つれづれに

2021年Zoomシンポジウム4

「アングロ・サクソン侵略の系譜―アフリカとエイズ」(11月27日土曜日)

「ケニアの小説から垣間見えるアフリカとエイズ」4:

ケニアの歴史(4)モイ時代・キバキ時代 ・現連立政権時代

今回はケニアの歴史の4回目で、ケニヤッタが欧米諸国や日本と手を結んでしまった以降の、主にケニヤッタとモイの時代についてである。

ケニヤッタは独裁者になったが、一人でやったわけではない。取り巻きがたくさんいたのである。ケニヤッタが率いたケニア・アフリカ人民族同盟(KANU)の「帝国主義と手を携える将来像」を描く上流小市民階級と、後にKANUに加わったケニア・アフリカ人民主同盟(KADU)の上流小市民階級の人たちで、欧米諸国や日本の番犬になっても我が身の利益を優先できる集団だった。その人たちは、外国資本を後ろ盾に、誰憚ることなく独裁政治を強行した。

ジョモ・ケニヤッタ

コンゴのモブツ独裁政権が崩壊し、ローラン・カビラが国の舵取りを任されたとき、アメリカや欧米諸国は、早期に「民衆主義的な」選挙の実施を迫ったが、誰よりもアフリカを知るデヴィドソンは「もしアメリカが望むように早急な選挙が行われたなら、財力のある党や、モブツを支持する組織が勝つでしょう。だから、私たちは早期選挙などと言う愚挙は考えない方がいいのです。」と牽制している。

デヴィドソン

ケニアのような文化の高かった国ではアフリカ人すべてを敵に回すのは得策ではないので、アフリカ人の取り込みも重要な戦略の一つだった。従って、戦前も取り込まれて宗主国に協力するアフリカ人がいたわけだが、戦後西欧諸国や日本が植民地支配から、「開発」や「援助」の名の下に、多国籍企業による貿易や投資による経済支配に体制を移行したとき、アフリカ諸国に新しい階級を創る必要性があった。その人たちが、ケニアの場合、「外国資本と手を携える将来像」を描く上流小市民階級で、絵に描いたように「先進国」の番犬となった。

広すぎるアフリカ大陸を植民地支配するには、下級事務職員や地位の高くない従業員が必要で、最初は宣教師が初等教育を担っていたが、次第にアフリカ人教師を育成して初等教育を普及させるようになり、新しい型のアフリカ人中産階級が育っていった。その人たちには学校へ通う特権が与えられ、ヨーロッパ文化やキリスト教を学ぶようになった。植民地批判の書物も読むようになり、植民地の文化支配に反発する人もいたが、大半のアフリカ人はヨーロッパ人の特権的な生活様式を真似る誘惑には勝てなかった。

独立後、そうしたアフリカ人が政府や行政機関や政党で重要な地位を占めた。自ら新植民地政策のための中産階級の役割を引き受けて私腹を肥やし、庭付きの家や車や使用人を好んで、自らの給料を上げることに没頭した。ドイツ車ベンツに乗る人たちが多かったので「ワベンズィ」(WaBenzi)と呼ばれ、ケニアでは、「買弁階級」(’comprador class’)とも言われた。その集団が、まさにケニヤッタとその取り巻きからなる少数の上流小市民階級だったのである。

ケニヤッタとその取り巻きは、自分たちに反対する人たちをことごとく排除した。ルオ人の長老オディンガのケニア人民同盟を1969年に禁止したあとも、多くの人たちを抑え込んだ。作家のグギ・ワ・ジオンゴも犠牲者の一人で、拘禁され、亡命を余儀なくされた。グギは隣国ウガンダのマケレレ大学を出て、英国、米国で学んだ知識人である。植民地体制が「原住民のために設立した」大学で西洋流の教育を受け、ジェイムズ・グギの名で小説を書いていた。日本でも何冊か翻訳されている。国際的な評価も受け、様々な会議にも招待されていた。もちろん、日本にも招待されている。1972年にグギ・ワ・ジオンゴに改名、翌年には、アジア・アフリカ作家会議からロータス賞を受賞した。そういった国際的名声も、体制の脅威にならなかったが、母国語のギクユ語で書いた脚本をギクユの農民と労働者が見事に演じきってしまった、つまり、多数派である搾取される側の農民と労働者が、演劇活動を通してグギの作品を理解し、自らの隷属的な立場に気づき、団結して体制側に挑み始めてから、グギは反体制の象徴になった。1977年にほぼ1年間国家最高治安刑務所に拘禁されたのち、アメリカに亡命した。亡命先で『拘禁されて:一作家の獄中記』を出している。

