つれづれに

つれづれに:大寒

 2、3日前に→「梅」の花が咲いているのを見かけた。京都の北野天満宮とか梅の名所はたしか2月に入ってからだったような気がする。(→「梅の季節に」)寒い時期である。京都の錦市場(↓)は北陸からの品物の通路でもあり、寒い風の通り道でもあると聞いたことがある。(→「装画第1号」)南の地域にいて、冬の一番寒い時期がほとんどないのに慣れてしまっているので、この辺りは旧暦と大きくずれている感じが強い。

 今日から大寒(だいかん)の時期に入る。今年の小寒(1月5日~1月19日)はずいぶんと暖かかった。来週の火曜日くらいから氷点下になる予報が出ているが、それもしばらくの間だろう。昨日と同じように、ぐずついた一日である。それもあしたの午前中くらいで終わる予報だ。その後は、しばらく晴れの日が続きそうである。

ぺぺとリリと梅:「私の散歩道2014~犬・猫・ときどき馬」2月

 昨日はどこかで梅の写真を撮ろうと白浜にカメラを持って行ったが、通る道の近くにはいい梅の樹がなかった。青島への旧道への入り口をしばらく行くと、右手に好燐梅(↓)の掲示が見える。市が山肌にたくさん梅の樹を植えて公園にしている。一度妻と二人で自転車で行ったことがある。線路脇で「好燐梅はどこですか?」と尋ねたら、「あっち、少し向こうですよ」と教えてくれた。しかし、自転車をこいでもこいでも行き着かなかった。緩やかな坂道が延々と続いていた。この前回って来た自治会の回覧板には梅見の行事が予定されていて、2月の10日だそうだ。参加者にはぜんざいがふるまわれると書いてあった。

 昨日は今日と同じで小雨の降る天気だったが、白浜への行き帰りにほとんど雨に当たらなかったのは幸いだった。雨が止んでいる午前中に少しの時間だが、レタスの再植え替えをやった。畑の広さも限られているし、レタスの種は細かくてたくさん苗が出来るので、ついぎっしりと植え替える(↓)くせがついている。それを、また植え替えて一つ一つが大きくなるようにしているのである。年末にまだ小さい時に毎日摘んで食べていたら、葉が少々不足気味になった。たまたま最終日の29日にレタスが半額になっていたのを2個買って、しばらく摘むのを止めていた。だいぶ大きくなっている。摘むのをまた再開できそうで、これで4月くらいまでは大丈夫である。虫が出始めるころに、希釈した酢を撒(ま)いて、何とか食い止められるといいが。

 梅の写真は撮れなかったが、何枚か写真は撮ってきた。途中で見るラーメン屋さんの写真も撮ってきた。先週は駐車場に車が1台もなかったが、昨日は9台も止まっていた。大盛況である。こんな日が続けば、店を閉めずに済むかも知れない。要らぬお世話だが。

 加江田川の河口には、この時期水鳥がたくさんいる。その写真も撮った。曇り空で川や海もどちらかというとグレイがかってはいたが。水鳥には水の色は無関係である。こちらも要らぬお世話だ。

ぐずつき加減だったので、青島の参道には人出がほとんどなかった。店の光景を撮るいつもの場所には、偶然一人もいなかった。青島神社への橋の辺りには傘をさしながら歩く参詣客がちらほらいただけだった。

 いつものみらいはしと白浜海岸の2枚である。来週から少し気温が下がりそうだが、2月4日には春が立ち、寒さが和らぐのももうすぐである。

つれづれに

つれづれに:小屋

 前回の→「戦士」で書いたヨーロッパ人の蔑みの対象の一つになった小屋(↑)の続きである。ヨーロッパ人はアフリカ人の小屋を見て「みすぼらしい」や「粗末だ」の類の未開の象徴にしたかったのだろうが、西欧風の家(house)とアフリカ人にとっての小屋とは、元々概念自体が違う。

 1990年代の初めにジンバブエ(↑)に行って仲良くなったジンバブエ大学の学生→「アレックス」からその概念の違いの説明を受けたことがある。西欧風の家houseとは違って、大きな敷地内、家屋敷というべき居住区の中に両親の小屋、子供たちの小屋、居間用の小屋という風に分かれて小屋がある。アレックスはそれぞれの小屋をcompartmentという言葉を使っていた。ジンバブエは7割がショナ人であとがンデベレ人、小屋のことをショナ語でインバ(imba、↓)と呼んでいた。1980年に独立したとき、それまで使っていたローデシアという国名をジンバブエに変えているが、ジンバブエ(Zinmbabwe)は大きな(Zi)石の(bwe)家(imba)という意味らしい。

