1976~89年の執筆物

概要

1988年のアレックス・ラグーマ/ベシー・ヘッド記念大会の報告です。

前の年にカナダに亡命中のセスゥル・エイブラハムズ氏(当時ブロック大学人間学部学部長)を訪ねてラ・グーマについての取材に行ったときに、この会議に誘われて、再度カナダに行きました。その年の四月に宮崎医科大学に講師として着任していましたので、出張の形で参加出来ました。北米に亡命中の南アフリカの人たち大半で、その人たちの前で話をしたわけですが、一番きつい視線を経験したと思います。ブランシ夫人に会えたのは何よりです。

エイブラハムズさんの家でのパーティーで

本文

アレックス・ラ・グーマ/ベシィ・ヘッド記念大会に参加して一報告一

「黒人研究」第58号 (1988)36ペイジ。

8月3日、4日の両日、カナダオンタリオ州セイント・キャサリンズのブロック大学で、アレックス・ラグーマ/ベシー・ヘッド記念大会が行なわれた。特別ゲストとして招かれたラ・グーマ夫人をはじめ、カナダやアメリカに亡命中の南アフリカの人々、それにソ連やナイジェリアからの参加者もあった。

在りし日のラ・グーマの姿を伝えるブランン夫人や主催者のセスゥル・エイブラハムズ氏(ブロック大学)、ラ・グーマのケープタウン時代の親友ジョ一ジ・ルーマン氏(カナダ在住)など、身近だった人々の発言には、ずしりと重みがあった。又、小林信次郎氏の翻訳などでもおなじみのコズモ・ピーターサ氏(オハイオ大学)と他二人によるラ・グーマとヘッドの作品朗読もラジオ劇風の迫力が感じられた。

会議でのブランシ夫人

二日目には、プログラムにはなかったが、特別ビザを得て南アフリカから直接駆けつけたアハマト・ダンゴル氏よる現状報告があり、会場が俄かに活気づく場面もあった。ブランシ夫人とダンゴル氏の談話は、翌日、地元の新聞に写真入りで報じられた。

参加者が50人程度と、国際大会としては決して大きなものではなかったが、1985年と1986年に客死した二人の偉大な南アフリカ作家を偲んでの記念大会が開催された意義は決して小さくはない。

大会では、日本の現伏に少し触れたあと、ANC東京事務所のマツィーラ氏からのメッセージと『三根の縄』(のちに、『まして束ねし縄なれば』に改題)についての論文を読んだ。日本は、南アフリカを苦しめている筆頭国の一つだが、その国からの参加者に対する温かい視線は私には何よりもうれしかった。と同時に、経済大国日本に寄せられる期待の大ききをも、今更ながら。痛感せざるを得なかった。

執筆年

1988年

収録・公開

「黒人研究」58号36ペイジ

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アレックス・ラ・グーマ/ベシィ・ヘッド記念大会に参加して

1976~89年の執筆物

概要

1988年9月に大阪工業大学で行われた黒人研究の会創立30周年記念シンポジウム「現代アフリカ文化とわれわれ」を総括したものです。小林信次郎氏が司会、北島義信氏とケニアのサイラス・ムアンギ氏と私がシンポジスト、私は、抗議作家から脱皮し、国際人としてより普遍的なテーマを追い求めてアフリカとアメリカの掛け橋になろうとしたリチャード・ライトの役割について話をしました。

本文

アレックス・ラ・グーマとアパルトヘイト「黒人研究」58号13-15ペイジ

ラ・グーマが亡くなってからもうすぐ三年になる。八月にはカナダで、アレックス・ラ・グーマ/ベシィ・ヘッドの記念大会がある。南アフリカの友人・後輩たちが企画したものである。真実を伝えよう、歴史を記録しようとしたラ・グーマの意図は、時の試練を経て確かに後世に伝わっている。

アレックス・ラ・グーマ/ベシィ・ヘッドの記念大会のブランシ夫人

 ラ・グーマを語る前に、少し日本人のアフリカにっいての見方に触れておきたい。テレビ等で活躍している人の発言や、テレビ番組におけるアフリカの取り上げ方等にもあらわれているのだが、多くの日本人にはアフリカ人に対して対等にものを見ようとする点が欠けている、言い換えれば憐れみの姿勢があるのではないかと思う。
しばらく前教育テレビで「南ア貿易日本の選択」という討論番組があった。その中でフォトジャーナリストの吉田ルイ子さんが「南ア商品のボイコットを求めて日本のいろんな企業を回ったら、非常に冷たい反応であった。日本はもうそろそろ金儲けばかりのやり方を止めて、世界から取り残されることのないようにしましょう。日本は今世界からその姿勢を求められています。」と話しておられた。更に、では具体的にどうしたらいいのかということに対して吉田さんは「南アにいる日本人はぬくぬくと生きてばかりいないで、まず黒人街に行き、その人たちと交流するように心がけて欲しい。」と言っておられた。
その発言から、私は去年の秋に放送されたテレビ朝日のニュース・ステーション「白いアフリカ、南アフリカ共和国」を思い浮かべた。番組ではヨハネスブルグの日本人学校のことが紹介されていたが、ガードマンに固く護衛された学校の校長は、まず子供たちの安全を守るのが一番だと言った。そして<美しい>和服で身を飾った女性は南アフリカのことを聞かれて「とてもすばらしい国だと思います。きれいですし、食べ物はおいしいですし、こういうティーセレモニーもさせていただけますし・・・・・・」と答えていた。しかしアパルトヘイトに関する質問になると一様に「お答えできません。」の一点ばりだった。
そして子供たちは自分の家にいる黒人のメイドたちのことを「住むかわりにやっぱり働かせてあげるっていう感じで」とか「雇ってあげないと職がないですからね」とか平然と答えていた。さらにその中の一人は関西弁で次のように言った。「僕はですね、この国あまり好きちゃうねんけど、あの、恐いという印象が多いんですよね。ほしたら、おやじさんがいいから楽しめ、というんですけどなかなか楽しめないんですよ。」
この少年の父親はおそらく「お前らを楽させてやるから、おれのように一生懸命勉強して一流の大学に入り、一流の企業に入ってこんなりっぱな生活をするんだぞ。」と言いたかったのだろう。しかしこの親たちは子供たちに、いったい何を伝えているのだろうか。

この人たちのことを考えると、ラ・グーマは貧しかったが、ほんとうに貧しかったようだが、すばらしい父親をもって幸せだったと思う。
筋金入りの闘争家の父ジミー・ラ・グーマの生き様を見て育ったラ・グーマは、1937年スペインでフランコ独裁政権に自由を渡すなと国際義勇軍が結成きれた時、わずか13歳で志願さえしている。わずか13歳でそのようなことを考えついたのは、おそらく自宅が若い活動家たちの出入りする拠点だったからであり、父親がいたからであろう。

