つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:一般教養と授業

 宮崎医科大学(↑)での授業が始まった。募集があったのは一般教養の英語学科目の教員だった。公募だが、実際は旧来のなあなあの人事で、思わず拾ってもらって赴任した、という感じである。医科大学は講座制を取っており、各講座に最低教授の枠が1で、それ以外は講座によってまちまちである。一番規模が大きいのは臨床系の内科や外科で、教授1、助教授1、講師1、助教数名と事務官の枠がある。臨床系の大きな講座は他からも予算が来るようで、事務官の数が十名に近い講座もある。一番枠が少なかったのは、心理学、社会学、数学で教授1だった。事務官は一般教養で1だった。ただし、化学、物理、生物の理科系講座は教授以外に助教授1、講師1、事務官1のようだった。ようだったと言うのは、実際には定員が欠けていたり、講師の枠に助手を採用している講座もあった。通常は枠が空くと補充の人事が行われるが、事情によって不補充や別枠での採用などが多かった。私が赴任した時、化学は教授1、助教授1、助手1、事務官1、物理は教授1、助手1、事務官1、生物は助教授1、事務官1、心理学は教授1、社会学は講師1、数学は講師1、英語は助教授1、講師1、外国人教師1、ドイツ語は講師1だった。かなりいびつで、元々教授会での投票権は8のはずだが、実際には3だった。赴任した当初は知らかったが、一般教養の票で人事が動くのを嫌う臨床や基礎の教授と一般教養の教授数人が意図的に一般教養の票を減らしたようである。私は一般教養の教授に推薦された講師として、教授会で過半数を得て、4月に赴任してきた。

 受験勉強をしなかった私が、受験勉強をこなして入学して来た医学生の一般教養の英語の授業をすることになった。最初の年は2年生と1年生の授業だった。場所は2年生が福利厚生棟にある研究室の一番近い教室、講義棟(↑)の3階、1年生は4階だった。ずっと、中高での試験のための英語が嫌だったから、一般教養の英語は私には都合がよかった。自分で何をするかを決められたからである。英語も言葉の一つで伝達の手段だから使えないと意味がない、中高でやったように「英語」をするのではなく、「英語」を使って何かをする、教員としては他の人の教科書を使い、一時間ほどで成績がつけられる筆記試験をするのが一番楽だが、自分が嫌だったものを人に強いるのも気が引ける、新聞や雑誌も使い、可能な限り映像と英語を使う、折角大学に来たのだから中高では取り上げない題材を使って自分自身や世の中について考える機会を提供して、大学らしい授業だと思ってもらえるような授業がいい、医学のことはこの先医療系の研究者や医者が嫌というほどやってくれるのだから、一般教養の担当にしか出来ないことをしよう、自分の時間でもあるし、いっしょに楽しくやりたい、あちこち非常勤をしている間に、大体そんな方向性は決めていた。

 映像を使う人があまりいなかったからだろう。プロジェクターの画質が今ほどよくなかったので、分厚い暗幕が必要だった。きっちり黒いカーテンを引いて、真っ暗な中で映像を観てもらった。普段は長い映画などを見る時以外は、大きな画面のテレビを台車に載せて、毎回教室に運んだ。100人を4つに分けた25人授業だったので、学生との距離も近くて学生の顔も見やすかった。テレビを録画したテープやビデオショップで借りて来たテープを編集した。当時は台数が多くなかったので、編集用のビデオデッキは二十万円以上もした。まだベータ(↑)があった時代で、私はVHS(↓)と半々で使っていたので、どちらのビデオデッキも必要だった。大学の豊かな時間の中で教養科目の英語の時間が、自分について考え、今まで培ってきた物の見方や歴史観を再認識するための機会になればと願っていた。2年間非常勤で行った大阪の私大では授業そのものが成り立たなかったので「授業が出来る!」だけで十分あった。もちろん、授業を始めた時は、である。
次は、同僚、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:ラ・グーマ記念大会

 1985年の「ライトシンポジウム」で2年後の「MLA」に誘われてラ・グーマで発表すると決めたが、芳しい資料もなくて初期の作品を読んでいた。その時にミシシッピの本屋さんに頼んでいたラ・グーマ関連の本が届いて、カナダに住む著者を訪ねていろいろ聞いた。丸三日間も付き合ってくれてだいぶ親しくなった。その時、次の年の会議でしゃべらないかと誘われた。それが1988年のアレックス・ラグーマ/ベシー・ヘッド記念大会だった。著者は亡命中のセスゥル・エイブラハムズさん(↑)で、当時ブロック大学という大きな大学の人文学部の学部長だった。その年の終わりにサンフランシスコのMLAで再会したが、次の四月から宮崎医科大学に講師として赴任するとは思ってもいなかった。6月の「黒人研究の会シンポジウム」(↓)に次いで2番目の出張となった。

