つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:非常勤

 1988年の4月に宮崎医科大学(↑)に決まって大学に行ったとき、推薦してくれた人に英語科の人を紹介され、その人から後期からの非常勤講師を頼まれた。3月28日に来たあと大学に顔を出し、非常勤の世話をしてくれる教育学部の人がある旧校舎に連れて行ってもらった。挨拶に行ったのが街中の旧校舎で、そのあとすぐに今の宮崎大学のメインキャンパス(↓)に引っ越しをしている。教育学部の敷地にはしばらくしてから新しい大学が建った。新設大学の設立時の会議に参加したので、旧宮崎大学の移転や公立大の創立の時に近くにいたわけである。

 宮崎に来るまでの5年間も非常勤に行ってはいたが、今回は専任があって相互に助け合うという構図なので基本的にずいぶんと違った。教職大学院(↓)で修士号は取ったものの、大学の職を得るには学部から入学して博士課程を終えるのが一番の近道のようだったが、受験勉強をしなかったから初めからその道はなかった。途中からと思って遣り始めたが、他から博士課程には入れてもらえない構造的な壁は現実的に結構厚かった。どこでも公募はやっていたが、実質的な公募は少なかったので、履歴書にある学歴と教歴と業績を積み重ねて、推薦してもらうのを待つしか道はなさそうだった。非常勤をやりたかったわけではないが、他に方法はなかった。1年目は先輩に世話してもらった「大阪工大非常勤」のあと、「二つの学院大学」も頼まれ、5年目は週に16コマも持っていた。今回は農学部の2コマだった。

 非常勤に来ていた人とも知り合いになった。専任の助教授の人が気さくで、誘われてその人の部屋でお昼を食べるようになった。医大の研究室はすぐ近くだったが、お昼を挟んで2コマだったのでどこかで食べる必要があった。弁当を持って行って、いっしょに食べた。そのうち人が加わり、そこで知り合いになる人もいたわけである。前に非常勤に行っていた大阪や神戸と違って、こちらでは大学そのものがあまりない。名前を聞いたのは高鍋の南九州大(↓)、市内の産経大、都城の高専くらいだった。必修の数が多かったのでコマ数もかなりの数だったので、とても選任だけで足りなかった。他は専任を持っていない人が担当していたことになる。宮崎での非常勤探しは難しかったようで、2年目からコマ数が増えて行った。まだ高校のALT(英語指導助手)やコミュニケーション英語は制度としてなかったので、英語がしゃべれるだけの外国人が溢れる事態はなく、外国人はちらほらだった。教育学部英語科は中学校の英語課程の英語を担当していて、教授が4人助教授が3人外国人教師1の8人体制だった。業績がなくても年齢が来れば教授になれるなあなあの昇級人事で、教授が多く、完全な逆算三角形である。労働条件を管理職と交渉する組合に守られて、普通にしていれば教授に昇格して教授で定年を迎える、終身雇用と年功序列、外から見ればあまりにも生ぬるい国家公務員の体質の典型だった。後に統合するとは思ってもみなかったが、二つの大学を比較するとその体質が浮き彫りになり、逆三角形の構図が崩れた。

 一年目の後期に担当したのは農学部だった。一般教養枠の英語だったが、中高のように「英語」をするのではなく「英語」を使って何かをする、学生もいっしょにやる、が基本で、映像や音声、雑誌や新聞をふんだんに使った授業は、最初は戸惑う学生もいたが、楽しそうだった。「誰か調べて来て発表せえへんか?」と聞いたら「はい」「はい」と返事があって、活気があった。特に植物生産や森林緑地や海洋生産や獣医とかの名前が浮かんで来るので、その人たちが率先して発表してくれたんだろう。有名なセネガルのユッスー・ンドゥール(↓)の発表をしてくれた人が、宮崎市内でオブラデエィオブラダの入ったJOKOのアルバムを見つけて来てみんなに音楽を聞かせてくれたときは「へえー、宮崎にもユッスー・ンドゥールのCDがあるんや」と感心した。まだ持っていなかったので、JOKOはコピーさせてもらった。毎年授業であった学生が医学科の研究室まで遊びに来てくれていたから、少しは興味を持ってもらえたのかも知れない。その時の学生でまだ遣り取りが続いている人もいる。
 次は、アパルトヘイト否!、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:秋桜(こすもす)