小島けい画

 20世紀の後半にヨハネスブルグに次ぐ第2の金鉱脈を探しに南アフリカのケープ州から私設軍隊を従えて今の首都ハラレに来て、そのまま居座った人物Cecil Rhodesが国に自分の名前をつけてローデシア(Rhodesia)にしたそうである。(→「ジンバブエの歴史1 百年史概要と白人の侵略」)居座った場所は今はCecil’s Squareという公園になっていて、写真を撮る名所になっている。

石の建造物大遺跡→「 グレートジンバブエ」

 ジンバブエでは首都ハラレの借家に家族で住んだ。家主に雇われていた→「ゲイリー」と仲良くなり、子供たちが通う小学校にみんなで行った。ゲイリーのところも「imba」だった。ゲイリー夫妻のimbaに入れてもらったが、思った以上に室内は広く、しっかりとした造りで、床が磨き上げられて清潔だった。家屋敷にたくさんのimbaがあり、大家族で暮らしていた。→「ルカリロ小学校」(↓)では大歓迎を受けたが、私たちは初めての外国人だった。首都から車で1時間ほどの距離だったが、その村を訪ねた外国人はいなかったということである。侵略者が広大なアフリカ大陸のごく僅かな場所しか行っていないのである。行ってもアフリカ人の生活ぶりを見ようとはしない。行かないで、見ないでアフリカやアフリカ人がわかる筈がない。実際に行ってみて、欧米が勝手に捏造(ねつぞう)した偏見が多いのを実感した。小屋が蔑(さげす)みの対象の一つになった絡繰(からく)りである。

 ルーツの主人公クンタ・キンテは15歳の日に自分の小屋をもらった。小屋にお祝いに来た祖母から、世話になった母親に何かプレゼントしなよと言われて、ドラム用の木を切りに出かけて、奴隷狩りに捕まってしまったのである。テレビドラマの祖母役は、歌手で詩人のマヤ・アンジェロウ(↓)である。→「黒人研究の会」で女性作家を研究していた会員から、月例会で発表を聞いたことがある。自伝の日本語訳もある。

つれづれに

つれづれに:戦士

 アメリカのテレビドラマ→「『ルーツ』」の主人公のクンタ・キンテ(↑)は自分たちのことを戦士(warriors)と呼んでいた。外敵から村を守るためだけに、すべての男性がそういう訓練や教育を受けていたのである。15歳で割礼(今でいう包茎の手術)を受けて大人の仲間入りをする。自分一人の藁葺(わらぶき)の小屋(↓)を家族からもらって一人暮らしを始める。そして、村の教育係から戦士になるための教育を受ける。村の大人は、村の子供たち全員を村全体が育てるという昔からの慣習を守っていたのである。

 アレックス・ヘイリー(Alex Haley, 1921-92)が船舶記録や奴隷船の→「積荷目録」(Cargo Manifests)を調べて自分の7世代前の祖先クンタ・キンテの話をその村の歴史を語るグリオをから聞いたのは、西アフリカのガンビア海岸(↓)からモーターボートで川を4日間もかけて遡った村だった。ヨーロッパ人の金持ち層の思惑通り、奴隷貿易や侵略行為を正当化するためにアフリカ人を蔑(さげす)み、キリスト教の高度なヨーロッパ文明の世界に引き上げてやるという高慢な捏造(ねつぞう)を一般の白人層に信じさせるには、こういった藁葺小屋の小さな村のイメージは好都合だった。