ラ・グーマ(小島けい画)

 そういうふうにラ・グーマは早くから解放闘争の渦中にいたわけだが、生まれた国で法律によりあたりまえの人間としてみなされていないわけだから、いわばラ・グーマの生き方は人間を取り戻すための闘いであったとも言える。
ラ・グーマは闘争家でもあったが、同時にすばらしい芸術家でもあった。ペンの力を充分に知っていたのである。ラ・グーマは作家として二つのことを常に念頭においていた。一つは、今現在南アフリカに起こっていることを世界の人々に知らせるのだ、ということである。
もとより白人の利害に従って考えられたアパルトヘイトは、私たちが想豫している以上の文化荒廃をもたらす。またアパルトヘイトは人種間の交流を絶ち、その間に大きな壁をつくる。
イギリスで作られたテレピ番組「教室の戦士たち-アパルトヘイトの中の青春」のなかで、同じ16歳の白人シスカと黒人シルピアという二人の高校生が、自分たちの住まいを紹介しながら交互に語る。
白人の高校生シスカは次のように言う。
南アフリカのアパルトヘイトは世界の非難の的ですが、白人と黒人はごく自然に分かれているだけです。今の南アフリカには人種差別はありません。白人と黒人の間に差別があるなんて根拠のないことだと思います。
そして最後に「ここ何十年かは急激な変化はないと思います」とまとめる。一方、黒人の高校生シルビアは「アパルトヘイトというものは、人間を肌の色ではっきりと分けてしまうことです・・・・・・一つの国の中で同じ考えや理想を頒ち合えないことがアパルトヘイトだと思います。」と述べている。
この対照的におかれた二人のことばにより、知らないことの恐ろしさをまざまざと見せつけられてしまう。
そしてラ・グーマはこの知らないということの重要性を作家として充分に認識していた。何故ならANCの一員でもあったラ・グーマの願いも民主統合国家の実現であり、実状を知らせることはその第一歩でもあったからである。
ラ・グーマの真実を伝えようとする姿勢は、1955年こリポーターとして採用された左翼系新聞「ニュー・エィジ」で培われた。「ニュー・エイジ」は1962年に廃刊に追いやられた命の短かった新聞である。(これはおそらくイギリスでしか手に入らないと思っていたが、留学中の会員の山本伸さんに無理をお願いして探していただいたところ、ニューヨークにもそのマィクロフィルムがあった。そのフォトコピーが手元に少しある。)その中には1957年ヨハネスブルグで行なわれていた、あの有名な反逆裁判の模様を伝えた「皆それぞれに大変だが、不平をこぼすものは誰一人としていない」という記事もある。


ラ・グーマはアパルトヘイトはよくないとか、政府はこうあるべきだとか、新聞では書いたが、文学作品ではいっさい語らなかった。ありきたりの青年が、ひどい環境のなかで、どれほど簡単にチンピラの仲閥入りをするかを書いた。また人々がいかに官憲の横暴に傷つけられているかを書いた。例えば、『夜の彷徨』の中では、主人公マイケル・アドゥニスは街で療れ違った警官に尋問きれる。まず、マリファナはどこだと聞かれる。初めから犯罪者扱いである。嫌疑を否定すると、今度はポケットの中味を見せろである。ポケットの中にある金を見つけると、実は給料の一部だったのだが、どこで取ったのだ、という質問である。そして結局咎めるものがないとわかると、警官の一人はアドゥニスを肘で突いてから、悠々と歩き去る。これはすべて通りで、みんなが見ている白昼に堂々と行なわれている。

それから第二作目の『三根の縄』では、主人公チャーリーは恋人フレッダと眠っている最中に手入れを受け、泥靴で踏み込んできた警官に「マリファナはどこだ」と尋問される。そして名前を聞き、二人がまだ夫婦でないのを知ると、警官の一人は恋人フレッダに「この黒んぼ淫売め/」と罵り帰って行く。別の手入れの事件では、ある男性が裸のまま手錠をかけられ連れて行かれる。またその手入れをガウンを引っかけて見に出た男が、パスを調べられ、パスが無いと「パスは家の中にある」と叫びながら引っ立てられて行く。

そんな姿を見せつけられる読者は、白人政府にとっては、1960年の悪名高いシャープヴィルやランガの虐殺、あるいは1976年のソウェトの暴動に対する蛮行が、日常茶飯事のことで、すべてその延長上でしかなかった、そんな思いがするのである。
またラ・グーマは『三根の縄』で雨をうまく使っている。政府の観光用の宣伝に、南アフリカは非常にすばらしい、天気の良いところだと書いてある。それを逆手に取った。現実にはスラム街は雨によって苦しめられている。そういう苦しみを味わっているラ・グーマはその雨をうまく利用したのである。

例えば、チャーリーの妹キャロラインが粗末な小屋で出産をする。そのときには雨漏り水がたまって床の上をったっていた。産婆は来ない。大声を聞いてかけつけた警官の一人は中を覗き「ああ、何ということだ!」と叫ぶ。
でも読者は、キャロライン自身が実際に鶏小屋のようなところで生まれたことを知っている。本人が子供をこんな惨めなところで産んだのを見て、おそらくその子供もまたアパルトヘイト体制が続く限り同じような状況で子供を産むことになるだろう、と予測する。

 

もう一つラ・グーマの念頭にあったのは、作家として歴史を記録するということであった。父ジミー・ラ・グーマが自分に贈ってくれたように、ラ・グーマは次の世代に、きっと日本にいらっしゃるANC東京事務所のマツィーラさんも含めて、その人たちに何か贈れるものをと思って残していったにちがいない。
アパルトヘイトの問題は南アフリカだけの問題ではない。自分の生き方に係わる問題で、毎日の生活とそれほど切り離されてはいない。ほんの一例だが、日本人が結婚指輪に使うダイヤモンドが、すでに南アフリカと深く係わっている。
私たちはダイヤモンドがなくても生きて行ける。人間の欲はきりがなく、物質文明、消費文明に毒された現代社会が楽園だと考えている人もいないだろう。このあたりで私たちは一歩立ち止まって、すべての面で自分を、そして社会を見つめ直してみる必要がある。
これは基本的な問題に係わることだが、研究のための研究はないし、文学のための文学もない。私たちは自分たちの子孫に手渡せる何かを探しながら、闘争家・文学者ラ・グーマが残していってくれたメッセージを次の世代に引き継いでいきたいと思う。

執筆年

1988年

収録・公開

「黒人研究」58号13-15ペイジ

 

