2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した8回目の「ジンバブエ滞在記⑧ グレートジンバブエ」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

グレートジンバブエ

長女と長男、遺跡を背に

ハラレに来る前は、折角ジンバブエまで来たのだから、有名なヴィクトリアの滝と石造りの遺跡くらいは観に行こうという気持ちが少しはありましたが、いざ住み始めてみると、わざわざ無理をしてまで観光にでかけるのが億劫になってしまい、親の方は遠出は止めようと言い出しました。しかし、子供たちの好奇心を押しとどめる術もなく、結局子供たちに押し切られ、どちらか一方という妥協案を出して、重い心を引きずりながら、一人で街中の旅行会社に出かけました。

遺跡グレートジンバブエもヴィクトリアの滝もハラレからは相当な距離があります。遺跡は南に300キロほど、滝は西に900キロ近くも離れています。今は乾期ですから、遺跡の方は大丈夫のようですが、滝の方はザンベジ川の流れる湿地帯にありますので、マラリアの危険がないわけではありません。入院する事態を想像すると、ますます億劫になります。結局、今回は遺跡に関心の高い長男の意見を優先して、グレートジンバブエ行き日帰り旅行に落ち着きました。

飛行機と車の料金に昼食付き税金込みで、3733ドル、1人約933ドル、23000円あまりです。高いと思うのは、ハラレに少し馴染んできたせいでしょうか。しかし、1000ドル近いお金を出して、日帰り旅行に出かけるアフリカ人がそういるとは思えません。

ジンバブエの地図

9月からは子供たちの学校も始まりますので、8月の半ばの土曜日に行くことにしました。予約を済ませて料金は払ったものの、いざ行くとなると空港までの行き帰りも大変です。家から空港まで20キロはあります。初めてでもありますので、8時過ぎの便に乗るには、6時くらいには家を出た方がよさそうです。タクシーの予約もしなければいけませんが、アフリカ時間が気にかかります。電話には慣れてきてはいましたが、飛行機に乗り遅れるとあとの手続きも面倒ですので、今回は念には念をいれて、ゲイリーに予約を頼むとしましょう。電話でゲイリーがどんな言い回しをするかにも興味があります。今後の参考にさせてもらおうと思います。

出発の朝です。アフリカ時間の心配は杞憂に終わりました。予定の6時きっかりにタクシーが来て、滑り出しは順調です。土曜日でもあり朝が早いこともあって、タクシーは市街地を快調に飛ばして、半時間後には空港に着きました。ただ、タクシーの窓ガラスが割れており、隙間から冷たい風が入ってくるとは、予想もしていませんでした。隙間といってもこぶし大はあります。石でも当たったのでしょうか。ぎざぎざの穴を中心に、後部の窓ガラス全体にひびが入っています。今にも砕け落ちるのではないかと気が気ではないのですが、運転手の方は別に気にしている様子もありません。穴の前に座った妻は風に弱いので、中央に身を寄せウィンドブレイカーの衿を立てて震えています。

この車に限らず、タクシーは全般に、料金が安い代わりに辛うじて運転出来ればいいという状態の車が多く、ドアの把手が取れていたくらいで驚いていてはいけません。その場合は運転手が気を遣って、開けるのにコツがあってねと言いながら開けてくれます。タイプは違いますが、一応は運転手による自動開閉式です。

国際空港もぱっとしませんでしたが、国内線の方は、更にぱっとせず、行けるのかなあと不安になるほどでした。しばらくすると、小さな黒板に出発便の掲示が出て、無事チェックインを済ませました。

空港内で、日本からと思われる団体客を見かけました。ヴィクトリアの滝へ行くようです。ズック靴に、リュックを背負い、首からカメラを下げて、右手に風呂敷包みを持ったおばあさんがいました。添乗員と思われる若い女の人に大きな声で、何か日本語でしゃべりかけています。4人は思わず顔を見合わせて、ヴィクトリアの滝へ行かなくてよかったとしみじみ思いながら、同時に深い溜め息をつきました。

さあ、いよいよ出発です。飛行機は12人乗りの小型のプロペラ機で、機体にはユナイテッドエアと書いてあります。パイロットもアメリカ人のようで、乗客は12人、すべて外国人で、私たち以外は白人です。飛行機に弱い長男は前の席を希望しましたが、座席は向こうが決めるらしく、真ん中の席でした。すでに、長男は酔わないかと身構えています。

