発見されました。

The diamonds on the surface were soon depleted. A more costly technique was then required to exploit diamonds under the surface. This furthered capital concentration, i.e. the concentration of ownership in fewer hands. In 1888 all diamond mines were controlled by a company called de Beers Consolidated, which before the turn of the century controlled 90% of world production. The company was in the hands of the British imperialist Cecil Rhodes, who also was Prime Minister in the Cape colony.

地表のダイヤモンドはすぐに堀り尽されました。その後、よりお金のかかる技術が地下のダイヤモンドを開発するために必要とされました。これは更に資本の集中を促しました、つまりより少数の手の中に所有権が集中したわけです。1888年には、ダイヤ鉱山が全てデ・ビアスと呼ばれる会社によって支配され、20世紀になる前には世界生産の90%をその会社が支配していました。その会社は、イギリスの帝国主義者であり、ケープ植民地の首相でもあったセシル・ローズの手中にありました。

THE CONFLICT BETWEEN THE BRITISH AND THE BOERS 英国人とボーア人の対立

The Boers had every reason to be suspicious of British capital. They viewed the railway with apprehension; it wound northwards from the Cape, and charged heavy freight fees and duties in the harbour. The Boers wanted to keep the gold-rich areas for themselves, and they looked for allies. The rivalry between the European imperialist powers in `the scramble for Africa’ gave the Boers a new chance to get rid of their dependence on the British harbours. With German and Dutch capital a railway line was built from Transvaal to the Mozambican coast.

ボーア人がイギリス資本を信用しないのには充分な理由がありました。ボーア人は、不安な思いで鉄道を見ていました。それはケープから北の方へ延び、通行料金と港での税金を課しました。ボーア人は自分のために金の埋蔵量が豊かな地域を維持したかったので、同盟国を探しました。アフリカ争奪戦でのヨーロッパの帝国主義列強間の競争は、ボーア人にイギリスの港の依存を取り除く新しい機会を与えました。ドイツとオランダの資本で鉄道がトランスヴァールからモザンピークの海岸間に建設されました。

The ruling Boers in Transvaal tried to channel income from the British-owned mines there to themselves. The tense situation between the Boers and the British led to the second Anglo-Boer War in 1899. It ended in 1902 with victory for British imperialism. Cruelties were committed on both sides, but the concentration camps set up by the British for Boer women and children left especially bitter scars.

トランスヴァールを支配するボーア人は自分たちの方に、イギリスに所有された鉱山からの収入を向けようと努力しました。ボーア人とイギリス人との間の緊張した状況は1899年の第二次アングローボーア戦争を生みました。1902年にイギリスの帝国主義者の勝利で戦争は終了しました。双方で残虐行為が行われましたが、イギリス人がボーア人女性と子供用に建設した強制収容所は、ボーア人に特に酷い傷跡を残しました。

The Boers traditionally had two enemies: the indigenous Africans, whose cattle and land they coveted and whom they tried to make into slaves, and British imperialism, which was out to exploit the riches of South Africa. But when it came to exploiting the Africans, the Boers made common cause with the economically superior British.

昔からボーア人には二つの敵がありました、欲しがっていた家畜を奪い、奴隷に仕立て上げたその土地に住んでいたアフリカ人と、躍起になって南アフリカの冨を搾り取ろうとするイギリス帝国主義でした。しかし、アフリカ人を搾取するという点では、ボーア人は経済的に優位だったイギリス人と共通の大義がありました。

THE UNION OF SOUTH AFRICA AND RESERVES 南アフリカ連邦とリザーブ

During the Boer War the British government had claimed that its objective was to protect the Africans. But in the peace treaty the whole question of the political future of the Africans in South Africa was left in the hands of the Boers and the British colonialists. In May 1910 the Union of South Africa was created, which meant that the British government handed over all political power to the whites in South Africa. It was only the negotiated product of the Boers and the British colonialists with their common cause of exploiting the Africans.