 しかし、実際は違う。西アフリカの中心部にはずいぶんと昔からしっかりとした統治機構を持つ王国がいくつもあり、豊かな埋蔵量のあった金をベースにした貨幣経済が発達し、大規模な交易網もあった。トワレグ人が駱駝(らくだ)の背に交易品を乗せ、サハラ砂漠を越えてエジプトまで運んでいた。当時の世界の交易の中心地だったエジプトのカイロを経由して、遠くはインドや中国と、ヨーロッパや東アフリカ、南アフリカと繋がっていたのである。豊かな王国を訪れたヨーロッパ人がその繁栄ぶりの報せを持ち帰っていたので、アフリカ人を蔑む風潮はなかったわけである。田舎もクンタ・キンテの村のように小規模ながら自給自足の生活をし、外敵から村を守り、村全体で次世代を育てる教育制度も整っていた。その制度や仕組みが、代々しっかりと受け継がれていたのである。当時のアフリカは、ヨーロッパや中国や日本と違って、文字を使わない口承の世界だった。しかし、考えてみればクンタ・キンテが「ある日、森に木を切りに行っていなくなった」とヘイリーに語ったグリオの存在は、文字文化が当たり前の人間からすれば、驚異の世界である。村の歴史を丸々覚え、後の世代に口承で伝えていて、実際にヘイリーがそれで祖先を確かめることが出来たのだから。ドラマの中のグリオは村の歴史を何時間も諳(そら)んじていた。グリオにはきっと、かなり理解力や記憶力の優れた人が選ばれたのだろう。世襲だったようである。欧米や日本でも人気のあったセネガルの歌手ユッスー・ンドゥール(↓、Youssou N’dour, 1959-)は自分がグリオの子孫であることを誇りにしていた。常にグリオの子孫であることを意識して歌を作り、歌っていたそうである。セネガルはガンビアの北隣で、ユッスー・ンドゥールが音楽活動をしている首都のダカールは、世界一過酷な自動車レース「パリダカ」(パリ・ダカール・ラリー、Paris-Dakar Rally)で有名である。グリオは吟遊詩人と日本語訳されている場合が多いが、キンタ・キンテの子孫の近くでは、村の歴史を口承で伝える人だったわけである。

 藁や泥の小屋はヨーロッパ人の蔑みの対象の一つになることが多かったが、それも実際は違う。次回は家なども含む、制度の違いについての続きになりそうである。

つれづれに

つれづれに:奴隷船一等航海士

 18世紀の半ばが始まりのテレビドラマ→「『ルーツ』」の中では、アフリカで捕まえられた奴隷が家畜のように扱われていた。鎖に繋がれたまま甲板に連れて行かれ、運動不足を解消するために、奴隷の一人が鳴らすドラムに合わせて「ほら踊れ、ほら跳ねろ」と船員が周りで甲板に鞭を打ち付ける。船長(↑)が臭いが酷いと一等航海士に不平をこぼすと「わかりましたと、きれいにしましょう。清潔が一番です」と返事して、部下に海から汲み上げた海水を奴隷たちにかけさせる。傷口に塩水が当たって、奴隷たちが苦痛に悲鳴を上げる。そんな場面が続く。

 当然、船員も船長もアフリカ人が自分たちより劣った人種だと見下していた。船長と一等航海士の言葉の端々から、その見方が感じ取れる。船長は奴隷船は初めてだったので、アフリカ全般やアフリカ人奴隷については、一等航海士よりは一般の人々の見方に近かったはずである。敬虔なクリスチャンを自任している船長にとっては、想像以上の日々だった。目の前で繰り広げられる非人道的な扱いを目の当たりにして、こんなことをしてもよいのかと良心の呵責に苦しんで、来る日も来る日も眠れない苦しい夜が続く。心の底を見せるわけにはいかなかったが、18回の奴隷船乗船の経験がある一等航海士(↓)に、あれこれと質問を投げかける。アフリカの西海岸に向かうまだ奴隷が積み込まれていない船倉(slave ship hold)での船長と一等航海士の会話の一場面である。

 「どんな人間だ?黒人とは?」

「種類が違うんです。犬に狩猟用の品種とペット用の品種があるように、黒いやつらは頭はトロいが、奴隷に向く。あなたが船長に向くように、自然の秩序(natural order)ですよ」

「そうか、何となく分かるよ」

「それにアフリカから連れ出す方が連中のためです」

「それはどういう意味かね?」

「つまり、キリスト教の国へ来るんですから、アラーの国にいるよりいいですよ。それだけじゃない。共食いから助ける事にもなる。みんな人食い人種だから」

「それぞれの領分で責任を果たそう」

「了解です。積荷はお任せを。言葉も知ってます」

「黒人の?」

「一種のね。連中に言葉などないですよ。うなるだけで」

中世ヨーロッパではアフリカ人とヨーロッパ人が対等で、人種的な偏見はなかったのに、奴隷貿易の最盛期には、黒人を劣ったものとみる意識が定着していたということだろう。