英語 Ma2(4)

筆記試験とそれに伴う授業の日程(変更)

11月7日(水)の筆記試験を10月31日(水)に変更、

15章のチェックの授業は10月26日(金)4コマ目です。

経緯について

 筆記試験をすると決めてくれたんで、10月31日(水)に15章のチェックをして、11月7日(水)の筆記試験を、と予定を決めまたけど、24日(水)が金曜日の振替で授業がなく、7日が試験やと、11月8日(木)の骨の試験と重なりかえって負担になるんちゃうかと思いました。(一昨年は12日が試験やったみたいやけど、今年は8日やと聞いていたので、最初からそのつもりで日程を組むつもりでした。)

それでメールの遣り取りのあった何人かにメールをして最初に返事をくれた佐保くんに頼みました。

僕からのメール:「用語のことで、SOS(お願いと提案)です。

この前みんなが準備してなかったんで、15章のチェックを31日(水)にやって11月7日(水)に試験、ということにしたけど、確かめてみたら、次の日の8日(木)に骨の試験らしいので、重なって大丈夫やろか。

24日(水)に授業があればええけど金曜日の振替授業やし。

もし、重なるのを避ける方がいいんやったら、来週どこかに空きコマがあればそこで授業をやって、31日(水)に試験、というのがええように思うけど。

骨の試験の手助けになればと思って、試験の日程を聞いて予定を組んでたんやけど、みんなに伝わってなくてこの前はテキストも持って来てなかったし。あなたらのためにやることがかえって負担になるのも申しわけないし。

・・・・予定を変更するならみんなで協力して決めて下さい。 たま」

佐保くんからの返事:「・・・・試験の件、了解しました。

とりあえず、今日このことを学生に連絡してみます。その上で明日(もしかしたら明後日になるかもしれませんが)までに結論を連絡させていただきます。
可能な限り早く連絡させていただきます。」

「・・・・先日お話しのあったテストの件ですが、10/31(水)に行って欲しいという希望が多かったためテストに関しては、10/31(水)でお願いします。

それから、それに伴う授業日程については、10/25(木)の3コマ目か、10/26(金)の4コマ目の希望が多かったため、そのどちらかでたまさんの都合のつく方でお願いしたいです。・・・・」

僕からの返事:「大変やったね。ありがと。

授業(合同)は10/26(金)の4コマ目、筆記試験は10/31(水)、やね。

10/25(木)の3コマ目は地域一年の授業です。

ほんとありがと。その方が、みんなにとってよさそう。
あしたブログに詳細を書いとくんで、全員にブログを見るように連絡してもらえるとありがたい。」

別所が後輩には試験をしてやって下さいと言い、試験をしたくないと言ってた人も試験をすると言ってくれたのは、嬉しい限りです。
あくまで、みんなが自分のためにやってくれて、それが将来の役に立てばが前提なので、その方向に進んでるようでよかったです。
最後のPRONUNCIATION OF TERMSだけでなく、最初の解説、例文、病態の解説、練習問題もやって繰り返し用語になれるのが一番大事なんで、折角の機会を活かしてもらえると嬉しいです。ま、問題を作って、採点もせなあかんけどね。
また10月26日(金)4コマ目に。時間があれば、ERの後編をみてもらえるとええけどね。用語の本は持って来(き)ぃや。←関西風
テキストが重い人は、15章だけはずしたのがあるから遠慮無く。自習用に日本語をつけ、音声ファイルを繋いだファイルのCDも作ってるので、それも遠慮なく。火曜日、水曜日は授業がないので、木花でも医学科でも渡せるで。
いい天気が続いてるなあ。
柿がいろづいて、干すにはいい天気、最初に干した20個と昨日の晩に干した10個が陽にあたっています。2つは落ちたけどね。熟れすぎると重さに耐えかねて、干してる間に落ちるみたい。
今から残りを干すかな。台風で落とされると思ってたけど、ほとんどやられずに100個くらいは残ってるみたい、剝いて熱湯に通すのも大変やけどなあ。
剝いて陽に干すだけで、あの色と艶が出るんやから、陽の力はすごいよねえ。
出来たら、いつでもお裾分けするで。いろんなところに持って行くんで、すぐなくなるけどね。