グギ・ワ・ジオンゴ(小島けい画)

『拘禁されて』に「植民地文化の傲慢さよ!その盲目的で自惚れに満ちた野望には限度がない。抑圧される側の抑圧する側への服従、搾取される側と搾取する側の平和と調和、ご主人さまを敬愛し、ご主人さまが末永く私どもをお治め下さいますようにと神に祈るべき下僕、これらは、警官の靴と警棒と軍隊の銃剣と、選ばれた少数派の目の前にぶら下げられた個人的な天国という人参によって、入念に躾けられた植民地文化の審美的な究極の目標だった……。」と書いた。

外国資本の番犬となったケニア政府は、植民地支配の国家機構をそのまま受け継ぎ、政治や経済、文化や言語まで支配した。当時のケニアの文化状況を『作家、その政治とのかかわり』(1981)の中でグギは次のように指摘している。

「今日、ケニアの生活の中心的な事実は外国の利益を代表する文化の力と、愛国的国民の利益を代表する力の間の猛烈な闘争です。その文化的な闘いは日頃から見ていない人には必ずしもはっきりとは見えないかも知れませんが、そんな人も、ケニアの生活が外国人と外国の帝国主義的文化の利益に実質的に支配されているのを知ったらきっとびっくりすると思います。

そういう人たちがもし映画を見たいとしたら、外国人所有の映画館(たとえば、トゥエンティ・センチュリィズ・フォックス)に行って、アメリカ配給の映画をみることになるでしょう……。

同じ人が今度は日刊新聞を買い求めたいと思えば、パリのアガ・カーン所有のネイション紙かロンドンのタイニー・ローランド社のロンロ所有のスタンダード紙かのどちらかしかありません……。

さて、今度は学校を訪れるとしましょう。ケニア人の子供の生活は、小学校から大学までとそれ以降も、英語が支配的です。スワヒリ語とすべてケニアの国語が必修ではないというばかりではなく、フランス語とドイツ語ともうひとつの中から一つを選択するという選択肢の一つの言葉というに過ぎないのです。ケニアを構成する民族の言葉を完全に蔑ろにしています。このように、ケニアの子供はこういった外国語、つまり西ヨーロッパ支配階級の文化が伝える文化をすばらしいと思いながら育ち、自分自身の民族の言葉、つまり国民文化に根ざしたケニア農民が伝える文化を見下します。言葉をかえて言えば、学校は子供たちが国民的で、ケニア的なものを蔑み、たとえそれが反ケニア的であっても、外国的なものをすばらしいと思うように育てるのです……。」(「第3章ケニア文化、生存のための国民的闘争」から抜粋)

『作家、その政治とのかかわり』

1981年に韓国の金大中(キム・デジュン)、金芝河(キム・ジハ)に死刑宣言を出した朴正熙(パクチョンヒ)政権に抗議するために、神奈川県川崎市で日本アジア・アフリカ作家会議主催の「アジア・アフリカ・ラテンアメリカ文化会議」が開催された。その会議に、亡命中のグギも招待されている。そのとき、日本批判がことのほか厳しかった実状を作家の針生一郎が「川崎でのスケジュールのあと、わたしはラ・グーマ、リウス、グギらに同行して京都におもむき、そこで熱心な日本の人びとの主催による三つの集会に出た。彼らはいずれも日本の人びとの熱意に、ある手ごたえを感じたと思われるが、同時にその日本批判はますます辛辣になった。」と書いたあと、「日本をどう変えるかはあなたがたの問題だが、原則的なことは、日本の物資的ゆたかさは第三世界の搾取の上に成り立っていることだ」と語ったラ・グーマと「日本人のすべてが、消費社会の構造に完全にはめこまれた自動的な口ボットのようにみえる。もうほとんど手おくれかも知れないが、あなたがたはどうやってこの社会を変えるのか」と問いかけたリウスを紹介している。(1982年1月号「世界」)