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アレックス・ラ・グーマとアパルトヘイト

1976~89年の執筆物

概要

アレックス・ラ・グーマ(1925-1960)の最初の物語『夜の彷徨』(A Walk in the Night, 1962)の作品論です。アパルトヘイト体制下の南アフリカの状況を世界に知らせたいと書いたこの物語は夜のイメージをうまく使ってアパルトヘイト体制のなかでいとも容易く犯罪を犯すケープタウンカラード居住区の青年たちの日常を描き出しています。

アレックス・ラ・グーマ(小島けい画)

本文(写真作業中)

アレックス・ラ・グーマ 人と作品4 『夜の彷徨』上 -語り- 

「ゴンドワナ」11号(1988)39~47ペイジ

時代を越えて

<南アフリカ人として、南アフリカの大地に生を受けながら、白人でないという理由だけで、人間としての扱いを受けなかったラ・グーマ。ラ・グーマの一生は、人間を取り戻すための闘いであった。

貧しく虐げられながらも、更に拘禁され、祖国を離れることを強いられても、すばらしい両親の深い愛に包まれ、よき伴侶に支えられつつ、ラ・グーマは断じてひるまなかった。

祖国を離れて、疲れ果て、解放の日を見ることなくこの世を去ってしまったが、その生き様は時の流れの中に葬り去られることはない。慈愛を言葉にくるんで残していった数々の作品の中に、ラ・グーマの魂は生きつづけるだろう>

前回までの伝記的な部分を私はそう結んだが「慈愛を言葉にくるんで残していった数々の作品の中」から、今回は、先ず何よりも『夜の彷徨』を取り上げたい。執筆順で行けば『夜の彷徨』以前に既に発表されていた短篇や新聞記事などを最初に扱うべきなのだろうが、敢えて『夜の彷徨』を取り上げたいと思う。その理由は、この作品が、結果的にはラ・グーマの作家としての実質的な出発点となったし、ある意味では既に出ていた短篇や記事の集大成でもあったからだが、さらに言えば、この作品が世に出たこと自体に、時代を越えた何か因縁のようなもの、言葉を換えて言えば、ラ・グーマの執念にも似た思い入れのようなものを感じないではいられないからだ。

私は、ナイジェリアで出されたテキスト (写真①) を黒人文庫 (神戸市外国語大学図書館) から借り、ハーレムのリベレーション・ブックストアでノースウェスタン大学出版のテキスト (写真②) を買い、門土社から大学用のテキスト (写真③) を送ってもらい、いともた易くこの作品に接することが出来たのだが(のちに改訂版を出版―写真④)、人々を愛し、解放を願い続けたラ・グーマの思い入れがあったにしろ、もし、歴史の偶然、いや何かそれを越えた必然とでもいうべきものがなかったら、この作品は決してこの世で日の目を見ることはなかっただろう。

写真①

ナイジェリア版

写真②

ノースウェスタン大学版

写真③

門土社版

写真④

編註書(門土社、1989年、表紙絵小島けい画)

『夜の彷徨』は、1962年にナイジェリアのイバダン大学で、ムバリ出版社によって出版された。1956年以来、逮捕、拘禁が繰り返される中での執筆自体が驚きに値するが、厳しい官憲の目をかい潜って草稿が無事国外に持ち出され、ナイジェリアで出版された事実は、一種の奇蹟とも言えるだろう。如何にしてラ・グーマが原稿を守ったのか。ラ・グーマより一つ歳上の友人で、亡命して今はアメリカのピッツバーグ大学にいる詩人デニス・ブルータスに登場を願おう。(本誌7号でも紹介した)

私は最近アレックス・ラ・グーマ夫人に会ったことがある。夫人の話によるとアレックス・ラ・グーマは自宅拘禁中にも小説を書いていた。彼は原稿を書き終えると、いつもそれをリノリュームの下に隠したので、もし仕事中に特捜員か国家警察の手入れを受けても、タイプライターにかかっている原稿用紙一枚しか発見されず、その他の原稿はどうしても見つからなかったのである。(コズモ・ピーターサ、ドナルド・マンロ編、小林信次郎訳『アフリカ文学の世界』南雲堂、1975年, 191~192ペイジ)

幸いなことに、1960年にラ・グーマが再逮捕されたとき『夜の彷徨』の草稿はほぼ完成されていた。ラ・グーマは原稿を一年間郵便局に寝かせておくように、と妻ブランシに指示を与えてから拘置所に赴いた。一年後、郵便局から首尾よく引き出された原稿は、ブランシ夫人の手から、私用で南アフリカを訪れていたムバリ出版社のドイツ人作家ウーリ・バイアー (本誌7号参照) の手に渡り、国外に持ち出されたのである。ラ・グーマの機転、ブランシ夫人の助力、ウーリ・バイアーの好意、どれひとつが欠けても、おそらく『夜の彷徨』の出版はかなわなかっただろう。それだけに「その本に対して何ら望みは持っていませんでした。ただ、自分にとっての習作のつもりで書いただけでした。ですから、現実にうまく出版されたときは驚きました」と言うラ・グーマの感慨がよけいに真実味を帯びて迫って来る。

ロンドンに亡命中のブランシ夫人と家族、1992年

シャープヴィルの虐殺で始まった60年代、「ソウェト」を体験した70年代を経て、間近に21世紀の鐘を聞こうとする今、発禁の書『夜の彷徨』が、生まれた地南アフリカで蘇ろうとしている。前号で紹介したセスゥル・エイブラハムズ氏のもとに、ケープタウンの出版社から同書再版依頼の手紙が届いており、しかも出版の可能性は高いという。時代を越えた人間の魂の力を思わずにはいられない。

1960年のシャープヴィルの虐殺

短い新聞記事

『夜の彷徨』をラ・グーマが書こうと思った直接のきっかけは、ふと目にしたケープタウンのある新聞の短い記事である。その記事には「某チンピラが第6区で警官に撃たれ、パトカーの中で死亡した」とあった。

既に書いたように、ラ・グーマは55年に嘱望されて左翼系週刊紙「ニュー・エイジ」の記者となり、57年には、コラム欄「わが街の奥で」を担当し始めていた。従って、ラ・グーマはジャーナリズムの最先端にいたわけで、報道の実状を充分に知っていたのである。

コラム欄「わが街の奥で」(Up My Alley)

白人支配の国では、白人の利益にしたがって報道も厳しく規制されており、白人層に関心のない黒人社会の記事は当然なおざりにされる。白人記者は充分調査もしないで、人づての資料をもとに黒人社会についての記事を書く。アパルトヘイトの壁によって黒人杜会と厳しく隔てられているので、白人記者が生きた黒人社会の実態を報道することは不可能である。ラ・グーマの見た記事も、おそらく警察からの発表をそのまま、埋め草用にでもと編集長に担当記者が送った類のものであろう。

ラ・グーマは充分その記事について調べたわけでないが、第6区の只中で現実を見据えながら人々とともに生きていたから、「某チンピラ」が如何にしてパトカーの中で死んでいったかを手に取るように理解することが出来た。その辺りの経緯をラ・グーマは次のように述懐する。