ボーア戦争の間じゅう、英国政府は戦いの目的はアフリカ人を保護することだと言っていました。しかし、平和協定を結ぶときには、南アフリカのアフリカ人のこれからの政治に関してはすべての問題をボーアじんとイギリス人植民地主義者の手に収めたままにしてしまったのです。1910年の5月に南アフリカ連合を創設しましたが、それは英国政府が政治的な権利をすべて南アフリカの白人に引き継いだということだったのです。アフリカ人を搾取するという共通の目的のためにボーア人とイギリス人植民地主義者が作り出した妥協の産物に過ぎなかったのです。

The first Union parliament created the African reserves through the Native Land Act in 1913, which made previous practices the law. Whites were forbidden to buy or rent land in the reserves, and Africans could neither buy nor rent outside the reserves. The only exception was the Cape province where, for some time, Africans were still allowed to purchase land. The law meant that 78% of the population was supposed to live in reserves comprising only 7.3% of the area of the country.

最初の連邦議会は1013年の原住民土地法でアフリカ人リザーブを創設しました。それは今までの慣習を法制化したものでした。白人にはリザーブ内の土地を買うこと、借りることが禁止されました。アフリカ人はリザーブ外では土地を買うことも借りることも出来ませんでした。唯一の例外はケープ州で、暫くの間はアフリカ人が土地を購入することが許されました。法律が意味するところは、人口の78パーセントが国土の僅か7.3%からなるリザーブに住むことになるということでした。

For a farming people to be deprived of their land was a hard and bitter blow, which at once strengthened opposition. The South African Native National Congress, which changed its name to the African National Congress (ANC) in 1925, was formed in 1912 to unite the Africans in defence of their right to land and to demand political rights. When the Land Act was still in preparation, a delegation of leading Africans was sent to London. Their mission was fruitless and the African leaders were beginning to realize that no solution to their plight could be found in London.

農民が土地を奪われれば大打撃で、すぐに反対運動が起きました。1912年、土地の権利を守り、政治的な権利を求めるために、そののち1925年にアフリカ民族会議(ANC)と改名する南アフリカ原住民民族会議が創設されて、アフリカの結束をはかりました。土地法がまだ準備段階のうちに、アフリカ人指導者の代表がロンドンに派遣されました。派遣の成果もなく、アフリカ人指導者はロンドンにでは自分たちの窮状の解決策は見出せないと悟り始めていました。

The 1913 Native Land Act was in force until 1936. That year a new law, the Native Trust and Land Act, extended the area of the reserves to 13.7%. This law was in force till all the apartheid laws were abolished in 1991. This law was the foundation of the apartheid regime’s land consolidation for the `homelands,’ the so-called Bantustans.

1913年の原住民土地法は1936年まで効力がありました。その年に新法原住民信託土地法が制定されて、リザーブの範囲が13.7パーセントにまで拡大されました。この法律はすべてのアパルトヘイト法が廃止される1991年まで有効で、アパルトヘイト政権が力を入れたホームランド、いわゆるバンツースタン政策の根幹でした。

 

ビジネス英語 I-1(2)

3回目の授業でした。4月は2回しかありませんでしたが、これ以降は毎週ありますので、ペースを掴んでやってこ。

<今回>は

善福くん、秋月くん、櫛野くんが発表、そのあとTest 1 Part 1の10問。

この前のサンプル問題と『金のフレーズ」⑤、今日やったTest 1 Part 1の音声は圧縮したフォールダー(zip)を置いてますので、ダウンロードして繰り返してやりや。それが大事。それで結果を出しや。

リスニング問題4種類のうちの一番目(写真を見ての描写の4択問題)は持って行ってやったので、繰り返して繰り返してやりや。

Test1は全部実際にやれるように、印刷はするつもり。結構時間もかかるし大変やけど、僕もやれることはやるんで、みんなもやれることはやりや。スコアは結果やけど、結果を出せれば、それまでの過程でそれなりにやってある程度力がついたという証拠。一度身についたもんはそう易々なくなりはせえへんから、自分の財産になるやろ。

速い速度で聞けないときなメールをしてくれたらやり方を言えると思う。実際にパソコンを持って来てくれればその場でやってみるよ。

<次回>は

発表:(今日出来なかった)中村くん、齋藤くん、江藤くん、倉本さん、西村さん、黒川くん

過去問はTest 1 Part 5(readingの4種類のうちの1番目の40問)

『金のフレーズ』の演習についても、⑤以外に少しでも始めんとね。

連絡網、また忘れてたねえ。

配ったプリント:

* Test 1 Part 1の問題(10問)

* Test 1 Part 1の解説

自己紹介の用紙、出してや。

発表は発表した翌週にファイルと感想文(出来れば英語で)を提出してや。その都度成績をつけて、出来れば、最後の授業の時には成績が出せるようにしたいと思ってるんで。

来週に、また。

たま

英語 Ra1(2)