川崎でのラ・グーマ(小林信次郎氏撮影)

私は55歳頃まで大学の体育館で学生や職員といっしょにバスケットの試合をしていたが、プレイしていた留学生の中にケニア出身の留学生がいた。ルヒア人のサバで、ある日、グギの翻訳のことで質問に応じてくれ、ついでに次のような話もしてくれた。

「私は日本に来る前、ナイロビ大学の教員をしていましたが、5つのバイトをしなければなりませんでした。大学の給料はあまりに低すぎたんです。学内は、資金不足で『工事中』の建物がたくさんありましたよ。大統領のモイが、ODA予算をほとんど懐に入れるからですよ。モイはハワイに通りを持ってますよ。家一軒じゃなくて、通りを一つ、それも丸ごとですよ!ニューヨークにもいくつかビルがあって、マルコスやモブツのようにスイス銀行にも莫大な預金があります。今ODAの予算でモンバサに空港が建設中なんですが、そんなところで一体誰が空港を使えるんですか?私の友人がグギについての卒業論文を書きましたが、卒業後に投獄されてしまいました。ケニアに帰っても、ナイロビ大学に戻るかわかりません。あそこじゃ十分な給料はもらえませんからね。1992年以来、政治的な雰囲気が変わったんで政府の批判も出来るようになったんですが、選挙ではモイが勝ちますよ。絶対、完璧にね。」

サバとバスケットをしていた人たち(たま撮影)

サバは6年間大学院で醸造学を学んだあと、奈良先端科学技術大学に関係する企業に就職すると言って宮崎を離れた。ケニアに滞在経験のある医学生とイタリアンレストランで送別会をしたとき、食事をする前に「小腹が空いた」と言っていた。今はどうしているんだろう。

約13年間(1964年~1978年)大統領だったジョモ・ケニヤッタ(KANU)が死んだあと、副大統領のダニエル・アラップ・モイ(KANU)が引き継いで約24年(1978年 ~2002年)大統領をやり、その後、ムワイ・キバキが約10年(2002年~2013年)大統領をやっている。2期目の2007年の総選挙後に大規模な暴動があったものの、第3者の調停を受け、連立政権で行くことで折り合いをつけている。その後、初代大統領ジョモ・ケニヤッタの息子ウフル・ケニヤッタが大統領になって約8年、現在二期目である。二期目は選挙結果に最高裁で無効の判決が出て世界を驚かせたらしいが、再選されている。、来年の2022年が次回の総選挙ではまた波乱が起きそうだと言われている。

どっちもどっちだが、目まぐるしく首相が交代する「先進国」の日本とは違い、欧米・日本の番犬を務めるケニアの大統領はまだ4代目である。東京のケニア大使館のサイトには「ケニアの生活は、素早い回復を成し遂げました。そしてケニアは、ムワイ・キバキ大統領の最後の期である2期目を向かえ、さらに強く、団結した国になっています。」とある。2007年12月の頃のことらしい。「先進国」と手を結んで少数の金持ちが好き勝手している国の出先機関が紹介する小史を、知らなければうっかり信じてしまいそうである。

次回は2021年Zoomシンポジウム5:アフリカとエイズである。

今年一番の出来のようである

つれづれに

2021年Zoomシンポジウム3

「アングロ・サクソン侵略の系譜―アフリカとエイズ」(11月27日土曜日)

「ケニアの小説から垣間見えるアフリカとエイズ」3:

ケニアの歴史(3)イギリス人の到来と独立・ケニヤッタ時代

 今回はケニアの歴史の3回目、ポルトガル人の後に来たイギリス人がケニア社会を根底から変えてしまったという話である。

ポルトガルはアフリカの東海岸で略奪をして、一部を破壊はしたが、社会の基本構造を変えるほどの影響を与えたわけではなかった。しかし、後から来たイギリスは、ケニア社会を根本から変えてしまった。結果的に、キルワ虐殺はヨーロッパ侵略の始まりに過ぎなかったのである。