宮崎神宮の春の植木市で西条柿(渋柿)の苗を買って家の北側に植えたら、7年目にこの柿が一つだけなりました。奥さんに言って描いてもらいました。その次の年は17個、最近は100個くらいは実をつけます。台風で落とされたりして最後まで実をつけてるのはそう多くない年もあるけど、年は100個以上無事に干し柿になりそうです。

元々明石に住んでいたときに北側に柿の木があり、それを干し始めたのが最初で、もう40年以上になるかな。丸い柿でした。その後、山でみかけた山柿を干したりしたけど、実が小さくて干してみたら食べるところがないのがわかり、山柿は見るだけにしています。

最近は愛媛産の西条柿が箱で出回るので、買って干すこともあったけど、そんなに食べられへんし、固くなるしねえ。

たま

英語 Ma2(3)

筆記試験とそれに伴う授業の日程(変更)

11月7日(水)の筆記試験を10月31日(水)に変更、

15章のチェックの授業は10月26日(金)4コマ目です。

経緯について

 筆記試験をすると決めてくれたんで、10月31日(水)に15章のチェックをして、11月7日(水)の筆記試験を、と予定を決めまたけど、24日(水)が金曜日の振替で授業がなく、7日が試験やと、11月8日(木)の骨の試験と重なりかえって負担になるんちゃうかと思いました。(一昨年は12日が試験やったみたいやけど、今年は8日やと聞いていたので、最初からそのつもりで日程を組むつもりでした。)

それでメールの遣り取りのあった何人かにメールをして最初に返事をくれた佐保くんに頼みました。

僕からのメール:「用語のことで、SOS(お願いと提案)です。

この前みんなが準備してなかったんで、15章のチェックを31日(水)にやって11月7日(水)に試験、ということにしたけど、確かめてみたら、次の日の8日(木)に骨の試験らしいので、重なって大丈夫やろか。

24日(水)に授業があればええけど金曜日の振替授業やし。

もし、重なるのを避ける方がいいんやったら、来週どこかに空きコマがあればそこで授業をやって、31日(水)に試験、というのがええように思うけど。

骨の試験の手助けになればと思って、試験の日程を聞いて予定を組んでたんやけど、みんなに伝わってなくてこの前はテキストも持って来てなかったし。あなたらのためにやることがかえって負担になるのも申しわけないし。

・・・・予定を変更するならみんなで協力して決めて下さい。 たま」

佐保くんからの返事:「・・・・試験の件、了解しました。

とりあえず、今日このことを学生に連絡してみます。その上で明日(もしかしたら明後日になるかもしれませんが)までに結論を連絡させていただきます。
可能な限り早く連絡させていただきます。」

「・・・・先日お話しのあったテストの件ですが、10/31(水)に行って欲しいという希望が多かったためテストに関しては、10/31(水)でお願いします。

それから、それに伴う授業日程については、10/25(木)の3コマ目か、10/26(金)の4コマ目の希望が多かったため、そのどちらかでたまさんの都合のつく方でお願いしたいです。・・・・」

僕からの返事:「大変やったね。ありがと。

授業(合同)は10/26(金)の4コマ目、筆記試験は10/31(水)、やね。

10/25(木)の3コマ目は地域一年の授業です。

ほんとありがと。その方が、みんなにとってよさそう。
あしたブログに詳細を書いとくんで、全員にブログを見るように連絡してもらえるとありがたい。」

別所が後輩には試験をしてやって下さいと言い、試験をしたくないと言ってた人も試験をすると言ってくれたのは、嬉しい限りです。
あくまで、みんなが自分のためにやってくれて、それが将来の役に立てばが前提なので、その方向に進んでるようでよかったです。
最後のPRONUNCIATION OF TERMSだけでなく、最初の解説、例文、病態の解説、練習問題もやって繰り返し用語になれるのが一番大事なんで、折角の機会を活かしてもらえると嬉しいです。ま、問題を作って、採点もせなあかんけどね。
また10月26日(金)4コマ目に。時間があれば、ERの後編をみてもらえるとええけどね。用語の本は持って来(き)ぃや。←関西風
テキストが重い人は、15章だけはずしたのがあるから遠慮無く。自習用に日本語をつけ、音声ファイルを繋いだファイルのCDも作ってるので、それも遠慮なく。火曜日、水曜日は授業がないので、木花でも医学科でも渡せるで。
いい天気が続いてるなあ。
柿がいろづいて、干すにはいい天気、最初に干した20個と昨日の晩に干した10個が陽にあたっています。2つは落ちたけどね。熟れすぎると重さに耐えかねて、干してる間に落ちるみたい。
今から残りを干すかな。台風で落とされると思ってたけど、ほとんどやられずに100個くらいは残ってるみたい、剝いて熱湯に通すのも大変やけどなあ。
剝いて陽に干すだけで、あの色と艶が出るんやから、陽の力はすごいよねえ。
出来たら、いつでもお裾分けするで。いろんなところに持って行くんで、すぐなくなるけどね。