私は、この男がどのようにして撃たれ、如何にしてパトカーの中で死んでいったのか、そしてその男に一体何が起こったのか、と、ただ考えただけでした。それから心の中で、虚構の形で、とは言っても、第6区での現実の生活がどんなものであるかに関連させた形で全体像を創り上げてみました。こうして私はその悲しい物語『夜の彷徨』を書いたのです。

もの語り

『夜の彷徨』は、ラ・グーマの最初の小説だと言われてはいるが、本当は、祖国の解放を願うラ・グーマの、人々を語った「もの語り」と言う方が適しい。

もの語りは、主人公の青年マイケル・アドゥニスと友人ウィリボーイ、それに警官ラアルトの3人が中心になって展開されるが、息を飲んで片時も目を離せないほどスリリングな事件が起きるわけでもなく、登場人物の内面を深く掘り下げて分析している風でもない。むしろ、ケープタウン第6区のごく普通の人々の、ありきたりな生活の一断章、といった趣きが強い。しかも、現状のアパルトヘイト体制が続く限り、この物語に終章はない、そんな思いを抱かせるもの語りである。

それらの特徴は、伝記家セスゥル・エイブラハムズ氏が強調するように、歴史の記録家、真実を伝える作家を認じ続けたラ・グーマの思いがそのまま反映されたもので、エイブラハムズ氏とのインタビューで、ラ・グーマは次のように言う。

本当のことを言えば、形式的な構造とか言った意味で、意識して小説をつくろうと思ったことはありません。私は、ただ書き出しから始めて、おしまいで終わったというだけです。たいていはそんな風に出来ました。ある一定の決った形をもつというのは必要だとは思いますが、これまで特にこれだけは、と注意したこともありません。短い物語でも長い物語でも、私はただ頭の中で物語全体を組み立てただけです。自分ではそれを小説とは呼ばず、長い物語と呼ぶんです。頭の中でいったん出来上がると、座ってそれを書き留め、次に修正を加えたり変更したりするのです。しかし、小説が書かれる決った形式という意味で言えば、私のは決して小説という範疇には入らないと思います。

そこには、しかし、南アフリカのケープタウンの、アパルトヘイト下に坤吟する人々の生々しい姿が描き出されている。

アパルトヘイトの中で

もの語りには、黒人白人を含めて様々な人物が登場するが、ラ・グーマはただ慢然とそれらの人物を並べたわけではない。歴史を記録し、世界に真実を知らせたいと願う作家らしい透徹した目がそこには光っていて、それぞれの人物に見事にその役割を演じさせている。

もとより白人の利益に基づいて築かれたアパルトヘイト社会での黒人の生き方は、限られる。諦めて法に従うか、アウトローを決め込むか、或いはその法と真向うから闘うか。

諦めて法に従えば、屈辱と貧困と悲惨な生活が待ち受けている。アウトローを決め込めば、盗むか、襲うか、乞うか、たかるか、そんなたぐいの生き方しかない。

法と闘えば、国外に逃れるか、拘禁されるか、或いは官憲の目をかいくぐって地下に潜むかしか道が残されていない。

法と闘う人物像はラ・グーマののちのテーマとなるが、このもの語りでは、特に、諦めて法に従っていたがやがてアウトローの世界に足を踏み入れるマイケル・アドゥニスと、すでにアウトローを決め込んだウィリボーイにラ・グーマは焦点を当てている。

「法」によって厳しく規制されたアパルトヘイトは体制下の日常生活で、黒人が白人と係わりを持つ局面は、主として3つ考えられる。

1つは職場である。専ら白人のために存在する経済機構のなかでは、白人対黒人の関係は、常に主と従、であり、その一線を越えようとすれば、黒人は職を失うしかない。その時黒人は、又、新たに職探しをするか、或いはアウトローの仲間入りをするかの二者択一を迫られる。

2つ目は「法」に忠実に従い体制維持をはかる当局で、黒人に対するその態度は実に高圧的だ。だが、黒人には忍従するしか術はなく、もし反抗すれば投獄、である。

3つ目は、落ちぶれ果てて黒人街に住むようになった白人である。ヨーロッパ入植者とアフリカ人、アジア人との混交が何世代にもわたって行なわれてきたケープ社会ではよく見かけられる現象で、ラ・グーマは特に、2つ目に相当する白人警官ラアルトと、3つ目の落ちぶれ果てた白人アンクル・ダウティを取り上げて、典型的な白人像を描き出そうとしている。

マイケル・アドゥニス

アドゥニスが、同じアパートの住人アンタル・ダウティを瓶で撲り殺したのは、安ワインの勢いをかりたはずみには違いないが、本当の原因はもっと深いところにあった。幼い頃から長年の間に積もり積もった白人への怒りや憤りが、今は老いぼれ果てた弱者にむけられて一気に爆発したのである。ラ・グーマはその白人への怒りや憤りがどんな風にしてアンクル・ダウティに向けられたのかをさりげなく描き出してはいるが、よく見ると、先に記した黒人の接し得る3つのタイプの白人の典型を実に巧みにわずか数時間のもの語りの中に織り込んでいる。

1つ目は職場の白人である。作品の中に実際に登場しているわけではないが、その白人の様子はアドゥニスの会話を通して読者に知らされる。アドゥニスは口うるさい職場の白人に口答えをして馘にされたばかりで、立ち寄った安レストランに居あわせたウィリボーイにその怒りをぶちまける。

あの白人野郎は運がよかったぜ、俺はそんなに文句を言ったわけじゃねえんだからよ。奴はこうなるのをずっと望んでやがったのさ。人がションベン行くたんびにぶつくさ言いやがって。なんてこった、あいつの言う通りにしてりゃ、一寸手を休めるかわりにションベン漏らしてたぜ。そうさ、あいつ、俺がションベン行くとこをつかまえて小言を言いやがった。それで、くたばっちまえ、と言ってやったんだ。

・・・・・とにかく、俺は奴に、このろくでなしボーア人め、と言ってやったんだ、そしたらあいつ、支配人呼びやがって、奴ら給料払ってから、とっとと失せろ、と言いやがった。あのボーア人野郎、今にカタをつけてやる。(ムバリ出版刊テキスト3~4ペイジ)