<連絡事項>

課題図書やプリント、本の注文などはメールでも気軽に。家も近いし、資料も添えていつでも渡せると思うよ。課題提出の締め切りは先とは言え、すぐに時間も過ぎるしねえ。

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3回目の授業でした。

<今回>は

「遠い夜明け」をみてもらったあとテキストの発表を決めました。本文に目を通しておくとわかりやすいと思います。今回の発表は課題の一つ「英語で発表」に代えてもらっていいです。

テキストの内容が理解出来たら、それをわかりやすく要約して、少し自分でも調べて画像や地図などをはったファイルを作って発表するといいやろな。自分でパソコンを持って来てやるか、参考ファイルに作ったファイルをアップロードして授業前にダウンロード、それを僕のパソコンを使って、かどっちかで。USBは、非常勤で行ってた公立大と、看護学科でウィルスをばらまいたことがあったんでそれ以来使わないようにしてるんで。自分のパソコンか僕のパソコンで頼みます。

テキストのThe struggle for Africaの

THE CONFLICT BETWEEN THE BRITISH AND THE BOERSとThe UNION OF SOUTH AFRICA ANS RESERVESを河野舞香さん。

THE APARTHEID REGIMEとTHE POLICIES OF APARTHEIDを荒田芽依さん。

Mass MOBILIZATION AND OPPRESSIONとTHE ARMED STRUGGLEを河野多恵さん。

二人の河野さん、荒田さん、よろしくね。半分をトーイックに使うので全部やれないかも知れないけど、準備はしといてや。

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「遠い夜明け」(Cry Freedom)はどうやった?解説しときます。感想文は次回出してや。

「遠い夜明け」に関して配ってるプリントは「遠い夜明け」の1988年の新聞広告(表裏)と、主演のデンデル・ワシントンと原作者のドナルド・ウッズと、「ネルソン・マンデラ」を歌ったユッスー・ンドゥール(表)と試写会の割引券。主演のデンデル・ワシントン↓

この映画を作ったのは監督のリチャード・アッテンボロー。「ガンジー」や「コーラスライン」で超有名な監督です。冒頭に典型的な場面を持って来るのが好きなようで「ガンジー」では暗殺の場面、今回の場合は、スラムの強制立ち退きの話を南アフリカの典型的な場面として衝撃的に持って来ていました。すごかったやろ。英文テキストの中にも以下の文を紹介しています。日本語訳も貼っておきます。

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The bantustan policy meant that Africans were to be prevented from living permanently in the white areas. Ruthless, forced evictions took place to force ‘surplus labour’ to move from the towns to the bantustans. Crossroads outside Cape Town is only one example of this policy.

バンツースタン政策は、アフリカ人を白人地区で永住させないという意味のものでした。冷酷で、強制的な立ち退きが、「余剰労働力」を町からバンツースタンに強制的に移動させるために強行されました。ケープタウン郊外のクロスローヅはこの政策の一例です。

REFERENCE 3 参照3

We can hear the news of Radio South Africa about the 1978 Crossroads eviction in the following scene of Cry Freedom.
Newscaster: “This is the English language service of Radio South Africa. Here is the news read by Magness Rendle. Police raided Crossroads, an illegal township near Cape Town early this morning after warning this quarter to evacuate this area in the interests of public health. A number of people were found without work permits and many are being sent back to their respective homelands. There was no resistance to the raid and many of the illegals voluntarily presented themselves to the police. The Springbok ended . . .”

米国映画「遠い夜明け」の以下の場面で、1978年のクロスローヅの立ち退きについての南アフリカのラジオニュースが出てきます。
ニュースキャスター:「こちらは南アフリカラジオの英語放送です。
マグネス・レンドルがニュースをお伝えします。公衆衛生の見地から、その地域を空け渡すように勧告を出したあと、今朝早く警察は、ケープタウン郊外の不法居住地区クロスローヅの手入れを敢行しました。多くの人が労働許可証を持たず、それぞれのリザーブに送り返されています。手入れに対して全く抵抗の気配もなく、不法滞在者は自発的に警察署に出頭していました。放送を終わります・・・。」

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人種隔離政策の下で情報操作を強いられている白人にはそういうニュースしか流れないわけです。小さい頃から白人社会で育ったら、それが当たり前、というわけです。

