つれづれに

つれづれに:年が変わり

年明けの白浜

 昨日下書きのまま残っていた「今年も終わる」を改題して→「年の終わりに」を書いた。年が明けてから→「ZoomAA」と→「水先案内人」を書いているので、今年最初の「つれづれに」ではないが、今年のカレンダー(→「私の散歩道2024~犬・猫・ときどき馬~」 )のブログを更新して、今年のカレンダーを載せたかった。

 スキャナで更新用の画像を拵(こしらえ)たあと、机の上の右端に置いているスピーカーの上にカレンダーを置いた。ボリビアのウユニ塩湖(Salar de Uyuni)の表紙絵は見えないが、猫の街マントン(Menton)の1月の絵がこれから毎日見える。Mentonはフランスの街だそうだ。フランス語風に発音は出来ないが、ウェブではマントンのカタカナ表記になっていた。Salar de Uyuniはスペイン語らしい。ヨーロッパ列強が植民地支配に血眼になる前に、ポルトガルとスペインが南米や中米を誰に邪魔されることもなく荒らしまわったが、ボリビアはその時にスペインにやられた国の一つというわけだ。

 白浜には年明けの4日に自転車で行くことが出来た。29日の最後の日に揉んでもらい、4日の仕事始めの日の最初の患者になった。その日は海も穏やかで、青島の海岸道路のワシントニアパームの間から北の尾鈴山系を背景にしたシーガイアの写真(↓)を撮ろうと構えたら「いい写真が撮れそうですか?」と声をかけられた。サイクリング車に乗った青年だった。日本語だったのか英語だったのかはっきりとは覚えていないが、そのあと「英語は使えますよ」と言ってしばらく久しぶりに外国人と英語でしゃべった。別れ際に私のメールアドレスを携帯に書いて見てもらったので、戻ったらさっそく短いメールが届いていた。

 戦後の急激なアメリカ化で英語には抵抗が強く、諦めて行った外国語大学(↓)英米学科(→「大学入学」)の→「夜間課程」でも英語はしなかったし、兵庫の県立高校の英語の教師の時も、敢えて「聞く」と「話す」はしなかった。日本の受験勉強用の英語は使うための英語とは全くの別物で、英語が聞けなくてもしゃべれなくても、受験英語の教師はやれる。実際関学に10人という恥ずかしい目標を立てた学年で、英語の成績順でクラス分けをした片方のクラスを持った。受験勉強が出来なかった私がそのクラスを持つのがよかったのか悪かったのか、言葉は使うためのものという意味では、おかしな話である。

修士論文に選んだ作家の伝記の作者だったフランスの人(↓)としゃべりたくて、たくさん聞いて、たくさんしゃべって普通に英語が使えるようになった。しゃべるのは主に医学科の英語の授業だったが、聞くのは放送が開始された衛星放送や英語の授業での聞き取り演習の準備作業が一番役に立った。今回も、相手の言うことがわかったので、普通に遣り取りができたようである。そんな年始めだった。

1985年ミシシッピ大学

つれづれに

つれづれに:カナダの人

 青島の海岸道路でしばらく英語でしゃべったのはカナダの人だった。(→「年が変わり」)その時に話した内容と、別れて戻ったあとに届いたメールからすると、バンクーバーに住んでいて、今回は福岡から2週間のサイクリング旅行に来て、白浜から戻る途中に青島海岸で写真を撮っている私に話しかけたということである。

 何度もサイクリングに行っているようで、スマートフォンに保存している写真を見せてくれた。最初に観たのは、今回行った宇佐神宮(↑)と鵜戸神宮の写真だった。宇佐は大分県の北部で国東半島の付け根辺りにあって、宇佐神宮の名前は聞いたことがある。関西に寝台特急(↓)で行っていた時期があるので、日豊本線の宇佐駅はその度に眺めていた。半日もかかる長旅で、なかなか大変だった。神戸から小倉まではそう長く感じなかったが、小倉から東海岸沿いの宮崎までの5時間はきつかった。

 自転車は折りたためるもので、飛行機や新幹線にも載せて運ぶらしい。私も自転車に乗ってあちこち出かけていたので、親近感が湧いたのかもしれない。阿蘇に登った時の話もした。(→「阿蘇に自転車で」

 最初、何故か大学のバスケットボールのチームメイトを誘って下関まで行った。友人は優等生で後に一流電気メーカーに入り、ニュージャージーの海外勤務もしている。アメリカに行った時に海外勤務だったので、家まで押しかけた。「迷惑やったやろな」と反省する。テントを張りながら、1週間で→「関門海峡」を渡った。帰りの記憶がないので、たぶん、フェリーに乗ったような気がする。

関門トンネル

 一度は煮詰まったころで、「一番暑い時期に中国山脈の→「生野峠」(↓)を越えよう」と思いつき、八月の初めに出かけた。一度も降りずに生野峠を越えたが、それだけの体力があったということだろう。鳥取砂丘で寝袋で寝て、兵庫県の日本海側の海岸線を回った。地図にはないが、うねった坂が急で、大きな声を出しながら、踏ん張って自転車をこいだ。「今度は一番寒い時期に淡路島から室戸岬を経て、高知の足摺岬に行こう」「そのあとは日本海側を北海道まで」と考えていたが、行けずじまいである。体力的に行くのは無理だが、あの時感じた衝動がまた来るような気は、しない。