どうあがいてみても、カタのつかないことは、誰よりも本人が一番よく知っている。だからこそ、尚更その怒りや憤りが治まらないのだ。

その怒りと憤りは、帰途路上で出会った2人の白人警官によって倍加される。

前方に警官の姿が見えたとき、アドゥニスはよけようと思ったが、結局はよけ切れなかった。そんな場面をラ・グーマは次のように描く。

マイケル、・アドゥニスが酒場の方に向きを変えたとき、2人の警官がこちらにやって来るのが目に入った。2人は平たい帽子にカーキ色の上下、腰には磨きのかかったガンベルトに革ケース入りの重い銃を下げて歩道をこちらにやって来た。2人とも、まるでうすら赤い氷の中から彫り出してでもきたかのように、固く凍りついた表情をしており、厳しくて冷たそうな目が、青いガラスの破片のように鋭く光っていた。2人は自分たちのコースを変更しないで、海を行く駆逐艦のように歩道の人の流れを押し分けながら、並んでゆっくり決然とした足どりで歩いていた。

2人はそのまま進んでやってきた。アドゥニスは避けて自ら脇によろうとしたが、うまく逃れるまえに、2人はいつものように造作ない巧みなやり口で側面にまわり、アドゥニスを挾み打ちにしてしまった。(9~10ペイジ)

マリファナはどこだ、と警官は尋問した。初めから犯罪者扱いである。アドゥニスがその嫌疑を否定すると、今度はポケットの中を見せろ、の命令である。2者のやりとりの場面が続く。

「その金はどこで盗ったんだ」その質問は洒落っ気もなく恐ろしいほど本気で、口調にやすりの表面のような硬さがあった。

「盗ったんじゃないっすよ、だんな (この糞ったれのボーア人め)」

「じゃあ、通りから消え失せろ。二度とこの辺りをうろつくんじゃねえぞ。わかったな」

「わかりやしたよ (この糞ったれポーア人め)」

「わかりやした、だけか。お前、誰と話してるつもりなんだ」

「わかりやした、だんな。(このブタ野郎ボーア人め、くだらん銃なんぞぶら下げやがってこの薄汚ねえ赤毛しやがって)」

だんな (bass・・・・・・アフリカーンス語で、英語のmaster, sirに相当する) をつけさせるのは、かつてのアメリカ南部の白人が黒人にsirをつけさせたのと同じである。白人優位社会の象徴のようなもので、そのカラー・ライン(人種の壁)は想像以上に厳しい。

これらのやり取りは、人通りの中、白昼に堂々と行なわれた。尋問のあとで2人の警官はアドゥニスを後に立ち去ったが、1人は肘でアドゥニスを押しのけてからゆうゆうと歩いて行った。「アドゥニスの心の中に痛みが渦のように絡み合って、激しい怒りと憤懣と暴力的な感情が膨らんでいった」(11ペイジ) と表現されたアドゥニスの屈辱感がみごとに伝わって来る。

とは言っても、アドゥニスにとって、これが初めての経験とは思えない。これまでにこんな辱めを幾度となく味わった、と考える方がむしろ自然である。

そんな積もり積もった白人への怒りが、馘にされた職場の白人と、路上で辱めを受けた白人警官に触発されてとうとう、酒に溺れた、死にかけの白人アンクル・ダウティに向けられたのである。

従って、アンクル・ダウティを殺したあとのアドゥニスの反応は、済まないことをした、という類のものではなかった。死体を見て気分が悪くなり、壁に向かって戻したあと、いわばショックで酔いが醒めたような感じとなり、「ああ、こんなつもりじゃなかったのに。こんな老いぼれ、殺るつもりじゃなかったんだ」(20ペイジ) と口走っている。続いて、たいへんなことになる、こんなつもりじゃなかった、逃げた方がいい、サツは白人が殺られちゃ黙っちゃいねえ、こんなつもりじゃなかった、誰か来る前に逃げないと、などと千々に心を乱しながらも、死体を視つめながら「そうさ、奴はカラードの俺たちと一緒に住む権利などなかったんだ」と、はや自分の行動を逆に正当化することを考え始めている。おそらく、それだけアドゥニスの白人への怒りや憤りが強かった、ということになろう。

この事件が、結果的には、偶然尋ねて来たウィリボーイを巻き添えにし、アドゥニス自らも意に反して、チンピラ連中の仲間入りを余儀なくされる引き金となる。

ケープタウン第6区

ラ・グーマは、第6区で出会った様々な青年をもとに、アドゥニス像を創り上げたが、中でも、本誌8号で紹介した黒人少年ダニエルのイメージが特に強かったと、次のように語る。

私はケープタウンで育ったアドゥニスのような少年をたくさん見てきました。私が少年のころ、ダニエルという名の親しい友だちがいて、2人はよく一緒に遊んだものでした。しかし、その子が黒人だというので、集団地域法のためにめいめい違うところに住むことになりました。何年かたって、お互い大きくなったとき、私はダニエルと再会しましたが、そのときダニエルはもういっぱしのちんぴらで、すっかり街にたむろする札付きのごろつきになっていました。ダニエルが私のむかしの友だちだったので、よけいに胸が締めつけられる思いでした。2人があまりにも違った方向に進んでしまった事実をしみじみかみしめることになったのです。ダニエルは私に強烈な印象を残した青年の一人でした。他に、私と一緒に学校に通ったダニエルと同じような友だちもいます。必ずしもその友だちみんながみんな犯罪者になってしまったわけではありません。多くは、これからどうなるのかもわからず、何とか生計を立てながら、ただその日その日を生きて行くだけ、そんなごく普通の人たちでした。その人たちこそ『夜の彷徨』に出て来る本当の意味での登場人物なのです。

ラ・グーマは「私にとって写実的表現とは単なる現在の投影ではないのです・・・・・・写実的表現によって読者に真実を確信させ、何かが起こり得ることをほのめかす必要性があります。その目的は読者の心を動かすことなのです」と語ったことがあるが、アドゥニスに関するラ・グーマの写実的表現によって、アパルトヘイトのなかで、法に従うアドゥニスのようなごく普通の青年が、如何にた易くチンピラ仲間になって行くかを、読者はたしかに思い知らされる。

ウィリボーイ

ウィリボーイは、すでにアウトローを決めこんだ青年である。アドゥニスが、自分を馘にした白人への怒りを口にしたとき、ウィリボーイは、次のように息巻いてみせる。

「そうだろう。白人んとこで働いてりゃ、そんなこたしょっちゅうさ。俺は白人んとこで働いたりなんぞしねえよ。もちろんカラードんとこでもさ。仕事なんぞ、糞食らえだ。仕事、仕事、仕事、仕事なんかやってどうなるってんだ、俺はやらねえぜ」(3~4ペイジ)

「いや、俺は働かないぞ。いままでだって、これっぽっちも働いたこたねえよ。働いたって、働かなくたって、何とか生きてけるもんよ。俺が飢え死にしたっとでも言うんかい。仕事。けっ、仕事なんぞ」(4ペイジ)

アウトローを決め込んだウィリボーイではあったが、体制は見逃してくれなかった。こともあろうに、仕事なんぞ・・・・・・と息巻いて見せた相手アドゥニスに僅かな金の無心に行って事件に巻き込まれ、殺人犯の濡れ衣を着せられてしまったのである。