ウッズとビコの出会いのシーンは、いつも美しいなあと思います。あの通りはハラレに行った時に、たぶん近くを通ったような気がします。transcribeしたのを貼っておきます。

Cry Freedom_The first meeting

Woods: Steve Biko? Are you Steve Biko?
Biko: l am. l would have met you in the church, but, as you know, l can only be with one person at a time. lf a (third) person comes into the room, even to bring coffee, that (breaks) the (ban)… And the (system) – the police – are just across the road. But, of course, you would (approve) of my (banning).
Woods: No. l think your (ideas) are (dangerous), but, no, l don’t (approve) of (banning).
Biko: A true (liberal).
Woods: lt’s not a title l’m (ashamed) of, though l know you (regard) it with some (contempt).
Biko: l just think that a white (liberal) who (clings) to all the (advantages) of his white world – jobs, housing, education, (Mercedes) – is perhaps not the person best (qualified) to tell blacks how they should (react) to (apartheid).
Woods: l wonder what sort of (liberal) you would make, Mr. Biko, if you were the one who had the job, the house, and the (Mercedes), and the whites lived in (townships).
Biko: lt’s a (charming) idea. lt was good of you to come, Mr. Woods. l wanted to meet you for a long time.

Mercedesはマーサディーズと発音、意味はメルセデス・ベンツ。ドイツ車で金持ちのシンボル。医者ややくざがよう乗ってる車で、医学科の駐車場ではよう見かけるねえ。

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ビコの言ってた自己意識の話も補足しときます。

今日も映画を観たあと話をしたように、ビコは合法的に殺されましたが、それだけ体制に脅威だったということでしょう。
裁判の中でビコがEven in this environment we must find a way to develop hope for themselves, to develop for this countryと言ってたけど、ほんとすごいよね。前の方Even in this environment we must find a way to develop hope for themselvesは僕でも言えるので、ま、授業でずっと言い続けて来たつもりやけど、あとの方to develop for this countryは、言えないもんね。この国のやってきたことを考えると、恥ずかしすぎて、国に希望を紡ごうと言う気にならんもんなあ。今日も何度も言ったけど、こう言わないといけないのは悔しいね。
自己意識については、ビコとマルコム・リトルに焦点を当てて書いたことがあります。ビコを引用して書いた部分です。

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白人優位・黒人蔑視

奴隷貿易に始まる西洋諸国の侵略によって、支配する側とされる側の経済的な不均衡が生じましたが、同時に、白人優位・黒人蔑視という副産物が生まれました。支配する側が自らの侵略を正当化するために、懸命の努力をしたからです。支配力が強化され、その格差が大きくなるにつれて、白人優位・黒人蔑視の風潮は強まっていきました。したがって黒人社会は、支配権を白人から奪い返す闘いだけでなく、黒人自身の心の中に巣食った白人優位の考え方を払しょくするという二重の闘いを強いられました。アメリカ映画「遠い夜明け」で広く知られるようになったスティーヴ・ビコは、ある裁判で黒人意識運動の概念について質問されたとき、その「二重の闘い」に言い及んで、次のように述べています。

基本的に「黒人意識」が言っているのは黒人とその社会についてであり、黒人が国内で二つの力に屈していると、私は考えています。まず何よりも黒人は、制度化された政治機構や、何かをしようとすることを制限する様々な法律や、苛酷な労働条件、安い賃金、非常に厳しい生活条件、貧しい教育などの外的な世界に苦しめられています。すべて、黒人には外因的なものです。二番目に、これが最も重要であると考えますが、黒人は心のなかに、自分自身である状態の疎外感を抱いてしまって、自らを否定しています。明らかに、ホワイトという意味をすべて善と結びつける、言い換えれば、黒人は善をホワイトと関連させ、善をホワイトと同一視するからです。すべて生活から生まれたもので、子供の頃から育ったものです。[I Write What I Like (New York: Harper & Row, 1986), p. 100.神野明他訳の日本語訳『俺は書きたいことを書く』(現代企画室、 一九八八年)が出ています]

南アフリカを本当の意味で変革していくためには、先ず何よりも黒人ひとりひとりが、厳しい現状に諦観を抱くことなく、自らの挫折感とたたかい、自分自身の人間性を取り戻すべきだと、ビコは説きました。自己を同定するために自分たちの歴史や文化に誇りを持ち、次の世代に語り伝えようと呼びかけました。そして、経済的な自立のための計画を立てて、実行に移しました。

