続モンド通信・モンド通信

続モンド通信26(2021/1/20)

私の絵画館:「のあちゃんとスイートピー」(小島けい)

2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~⑤:「心臓は・・・?」(小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜23:「 ケニアの歴史(1)植民地化以前」(玉田吉行)

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1 私の絵画館:「のあちゃんとスイートピー」(小島けい)

のあちゃん

美しい白浜海岸の、すぐ前のお家で暮らしている<のあちゃん>です。しばらく前に見送ったラブラドール・レトリーバーの<ダンク>の後を引きうけ、日々ご家族に明るさを届けています。

ダンク

絵の<モデルさん>として、この犬種<トイ・プードル>と初めて出会ったのは、大分県飯田高原の<九州芸術の杜>で、個展をしている時でした。→ 「2012年個展報告」

ある日館長さんが<先日来ていた方が、またいらっしゃいましたよ>と一人の女性を紹介してくれました。彼女は<個展を見て帰った後、青い絵がどうしても忘れられず、また来ました>と言われました。

その年、個展会場<ギャラリー夢>の入口近くに2枚の馬の絵を飾りました。左側に<山桃の樹の下で>を、右側に<秋立ちぬ>という絵を置きました。

山桃の樹の下で

秋立ちぬ

彼女の<青い絵>というのは、左側の絵でしたが。改めて2枚を前にして、ずいぶん長い間迷われた後、やはり左側の<青い絵>を選ばれました。

そしてさらに、大人しく抱かれているピースちゃんの絵もご注文下さいました。ピンクが大好きということで、ピンクの服を着たまっ白な毛のピースちゃんとピンクのバラで、この絵ができました。

ピースちゃんとバラ

次に描かせていただいたのは、アビシニアンという種類の猫リリちゃんと一緒に住んでいる愛らしいグレーの毛の男の子ペペちゃんです。見るからに高貴な猫ととっても愛らしい犬ちゃんの対比がかわいくて、白い梅と一緒に描きました。

リリちゃんとぺぺちゃんと梅

3枚目はチャイニーズ・クレステッドという珍しい犬種の<レオンくん>と一緒に住んでいる<バーディくん>です。飼い主さんは、フェルト・アートの先生です。

レオンくん

見るからにかわいいバーディくんは、やはり可憐な忘れな草の花と一緒に描きました。

バーディくん

4枚目は、モクくんとスノーマンです。小さい頃から大好きな毛布と一緒に、とのご希望で、この絵になりました。

モクくんとスノーマン

モクくんも、お写真を送っていただき絵を描きましたが。翌年の個展で実際に会うことができ、ビックリ。これまで会ってきたトイ・プードルとは大きさが違いました!よく見かける犬ちゃん達の4倍くらいもあったのです。椅子に座っておられるお母さんの膝の上で、今にもはみ出しそうで、笑ってしましました。

大きくても、愛らしさは全く同じでしたので、まさかそのような大きな子とは、想像もしませんでした。

そして、5枚目となるのあちゃんです。モクくんの時もそうでしたが。そのままで愛らしいだから、他の要素は、ほぼ何も加えなくてよいのではないか、と最近では思うようになりました。そのためスイートピーの花を一緒に描きましたが、できるだけのあちゃんのかわいらしさの邪魔をしないようにと、気をつけて描きました。

一緒に暮らしていると、犬も猫も、きっとその他の種類の子たちもみんな、そのままで十二分に可愛いのだと、つくづく思います。

のあちゃん:カレンダー「私の散歩道2021~犬・猫ときどき馬~」1月

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2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~⑤:「心臓は・・・?」(小島けい)

 

一本の道がある

生まれる前に 歩いた道である

 

昔、ぽつりぽつりと書いていた詩の一節を、ふと思い出しました。

それはきっと<心臓>という臓器の話を聞いたからだと思います。人間の身体を毎回一つずつ取り上げる織田裕二さん司会の番組で、前回は心臓でした。

脳と心臓はこれまで、脳が指示を出して心臓はそれに基づき動くもの、と考えられてきました。

ところが、一方的ではなく互いに影響しあう存在ではないか、というのです。

もう何年も前ですが、韓国ドラマで。心臓移植を受けた人が、提供してくれた人が生きていた頃想っていた人物と出逢い、惹かれていく、という物語がありました。

それを見た時は、本当にそういうことが起きるのかしらん?と思いましたが。

研究論文の中にはアメリカで実際にあった話として。ある男に殺された人の心臓をもらった少女が、移植後殺される恐い夢を何度も見るようになり、その夢に現われる男の似顔絵を書いたところ、その絵がもとで真犯人がつかまった、という例が紹介されていました。