 100坪余りの借家の東半分が畑だった。畑の秋桜(こすもす)は採って家の中にも飾ったが、絵(↑)にもなり、カレンダー(↓)にも残っている。(→「秋桜」)推薦してくれた人の妻が野菜を作っていたようだが、入った時は引っ越し後しばらく経ったような気配で、畑にはコスモスが一杯に咲いていた。こすもすには「風に吹かれてそよそよ揺れる」という感じのイメージがあったが、畑のこすもすを見てイメージが変わってしまった。人の背丈は優に越えていたからである。逞しかった。聞くと、新居に入る時から畑で野菜を作るつもりで、隣町の黒土を業者に運び入れてもらっていたらしい。土地が肥えていたわけである。黒土には如何にも肥えているような艶があった。霧島の噴火で吹き飛ばされた火山灰が長い間堆積されて出来たようで、隣町の清武町や田野町はその土で覆われているようだ。自転車で大学に行くときに見る田んぼもこの黒土である。大学が造成される前は田んぼだったようだから、建物の下はこの黒土である。病院脇の田んぼも黒々としている。触ってみると、結構細かく、水捌けがよくないとどろどろになってしまう。こすもすが枯れたころ、根を家の周りに丁寧に植え替え、家主の妻にその話をしたらにやにやと笑っていた。こすもすが一年草であることも知らなかったわけである。

「私の散歩道2010」10月(→「私の散歩道~犬・猫・ときどき馬~一覧

 畑の北側に家はなかったので、陽当たりはよかった。北側に蜜柑の樹が二本あった。樹は大きく結構実がなりそうだった。知らぬとは言え、明石の家に淡路島から子蜜柑を売りに来た時、食べてみると甘かったので、ひと箱家主に送ったことがある。蜜柑天国の宮崎に、しかも畑に蜜柑の樹がある人に、わざわざ小蜜柑を送ったわけで、知らないのは罪なものである。その樹は生木のまま虫に食われて枯れてしまった。体に害のない処置をすべきだったと少し悔やんでいる。当時公害で話題になった土呂久(↓)訴訟を支援していた元朝日新聞の記者が近くに住んでいて、取材協力などもしていたので、農薬には敏感になっていた。今から思うと、希釈した酢をかけるくらいは試してみるべきだったと思う。

 東の端には大きな太い山桃の樹があった。かなり大きくなっていて、その年にも赤紫色のたくさんの実をつけていた。次の年には実の落ちる家から苦情が来て、枝をばっさりと切った。家主にその話をしたら、就任祝いに助教授の人から苗木を贈られて植えたものらしかった。開学以来十数年の間に、充分に大きくなっていたわけである。大学の近くに越して来て大きな山桃を拾ってジュースを作り始めたとき、あの山桃もジュースになってたのになあと思っても後の祭りだった。今は座って畑作業をするようになっている。鍬を持って中腰で作業をすると腰が痛くなるからである。最近は年配の人が鍬を使っているのを見ると「あの人はまだ作業が出来るんやなあ」と感心する。その頃はマッサージのおかげで白髪も消え、髪も黒々としていたし、鍬で耕しても腰が痛くなることはなかった。

 作る野菜は大体決まっていた。夏野菜では胡瓜、茄子、ピーマン、とまと、オクラ、南瓜、冬野菜は大根、レタス(↑)、ブロッコリー、絹さや豌豆(↓)と葱である。苺は難しくて作れていないが、いつかやってみようと思っている。とまとも難しい。春先は急成長する青虫に追い付けず、真夏は日照りと蚊に悩まされて畑に出られないことも多かったが、全般には二人で食べるには十分すぎる野菜が獲れて、お裾分けするのに忙しかった。しかし、研究室の空間と言い、野菜の取れる畑と言い、贅沢な話である。本当は、体が動くだけでも充分に有難い。
次は、非常勤、か。