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ブログに載せています→「自己意識と侵略の歴史」

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課題図書でも紹介している『まして束ねし縄なれば』を書いたラ・グーマはケープのカラード(200万人)の指導者でもありました。

1992年にジンバブエに行く前に、亡命中だったララ・グーマの奥さんブランシさんの家に家族4人でお邪魔した時にもらった写真で、ソ連で撮った写真だと説明して下さいました。長男のユージーンさんと。

1987年にラ・グーマについてサンフランシスコの会議で発表することになった時、ラ・グーマのことを知りたいと思いました。日本では断片的な情報しかなく、ラ・グーマが生きていれば会いにも行けたんやけど(ラ・グーマは亡命先のハバナで心臓発作のために85年に急死してました)
・・・そうこうしている時にミシシッピの本屋の人からセスゥルのAlex La Gumaという本が届いて。読んでみると一番信憑性がある気がして、早速手紙で会いに行ってもいいですかと書くと北アメリカに来たら電話して下さいと返事があったね。1987年の夏のことです。当時大学を探そうと高校をやめて無職やった身には千ドル(多分当時十数万円)は大きかったけど、ANC(当時は非合法とされたアフリカ民族会議、今は与党)への寄付にと渡したお金は、見も知らぬ「敵国」にっぽんからやって来た胡散臭い日本人を丸々三日間泊めて下さった南アフリカの友人への僕の気持ち、やったんかな。

出来たら、その話も出来るとええね。



ラ・グーマのことも、南アフリカの歴史についてもそう知らないで、英語もまだ充分に話せる状態でもなかったのに、一杯マイクロカセットテープを持って行って録音し、帰って来てから、非常勤で知り合ったイギリス人のジョンにお金を出して正確な聞き取りをやってもらって、原稿を作ったんですが、今から思うと、よくもまあ、と思います。いつも言うように、若さは馬鹿さの象徴みたいなもので、よくやるよなあというところです。ただ、今日もそんなことを言ったと思うけど、もう一度同じ局面があったら、やっぱり同じことをするような気がするけどね。知的な好奇心と言えるほどのものでもないけど、外国に行くのが億劫な今に比べると、行くと考えるだけでもしんどいのに、とため息が出るねえ。
『まして束ねし縄なれば』(And A Threefold Cord)は、顔の見えぬ相手に、それでもアパルトヘイトのことを知ってもらいたいと、或いは後の世の若い人たちーアパルトヘイトが廃止されればアパルトヘイトがあったことも知らない人たちが生まれるだろうからーその人たちのためにとラ・グーマが命をかけて書き残した作品。その思いを受けとるためには、意外と難しい、どっちかというとイギリス英語を読む力も要るし、歴史を見渡す目と本質を理解する洞察力も要るもんねえ。

表紙絵の元の絵です。

この本の前に 『夜の彷徨』A Walk in the Night (横浜:門土社、1988年4月12日)を出してもらいました。宮崎医科大学に来てすぐに出したようで(随分と前で日時の後先の感覚があやふややねえ)、当時の1・2年生に使ったと思います。(非常勤として行ってた旧宮崎大学でも使ったかも知れません。)アフリカ系アメリカ人の歴史や文学作品を主に取り上げていましたから、本格的にアフリカことを取り上げるようになった最初のテキストです。南アフリカ第二の都市ケープタウンを舞台にした作品で、オランダ系と英国系の入植者に侵略され、厳しい状況の中で生きることを強いられている「カラー」ド社会の一面が生き生きと描かれています。
「カラード」(Coloured)は、アフリカ人、アジア人、ヨーロッパ人の混血の人たちで、人種によって賃金格差がつけられたアパルトヘイト体制の下では「カラード」と分類され、人口の10%ほどを占めていました。ケープタウンに多く、その人たちは特に「ケープカラード」と呼ばれていました。
ラ・グーマはアパルトヘイト体制と闘った解放闘争の指導的な役割を果たしていましたが、同時に、大半が安価な労働者としてこき使われ、惨めなスラムに住んでいる南アフリカの現状を世界に知らせようと物語も書きました。きれいな海岸や豪華なゴルフ場のイメージで宣伝活動をして観光客を誘致し、貿易を推進して外貨獲得を目論む政府にはラ・グーマは脅威でした。他の指導者と同じように何度も逮捕拘禁され、1966年に英国亡命の道を選びます。その後、キューバに外交官として受け入れられますが、1985年に解放を見ることなく還らぬ人となりました。