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プロペラ機の前で

飛行機は飛び立ちました。小さいので音が大きく、会話も難しい状態です。目的地は南へ300キロのマシィンゴ空港です。

厳しい太陽が照りつける大地はからからに渇いていました。ハラレの市街地を出ると、時折り集落が目に入って来ますが、湖や川などは一切見当りません。空港に着くまでの一時間ほど、同じ赤茶けた大地が続いていました。今世紀最大の旱魃といわれる光景が眼下に広がっている、そんな感じでした。一体、この渇ききった中で、人々はどうやって暮らしていけるのだろうか。窓越しの大地を見ながら、そんな疑問が頭を離れませんでした。

1時間でマシィンゴ空港に着きました。出迎えの車が2台待っていましたが、自家用車です。小型バスの都合がつかなかったから、自家用車3台で運ぶ、追って1台来るので待って欲しいと言われました。

小さな空港です。時間もあるし、記念に写真でも取ろうかとカメラを出したら、空港の建物は撮影禁止になっていると注意されました。飛行機ならいいですよというので、飛行機と一緒に子供をフィルムに収めました。よく事情はわかりませんが、今、軍隊のある社会主義の国にいるのだ、そんな思いがかすかに頭をかすめました。

10分ほどして、白人のおばあさんが迎えに来ました。渇いた大地の中の舗装した道路を、猛スピードをあげて車は進みます。道路脇両側の舗装されていない細い道をアフリカ人が歩いています。大抵は、大きな荷物を頭に乗せて歩いていました。グレートジンバブエまで28キロと案内書には書いてありましたが、あっという間に、遺跡近くのホテルに着きました。

外国人向けのホテルは、小綺麗に整備されていて、さっそく、給仕のアフリカ人が飲み物の用意をしてくれました。子猿がいる!と子供たちがカメラを出しました。

一息ついたあと、グレートジンバブエに出発しました。運転手が若い女性に変わっています。名前をターニャと言い、休暇を利用して南アフリカから手伝いに来ており、ここから車で3時間ほどの所に住んでいるとのことでした。南アフリカは地続きだから、車で行ける、それにしても3時間とはえらい近いなあ、そんな思いが頭をかすめました。ここでは外国から来ても、必ずしも「海外から」とは言えないわけです。

遺跡

しばらくして、遺跡に着きました。小高い丘に、石造りの建造物があります。想像していたほどの威圧感は感じませんでした。アフリカ人男性のガイドが英語で説明してくれましたが、説明を聞いてもあまりわからない3人は、ガイドから付かず離れずの別行動です。

ガイドの男性

建物は、大きさは煉瓦の数倍、厚さは半分くらいの石を積み重ねて作られています。この辺りには、このような遺跡が150ほどもあり、ここが最大級のものだそうで、日本でも時たま特集番組で報じられたりしています。最初、ヨーロッパ人移住者がここに来た時には、その威容に圧倒されたそうです。その人たちが金銀財宝を我先に持ち帰ったので、遺跡の研究は最初から、足をすくわれてしまったと言われます。それでも、遺跡の中で発見された陶磁器から、ヨーロッパ人が入植する以前から、遠くインドや中国との国交があったと推測されています。イスラム商人が仲買人だったようで、その交易網は、カイロを軸に、駱駝を巧みに操るトワレグ人によって西アフリカとも繋がり、西アフリカと南アフリカで取れる質のよい金を交換貨幣に、黄金の交易網がはりめぐらされていたとも言われます。

はっきりとは断定出来ませんが、13世紀から15世紀あたりに作られたのではないかとガイドの人が説明しています。当時、外敵から身を守る必要性も内戦の脅威もなかったので、おそらく国王の威信を高めるために、石が高く積み上げられたのだろうと言われています。

画像

長女、遺跡を背に

ひと通り見学し終わり、ホテルに帰って昼食を終えたあと、近くにあるカイル湖に案内されました。普段なら水量豊かだという湖が、干上がって底を見せています。大きなダムの近くに辛うじて水が溜まっているばかりです。山羊だ!と長男が大声をあげました。しかしよく見てみますと牛です。この旱魃で、痩せ衰えているのです。新聞で同じような写真を見てはいましたが、山羊と間違えるとは思いませんでした。予想以上です。