 着任したばかりで予算の都合はつかなかったが、落ち着いた頃に誘われていたら、研究費で行けたのにと思っても後の祭りである。もちろん業績の一つになった。帰国後、研究会の会誌に報告記事(→「アレックス・ラ・グーマ/ベシィ・ヘッド記念大会に参加して」)を書き、大阪工大の紀要(↓、→「Alex La Gumaの技法 And a Threefold Cordの語りと雨の効用」)にも載せてもらっている。嘱託講師を辞める直前に原稿を提出し、紀要と抜き刷りは赴任した先に届けてもらった。辞めたあとも世話になったわけである。

 参加者が50人程度で、北米に亡命中の南アフリカの人が大半だった。大体、大学関連の仕事に就いている人が多かった。もちろん特別ゲストはブランシ夫人で、初めて会えたのは何よりの光栄だった。1985年に会議を予定していたらしいが、夫のラ・グーマがキューバで急死して、とても会議どころではなくて延期になっていた。夫人も少し落ち着いたので、仕切り直しで、南アフリカの別の亡命作家のベシィ・ヘッドと二人の記念大会となったようだ。

ソ連でのラ・グーマ(ブランシさんから)

 夫人とは会議の前日の夜にエイブラハムズさんの自宅で開かれたパーティー(↓)で初めて会った。伝記でエイブラハムズさんがブランシさんについても書いていたし、インタビューでも話をしてくれていたので、ある程度は知っていた。清楚で、優しい人だった。会議ではラ・グーマとともに亡命して闘い続けていた人に相応しい雰囲気が漂っていた。特別講演でラ・グーマのことや南アフリカのことをいろいろしゃべってくれた。ソ連での話もおもしろかった。東側諸国では南アフリカの黒人を正式な外交官として迎え入れていたので、ラ・グーマはソ連では大の人気作家だったようである。

 8月3日と4日に会議があり、夫人が特別ゲスト、ソ連やナイジェリアからの参加者もあった。エイブラハムズさんの話や、ラ・グーマのケープタウン時代の親友ジョ一ジ・ルーマンさんの話も面白かった。ルーマンさんはカナダに住んでいるらしかった。日本でも知られているコズモ・ピーターサさんたちが、二人の作家の作品朗読や短い劇も披露した。

 二日目には、プログラムにはなかったが、特別ビザを得て南アフリカから直接駆けつけたアハマト・ダンゴルさんの現状報告もあった。ブランシさんとダンゴルさんの談話が翌日の地元新聞に写真入りで報じられていた。私は日本の現伏に少し触れたあと、ANC東京事務所のマツィーラさんからのメッセージと第二作『まして束ねし縄なれば』(↓)の作品論を読んだ。日本は南アフリカを苦しめている筆頭国の一つだが、その国からの参加者に対する温かい視線はうれしかったが、経済大国日本に寄せられる期待の大ききも痛感した。しかし、発表の時の視線は今までで一番厳しかった気もする。

 エイブラハムズさんはアフリカ人政権が誕生した直後、マンデラの公開テレビインタビューを受けて西ケープタウン大学(↓)の学長になった。「管理職になって役に立ちたい」という願いが叶ったわけである。学長を二期務めた後、ミズーリ大学セントルイス校で招聘教授をしていた時に一度メールの遣り取りをしたきりである。
次は、一般教養と授業、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:黒人研究の会シンポジウム

 宮崎医科大学で授業が始まったあとの6月に大阪工大(↓)で(「大阪工大非常勤」 )「黒人研究の会」の総会があり、シンポジウム(↑)を開催した。

 研究会では毎年6月は例会をせずに総会を開いて特別な企画を続けていた。普段の例会には神戸や大阪、京都や三重などの人が細々と参加していたが、総会には全国から会員が集まった。当時の会員は100名くらいだったと思う。入会したすぐあとから月例会の案内や入会案内、会誌(↓)や会報の編集もするようになって、だいぶ個人的な繋がりも広がっていた。研究会は1954年に創られ、1950年代、60年代のアメリカの公民権運動(the Civil Rights Movements)や1960年前後のアフリカの独立の頃が一番活動に活気があったようだが、その後は会誌の発行と例会を何とか続けているという状態だった。