白人警官から不意に呼び止められたとき、本能的にウィリボーイは逃げ出した。長年の経験から無実を言い張ることのむなしさを、肌で感じ取っていたからである。

ラ・グーマは逃げ回るウィリボーイに過去を回想させながら、ウィリボーイがなぜチンピラになったのか、一体どんな家庭に育ったのかを読書に告げる。

ウィリボーイは再び考えた。俺が一体何をやったと言うんだい、俺はなんにもやっちゃいねえよ。ウィリボーイの心臓は高鳴った、母親が、このやんちゃ坊主が、と見下ろしながらつっ立っていたからである。ウィリボーイは7歳だった。いつも夕刊を売り歩いた。親方が、売り上げの中から、2, 3 ぺンスほど支払ってくれたが、その金は決して家には持って帰らず、いつもひとかかえの魚とポテトチップスに消えてしまった。ウィリボーイはその朝も何も食べていなかった、あとで食べたのもわずかにミルク、砂糖なしの粥を碗に一杯と古いパンを一枚きりだったから、夕方には腹の虫がないてないて仕様がなかった。ぼろアパートの部屋に戻った時、ウィリボーイは魚の臭いをぷんぷんさせていたうえ、新聞の稼ぎを出せなかったから、母親は顔をぴしゃりとやって、このやんちゃのろくでなし、とウィリボーイを罵った。母親が何度も何度もびしゃびしゃっとやったから、頭が肩の上でだらんとなって、顔がひりひりと痛んだ。ウィリボーイは痛くて泣いた。

母親はほんのちょとしたことで腹を立ててウィリボーイを鞭で打った。母親が、父親に撲られる腹いせに自分を撲りつけているのをウィリボーイはよく知っていた。父親の方は、毎晩酒に酔って帰ってきては母親を撲り、厚い皮ベルトでウィリボーイに襲いかかった。母親は部屋の隅にうずくまって金切り声を上げ、もう堪忍して、とすすり泣いた。母親の番が終わると必ずウィリボーイに順番がまわってきた。時には部屋からうまく逃げ出せることもあったが、夜中遅く戻って来ると、父親は酔いつぶれて高いびき、母親は泣きながら眠り込んだあと、という場合が多かった。父親から逃れられない母親は、ウィリボーイに鞭を振るってその仕返しをやっていたのである。ウィリボーイは今、屋根の上にへばりついていたが、再び「このやんちゃのろくでなし」という母親の声を聞いた。

逃げないと、逃げないと、撃たれたくねえよ、奴に撃たさないでくれ、とウィリボーイはつぶやいた。(78ペイジ)

しかし、ラアルトはウィリボーイを逃さなかった。無情にも、追いつめられてポケットからナイフを構えたウィリボーイを、ラアルトは撃った。救急車も呼んでもらえず、パトカーの後部席に放り込まれたウィリボーイは、再び母の声を聞く。

「このやんちゃ坊主め」と母親が叫んで顔をびしゃっりと叩いたので、ウィリボーイは体じゅうに痛みが走るのを覚えた。カーキ色のシャツの汚いぼろ袖で出てくる鼻をふき、太くて短いつま先でもう片方の足の甲をこすりながら、稜ない部屋の戸口の脇柱にもたれて、泣いた。(84ペイジ)

そして、パトカーの中で意識が薄れかけた時、夢うつつをさ迷いながら、ウィリボーイは口走る。

「助けて、神さま、助けてくれ。ああ、かあちゃん、ああ、かあちゃん。神さま、助けて下さい。助けて下さい。死んじゃうよ。死んじまうよ。助けて下さい、助けて下さい。ああ、神様、お助け下さい。お助け下さい。お助け下さい。どうか、お助け下さい。神さま、神様。おかあさん。助けて。助けてよ」(86ペイジ)

ラ・グーマによれば、ウィリボーイもアドゥニスと同様、少年時代の友人の一人がモデルであると言う。

ウィリボーイは、私の少年時代の友人の一人を典型的なかたちで描いたものです。その少年は私と一緒に育った友だちで、若いころ私にギターの弾き方を教えてくれた少年のひとりです。街角ででしたがね。たぶん、私がその少年より少しだけもの知りだったからでしょう、私のことを教授、と呼んでいましたね。

アウトローを決め込んで、つっぱり続けたウィリボーイが、最後には自らの恵まれなかった子供時代をうらみもせず、むしろ母親の名を呼びながら死んでいく姿は、ことのほか読者の哀れを誘う。若く貴い命を、なんとむなしく散らして行くことか。今はちんぴら仲間に入ってしまったアドゥニスが、やがては、このウィリボーイと似通った運命を辿ることになるのだろうか。おそらく読者は、そんなやるせない思いをいだかないではいられない。(つづく)    (大阪工業大学嘱託講師・アフリカ文学)

執筆年

1988年

収録・公開

「ゴンドワナ」11号39-47ペイジ

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アレックス・ラ・グーマ 人と作品4 『夜の彷徨』上 語り

1976~89年の執筆物

概要

サイラス・ムアンギさんとは、1982年か83年か(84年か)に初めにお会いして以来ですから20年以上のつき合いになります。最初は、黒人研究の会でお会いしたように思いますが、86年か87年頃、僕もムアンギさんも定職のない非常勤講師として大阪工業大学でご一緒しました。その後、僕は宮崎に、ムアンギさんは四国は香川県善通寺の四国学院大学に決まって、現在に至っています。

普段はなかなか英語をしゃべる相手がいないので「英語の相手をしてよ」と頼んでも「ここは、日本やから」と英語をしゃべろうとしなかったのに、88年に大阪工大のESS部員の付き添いでハリウッドにいたムアンギさんを訪ねた時は、「ここはアメリカやから」と英語をしゃべっていました。

88年には、黒人研究の会のシンポジウム「アパルトヘイトを巡って」でご一緒しました。(<書いたもの>のなかに「アレックス・ラ・グーマとアパルトヘイト」と「アパルトヘイトを巡って(シンポジウム)」として掲載しています。)

89年には、来日中の南アフリカの作家ミリアム・トラーディさんを宮崎にという話しがムアンギさんからあり、お引き受けしました。(<書いたもの>のなかに「ミリアムさんを宮崎に迎えて」と「ミリアム・トラーディさんの宮崎講演(講演記録)」として掲載しています)

 

昨年の宮崎大学の大学祭のシンポジウム「アフリカと医療」でも、またご一緒できました。(現在、シンポジウムの記録をまとめています。近々公開予定です。)

