つれづれに

つれづれに:修善寺(しゅぜんじ)

 立原正秋の住んでいた鎌倉に行く前に、伊豆に寄ってみたくなった。特に目的があったわけではないが、伊豆の踊子に出て来る修善寺と下田と、前から気になっていた大島には一度行ってみたかった。出かけるときはいつもそうだが、行って何かをするというよりは、ただ行ってみるということが多い。修善寺も伊豆の踊子で地名を見た時から、一度行きたいと思っていた。先ずは行ってみるか、そんな感じだった。

 いつもそうだが、行く前に詳しく調べていくことはない。その時も、先ず新幹線(↑)で熱海まで行って、そこから小田急で伊東に行き、その後はバスで修善寺まで、そんな感じだった。わりとすんなりと修善寺に着いた。宿はユースホステル(↓)に直接行って、そこに泊ることにした。安かったし、予約せずに泊れたので、その時期にはユースホステルを何回か利用した。

 修善寺では、地名と同じ名前の寺と温泉街に行った。伊豆の踊子の中の旅芸人一座が修善寺、湯ヶ島から天城峠を越えて、湯ヶ野、下田と辿(たど)ったコースを歩いてみる手もあったが、ちらっと頭をかすめただけだった。

修善寺の境内では桜が咲いていた。3月の初めだったので、まさかソメイヨシノではと近付いてよく見ると、山桜だった。伊豆には温泉場があちこちにある。湯ヶ島や湯ヶ野など、湯のつく地名も見かける。東京からも利用しやすく、観光客も多い。伊豆の踊子の主人公も、東京から行きやすく、温泉にも浸かれると考えたのかも知れない。修善寺にも温泉街があったので、夕方頃にでかけた。暮らしていた地域の近くに温泉場はなかったので、温泉があると今でも浸かりたくなる。

修善寺のあとは伊東までバスで戻って、小田急で下田に行こうと考えていたが、西海岸の浜辺がきれいだと誰かが話しているのを聞いて、海が見たくなった。戸田(へた)海岸と土肥(とい)海岸が特にきれいだと誰かが教えてくれたので、バスの時刻を調べて戸田に行った。修善寺から真西の方角にあり、バスで1時間ほどの距離だった。教えてもらった通り、海水が澄んでいて、とてもきれいな海岸線だった。

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つれづれに:漂泊の思ひ

 どうして衝動的にどこかに行きたいと思ったのかはわからないが、心の中で何かがぷつんと切れてから、ときどきどこかに行きたくなった。その頃、松尾芭蕉のおくのほそ道を読んでいたこともあって、冒頭の文章が何か自分の中にあるものを引きだすような、そんな感じがした。高校の古文の教科書を見ても反応しなかったが、中学生くらいから詠んでいた和歌が冗長な感じがして、俳句を詠みたい気になっていた時期でもある。芭蕉の残した文章がすっと入って来るような気がした。

月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり。船の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。

予もいづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂白の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋、江上の破屋に蜘蛛の古巣をはらひて、やや年も暮れ、春立てる霞の空に、白河の関越えんと、そぞろ神の物につきて心を狂はせ、道祖神の招きにあひて取るもの手につかず、股引の破れをづづり、笠の緒付けかへて、三里に灸すゆるより、松島の月まづ心にかかりて、住める方は人に譲り、杉風が別所に移るに、

草の戸も住み替はる代ぞ雛の家

芭蕉の文章に私の意識の深層の何かが反応を起こしたような気がするが、伏線はある。生きても30くらいだろうと思いながら、余生を過ごすのはそれなりに大変だった。受験勉強をしていい大学に入り、いいところに就職をして、と考えられればよかったのだが、そうは行かなかった。1浪しても受験勉強ができず→「夜間課程」に通い始めた。学費は安かったが、→「牛乳配達」ではきつかった。家庭教師を頼まれてから、少し余裕が出るようになった。(→「家庭教師1」)その頃読んだ立原正秋(↓)の新聞の連載小説が引き金で、本も読むようになった。→「古本屋」にもずいぶんと通った。芭蕉を読んだのもその頃である。生き存(ながら)えるのかもわからないのに、小説を書くという意識だけが心の奥深くに潜むようになった。ある日、伊豆に出かけた。立原正秋の住む鎌倉に行く前に、なぜか伊豆に寄ってからにしようと考えた。川端康成の伊豆の踊子の影と、おくのほそ道の漂泊の思ひがあったような気がする。(→「露とくとく」

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つれづれに:伊豆

 伊豆に出かけたのは、3月の初めだった。半世紀以上も前のことなのに、その季節を覚えているのは、修善寺の山桜と大島の椿が印象的だったからである。泊ったのは修善寺と西伊豆の戸田、それに大島で、すべてユースホステルだった。ユースホステルの記憶は全くない。

小島けい画→「椿」

 ずっと関西だったので、京都から東に行ったのは数えるほどしかなかった。中学2年生の時に修学旅行で東京に行っている。今なら集団でする旅行に参加することはないが、その時は、その選択肢はなかった。学校は行くもの、修学旅行は参加するものと考えていたのだろう。嫌なら行かなければよかったが、行かないという発想がなかった。その意味で、選択肢がなかったということである。来年になるとオリンピックで人が多くなるので、今年だけ例外で2年生の間に行くという説明があった。オリンピックも東京も、遠い世界だった。私のいた兵庫の東播地区の大半は中学校の修学旅行は東京、高校は九州だった、のではないか。高校でも修学旅行に行ってるので、なぜ行ったのかという思いは残る。中学校でも高校でも同じ反応だった。1963年の話である。