つれづれに

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つれづれに:英語科

講義棟

 同僚に初めて会った時、在外研究と非常勤の話のあと、授業をどう持つかについて「あなたが1年生、私が2年生を担当、それでどうですか?」と言われた。開学当初は5年生まで英語があって隣の大学の非常勤の助けを借りていたそうだが、赴任した時は、外国人教師と2人で1、2年生を担当していた。授業は1、2年次に週2コマずつ、1年生は英語と英会話、2年生は医療英語と英会話の授業があり、通年100分が30コマだった。私が決まって1年生の英語を私が、2年生の医療英語を日本人の同僚が、1、2年生の英会話を外国人教師が担当することになったわけである。外国人教師はアメリカ人だった。同僚はアメリカ人にずっと難儀させられていたようで「あの人とは関わらない方がいいですね。私が間に入りますから、直接接しないようにしたらどうですか?」と言ってくれた。元々英語もアメリカ人も苦手だったし、日本の職場で当然のような顔をして英語を使う神経にはついて行けなかったので、有難く同僚の気持ちに従うことにした。その後、案の定、学生から何度も苦情を聞いた。一人は親も呼んで面談したようだが、学生は話のあと私の研究室に来て「毛唐は嫌い、と言ってしまいました」と哀しそうに言っていた。アメリカ人は折れずに、その学生は単位を落としていた。隣の事務室で、オランダから帰ったその人から話しかけられたことがある。もちろん日本語でだが。「オランダ人、押しが強い。勝てませんでした」ということだった。南アフリカのことをやり始めたところだったので、なるほどと変に感心した。南アフリカは先に来たオランダ人とあとから来たイギリス人がアフリカ人から土地を奪って白人連合の政府を作った国である。今はそこにアメリカも加わっているので、得心するしかなかった。日本政府も白人政府と手を握って甘い汁を吸い続けているので、何とも微妙ではあるが。

 元々英語科は教授1、助教授か講師1、外国人教師1の枠だったようで、初代の教授が移動した後は長い間教授のポストは空きのままだった。当然、教授会での投票権はない。私は教授の代わりに、講師で採用されたことになる。力関係は予算にも反映される。語学はなぜか他の講座の半分だった。社会学と数学はどちらも私と同じ時期に講師が採用されていたが、教授枠の予算がついていた。研究活動をやっている人は人件費や旅費を有効に使うが、二人は研究成果も芳しくなく予算を使いこなせていないように見えた。人事には教授の推薦が要る規定なので、実際に担当している人の声が反映されないのも構造的におかしい。不補充の教授枠を埋めるのが執行部次第というのも正常とは言えない。

最初の年に隣の部屋の事務の人が「撮りましょか?」と言って撮ってくれた

 医学生の場合、その時は医学生と接したこともなかったのでよくはわからなかったが、1年生と2年生では少し条件が違うらしかった。それも考慮したうえで、私を1年生の担当にしてくれてたようだ。当時、解剖が1年次からあったが、入学当初は受験モードが消えないうえ、受験を終えてほっとしている傾向が強い。医学部に入学したのに、1年次では専門が一つもなくて拍子抜けしたという声が大きかった点が考慮されたようだが、実際には筋骨や臓器の予備知識なしにいきなり解剖と言っても問題がある。インパクトの点では十分だろうが、しっかりと理解するには準備不足は否めない。2年になると、急に基礎医学が増える。生化学が2つと生理学が2つに組織学、それぞれ十分すぎるくらいの内容で、化学が苦手な人には結構ハードだし「1年生がなんだったんだろう?」と言えるだけの分量である。そうなると、教養の枠組みの英語は自然におろそかになる、という傾向があった。1学年100人を4つのクラスに分けるので、1クラス25人、非常勤で行っていた旧宮崎大学(↓)に比べればかなり少人数である。基本的に出席は取らなかったので、大抵は20人前後で授業が出来た。在外研究の期間だけ2年生も私が持つことになった。その人が在外研究に行かなかったら、一1目に2年生とは会えなかったわけである。
 次は、秋桜(こすもす)、か。