ナイロビ大学を卒業後文部省に勤務、その後京都大学に坂本龍馬の研究に来られたそうですが、体制とたたかうグギさんと親しくしてケニアに帰れなくなったようです。

政治学者ですが、グギさんの文学にも造詣が深く、この文章はグギさんが亡命後に書いた作品の作品論で、僕が翻訳することになりました。ムアンギさんは、日本語の読み書きも堪能で、日本語訳についてのやりとりが何回かあって、この雑誌で活字になりました。

母国語のギクユ語に加えて、英語とスワヒリ語と日本語の4ヶ国語を使っておられます。二人の間でのやりとりは主に英語でやっていますが、最近はメイルでは日本語も使っています。意図は伝わっていると、思っていますが。たぶん、伝わっていると思います。

グギさんは1938年生まれ、ムアンギさんは1946年生まれ、ちなみに僕は1949年生まれです。

本文(写真作業中)

言葉を選べば読者が決まり、自ら階級が決まる

グギを中傷する人達がよく繰り返すあやまりの一つに、ギクユ語で書くようになってから、グギは民族的な狂信的排外主義に逆戻りしてしまった、というのがある。グギがどのようなイデオロギーを持ち合わせているかを知っている人たちには、そんないいがかりはいかにも馬鹿げていて、空しいものである。もし、1987年11月、来日した際にショインカが行った賢明とも思えない主張がなければ、ここであえてそのことを取り上げる価値などないだろう。ショインカは、自分の言語であるヨルバ語でものを書くことは石器時代に逆戻りするにも等しい、と述べた。

ウォレ・ショインカには1986年のノーベル文学賞受賞という事実があるから、軽薄な連中は、誰もが日本語でものを書く国でショインカが主張した明らかな一貫性のなさに気付かないで、ショインカの言動に魅せられて信じ込んでしまいそうである。石器時代から離れるために、日本人は自分たちの言語を捨てて英語を採用しろ、とまさかショインカが提案したわけではないだろうが、それでは日本語で書くこととヨルバ語で書くことが一体どう違うのか。

ショインカが語るのを聞いた日本人の中でショインカが自分の言語を低く見ていることを気にした人はそう多くはいなかっただろう。実際は、ショインカの発言が、アフリカの言語は劣っているという傲慢な見方をする連中を喜ばせ、元気づけた可能性がある。これから先、ヨルバ語に関する、広く言えば、他のアフリカの言語に関するショインカの立場が、グギを攻撃するのに使われるのを耳にすることもありそうである。というのも、ショインカ流の論理で言えば、ギクユ語とスワヒリ語でしか作品を書かないと誓い、1986年からそのことを実行しているグギが、文字通り石器時代の洞窟人間になってしまうからである。

従って、グギが敢えてギクユ語で書こうとしている意味合いをより深く考え、グギを貶めようとする連中の馬鹿げた主張を暴き出すのは、尚更のこと重要である。しかし、グギが文学的な表現のための言葉としてギクユ語を使うことに触れる前に、私にはショインカを中傷する意図など全くないことをはっきりさせておく必要がある。ナイジェリア内だけではなく、貪欲な政治屋どもが自分たちに反対する人々を抑圧している私たちの大陸、アフリカのどこにおいても、正義のために、そして暴君に対してショインカが勇敢に闘っている点に関して、私はショインカを高く評価している。私が言いたいのは、不運にも、アフリカの言語でものを書くという点に関してショインカが行なった論評が、アフリカを低く見ている連中の非道な策略に利用される可能性がある、ということである。

イギリスの雑誌「マルキシズム・ツゥディ」1982年9月号のインタビューで、グギは次のように述べている。

もし、私がギクユ語で (他のアフリカの言葉でも同じことが言えるのですが) 書けば、私は農民と労働者を読者に持つことになります。つまり、ある読者を選べば、自ずから階級が決まるということなのです。従って、「黒い膚、白い仮面」の中で、言葉を選べば、世界が決まる、とファノンが述べた言葉を私は拡大して使っているというわけなのです。

グギは、又、どのようにして1976年に、ギクユ語で書こうと決意したかについて振り返っている。1976年に故郷のカーメレーゾ村では、農民と労働者が、カーメレーゾコミュニティ教育文化センターをつくった。そして、人々は劇場を作る必要があったので、そのためにグギが劇を書くことになった。自分たちの言葉を使わずに、一体どうして劇を書いたり、脚本作リが出来るというのだろうか、とグギはつくづく考えた。これが私の人生の『大転機であり、実際、ギクユ語で書くという意思の一部がカーメレーゾの人々と共に働くという経験の源泉になっていったと言わなければなりません、とグギは言う。グギ・ワ・メリーエと一緒に書いた劇「ガアヒカ・デンダ」 (結婚? 私の勝手よっ!」) によって、結果的にグギは拘禁されることになった。しかし、拘禁されても、挑戦的な行為として当局を不快がらせていた言葉で書くというグギの決意は高まるばかりであった。その厳しい獄中の状況でさえ、グギの創作能力を衰えさせるどころか、逆に、いいように手なずけ{やろうとする看守たちの企みをものの見事に打ち砕く結果を生んだ。文芸雑誌「クナピピ」(1983年5巻1号) の別のインタビューでは、グギは次のように言う。

獄中の状況の厳しさから、全く正反対のもの、つまりケニアの言葉で何かを成し遂げるという凄まじいまでの決意が生み出されました。その本 (『十字架の悪魔』)のもう一つの局面はその基調がもう少し明るい感じのものなのですが、かと言って決して軽いものではありません。風刺的な要素がより支配的です。もし人が、おぞましい境遇の中で生活していれば、あるユーモアの感覚を、時として風刺的ユーモアの感覚を培い、現実を見る能力を身につける必要があります。もし、厳しい状況で生活する時には、その厳しさによって壊されてしまう可能性があるのです。しかし、もし見かけだけでもにこにこしていられる仮面を着けることが出来れば、それが別の精神的な支えにもなり得るのです。

このグギの挑戦的な姿勢から『シャイタアニ・モザラバイネ』(『十字架の悪魔』) が生まれた。この紙面で説明し切れないほど色々な意味合いでの傑作であるが、ここで一つだけ取り上げておきたいことがある。それは、女性を勇気づけようとするグギの意識的なねらいだ。

女性は社会で、より厳しく抑圧されているので、自分たちの自信の解放を始めるに当たって、自らへの抑圧の強さをまず知る必要がある。

1980年8月16日付のケニアの日刊紙「ザ・スタンダード」の編集者あての感動的な手紙の中で、ワンジェラ・カリオキ・カロービアというケニア女性は、グギのギクユ語小説『シャイタアニ・モザラバイネ』が「出現しつつあるケニア、アフリカ人女性の可能性に献げられたすばらしい、歴史的な里程標であり・・・・・・この国の美しい娘たちへの時宜にかなった、本当はもっと早く言うべきであったのですが、信頼と愛と希望の表明です」と述べている。その評は「抑圧され、闘い続けている人々のために」書こうと決意したグギに対するまさにぴったりの賛辞である。グギは「マルキシィズム・ツゥデイ」のインタビューの中で、どうしてそれほどまでに女性の運命に深い関心を示すのかを次のように語る。