A Walk in the Nightの表紙は当時上映されていた反アパルトヘイトのために闘った白人ジャーナリストルス・ファースト親娘を描いた映画「ワールド・アパート」の映画評「『ワールド・アパート』 愛しきひとへ」(「ゴンドワナ」 18号 7-12ペイジ、1991年)を掲載しています。) の一場面をモデルに奥さんに水彩で描いてもらいました。

「遠い夜明け」、全部を見たい人はコピーしてますので、いつでもどうぞ。

南アフリカの歴史背景についてまとめときます。仮説を立てたり、課題図書を探すのに参考になれば嬉しいです。

今日も話したと思うけど、大きな山は3つ、

①ヨーロッパ移住者がアフリカ人から土地を奪って課税して安価なアフリカ人労働者の一大搾取機構を打ち立てた

②アパルトヘイト政権とアフリカ人の抵抗運動

③白人政権と日本の関係

です。

次回読むのは①と②で、①の部分を年代順に箇条書きにしてまとめておきます。すでに配ってあるChronology of South Africaを参考に。

*1652年にオランダ人が到来
*1795年にイギリス人がケープを占領
*1806年にイギリス人が植民地政府を樹立
*1833年にイギリス人がケープで奴隷を解放
*1835年にボーア人が内陸部に大移動を開始(グレート・トレック)
*1854年頃には海岸線のケープ州とナタール州をイギリス人、内陸部のオレンジ自由州とトランスバール州をオランダ人、で棲み分ける
*南アフリカは戦略上そう重要ではなかった
*金とダイヤモンドの発見で状況が一変、一躍重要に
*1867年キンバリーでダイアモンドを発見
*1886年1ヴィトヴァータースランド(現在のヨハネスブルグ近郊)で金を発見
*1899年金とダイヤモンドの採掘権をめぐって第二次アングロ=ボーア戦争(~1902)
*イギリスの勝利。
*1910年南アフリカ連邦成立(イギリス人統一党とアフリカーナー国民党の連合政権、統一党が与党、国民党が野党)

配ったプリントは:サンプル問題Part 1とその解説、それと「遠い夜明け」の感想文の用紙です。次回提出してや。

<次回は>

The Struggle for Africaの3人の発表、コシシケレリアフリカなどの歌の紹介と、映像を交えながら南アフリカ史のまとめ。そこまで時間取れるかな。たぶん時間切れになりそう。

トーイックに関してはサンプル問題Part 1と「金のフレーズ⑤」と過去問Part 1の10問。(たぶん全部はする時間はないので残ればその次に)

<今後>

南アフリカについては、次回大まかな歴史背景をみたあと、もう一本映画「アフリカの蹄」(エセイの例で紹介している映像です)の編集した映像を見てもらおうと思っています。

そのあとは、アメリカのテレビドラマERの医師がコンゴにボランティアに行く物語をみてもらったあと、エボラ出血熱とコンゴをめぐっての話、独立時とコンゴ危機→コンゴ自由国の植民地時代→植民地争奪戦・植民地分割と歴史を遡ろうと思っています。印刷の準備中です。

アフリカ系アメリカの歴史については、後期にと思っています。そこでも映画を一本みてもらうつもりです。

来週、また。

たま

 

英語 Rb1(3)

<連絡事項>

次回は連休明けの5月9日(木)、そこからは7月の最終日まで毎週授業です。

課題図書やプリント、本の注文などはメールでも気軽に。連休中でも大丈夫、家も近いし、資料も添えて渡せると思うよ。締め切りは先とは言え、すぐに時間も過ぎるしねえ。

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まだ3回目なんか、もう3回目なんかわからんけど、3回目の授業でした。

<今回>は

先にトーイックの過去問のサンプル問題と金のフレーズ⑤を少々、テキストの要約発表の予定を確認、名前を読んでコメントで時間切れでした。

サンプル問題は、絵を見ての4択を2問。絵を見ての4択は4種類あるリスニング問題の一つ。

今トーイック協会から出ている唯一の本には過去の2種類のテスト(Test 1とTest 2)が入っていて、今日やったのはその前にあるサンプル問題2題。時間切れでやれなかったTest 1は10題。次回はやれると思います。その形式の例題を集めたのが、最初の時間に配った『金のフレーズ」⑤、最初の方をスピードを変えながら聞いてもらいました。速い速度で聞いてから普通のを聞くと、えらいゆっくりに聞こえるのは、人の機能がそういうふうに出来てるんやろな。リスニングでは有効なやり方やと思うけどね。今日早く聞いたのはウィンドウズのMedia Playerを使ったんやけど、もしやり方がわからんときはメールしてくれたら解説できると思うよ。