キルワの復元図

 アフリカ西海岸で直接金を買い始めたポルトガルは、インドへの海上ルートも発見してベニスの都市国家から東インドとの香辛料貿易の支配権を奪いたいと望んでいた。そのためにも栄えていた東アフリカとの貿易は不可欠で、取引の交渉をしたが計画は頓挫した。商品が粗悪だったためである。ならば力ずくでということになり、武力で東アフリカの貿易を独占しようと決めた。キルワ虐殺はその一環だったのである。

前回、前々回のシンポジウムでポルトガルとスペインの植民地支配について寺尾智史さんが発表で再三指摘していた通り、ポルトガルとスペインは植民地支配に向いてなかったようだが、後から来たイギリスは植民地支配に長けていた。貴族社会が支えた王朝で永年培った、自分は働かずにたくさんの人を働かせて上前をはねる、徹底的に管理して骨の髄までしゃぶり尽くすという特技をいかんなく発揮しているわけである。→「2021年Zoomシンポジウム:第二次世界大戦直後の体制の再構築」続モンド通信27、2021年2月20日)、→「2018シンポジウム」(blogには2018年の報告を載せていないが、報告書の印刷物は出来ているで、連絡をもらえれば、PDFでの送付も可、である。)

2018シンポジウム案内ポスター

南アフリカケープ州からのイギリス人入植者が最初に狙ったのはホワイトハイランドという現在の首都ナイロビである。赤道に近く、標高約1800メートルの高地にあるが、快適で過ごし易く、代々多数派のギクユ人が平和に暮らしていた。一番いい場所を力づくで奪い、豊かな文化を持つ人たちの制度を利用して、植民地支配を徹底した。他のアフリカ諸国でも同様だが、イギリスは発達した社会制度を持つ国を植民地化している。遅れを取ったフランスが植民地化した国が、サハラ砂漠も含めて土地は広大ながら、社会制度が未発達の地域だったのとは対照的である。従って、地元の制度を利用しても利点がないのでフランスは直接支配、同化政策を取った。イギリスはケニアの一番過ごし易い土地を奪い、高度な文化を持つ人たちの制度を借用して、着実に植民地支配を続けたのである。

ナイロビ市内を望む

ケニア社会の基本構造を変え得たのは、イギリス人の侵略性と狡猾さゆえだが、キリスト教と貴族社会下の制度を持ち込んだもの大きい。それに時期、である。つまり、奴隷貿易で蓄えた資本で産業革命を起こし、資本主義を加速度的に発展させて、農業中心の社会から産業社会に変えていた最盛期だったのである。すでに経済規模もそれ以前とは比べようもないほど拡張していた。産業化に必要だったのは、更なる生産のための安い原材料と安価な労働力である。必然的に植民地争奪戦は熾烈を極め、ヨーロッパに近いアフリカ大陸の植民地化が一気に加速した。すでに南アフリカで安価な労働力を無尽蔵に生み出す南部一帯を巻き込む一大搾取機構を構築していたイギリスがケニアに進出して来たのだから、ケニアでも南アフリカと同様の制度を導入したのは当然である。課税してケニア人を貨幣経済に放り込んで大量の安価な労働力を生み出し、産業社会に必要だった原材料や豊かな生活のための農産物を安く作らせた。紅茶もその一つである。

ケープ植民地相だったセシル・ローズ

宮崎に来る前に住んでいた明石の家に、当時非常勤でいっしょだったイギリス人のジョンとケニア人のムアンギが来たことがあった。居間で紅茶を淹れている時に「これがイギリス流の紅茶の淹れ方」とジョンが言うと、「イギリスの紅茶やなくて、ケニアの紅茶やで」とムアンギがぼそぼそ反論していたのを思い出す。ジョンにとって「イギリスの紅茶」が当たり前だが、ムアンギにはイギリスに作らされて来たものという意識が強く働いているようだった。次回は一党独裁時代の話をするつもりだが、ムアンギは二人目の独裁者モイ大統領の時代に日本に留学し、同郷で亡命中の作家グギさんの世話をして、ケニアに戻れなくなったと聞く。ムアンギといっしょにいる時、植民地時代や専制政治の身近な影を何度か感じたことがあった。侵略された経験のない国にいるので、どうもその意識が欠落しているらしい。

ムアンギといっしょにしたシンポジウム(大阪工大、1988年)