女性は私の作品の中でいつも重要な役割を果たしています。このことは、ある意味で反帝国主義闘争でケニアの農民女性が占めてきた重要な位置を反映しています。ケニアの女性は、現に大抵のアフリカ諸国と同じように、しばしば2重にも、それ以上にも搾取され、虐げられています。まず、農民と労働者の一員として、国内ブルジョアジーと帝国主義者に抑圧されています。しかし、農民女性は女性としても抑圧されているのです。というのも、前資本主義的、前植民地主義的時代以来、男性に仕えるものとして女性を見る後進国で、封建的な要素がなお残存しているからです。ですから、女性が2重の意味で自己を認識しなければならない、というのが重要なテーマになるのです。

『ジャンバ・ネネ・ナ・シボ・ケンガンギ』に使われているギクユ語の諺の反女性的意味合いに対するグギの鋭い粛正

グギの女性を高く評価する姿勢は『シャイタアニ・モザラバイネ』で終わりはしなかった。又、更に、女性解放にグギが深く共感を抱いていることに賛辞が送られたのはケニア内ばかりではなかった。事実、ナイジェリアの女優兼劇作家エリザベス・オズ・オシィシィオマは、英訳だがその作品にとても魅せられて『世俗的策略の王国』というタイトルでその改作劇の脚本を書いた。

子供向けのギクユ語3巻本『ジャンバ・ネネ・ナ・シボ・ケンガンギ』の第3巻で、グギは、男性優位の伝統的排外主義的要素が未だ残存しているギクユの諺を意識的に一部修正している。5ペイジでは、ロヘニ将軍が、平和や調停に対する若者の限りない許容性に舌を巻く。そのシリーズの青年主人公ジャンバ・ネネはマウマウの指導者ロヘニ将軍の所ヘシボ・ケンガンギを殺しに行く許可を求めにやって来る。(シボ・ケンガンギの名前の意味はワニ首長) つまり、ジャンバ・ネネの母親を苦しめ死に追いやった残忍な植民地主義者の手先。ワニ首長がジャンバの母親ワーショを殺す理由は、明らかに母親がゲリラの息子がどこに隠れているかをどうしても言わなかったからである。ジャンバ・ネネはワニ首長を殺そうと決意するには至ったものの、心の中では相当悩んでおり、この地に相互の信頼や愛や平和がやって来るすばらしい時代を切に望んでいる。「ムァナケ・ネ・キェーニョ・ケァ・ガイ」というギグユの諺を使ってロヘニ将軍が考えることを促しているのは、自分の母親のそんな不幸や死別と直面しながらも、ジャンバ・ネネのような若者の中に決して尽きることのない楽観的な見方が存在するからである。もともと「ムァナケ・ネ・キェーニョ・ケァ・ガイ」という形で諺にあるのだが、その形では、若者は神のものである (つまり、若い男性は神の一部分である) という意味である。言いたいのは、若い男性は神の一部で、本質的に神のものであり、何か敬うべきもの、ということである。元来、その諺は割礼を受けた青年は女性と未だ割礼を受けていない男性から大いに尊敬されるという事実から来ている。しかし、元の形でグギがその諺を使えば、暗黙の男性中心主義を大目に見ることになってしまうだろう。そうすれば、伝統的、現代ギクユ杜会の女性を苦しめる諸悪を正そうとグギが情熱的に係わっていることと矛盾を起こしてしまう。ワニ首長のような登場人物に元の性差別的な意味でその諺を使えばぴったりするだろう、というのも、ワニ首長が下劣な抑庄者や反動者として描かれるように意図されているからだ。その人物を創作したグギがワニという名前を与えたのもその理由からで、ギクユの考え方では、ワニは憎しみ、恐れ、強い反感の対象である。

しかしながら、ロヘニ将軍のような人物が伝統的な形でその諺を使うのは本質的に合っていない、なぜなら将軍が女性を軽蔑することになってしまうからで、解放戦争の指導者には適しくはない。もし本物の指導者なら、女性を劣等視するような反動的な考えを持つべきでない。ロヘニ (その名前は”稲妻”と訳し、その人物が稲妻のように素速く抑圧者に打撃を与えるという含意がある) 将軍は、従って、「ウェーゼ・ネグオ・キェーニョ・ケァ・ガイ」と言う。「青年は神の片割れであり、若さこそ神の心である」という意味である。ムァナケ (若い男) ではなく、ウェーゼ (若者) という表現なら、その諺の中に性的差別はないし、その本の読者は男性にも女性にもその諺が当てはまるのがわかるだろう。

6ペイジで再び、ロヘニ将軍がジャンバ・ネネにケンガンギ首長を殺すまで追跡する許可を与える時に、どんなにケンガンギ首長が固く護衛されていても、ジャンバ・ネネはきっと職務を遂行するだろうと確信を持つ、と言うのは、諺にあるように「ケレミ・ウェーゼ・ネ・ケガリョーレ」(青年は問題に懸命に取り組む前に諦めたりはしないものである)からだ。ここでも又、性に関係のない言葉、男性、女性のどちらの青年をも意味する若者 (ウェーゼ) であり、元来の「ケレマ・アロメ・ネ・ケガリョーレ」という諺の中に実際に表われる言葉の代わりに使われている。アロメは男という意味で、従って、グギの革命的登場人物ロヘニ将軍によって使われるものとしては不適である。

革命的後段 (メタ) 言語学

後段(メタ)言語学とは、ある特定の文化における、言語と、他の特徴との間の関係を研究するものである。又、メタ言語学は、言語構造が如何に意味と関連を持つかに関心があり、表現と話し言葉に付随する仕草を考察する。諺のような言語の側面を丹念に調べ、それらを時事的な解放の要素を含む使い方にまで高めることによって、虐げられた人々、闘っている人々、特に2重にも何重にも苦しんでいる女性のために、グギはギクユ語に関しての革命的な役割を果たしつつある。その意味では、「哲学者はただ単に世界を解釈してきただけであり、肝心なのは、世界を変えることである」というのがお気に入りのマルキストの原則の一つに従ってグギは行動していることになる。ギクユ語でグギが最も関心をはらっているのは単なるメタ言語学ではなく、革命的メタ言語学なのである。(つづく)

執筆年

1988年

収録・公開

「ゴンドワナ」11号34-38ペイジ

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サイラス・ムアンギ「グギの革命的後段(メタ)言語学1 『ジャンバ・ネネ・ナ・シボ・ケンガンギ』の中の諺」(翻訳)