宮崎神宮の春の植木市で西条柿(渋柿)の苗を買って家の北側に植えたら、7年目にこの柿が一つだけなりました。奥さんに言って描いてもらいました。その次の年は17個、最近は100個くらいは実をつけます。台風で落とされたりして最後まで実をつけてるのはそう多くない年もあるけど、年は100個以上無事に干し柿になりそうです。

元々明石に住んでいたときに北側に柿の木があり、それを干し始めたのが最初で、もう40年以上になるかな。丸い柿でした。その後、山でみかけた山柿を干したりしたけど、実が小さくて干してみたら食べるところがないのがわかり、山柿は見るだけにしています。

最近は愛媛産の西条柿が箱で出回るので、買って干すこともあったけど、そんなに食べられへんし、固くなるしねえ。

たま

英語 Rb2(3)

4回目の授業(25日)L111教室です。

(引き続き)教室変更・日程のお知らせ

大きな画面で観てもらいたいので、引き続きL111階段教室を使う予定です。(10/18, 11/29., 12/6, 1/17)カードリーダーもよろしく。

10月18日

3回目の授業でした。

カードリーダーの協力、ありがと。

今日は名前を呼ぶの忘れてたねえ。

最初に中村くんの自己紹介と日南の紹介、中島さんの日田の発表でした。ちゃんと準備してたね。アウトプットの機会になればうれしいです。階段教室で、発表には相応しいので、練習するとええと思います。

そのあと、ヨーロッパ人が来る前のアフリカをもう一回英語で解説してから、東アフリカと1505年のキルワの虐殺の映像を観てもらいました。

それから古谷さんがThe colonization of AfricaのTHE FIRST COLONIALISTS, THE SLAVE TRADEをやってくれました。きちんとやれてたと思います。最後に日本語訳を貼っとくんで、自分のやった分と細かいところは見比べて下さい。役に立てば嬉しいです。

次回は、「ルーツ」で奴隷貿易の映像を観てもらってから、桝田さんにA Short History of Black AmericansのSLAVE TRADE, SLAVERYをやってもらうつもりです。

歌を観て、聴いてもらう時間があるとええけどね。例文作りのグループワークはその次からやなあ。

配ったプリント

トーイックの過去問(リスニングとリーディング用と、それぞれの解説)

次回、また。

日本語訳

THE FIRST COLONIALISTS 最初の植民地支配を目論んだ人達

 Portuguese adventures were the first Europeans to 'discover’ Africa south of the Sahara. The first voyages along Africa’s west coast were little more than an extension of the piracy. The Portuguese took away people from the coasts they plundered and brought them home as slaves. As yet slave trade and economic exploitation were on a small scale.

ポルトガルの探検家がアフリカサハラ以南のアフリカを最初に「発見した」ヨーロッパ人でした。アフリカの西海岸に沿った最初の航海は、海賊行為の延長に過ぎませんでした。ポルトガル人は略奪行為を行なった海岸地域から人々を連れ去り、奴隷として母国に連れて帰りました。しかしそれでも、奴隷貿易と経済的な搾取の規模は小さなものでした。

They started to buy gold directly at the coast. In time they also wanted to find a sea route to India. Their aim was to take away from the city-state of Venice their control over the profitable spice trade with the East Indies.

ポルトガル人たちは海岸線で、直接金を買い始めました。やがてはインドへの海上ルートも発見したいと望んでいました。その人たちの目的はベニスの都市国家から、儲けの多い東インドとの香辛料貿易の支配権を奪うことでした。

Portugal wanted to start trade by exchanging goods with East Africa. But the project failed as the goods that Portuguese had to offer were inferior to those of the East African tradesmen. The Portuguese seafarers and merchants then decided to achieve for themselves the East African trade monopoly by force. With their superior arms the Portuguese managed to destroy the East African civilization.