「変革の嵐」(The Wind of Change)が吹き荒れてケニアも独立したが、アフリカ諸国の独立は第二次大戦で殺し合った宗主国の総体的な力が低下したからである。決して、アフリカ諸国の力が上がったわけではない。独立時の宗主国の狡猾な戦略については、前回のシンポジウムでガーナとコンゴを例にあげた。→「アングロ・サクソン侵略の系譜25: 体制再構築時の『先進国』の狡猾な戦略:ガーナとコンゴの場合」続モンド通信28、2021年3月20日)

ケニアでも独立への胎動は大戦前に始まっている。1942年にギクユ人、エンブ人、メルー人、カンバ人が秘密裏に独立闘争を開始、例によってメディアを巧みに使ってイギリスは闘争をマウマウと蔑み、武力で抑え込みに躍起になったが、闘っていた人たちは闘いの本質を知っていた。デヴィドスンが映像に収めた戦士の一人は「マウマウは独立の力だ。あれなしでは土地も自由も教育も得られなかった。」(「アフリカシリーズ第7回 湧き上がる独立運動」)とインタビューに応じている。

戦士の一人

1953年にジョモ・ケニヤッタが、1956年に指導者デダン・キマジが逮捕されて戦いは激化、1952年10月から1959年12月まで国内は緊急事態下に置かれた。長く険しい闘いを経て1963年に独立、ケニヤッタが初代首相に就任した。

捕らわれたデダン・キマジ

しかし、ケニヤッタは共に闘った人たちを平然と裏切って、欧米諸国や日本と手を結んでしまった。1966年に前副大統領ルオの長老ジャラモギ・オギンガ・オディンガが結成した左翼野党ケニア人民同盟(KPU)を1969年に禁止、事実上のケニヤッタの一党独裁政治が始まった。独立から僅か数年の間にケニヤッタが変節したからだが、変節の背景はケニヤッタが率いたケニア・アフリカ人民族同盟(KANU, Kenya African National Union)の変容にあった。KANUは様々な階級からなる大衆運動で、主導権は、帝国主義と手を携える将来像を描く上流の小市民階級と、国民的資本主義を夢見る中流の小市民階級と、ある種の社会主義をめざす下流の小市民階級との三派にあったが、1964年にケニア・アフリカ人民主同盟(KADU, Kenya African Democratic Union)がKANUに加わったことで、上流の小市民階級の力が圧倒的に増した。外国資本を後ろ盾に、数の力で、ケニヤッタは誰憚ることなく、自分たちの想い描いた将来像を実行に移し始めた。外国資本の番犬となったケニア政府は、植民地時代の国家機構をそのまま受け継ぎ、政治、経済、文化や言語を支配したというわけである。選挙・投票という「民主主義」と数の力を最大限に駆使しての完全勝利だった。

ジョモ・ケニヤッタ

そして、1978年にケニヤッタが死んだあとも、副大統領のダニエル・アラップ・モイが大統領になり、一党独裁政治は維持・強化されていった。

次回は、モイ時代・キバキ時代 ・現連立政権時代である。

つれづれに

つれづれに: 歩くコース3

「ケニアの歴史3」にもう少し時間がかかりそうなので、「歩くコース3」を挟むことにした。写真も撮り、9月23日に書くつもりで下書きのまま残っていた。

公園から墓の横を通って坂を下り一つ目の角を左折し、木花中学校跡の横を通り、坂を下って県道に出るか、グランドを横切って北端の坂を下りて県道に出るか。そのあとは県道の西に向かう坂を越えて、木花中学校の横を通って戻る30分ほどの短いコースである。こちらに引っ越して来たときはよくこのコースを歩いたが、距離が短いので今は一時間ほどのコース1を歩くことが多い。越して来て20数年になるので、ここにあの樹があったのになあと思うこともある。歳も取るわけだ。

一つ目の角

一つ目の角を左折し、そのまま緩やかな坂道を進んで舗道をまた左折すると市営のグランドが見える。

木花中学校があったそうで、跡地を今は市営のスポーツ施設として使っているようである。少年野球と社会人野球のチームが練習している光景をよく見かけていたが、コロナ騒動で最近は練習風景を見かけない。木花神社の横に法満寺という寺があったようだから、法満寺が高台の南の端で、旧木花中学校が北の端、その間に民家があり、そこを散歩コースで歩いていることになる。何年か前から、跡地を利用して木花地区の青年団が夏祭りを催している。元々祭りと人が集まるのは苦手なので行ったことはないが、散歩の途中にポスターを見かけたり、当日の夜に大きな花火の音がするので耳に入って来る。