つれづれに

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つれづれに:同僚

 3月の末に引っ越しをして大学に顔を出し、推薦してもらった人に英語科の人を紹介してもらった。7歳年上で、県北の高校から東京の大学を出たあと、また宮崎に戻ったという話だった。地方の一番手は東京に出る人が多いので、優等生である。性格も温厚で、話し方も穏やかだった。空港からのタクシーの中で「田植えをみたんですけど‥‥」と話をしたら「超早場米ですね。台風が来る前に稲刈りをするんです。お百姓さんの知恵ですな」と解説してくれた。まともな人のようだから、一般教養のあり方には馴染んでいない筈である。特に私を推薦してくれた人は信用していないだろう。教授会に出す人事には教授の推薦書が要るらしかった。私の推薦者も教授だが、普通に人間関係がうまく行っていれば、専門分野をよく知る英語科の同僚に先ず相談する。実際にいっしょに英語の授業を担当するのは英語科の同僚で、学生に何が必要かなども含めて他の誰よりも事情を知っているからである。教授の推薦が必要なら、その人が推薦する人の書類に署名するという方が自然である。そうしなかったのは私を推薦してくれた人と英語科の同僚の関係がよくないということだろう。つまり、同僚にとって私は招かれざる客だったわけである。

最初の年に隣の部屋の事務の人が「撮りましょか?」と言って撮ってくれた

 最初に会った時に、同僚から「後期から在外研究に行く間、授業と非常勤で協力してほしい」と言われた。在外研究は初めて聞く言葉だった。大学の教員は一度だけ公費で外国に行くことが出来た。それが在外研究で、時期にもよるが赴任した頃は9か月の短期と3か月の長期を選べた。研究室があるうえに、研究費も出て、校費で在外研究にも行けるわけである。非常勤の時には考えもしなかった展開である。期間が長い時期もあったと聞くが、徐々に短くなって、だいぶ前に制度自体がなくなっている。おそらく明治維新の頃に考えられた外国視察などが制度化されたものだろう。黒船の武力で無理やり開国を迫られて産業化を選び、欧米に追い付けで突っ走ることになった中の政策の一つだろう。外国人教師の制度も同じだ。明治維新の影響の濃い制度が生き残っていたわけである。その人はアメリカに6か月とイギリスに3か月の予定で申請していたと聞く。「何人も人事がうまくいかなくてなかなか在外研究に行けなかったので、あなたに来てもらえてやっと行けそうです」とも言われたので、その意味では待たれていたわけか。

講義棟

 会ったすぐあとに、移転する前の教育学部に連れて行ったもらった。旧宮崎大学は農学部と工学部と教育学部があって、3学部の英語を教育学部が運営管理してた。後に統合してその大学の人たちと同僚になるとはこの時夢にも思わなかったが、最初の年から非常勤に行ってたので、統合の時に中の事情はよくわかった。1年生と2年生で各8コマの英語の授業があった。相当な数である。一般教養の枠組みで火曜日と木曜日に一斉に授業があった。各学部の学生を出席順に45名ずつ均等にクラス分けしていた。従って他の学生と同じクラスというわけではなかった。高校とは違って結構な数の学生が単位を落とすので、落とした学生は元のクラスで再履修させていたので、留年者が多い場合は1クラスの数が50を越える場合もあった。教育学部の英語科の教員が10名近くいたと思うが、とてもそれでは持ち切れずにかなりの数の非常勤の予算を組んでいた。農学部と工学部の非常勤率は極めて高かったと思う。同僚から頼まれた非常勤はその中の農学部の2クラスだったわけである。旧教育学部は今の公立大の場所にあって、前身は宮崎女子師範学校らしい。当時の建築仕様で2階建ての木造校舎(↓)だった。卒業した大学も同じような木造校舎だったので、違和感はなかった。古びた研究室で、主任の人に紹介された。教歴のために行ってた非常勤と違って、今回は専任の相互援助の形で頼まれたわけだが、国家公務員の給料が多くなかったので、非常勤講師料は有難かった。後期から授業が始まった。
次は、英語科、か。