 メールにも書かれているがデザイナーをしているようだ。爽やかな青年である。最初見たときは外国人だと思わなかった。メールの姓を見ると、中国系のようである。それで、外国人だと思わなかったのだろう。自然に英語で話せたのはよかった。久しぶりに英語を使ってみようと思ったのだろう。メールの遣り取りは、しばらく続くかも知れない。

つれづれに

つれづれに:年の終わりに

曽山寺浜からの青島

 年の終わりに「今年も終わる」とタイトルをつけたまま書けなかった「つれづれに」が「下書き」で残ったまま、年が明けてしまった。折角「今年も終わる」のために撮った写真ものあるので、遅ればせながら本文を書いて「公開」することにした。

特に書くことがあったわけではないが、白浜に最後に行ったのが29日で、すでに年の瀬の気配を感じたので写真に撮った。年末の休みに入ったせいでもあるが道路に車も多少は多かった気がする。普段はそう多くない青島神社への参詣道に、帰りの夕方頃には人が溢れていた(↓)。人混みは苦手なので年末年始に神社にどれだけ人が行くのかを見たことはないが、その人混みを見て少しは予想出来る気がした。

 去年は前立腺癌騒動で慌ただしかったが、一応シロとわかり、数値も下がっている。3ケ月ごとの問診で今年は終わり、2月に血液検査をして経過を見るようだ。マッサージをしてもらっているときに、癌細胞は甘いものを好み、熱に弱いと聞かされ、甘いものをほとんど食べなくなった。甘いものが好きでよく食べていたが、食べなくなると食べたいと思わなくなった。相変わらず、海はきれいだった。白浜の海は穏やかだった。

 →「水仙」(すいせん)を摘んで、玄関とトイレに飾った。何とも言えない甘酸っぱい香りが漂う。そんな年の瀬だった。

つれづれに

ZoomAA2b:水先案内人

 アメリカに来た最初の黒人は水先案内だった。奴隷ではなかった、とラングストン・ヒューズ(Langston Hughes, 1902-1967、↑)は→「黒人史の栄光」(↓)を書き始めている。西アフリカの金持ち層と手を組んで大規模な大西洋での奴隷貿易を始めたのはヨーロッパの金持ち層だが、その後350年も続いたので、ヨーロッパでは一般の人たちもアフリカ人を蔑むようになり、次第に白人優位・黒人蔑視の意識が浸透して、根付いて行った。

 アフリカの北部はヨーロッパから近く、古くから往来もあった。パリに行ったとき、会いに行ったソルボンヌ大の人が留学生に予め案内役を頼んでくれていたが、その留学生の女性はモロッコの人だった。如何にもパリだという屋根裏部屋(↓)のある小さなホテルを予約してくれていて、そのホテルまで送り届けてくれた。子供たちはモロッコさんと呼んでいた。パリにはアフリカからの留学生も多く、北アフリカのクスクス料理なども人気があり、日常生活の中にアフリカが入り込んでいる風だった。

 中世では西アフリカの文化レベルの高さがヨーロッパでも広く知られていたので、黒人を劣ったものと思わせるものは残っていない、とアフリカを知るイギリス人歴史家バズル・デヴィドスンは→「『アフリカシリーズ』」(↓)の冒頭で紹介している。残されている中世の壁画を見ても、黒人と白人が対等に描かれていて、ヌビア出身の聖モーリスにつかえている侍女は白人である。従って、この500年余りのアングロ・サクソン系の侵略の長さからすれば、「アフリカシリーズ」の「人種差別は比較的近代の病です」は至言である。

 コロンブスの船に乗っていた水先案内人のひとりペドロ・アロンゾ・ニーニョは黒人だったと言われている。1492年のことで、ポルトガルやスペインが南米や中米で遺跡を荒らして好き勝手していた頃である。探検家の一人エスタヴァンも黒人で、モロッコ生まれだった。モロッコにはアフリカ人とアラブ人の混血人種のムーア人が住んでいて、船乗りとして地中海を渡ったり、奴隷や人質としてヨーロッパに連れて行かれたようである。ポルトガルやスペインにはそういった黒人がたくさん住んでいて、水先案内人や通訳としてアメリカ大陸に来たのである。

 1543年には難破した中国船が種子島に漂着、同乗していたポルトガル人が助けられたお礼にと鉄砲を置いて行った。1549年にはフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸している。

 現在のヴァージニア州ジェイムズタウン入植地にオランダの軍船が来て、19人のアフリカ人を売り払った1619年が奴隷制度の元が始まった年である。メイフラワー号で清教徒がやって来る1年前のことである。そんな遥かに遠い、遠い昔の話である。(→「歴史をどう見るか」