ポルトガルは東アフリカと商品を交換することによって貿易を始めたいと思っていました。しかし、ポルトガルが持っていった商品が東アフリカの貿易商人の扱う商品よりも劣っていたために、その目論見は失敗しました。その時、ポルトガルの船乗りと商人は、武力を使って自力で東アフリカの貿易を独占しようと決めました。ポルトガル人は、優れた武器を使って辛うじて東アフリカの文明を破壊することに成功しました。

In Western history Vasco da Gama, d’Almeida, and Tristan da Cunha have been estimated as 'great discoverers,’ but they were nothing but destroyers for Africans. A Germany who was present when d’Almeida destroyed Kilwa gives us the following eyewitness report:

“In Kilwa there are many strong houses storeys high. They are built of stone and mortar and plastered with various designs. As soon as the town had been taken without opposition, the Vicar-General and some of the Franciscan fathers came ashore carrying two crosses in procession and singing Te Deum. They went to the place, and there the cross was put down and the Grand-Captain prayed. Then everyone started to plunder the town of all its merchandise and provisions. Two days later the city was set on fire."

西洋の歴史では、ヴァスコダ・ガマやダルメイダやトゥリスタオ・ダ・クンハはこれまでずっと「偉大な発見者」として評価されて来ましたが、アフリカ人にとってその人たちは破壊者以外の何ものでもありませんでした。ダルメイダがキルワを破壊した時に立ち会ったあるドイツ人は、次のような目撃証言をしています。

「キルワでは2階や3階の高いしっかりとした家がたくさんあります。家は、石とモルタルと漆喰で出来ていて、様々な模様をしています。町が抵抗もなく占領されるとすぐに、司教総代理と何人かのフランシスコ会の神父が上陸をして、一列になって十字架を運び、賛美歌を歌いました。それからその場所に行き、十字架が降ろされ、総督が祈りをささげました。それから、その町の全ての商品と食料品を略奪し始めました。2日後、街に火をつけました。」

The main interest of these first colonialists was in spices, cloth, gold, and ivory. They dominated the sea but on land only some narrow strips of the coast. Other countries soon began to compete with the Portuguese for the trade with the East; first the Dutch, then the English and the French gained control over this rich trade.

こうした植民地支配を目論んだ人達の主な関心は、香辛料と布と金と象牙でした。その人達は海を支配しましたが、陸では海岸線の岸の狭い僅かな地域を支配しただけでした。やがて他の国々も東洋との貿易を求めてポルトガルと競争をし始めました。最初にオランダ、次にイギリスとフランスがこの豊かな貿易の支配権を手にすることになりました。

THE SLAVE TRADE 奴隷貿易

The European conquest of South America suddenly changed the character and importance of the slave trade. With brutal force the prospering cultures of Peru, Bolivia and Mexico were stamped out by the Spanish conquerors and their silver and gold were stolen. Many Spaniards who set out for this Eldorado found no metals but settled as farmers.

ヨーロッパ人が南アメリカを支配したことで、奴隷貿易の特徴と重要性が一変しました。ペルー、ボリビア、メキシコの繁栄した文化はスペインの侵略者に力ずくで踏みにじらされ、金や銀が盗まれました。理想郷を求めて出発したスペイン人たちは金銀を見つけられませんでしたが、そのまま住み着いて農民になりました。

In 1518 a Spanish ship brought the first cargo of Africans directly from Africa to America. This was the start of a trade in slaves which was to continue for three and a half centuries and to bring millions of Africans to America.

1518年、スペイン船が初めてアフリカ人の積み荷を直接アフリカからアメリカに連れて行きました。これがその後3世紀半にも渡って続き、何百万人ものアフリカ人をアメリカに連れ出すことになる奴隷貿易の始まりでした。

The merchants’ profits and the products from America were exchanged in Europe for guns and cloth which were brought to Africa and exchanged for slaves. These humans were sold in America where they produced the goods to be brought to Europe. This was the so-called 'triangle trade.’ The riches of the capitalists grew while Africa suffered.

奴隷商人の利益と、アメリカからもたらされた産物は、ヨーロッパでアフリカへ連れて行かれて奴隷と交換される鉄砲や布に交換されました。これらの人間はアメリカで売却され、そこでヨーロッパに運ばれる商品を作り出しました。これが所謂「三角貿易」でした。資本主義者たちの富が増えて、アフリカが被害を受けました。

European, above all English and American capitalists had gained enormous profits from the trade in slaves and the work performed by the slaves. Slavery was an essential part of the international capitalist market. By this trade the first large-scale collection of wealth was accumulated to speed up the development towards capitalism. The 'triangular trade’ was one of the foundations of the Industrial Revolution in Europe.