参考ファイルにサンプルPart 1の音声を置いておくんで、前回置いた『~金のフレーズ~』①~⑤と併せてダウンロードして使ってや。zip(圧縮ファイル)で置いてあるんで解凍して。何回も何回もやってみるとええな。スコア630取って、受験料浮かさんとねえ。トーイック協会に取られ過ぎも悔しいしねえ。

次回のテキストの発表を決めました。本文に目を通しておくとわかりやすいと思います。今回の発表は「英語で発表」にしてもらっていいです。

テキストの内容が理解出来たら、それをわかりやすく要約して、少し自分でも調べて画像や地図などをはったファイルを作って発表するといいやろな。自分でパソコンを持って来てやるか、参考ファイルに作ったファイルをアップロードして授業前にダウンロード、それを僕のパソコンを使って、かどっちかで。USBは、非常勤で行ってた公立大と、看護学科でウィルスをばらまいたことがあったんでそれ以来使わないようにしてるんで。自分のパソコンか僕のパソコンで頼みます。

テキストのThe struggle for Africaの

THE CONFLICT BETWEEN THE BRITISH AND THE BOERSとThe UNION OF SOUTH AFRICA ANS RESERVESをKIM MEEREYくん。

THE APARTHEID REGIMEとTHE POLICIES OF APARTHEIDを甲斐大翔くん。

Mass MOBILIZATION AND OPPRESSIONとTHE ARMED STRUGGLEを市谷奈菜さん。

KIMくん、甲斐くん、市谷さん、よろしくね。

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南アフリカの歴史背景についてまとめときます。仮説を立てたり、課題図書を探すのに参考になれば嬉しいです。

大きな山は3つ、

①ヨーロッパ移住者がアフリカ人から土地を奪って課税して安価なアフリカ人労働者の一大搾取機構を打ち立てた

②アパルトヘイト政権とアフリカ人の抵抗運動

③白人政権と日本の関係

です。

次回読むのは①と②で、①の部分を年代順に箇条書きにしてまとめておきます。すでに配ってあるChronology of South Africaを参考に。

*1652年にオランダ人が到来
*1795年にイギリス人がケープを占領
*1806年にイギリス人が植民地政府を樹立
*1833年にイギリス人がケープで奴隷を解放
*1835年にボーア人が内陸部に大移動を開始(グレート・トレック)
*1854年頃には海岸線のケープ州とナタール州をイギリス人、内陸部のオレンジ自由州とトランスバール州をオランダ人、で棲み分ける
*南アフリカは戦略上そう重要ではなかった
*金とダイヤモンドの発見で状況が一変、一躍重要に
*1867年キンバリーでダイアモンドを発見
*1886年1ヴィトヴァータースランド(現在のヨハネスブルグ近郊)で金を発見
*1899年金とダイヤモンドの採掘権をめぐって第二次アングロ=ボーア戦争(~1902)
*イギリスの勝利。
*1910年南アフリカ連邦成立(イギリス人統一党とアフリカーナー国民党の連合政権、統一党が与党、国民党が野党)

配ったプリントは:サンプル問題Part 1とその解説、それと「遠い夜明け」の感想文の用紙です。次回提出してや。

<次回は>

The Struggle for Africaの3人の発表、コシシケレリアフリカなどの歌の紹介と、映像を交えながら南アフリカ史のまとめ。そこまで時間取れるかな。

トーイックに関しては過去問Part 1の10問。

南アフリカについては、次回大まかな歴史背景をみたあと、もう一本映画「アフリカの蹄」(エセイの例で紹介している映像です)の編集した映像を見てもらおうと思っています。

そのあとは、アメリカのテレビドラマERの医師がコンゴにボランティアに行く物語をみてもらったあと、エボラ出血熱とコンゴをめぐっての話、独立時とコンゴ危機→コンゴ自由国の植民地時代→植民地争奪戦・植民地分割と歴史を遡ろうと思っています。印刷の準備中です。

アフリカ系アメリカの歴史については、後期にと思っています。そこでも映画を一本みてもらうつもりです。

連休明けに、また。

たま