そこまでではなくても、若い男性の心臓をもらった中年女性が、それまではほとんど食べなかった油っこいフライドポテトなどを好んで食べるようになり、調べてみると、それは心臓を提供した若者の好みだった、という場合もあるそうで。

最近では、脳から心臓への一方通行ではなく、心臓から脳へも何らかのメッセージが送られているらしい、とわかってきているとか。

私自身子供の頃、数回だけですが。ある場面に出くわした時<私は前に、この場面に出会ったことがある・・・・>と感じたことがありました。

大人になってからは、きっと夢と現実がごちゃまぜになってしまったからだろうと深く考えたりしませんでしたが。

<心臓>という不可思議な存在が体のなかにあるのだから、理屈にあわない何かを感じたとしても、それはそれでいいのではないか。

今私は、そんなふうに思っています。

ちなみに、これまでに描いた三百枚以上の絵の中で、一枚だけ、夢のなかでできた、絵があります。

それが「月に眠る」です。

ある夕方、いつも通る自転車道の横にある小さな公園で、見事に色づいたイチョウを見ました。

その夜、夢のなかで見た絵がこれでした。イチョウの木々のもと、深々と眠るラブラドール・レトリーバーの三太。天には細い三日月がありました。

「月に眠る」

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3 アングロ・サクソン侵略の系譜23:

「ケニアの歴史(1)植民地化以前」

2021年Zoomシンポジウム(11月27日土曜日)/「アングロ・サクソン侵略の系譜―アフリカとエイズ」1/「ケニアの小説から垣間見えるアフリカのエイズ」1:

今回のシンポジウムでは、アングロ・サクソン侵略の系譜の中で、ケニアの小説から見たアフリカのエイズについて話をした。科学研究費のテーマで、医学と文学の狭間からみるアングロ・サクソン侵略の系譜の一つである。話をした内容の詳細を書いてみたい。

エイズの話の前に先に歴史をみておく必要があるが、ケニアの歴史には詳しくないので、「駐日ケニア共和国大使館」(東京都目黒区)案内のケニア小史を借用して、ざっと歴史を辿ってみようと思う。

駐日ケニア共和国大使館

ケニア小史

紀元前2000年頃に北アフリカから来た人たちが東アフリカの今のケニアの一部に定住、のちにアラブ人とペルシャ人が来て植民地化、次いで1498年にポルトガル人が来てモンバサを拠点に貿易を支配、そのあとイギリス人が来て、1895年に東アフリカ保護領に、1920年に植民地に。長年ホワイトハイランド(現在の首都ナイロビ)に住んでいた多数派のギクユ人は、南アフリカケープ州のイギリス人入植者に奪われた植民地を取り戻すためにジョモ・ケニヤッタたちの主導で抵抗運動を開始、1963年に独立を果たし、1969年に「事実上の」単一政党国家に。その後、モイ、キバキの一党独裁支配を経て、大統領の国家統一党とオレンジ民主運動の連立政権で折り合いをつけて、現在に至る。これが大雑把な歴史である。

だが、それだけではアングロ・サクソン侵略の系譜の中でケニアのエイズを捉えることは出来ない。侵略の前にはケニア人が代々培ってきた暮らしや文化があったし、ヨーロッパ人の侵略によって、その伝統や文化や生活様式は大きく変えられてしまったからである。植民地化されたイギリスに抵抗して長く苦しい武力闘争を続けて、やっと独立を果たしたものの、独立後に指導者ケニヤッタとその取り巻きは、いっしょに闘った人たちを裏切って、欧米諸国や日本の勢力と手を組んでしまった。その後、一党独裁時代が長く続き、ケニアはさらに変貌した。ケニア大使館の小史からは、そんな姿は浮かんで来ない。額面上の見える史実を手掛かりに、その意識下に流れる目には見えない深層を探る必要がある。歴史過程の必然的な現象として、貧困や病気なども捉えるべきで、エイズもその一例に過ぎない。