湖からホテルに戻って一休みしている間に、巨大な車を見かけました。ダンプカーよりもはるかに大きく、荷台で上半身裸の白人が大声で何やらしゃべっています。梯子がついて高い柵のようなものが荷台を囲っているところをみると、多分サファリ用の車で、野性動物を追いかけながら、サファリパークの中をこの巨大な車で走り回るのでしょう。その並はずれた大きさに、好奇心の強さと飽くなき欲望の激しさを見たような気がしました。

夕方、暗くなる頃にハラレ空港に戻りましたが、帰りの足がありません。この時間帯には利用客がないからでしょう、タクシーが見当りません。うろうろしていたら、シェラトンの赤い制服を着たアフリカ人が、どうしましたかと声をかけてくれました。事情を話すと、タクシーは多分見つからないでしょうからホテルの車にどうぞと言ってくれましたので、有り難く便乗させてもらいました。その人が専用バスを運転して、宿泊客をホテルまで送り届けるらしく、大助かりです。しかし愛想のよかったその人が、別のホテルの泊まり客である若い白人の女性には割りと冷たい態度で接していました。降りる時に料金を聞くと要らないですよと言われましたが、運転手の気遣いが嬉しくて、料金に相当するだけのお金をそっと渡してバスを降りました。ホテルでタクシーに乗り換えた時は、辺りはもう真っ暗でした。(宮崎大学医学部教員)

遺跡

執筆年

  2012年2月10日

収録・公開

  →「ジンバブエ滞在記⑧ グレートジンバブエ」(No.42  2012年2月10日)

ダウンロード・閲覧

  「ジンバブエ滞在記⑧ グレートジンバブエ」

英語 Ma2(4)

12月19日

新たに組んだ4回の日程の1回目。5章の筆記試験とエイズ。

エイズに関しては最初に解説。HIVの増幅のメカニズム→抗HIV製剤→エイズの歴史→エイズへの包括的アプローチとアフリカ問題の順で簡単にプリントを見ながら解説しました。プリントは最低限読んで欲しいです。

次回は、“9.10 Immune deficiency: The special case of AID"(和田くんが準備してくれてたのに、やってもらえなくて申し訳ないことをしました。次回よろしく頼みます。)→"Disrupting the Assembly Line"を読んだあと、AZTをめぐるERの映像(ERII2B、1994年にエイズ=死であったころにAZTを使うしかなかった小児科医の苦悩を描いた場面)を見てもらえたらと思っています。映像のtranscriptionに目を通しておくとよりわかりやすいと思います。

“Disrupting the Assembly Line"は一般向けにScience Writerが書いた記事。専門的には問題ありそうやけど、一般の人には結構わかりやすいみたい。誰かやらへんか。短いので正確な訳、やろな。

この前も書いたけど、このブログの掲示板に3種類の動画をリンクしてあります。それぞれわかりやすく英語も聞きやすいです。transcriptionも作っています。必要ならメールしてくれたら、ファイルを送ります

HIVに関しての動画のアドレスです

How HIV Causes Disease

HIV life cycle: How HIV infects a cell and replicates itself using reverse transcriptase

How HIV attacks human

ゴアとブッシュの大統領選のNatureの記事を紹介したとき、南北戦争や公民権運動の話をしたけど、流れを少し掻い摘んで書いときます。すでに配って、読むつもりだったA Short History of Black Americansを読んでもらえるとわかります。そういう背景がないとNatureの記事も肝心なところがわからないと思うよ。

三つの大きな山

①(イギリス人入植者の繁栄の基礎となった)奴隷貿易と(大農園主=寡頭勢力を潤した)奴隷制1:イギリス人入植者の繁栄の基礎となった奴隷貿易と2:奴隷制

②南北戦争(北部の産業資本家と南部の寡頭勢力の妥協が生み出した奴隷解放と北部の先導で強行した再建期と寡頭勢力の巻き返しの反動

③(実質的な権利を求めた)公民権運動とその後

南部の大荘園主と、奴隷貿易で潤った資本で産業化の結果生まれた北部の産業資本家が奴隷制を巡って起こした市民戦争=南北戦争の話と、3%の支配階級=大荘園主が奴隷所有者と大半の労働者階級=奴隷と貧乏白人の間にカラーライン(人種隔離政策)を引いて人種差別(賃金格差)を利用した話。