グランドの横を通って坂を下り県道に出る。越してきた頃は、表紙絵の材料に通草(あけび)を探し回っていたので、ここでも目に着いたんだろう。何年か、途中の繁みで通草を採って持ち帰ったが、蔓がはつられてから、実を見かけなくなった。

跡地横から県道に出る坂

グランドを横切って、北の端の坂道から県道に出るときもある。坂の手前の右手に梅の樹があり、時々枝を切って持って帰っていたが、もうだいぶ前から花を見かけなくなった。中学校の跡地だけあって、植わっていた樹がずいぶんと大きくなっている。一度坂道で、まゆみの樹を見つけた。きれいな淡い色の花がたくさん咲いていた。持って帰ったら珍しがられて、カレンダーの1月の絵になった。(タイトル下の絵)長崎のオムロプリントが売り込んでくれておかげで地元で採用され、花カレンダーになった。まゆみの花を見たのはその年限りで、風や他の樹にやられて、以降花を見かけていない。

北端の坂の入り口

まゆみ

次回は「歩くコース4」の木崎浜か、「ケニアの歴史3」か。木崎浜の写真が多いので、一回で紹介し切れないかも知れない。

2010年~の執筆物,つれづれに

シンポジウムのまとめ、1、2週間でと思って始めたが、今までケニアの歴史を中途半端のままにしてきたので、少し時間がかかりそうである。何とか今年中に仕上げて、2月のBlack Lives Matterの案内といっしょに送り届けられたらと思っている。

2021年Zoomシンポジウム2

「アングロ・サクソン侵略の系譜―アフリカとエイズ」(11月27日土曜日)

「ケニアの小説から垣間見えるアフリカとエイズ」2:

ケニアの歴史(2)ペルシャ人、アラビア人とポルトガル人の到来

ケニアの歴史の2回目である。

1505年のキルワの虐殺を皮切りに世界を侵略し始めた西洋諸国は、侵略を正当化するために自分たちに都合のいいように歴史を書いてきたので、古代に栄えたエジプト文明もアフリカとの関係は完全に無視されて来た。しかし、実際にはエジプト文明はアフリカ人の影響を色濃く受けていたので、古代エジプトを抜きにはアフリカを到底理解することは出来ない。

エジプトのカイロ博物館

 エジプトは、古代世界でも最も高度でユニークな文明を築き上げ、3000年ものあいだ栄えて来た。その影響は、周囲はもちろん遠くオリエントにまで及んでいる。今日のエジプト人やスーダン人の遠い祖先の中には、こうした初期のナイル住人もいる。その後西アジアから来た民族も混じっていったが、一番多く入り込んだのは南や西から来た人々、つまりサハラを追われたアフリカ人だった。

サハラの気候が大きく変わり始めたのは4500年ほど前で、やがてサハラは雨を失ない、動物を失ない、遂には人間を失なっていった。そこで暮らしていた住民は乾燥化が進む土地を捨て、水を求めて次第にサハラを出て行き始めた。南と西に広がる熱帯雨林を目指す人たちもいたし、東のナイル川に向かったグループもいた。その人たちがサハラ流域にも暮らすようになり、エジプト人とも交わっていったわけである。

エジプト人の支配はやがて終わり、ラムセツ2世の時代から約500年後にヌビアの王が北に攻め入り、エジプト全土を掌握した。ヌビアの王は紀元前600年頃までエジプトを支配し、その後再びクシュ王国の都ナパタに戻り、その後、南のメロエに都を移した。ヌビアの地はエジプト文明の形成に大きな影響を与え、後に逆輸入された。