入学試験で京都の公立大を受けた。英国社の3科目の中間校だったからだが、受験勉強をしてもいないのに、よくも受けに行ったものである。かすかに、泊った宿屋で、他の高校の人と話をした記憶が残っている。僕と違って、通る可能性があって受験をした可能性は高い。その時に、新幹線を利用した。その当時は、弾丸列車(th bullet train)と言われていた気がする。その後、New Trunk Lineを経て、SHINKANSENになったようだ。どのあたりでそうなったのかははっきりしない。1980年代の後半に新幹線とは無縁の地に赴任してからは、新幹線沿線と無縁の地という二つの区分で考えるようになっている。思わず教授になってしまって出そびれてしまったが、新幹線沿線に異動する機会を逸したまま、定年退職を迎えてしまった。

 行きも帰りも、その新幹線を利用した。伊豆に出かけたのは、芭蕉の→「漂泊の思ひ」 と川端康成(↓)の伊豆の踊子と、立原正秋の鎌倉が誘因だった気がする。

生きても30くらいまでだろうと諦めて余生を過ごしていると、死ぬことがそう大層なものに思えなくなっていた。それまで、死ぬという選択肢は意識になかったが、諦めてから、生と死の境界線が曖昧(あいまい)になった。ただ、1970年に割腹自殺をした三島由紀夫の死は理解できなかったが、2年後の川端康成の死はなんとなくわかる気がした、その違いはあった気がする。最初の授業に出るのが遅めだったので、生協に教科書が見当たらず、担当者の研究室に買いに行ったときに、その話をしたら「玉田くん、その歳でそんなこといっちゃあ、困りますよ」と言われてしまった。その人には、きっと私には見えない世界があったのだろう。(→「がまぐちの貯金が二円くらいになりました」

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つれづれに:シンプソン

 前々回の→「小屋」で紹介した祖母役のマヤ・アンジェロウ(↓)は知られた歌手・詩人で、公民権運動の活動家でもあったが、同じ西アフリカのジュフレ村をめぐる場面でもう一人大物が出演している。NFL(National Football League)の元スターで俳優のO・J・シンプソンである。

 アメリカではNBA(National Basketball Association)やMLB(Major League Baseball)よりも人気があるらしいので、花形選手で映画にも出ていたわけである。

「深い河」で紹介したポール・ロブソン(↓、Paul Robeson)もNFLの花形選手だった。大学を卒業するときに、スポーツか演劇か法曹界かを迷ったという。ずいぶんと才能に恵まれていたということだろう。結局は演劇を選んでイギリスに渡り、シェークスピアのオセロ役を演じて世界的に有名になった。戦後はマッカーシーの赤狩りに遭って、大変だったと聞く。当時は共産党に入党した人も多かった。共産党が抑圧されて来た黒人を差別しなかったのが主な入党の理由だが、黒人を抑圧された一つの塊り(the oppressed mass)と見て個人を見なかったので、離党者が増えた。

 シンプソンは1947年生まれだから、私と同世代である。その元スターが元妻と友人殺害の容疑をかけられたが、出頭せず高速道路を逃亡し、それがテレビで実況中継されたらしい。その映像をニュースで見た気がする。金に物を言わせ、強力な弁護団がついて刑事裁判では無罪になったが、民事裁判では有罪判決が出て。多額の損害賠償を命じられている。その後、強盗事件の協力をして逮捕され収監された。

1980年代の後半に宮崎医科大学に赴任して研究費がつき、それまで思いもしなかった雑誌や新聞の定期購読が出来るようになった。当時は紀伊国屋書店鹿児島営業所から大学に注文取りに来ていたので、その人に言えば手配してもらえた。医学部は一般教育でも各教室に事務員がいた時代で、手続きは事務員がしてくれた。アフリカ系アメリカ関係では「エボニー」(Ebony)という雑誌を、南アフリカ関連では週刊紙Weekly Mailを頼んだ。その「エボニー」に一時期シンプソンの写真がたくさん載った。大衆誌で、記事よりも写真が主体の雑誌である。キング牧師やマルコムXのような公民権運動の指導者や、ブラックミュージックの歌手、映画の俳優やNBAなどのスポーツ選手の大きな写真が載っていた。もちろん、シンプソンの写真の掲載も長いこと続いた。

 「ルーツ」では、クンタ・キンテが狩りの訓練を受けているときに、逃げ込んだ鳥を捕まえようとして庭で料理をしていた少女の邪魔をしてしまった場面で、シンプソン(↓)は父親役を演じている。隣村の指導者風で、少年の狩りには敬意を払うが、料理の邪魔をした娘には謝るように諭していた。少女の名前はファンタで、この時にクンタは淡い恋心を抱く。二人は同じ時期に奴隷狩りに遭い、同じ船でアメリカに運ばれ、クンタの前にファンタは競売にかけられて農園に売り飛ばされている。クンタは売られた農園の名前を覚えていたので、後に、自分の農園を抜け出して愛しいファンタに会いに行く、そんな設定である。

映画の中では、鳥を追いかけるクンタに並走してシンプソンが庭をかなりのスピードで走る場面がある。監督としては、人気の高いフットボールの花形選手を起用して、どこかで走らせたかったのだろう。ボールは持っていなかったが、軽快な走りだった。