北部(共和党)が担いだリンカーン(↑)が大統領になって南北合一のために戦争はしたものの経済力が拮抗していたために最終的な決着はつかずに、北部の自由な黒人の参戦の見返りに出した奴隷解放令だけが残り、元奴隷にとっては体制が変わる(賃金が上がる)ことはなく、奴隷が小作という名前に変わっただけ。

北軍の占領政策は行われたものの北軍が去ったあとの南部の寡頭勢力の反動は凄まじく、1896年の隔離すれども平等という最高裁の判決を引き出してしまいました。

カラーラインを維持するために、奴隷制で貧乏白人を奴隷狩りや奴隷の調教師に雇ったように、貧乏白人を利用してリンチやKKKで元奴隷を締め付け続けました。

奴隷解放宣言が実質的なものでなかったので元奴隷は小作人に名前が変わったまま、第二次世界大戦が終わるまで、厳しい人種隔離体制が続きます。大戦でのヨーロッパの総体的な力が落ちたとき、それまで抑えつけられていたアジア・アフリカ諸国の独立運動が始まります、アメリカでは公民権運動、南アフリカではアパルトヘイト廃止を掲げた解放闘争です。

最初に見てもらったカーターはあつらえた白衣を着てたし、彼女ともうまく行かず、前から漠然と抱いていた思いを現実にしてコンゴにボランティアに行ってたけど、奴隷貿易で富を築いた大富豪の家に生まれた人にしかわからない苦悩があったんかもねえ。そう考えると、元奴隷の息子、くそ生意気なベントンが元奴隷主の息子、あつらえた白衣を着てくる貴公子というのも、結構、微妙な皮肉かもな、と見るといつも僕なんかは思うけどね。

また、年明けに。

<課題について>

今日までに課題を全部読めなかったけど、何人かの勘違い(調べたものを列記=レポート、仮説を立てての論証分ではない)もあるけど、2回目はしっかりと仮説をたてて、きっちりと論証して提出してや。

課題を見ながら講評も時間を取るし、メールで問いあわせてくれれば返事も出来ると思います。

 

英語 Ma2(3)

12月19日

新たに組んだ4回の日程の1回目。5章の筆記試験とエイズ。

エイズに関しては最初に解説。HIVの増幅のメカニズム→抗HIV製剤→エイズの歴史→エイズへの包括的アプローチとアフリカ問題の順で簡単にプリントを見ながら解説しました。プリントは最低限読んで欲しいです。

次回は、“9.10 Immune deficiency: The special case of AID"→"Disrupting the Assembly Line"を読んだあと、AZTをめぐるERの映像(ERII2B、1994年にエイズ=死であったころにAZTを使うしかなかった小児科医の苦悩を描いた場面)を見てもらえたらと思っています。映像のtranscriptionに目を通しておくとよりわかりやすいと思います。“Disrupting the Assembly Line"は一般向けにScience Writerが書いた記事。専門的には問題ありそうやけど、一般の人には結構わかりやすいみたい。

この前も書いたけど、このブログの掲示板に3種類の動画をリンクしてあります。それぞれわかりやすく英語も聞きやすいです。transcriptionも作っています。必要ならメールしてくれたら、ファイルを送ります

HIVに関しての動画のアドレスです

How HIV Causes Disease

HIV life cycle: How HIV infects a cell and replicates itself using reverse transcriptase

How HIV attacks human

ゴアとブッシュの大統領選のNatureの記事を紹介したとき、南北戦争や公民権運動の話をしたけど、流れを少し掻い摘んで書いときます。すでに配って、読むつもりだったA Short History of Black Americansを読んでもらえるとわかります。そういう背景がないとNatureの記事も肝心なところがわからないと思うよ。