 その年はアフリカとアメリカを繋ぐものという企画だった。司会をアフリカ専門の先輩がして、ケニアのムアンギさんがケニアの政治事情、三重の北島さんがアフリカと宗教、私がアフリカとアメリカを繋ぐリチャード・ライトについて話をするシンポジウムだった。研究会に入って6年目で、だいぶ例会での顔馴染も増えていた。最初はアフリカ系アメリカの作家で初めて会誌にも毎年作品論を載せてもらっていた。会誌でも毎年ライトの作品論を継続連載していたし、1985年には「ライトシンポジウム」(↓)に参加して、例会でも報告していた。その後南アフリカの作家で「MLA」の発表をやり、ラ・グーマの伝記家を訪問したことも報告していたので、アフリカ系アメリカからアフリカに移行している感じだった。

 ライト(↓)は1947年にアメリカに見切りをつけてパリに住んでいたが、そのころからアフリカでは独立に向けての動きが激しくなっていった。もちろんヨーロッパで殺し合いをして、戦場になったヨーロッパの総体的な力が一時急激に弱まったので、アフリカ諸国が自立に向けて動き出せたという側面もある。この頃から、ヨーロッパに物資や武器を送って大儲けし、戦場とは無縁で無傷のアメリカは、国内の復興に目が離せないヨーロッパ諸国を尻目に、世界のあらゆる場面で傍若無人に振る舞い始めた。ニューヨークからパリに移り住んだライトは、当時のそんな事情の反映している象徴的な人物にも思えたので、その辺りを中心に話をした。実際には事前に打ち合わせをしなかったので、各自が同じ方向で各自の話をするだけのシンポジウムだったが。先輩がそれぞれをうまく繋いでくれた。

 司会の先輩がシンポジウム(↓)の初めに「ムアンギさんともども3月までここで授業もしていたので、知っている学生もいるでしょう」と紹介してくれた。教歴の最初の非常勤から嘱託講師まで世話になり、紀要にも載せてもらった。LL教室を使わせてもらって、映像や音声をふんだんに使って授業をやらせてもらった。普通非常勤は居場所がないが、LL教室の3人の補助員の学生にはずいぶんと助けてもらった。世話になりっぱなしだった。4月から正職員の口が決まり、そこから出張で参加出来たわけである。大学(↓)ではシンポジウムも研究業績になる。このあと前回の総会で企画したアフリカ系アメリカ人の女性作家のテーマと併せて本になる予定だった。それも業績になる。小説を書ければそれでよかったが、表向きは大学では研究と教育と社会貢献が教員に求められるので、研究をしている振りもしなければ居心地が悪い。これらの業績は、いい隠れ蓑になってくれる。

 最初飛行機が落ちないかと心配した妻から列車で行くように強く言われてそれを忠実に実行していたので、行き帰りはなかなかの苦行だった。夜の11時の寝台急行に乗り翌朝到着、帰りも同じで、四人分の寝台のある小さな空間は、息苦しかった。特に小倉からの5時間は苦行だった。小倉から新幹線を使う場合も、小倉と宮崎間の特急車(↓)の中の5時間は、長かった。宮崎では飛行機を使うにしろ、列車を使うにしろ、神戸や大阪に行くのもお金がかかる。それが積もり積もれば、陸の孤島になるのも自然の成り行きである。行き来すると、二つの世界の違いがよくわかる。台風を永年経験すると、台風が来ている時には余程のことがない限り外出しない。身を守る術だから、当然と言えば当然である。しかし、この前の大きな台風の時にテレビに映っていた人は、暴風雨の中に外にいた。先ずあり得ない感覚である。その映像を観た時に、宮崎も長くなったんだと再確認した。髭に下駄の風貌が学生運動の過激派と結びついたようで警官に呼び止められて職務質問を受けていたが、こちらに来てからは経験がない。学生運動や同和に絡む高校紛争も全くの無縁で、制服なしも別世界の話である。同じ国に住んでいるとは思えなかった。まあ、それも時とともに感覚が鈍って行くが、それもそれで仕方ないか、なんかそんな風に思えてくるのも困ったものである。このシンポジウムが、赴任後最初の出張になった。
 次は、ラ・グーマ記念大会、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:自転車で