ギリシャやローマ時代にヨーロッパと西アフリカを繋いでいたのはベルベル人で、サハラの砂漠化が進んだ後に西アフリカと外部世界を繋いだのは、ベルベル人の仲間トワレグ人である。ヨーロッパとアフリカ、中東やインドや中国とアフリカが繋がっていて、その交流はサハラの砂漠が進んだのちも大きく広がっていった。西アフリカや東部・南部アフリカにも幾つかの王国が栄え、その王国と外部世界が黄金を通貨にした巨大な交易網で繋がっていたわけである。東部と南部アフリカと外部世界、遠くはインドや中国と繋いだのはペルシャ人で、後にはアフリカ人とペルシャ人の混血のスワヒリの商人がその役目を果たした。

砂漠の民トワレグ人

 トワレグ人やスワヒリ人が繋ぎ、エジプトを拠点に広大なアフリカ大陸に張り巡らせた黄金の交易網については、アフリカ大陸に生きるアフリカ人と暮らしの話と、王と都市をめぐる話のあとに、詳しく取り上げる予定である。

アフリカ大陸に暮らす人々の生活は前回一部を紹介した遊牧と、農耕が主体で基本的にはそう変わっていないが、インド洋に面した海岸部では交易によって栄えた街も増え、経済は拡大していた。元々東アフリカの海岸には、おそらく紀元前からはるかインドや中国にまで延びる海上ルートがあった。インド洋の海上ルートを切り拓いたのは古代ギリシャ人やローマ人、それにアラブ人だったようで、特にアラブ人は東アフリカ沿岸のアフリカ人の中に溶け込んで行き、そこから独自のスワヒリ人が生まれている。10世紀に歴史家アル・マスーディーがやってきた頃には、東海岸一帯に豊かなスワヒリ都市がいくつも出来ていた。

スワヒリ都市と帆船ダウ

マスーディーは「アフリカ沖の波はまるで山脈だ。深い谷底めがけて一気になだれ落ちる。砕けて泡を立てることもない。私が旅したシナ海、地中海、カスピ海、紅海、どの海もこれほど危険ではない。この海を渡ったのはダウと呼ばれる、今も使われている帆船です。東アフリカとアラビア半島を往来していた船は、向かい風でも進むことが出来ました。ヨーロッパの船がこの技術を身に着けたのはずっと後のことです。」と言っている。

ダウを操る船乗り

 モンバサなどのスワヒリの街は東アフリカの海岸に沿って、お互い余り距離を置かずにあり、一番南の街がソハラで、大変重要な交易の拠点だった。そこに南アフリカの内陸部から黄金が集まっていたからである。タンザニアの沖合にあるキルワも栄えていた街の一つで、デヴィドスンは島に行く船の中で次のように語っている。

「私は今タンザニアの沖合の島キルワに向かっています。この島はスワヒリの交易都市を語るにはどうしても忘れられない所です。キルワもラムと同じで、沿岸に浮かぶ小さな島です。今もここに行くには船を使うしかありません。伝説ではキルワに最初に来た外国人はペルシャの人々だったとされています。かれらも土地の人と結婚し、この島に落ち着きました。その十世紀末から十六世紀初めまで、ここには豊かな都市国家が栄え、内陸から来る金の取引で賑わっていたのです。信じられないような話ですが、600年前にはこの階段を東洋の人々、色んな国の大使や商人、兵隊、船乗りが一歩一歩登って行ったのです。そして一番てっぺんに達したとき、目の前に広がったのは活気と華やかさに溢れたそれはもう夢のような美しい街でした。しかし、それは悲惨な結末を迎えました。」

船でキルワに向かうデヴィドスン

1498年に初めてインド洋に入ったバスコダ・ガマが目にしたものを報告した7年後の1505年に、ポルトガルが武装した船団を送って、キルワを廃墟にしてしまった。同行したドイツ人ハンス・マイルは目撃したことを「ダルメイダ提督は軍人14人と6隻のカラブル船を率いてここに来た。提督は大砲の用意をするよう全船に命令した。7月24日木曜未明、全員ボートに乗り上陸、そのまま宮殿に直行し、抵抗する者はすべて殺した。同行した神父たちが宮殿に十字架を下ろすとダルメイダ提督は祈りを捧げた。それから全員で、街の一切の商品と食料を略奪し始めた。2日後、提督は街に火をつけた。」と書き残している。

キルワの虐殺はヨーロッパ人の大規模な侵略の始まりだった。

キルワ虐殺の版画

 次回は、イギリス人の到来と独立・ケニヤッタ時代である。