三つの大きな山

①(イギリス人入植者の繁栄の基礎となった)奴隷貿易と(大農園主=寡頭勢力を潤した)奴隷制1:イギリス人入植者の繁栄の基礎となった奴隷貿易と2:奴隷制

②南北戦争(北部の産業資本家と南部の寡頭勢力の妥協が生み出した奴隷解放と北部の先導で強行した再建期と寡頭勢力の巻き返しの反動

③(実質的な権利を求めた)公民権運動とその後

南部の大荘園主と、奴隷貿易で潤った資本で産業化の結果生まれた北部の産業資本家が奴隷制を巡って起こした市民戦争=南北戦争の話と、3%の支配階級=大荘園主が奴隷所有者と大半の労働者階級=奴隷と貧乏白人の間にカラーライン(人種隔離政策)を引いて人種差別(賃金格差)を利用した話。

北部(共和党)が担いだリンカーン(↑)が大統領になって南北合一のために戦争はしたものの経済力が拮抗していたために最終的な決着はつかずに、北部の自由な黒人の参戦の見返りに出した奴隷解放令だけが残り、元奴隷にとっては体制が変わる(賃金が上がる)ことはなく、奴隷が小作という名前に変わっただけ。

北軍の占領政策は行われたものの北軍が去ったあとの南部の寡頭勢力の反動は凄まじく、1896年の隔離すれども平等という最高裁の判決を引き出してしまいました。

カラーラインを維持するために、奴隷制で貧乏白人を奴隷狩りや奴隷の調教師に雇ったように、貧乏白人を利用してリンチやKKKで元奴隷を締め付け続けました。

奴隷解放宣言が実質的なものでなかったので元奴隷は小作人に名前が変わったまま、第二次世界大戦が終わるまで、厳しい人種隔離体制が続きます。大戦でのヨーロッパの総体的な力が落ちたとき、それまで抑えつけられていたアジア・アフリカ諸国の独立運動が始まります、アメリカでは公民権運動、南アフリカではアパルトヘイト廃止を掲げた解放闘争です。

最初に見てもらったカーターはあつらえた白衣を着てたし、彼女ともうまく行かず、前から漠然と抱いていた思いを現実にしてコンゴにボランティアに行ってたけど、奴隷貿易で富を築いた大富豪の家に生まれた人にしかわからない苦悩があったんかもねえ。そう考えると、元奴隷の息子、くそ生意気なベントンが元奴隷主の息子、あつらえた白衣を着てくる貴公子というのも、結構、微妙な皮肉かもな、と見るといつも僕なんかは思うけどね。

また、年明けに。

<課題について>

今日までに課題を全部読めなかったけど、何人かの勘違い(調べたものを列記=レポート、仮説を立てての論証分ではない)もあるけど、2回目はしっかりと仮説をたてて、きっちりと論証して提出してや。

課題を見ながら講評も時間を取るし、メールで問いあわせてくれれば返事も出来ると思います。

 

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した7回目の「ジンバブエ滞在記 ⑦ホテル」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

7月の終わりに、家族でホリデイインに行きました。
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ハラレの街

ハラレに来てから11日目、一応何とか落ち着いたところで、そろそろ味の新天地を開拓しようというわけです。アメリカには何度か行ってホリデイインにも泊まっていましたので、あの「ホリデイイン」ならジンバブエ風の味よりは馴染めるだろう、そんな思いがあったと思います。妻も子供たちも何年か前に、ハワイやサンフランシスコで食べた料理に自分の思いを重ねているようでした。4人がそれぞれ抱いていた味への幻想は、最初のポタージュスープで見事に打ち砕かれてしまいました。スープに限らず、オムレツもカレーもハンバーグもパイもコーヒーも、しっかりとジンバブエ風味でした。4人が取り合って食べたのは、じゃが芋の丸焼きだけです。4人で114ドル、1人7000円余り、ゲイリーの給料の額を聞いていただけに、何だか済まないような気がしました。外は真っ暗です。
白人街住宅地
暗くなってからの帰宅は初めてでしたが、ホテルの前のタクシーが4人を家まで無事に送り届けてくれました。いつもなら消えている筈のゲイリーの部屋の電気が、その日はまだ灯っていました。4日後、今度はシェラトンに挑戦しました。ホリデイインは4つ星ですが、シェラトンは、ミークルズ、モノマタパと並んでハラレでは最高級の5つ星のホテルです。