 引っ越してきて「借家に」入ったのは、大学を推薦してくれた人の家を借りたからである。国家公務員なので大学の近くに職員宿舎も二つあったようだが、家探しはしなかった。最初から一軒家を借りて住むつもりだったので、何かの話から「住むところどうしますか?」と聞かれたとき、そのことを伝えた。そのとき「ちょうど、前に住んでいた家が空いてますので、住んでもらっていいですよ」と言われた。場所を聞いて大学から遠い気もしたが、大学の人と会わなくて済むし、人目を気にしなくていいのでかえっていいかも知れない、と考え直した。妻にその話をしたら賛成してくれたので、その家を借りることにした。敷金や礼金なども要らずに、不動産屋さんを通さずに相場の家賃で貸してもらえることなった。宮崎神宮駅(↑)の少し西側辺りに県立図書館などの文化施設があり、その近辺に旧宮崎大学教育学部と農学部と工学部の別々のキャンパスがあるらしかった。推薦してくれた人は元々農学部にいたので、通勤圏内に分譲されていた新築の家を購入したわけである。宮崎医科大学(↓)に異動した時に、通勤圏内の南宮崎駅近くに新築の分譲住宅を新たに購入して、まだ処分せずに空き家にしたままだった。

 昔は街の中心部が南宮崎駅辺りだったようだが、その時は宮崎駅や市役所のある橘通が中心になっていたようだった。橘通の近くにデパートが3つあり、近辺の商店街もまだに人通りがあった。宮崎神宮の大祭の神武さまは宮崎神宮(↓)から橘通をパレードする。医科大は郊外の清武町に創られた。政治的な思惑もあったのだろう。地方は政治家と建設業者の持ちつ持たれつが多いので、大学の建設は政治家の一大行事でもある。組合の強かった旧宮崎大学は文部省からは敬遠されて、予算も国立大学の中では最も少ない大学の一つだった。だから新設の医科大学には地元選出の3人の国会議員の介入が強かったようで、組合もない文部省のいいなりの大学になった。当然大学の建設にも口を挟んだだろう。国からの大型予算を地元に振り分けて、次の選挙での地盤を固める、大事な戦略である。

 家からの交通手段は自転車なので、行動範囲は概ね自転車で行ける範囲が多かった。少し北の海側に市民の森があり、西側には宮崎神宮と平和台があった。家族でよく出かけた。市民の森まで行けば、少し足を延ばせば一ッ葉海岸があり、時々砂浜にまで行った。買い物は私の役目でデパートや大学の途中の量販店や、宮崎神宮と江平の八百屋さんなどに自転車で通った。最初は驚くほどメロンが安く八百屋さんにあったので、いろいろ世話になった人に送り届けた。今なら宮崎観光ホテルのバイキングに家族ででかけることが多かったと思うが、まだバイキング形式のレストランはなく、デパートや一番街の中華料理店や大淀川にかかる橋を渡った先の中華料理店、それに大淀河畔(↓)のレストランに四人で出かけた。平和台にもレストランがあったようだが、みんなで行ったことはない。

 市民の森は案内板には阿波岐原森林公園と書いてある広い公園である。自転車で20分くらいで行けた。引っ越して来てからしばらく経った頃に、花菖蒲園に花が咲き出し、妻は麦わら帽子とランニングと短パンの恰好で、毎日自転車に乗って花菖蒲(↓)を描きに行っていた。後に装画を頼まれて、この頃の絵が本(↓)に残っている。

上田進『琴線にふれる教育を求めて』(1993/3/20)

 1月の終わりから2月にかけては梅(↓)だった。暁方に梅の実を拾いに行ったこともある。ウェブで調べると「阿波岐原森林公園の中にあり、約210本の紅梅、白梅」の樹が植わっていたようである。梅の絵が手製カレンダーに残っている。(↓)

「小島けい2006年私製花カレンダー2006 Calendar」2月

 明石は坂道も多く、地面そのものが少なかった。昔は山や畑ばかりだったようだが、神戸や大阪のベッドタウンになってからは須磨、垂水、舞子、朝霧、明石、西明石と西へ、西へと開発先が延びて行った。非常勤を頼まれた神戸学院大学(↓)も1966年に創られた時は周りは畑だったようである。自転車で急な坂を登って土曜日に3コマの授業に通った。最初はレベルも高くなかったが、薬学部が出来てから評価も上がったようである。専任の話は一切なかったが、学生はおとなしく、可もなく不可もなくという印象が残っている。他の非常勤のように満員電車や大阪梅田の地下街の混雑で疲れなくて済んだのは何よりだった。もちろん、宮崎には満員電車も地下街の混雑も存在しない。電車も1時間か2時間に一本で、別世界である。

 こちらに来て長いのでずいぶんと慣れてしまったが、先日鹿児島から来た人が「今頃稲刈りですか?」とびっくりしていた。「台風の前に刈り入れをする超早場米ですよ」と言ったら「鹿児島にはありませんね」と言っていた。「台風銀座は同じなのに、対処の仕方がずいぶんと違うが、どうしてなんだろう?」と一瞬考えた。「なんでやろ?」
 次は、黒人研究の会シンポジウム、か。