ヨーロッパ、とりわけ、イギリスとアメリカの資本家たちが奴隷貿易と奴隷が行なう労働から莫大な利益を手に入れました。奴隷制は国際資本市場で重要な役割を担っていました。この貿易によって、大規模な初期の富の集積が行なわれ、資本主義への発展の速度を加速させました。「三角貿易」はヨーロッパの産業革命の基礎の一つでした。

For Africa the consequences of the slave trade were ruinous, not only in the terms of the boundless suffering of the millions who were taken as slaves, and their descendants, but also for those left behind.

アフリカにとって、奴隷貿易によってもたらされたものは、奴隷として連れ出された何百万もの人々とその子孫の際限ない苦しみという意味だけではなく、後に残された人たちにとっても、壊滅的でした。

 

南アフリカ概論(後期用)

10月18日

3回目の授業でした。

「遠い夜明け」の続きを見てもらうつもりが、岩切くんと山口くんの発表(オランダ人とイギリス人)に感心して、発表してくれた内容に関連する映像と、1652年にオランダ人がやって来た辺りから1910年の南アフリカ連邦成立までの流れをテキストと巻末の年表でざっと辿りました。オランダ仁の到来から南アフリカ連邦の成立までは、これでだいぶ理解してもらえたやろか。ヨーロッパ人がアフリカ人から土地を奪って無産者にして課税、安価な短期契約の賃金労働者として働かせる一大労働者搾取機構を打ち立てた、というのが侵略の形態の骨子なので、時間をたくさん使いました。

岩切くんも山口くんもしっかりと調べて、落ち着いてわかりやすかったです。どちらも前期の英語の授業で会っていて、後期も授業を取ってもらえて光栄です。他にもたくさん取ってくれてるのは嬉しい限りです。

映像はオランダ人に奴隷にされ、ブッシュマンと蔑まれたサン人、オランダ人が東洋への中継地として立ち寄ったケープの海からの様子、「遠い夜明け」の冒頭の場面で出て来ていたケープタウンのクロスローヅから見たテーブルマウンティンの景色、1885年前後に開かれてベルリン会議での植民地分割の模様、でした。

映像は紹介する時間はなかったけど、レオポルト2世の植民地「コンゴ自由国」コンゴの独立と首相ルムンバが暗殺されたコンゴ危機、それにその地で発生したエボラ出血熱騒動の話をしました。

 

その辺りについてはまとめて雑誌に書きました。→「医学生と新興感染症―1995年のエボラ出血熱騒動とコンゴをめぐって―」

テキストの第4章 「アフリカ史のなかで」も併せて読むとわかりやすいと思います。

この前書いたその辺りの歴史の流れをもう一度貼っておきます。

*1652年にオランダ人が到来
*1795年にイギリス人がケープを占領
*1806年にイギリス人が植民地政府を樹立
*1833年にイギリス人がケープで奴隷を解放
*1835年にボーア人が内陸部に大移動を開始(グレート・トレック)
*1854年頃には海岸線のケープ州とナタール州をイギリス人、内陸部のオレンジ自由州とトランスバール州をオランダ人、で棲み分ける
*南アフリカは戦略上そう重要ではなかった
*金とダイヤモンドの発見で状況が一変、一躍重要に
*1867年キンバリーでダイアモンドを発見
*1886年1ヴィトヴァータースランド(現在のヨハネスブルグ近郊)で金を発見
*1899年金とダイヤモンドの採掘権をめぐって第二次アングロ=ボーア戦争(~1902)
*イギリスの勝利。
*1910年南アフリカ連邦成立(イギリス人統一党とアフリカーナー国民党の連合政権、統一党が与党、国民党が野党)

配ったプリントはなしです。

次回は今日は観られなかった映画の続きをみて、→英文(THE CONFLICT ~, THE UNION~、牧浦さん)を読んで、そのあと英語で解説したいと思っています。

それでも時間があれば、歌も少々紹介出来るとええけどねえ。

次々回にイルファンくんにマレーシアの発表をしてもらうけど、南アフリカ全般について誰か発表せえへんやろか。

また、来週に。