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ミークルズホテルを背に

玄関で、鮮やかな赤の制服を着たアフリカ人の案内係が、にこにこしながらコンニチワとたどたどしい日本語で挨拶をして来ました。日本人の出入りが多いのでしょう。内部はなかなか豪華です。これなら、マンハッタンのシェラトンと較べても見劣りはしません。1階奥のレストランから中庭のプールで泳いでいる泊まり客が見えます。冬とはいっても日差しが強く、昼間の温度が20数度にもなるのでいつでも泳げるのです。1品の料理メニューもありますが、目で見ながら選べるバイキング形式の料理も並んでいます。これなら好きなものを選べそうです。お米に芯が残ってはいますが、料理はまずまずです。パンの味も悪くありませんし、デザートのプリンやババロアやケーキなども豪華です。子供たちはオレンジジュース、大人の方はグラスワインとビールを取って、4人ともお腹一杯になるまで詰め込みました。久しぶりの満足感です。従業員はアフリカ人ですが、客は外国人が大半です。日本人と思しき商社員が白人と食事をしています。味も、外国人向けというところでしょうか。それもそのはずです。
4人で189ドル20セント、一回の昼食代がゲイリーの月給の額を超えてしまっています。ゲイリー、ごめんなさい。宿泊料金の方も一流です。一泊がアメリカドルで150ドル前後、約750ジンバブエドルにもなります。食事もするとなれば、1000ドルでは済まないでしょう。

吉國さんの話では、工場や店で働く人で300ドル、タクシーの運転手で600から700ドル、高級取りの部類に入る白人秘書で2000ドルほどの月給だそうですから、大多数のアフリカ人が1ヵ月働いても手に入らない金額を、このホテルでは一晩で使ってしまうわけです。外国人の観光客は、外貨獲得の為の国の貴重な収入源です。その収入源を確保するためには、国も最優先して設備を整えます。ですからその一区画だけは、言わば外国の延長といってもいいでしょう。旱魃とも無縁です。ホテルのロビーにいますと、水不足や食料不足などの連日の新聞報道が嘘のように思えて来ます。

ハラレの街

国としては、旱魃に対する国外からの援助も期待したいですし、かといって過剰な報道によって観光客を失なうのも困ります。8月10日の「ヘラルド」紙の「観光客を不安にさせてはならない」という見出しの社説は、そんな苦しい胸の内を明かしています。英国の旅行ジャーナリストは自らジンバブエに来て、大旱魃にもかかわらず、我が国の観光産業が如何に「正常である」かを自分の目で確かめるべきである。そうすれば、ヴィクトリアの滝が、現に音を立てて水飛沫をあげているのがわかるはずである。ライオンだって、一部の地域では多少痩せ気味ではあるが、それでもなお、他の動物を威圧しながら、悠然と歩いている……
欧州や米国やアジアでは、人々は我が国に対して全く違ったイメージを描いている。それらの地域では、食料不足や水不足、或いは電力不足によって頻繁に起こる停電のために、休業に追いやられるホテルが続出していると報じられている……
人や動物が多数死につつあるとも報じられている。アフリカ南部でも、エチオピアやスーダンに似た状況が迫りつつあるとも言われている。だから、ジンバブエに旅行するのは狂気の沙汰だというのである。この国に来れば、旱魃があるのは現実だが、以前と同じように観光地が充分に憩いの場を提供しているのが観光客にはわかるはずである……
同様に、国が非常に困難な状況にありながら、国民に対して必要最低限の食べ物を供給する最善の努力をしていることにも気づくに違いない……

高い利益をあげるジンバブエの観光産業が、このまま知恵を絞ることなくだめになってしまえば、食料を供給しようとしている政府の懸命の努力も水の泡になってしまう。我が国には食料も要るし、観光客も必要である。両者のバランスを如何にうまく保っていくかが、この困難な時局にこの国には要求されているのである。

この国の直面する窮状をよそに、4人はお腹を一杯にして帰ってきましたが、借家が見つからずにホテル住まいをしていたら、ハラレもアフリカもきっと違った風に映っていたでしょう。(宮崎大学医学部教員)

執筆年

2012年1月10日

収録・公開

「ジンバブエ滞在記⑦ ホテル」(No.41)

ダウンロード・閲覧

「ジンバブエ滞在記⑦ ホテル」