日本もケニヤッタたちが手を結んだ相手国の一つで、関係は想像以上に密である。普通のケニア人や日本人が意識していない歴史の深層は、公教育の場で語られることはない。富を享受する一握りの金持ち層・支配者階級にとって、自分たちのやって来たこと、今も継続的に実行し続けていることを正当化する必然性があるからである。大多数が共有する表面上の歴史も、その手段に過ぎない。だからこそ、可能なら、公教育でこれまで受けてきた歴史を再考する必要がある。その流れで、ケニアの歴史を見てゆきたい。

(1)植民地化以前→(2)ペルシャ人、アラビア人とポルトガル人の到来→(3)イギリス人の到来と独立・ケニヤッタ時代 →(5)モイ時代・キバキ時代 ・現連立政権時代

ケニアの歴史(1)植民地化以前

遠い遠い昔の話なので確かめようもないが、元タイムズ誌の記者で歴史家のバズル・デヴィッドスンの映像「アフリカシリーズ」(NHK、1983年)を借りながら、「大陸に生きる」(「アフリカシリーズ」2回目の表題)人たちについて考えたい。

バズル・デヴィッドスン

アフリカの生活のあり方として牧畜や農耕はかなり新しいもので、野生の動物を狩り、木の実や草の根を集めて暮らしていた時期が長かった。「アフリカシリーズ」には、中央アフリカのピグミーやナミビア・南アフリカのカラハリ砂漠に住むサン人が1980年代にも昔ながらの原始的な生活をしている貴重な映像が収められている。狩猟採集に必要な技術以外に、動物を飼い慣らして家畜にするという大発見によって、人々の定住生活が可能になり、社会組織が大きく変化した。狩猟採集の生活から食べ物を管理して定住する生活への変化は画期的で、牧畜生活が始まると水や草があるところには人が集まり、そこに共同体が生まれ、入り組んだ社会組織も現われ始めた。デヴィッドスンは、ケニア北部に住むポコト人が住んでいる地域を訪れてしばらく生活を共にしながら、次のようにその人たちの生活を紹介している。牧畜を営む人たちの例としてそのポコト人を紹介したい。

「ここにあるポコト人の住まいは見た目には何ともまあ原始的でみすぼらしく、住民はお話にならないほど貧しく無知に見えます。しかし、実際生活に彼らと生活を共にしてみると、それはほんのうわべだけのことで、うっかりするととんでもない誤解をすることが、すぐわかって来ます。私はアフリカのもっと奥地を歩いた時にも、何度となくそれを感じました。外から見れば原始的だ、未開だと見えても、実はある程度自然を手なずけ、自然の恵みを一番して能率的に利用とした結果で、そこには驚くほどの創意、工夫が見られるのです。」

ポコト人とデヴィッドスン

他の草原の住人と同様に、ポコト人の最大の財産は牛で、生活は牛を中心に展開する。雨期には200人もの人が村に住み、乾期になって草や水が乏しくなると牛を連れて遠くまで足を運び、村の人口が減る。次の雨期にはまた人が村に戻る、毎年それが繰り返されるわけである。主食はミルクで、栄養不足を補うために儀礼などの時に牛の血を料理して食べる。ミルクと血だけで暮らすにはたくさんの牛が必要で、干魃などの天災にも備えなければならないので、山羊や駱駝も飼うようになっている。

女性は夫とは別の自分の家畜を持ち、男性が草原に行っている間は、村に残って子供や老人の世話をする。ビーズなどの贅沢品を外から買うだけで、ほとんどが自給自足の生活である。必要なものは自分たちの周りにあるものから作り出す。山羊の皮をなめして毛をそぎ取り、油で柔らかくして衣類を拵える。牛の糞は壁や屋根の断熱と防水用に利用する。

ポコト人女性

ポコト人の社会では男女の役割がはっきりしていて、家庭は女性の領域で、家事、雑用、出産、育児を担っている。材料集めだけでも重労働だが、女性は誇りを持って日常をこなす。厳しい自然を生き抜くには自分たちの周囲にあるものを詳しく知り、利用できるものは最大限に利用することが必要で、家の周りの藪から薬や繊維や日用品などを作り出す。カパサーモの根を煎じて腹痛や下痢に使い、デザートローズの樹の皮の粉末から殺虫剤を作り出して、駱駝のダニを退治する。ポコト人は厳しい自然をてなづけて、ほぼ自給自足の生活を続けて来たわけである。

アフリカ大陸の東側には壮大なサバンナがあって、今でもそこに遊牧民が暮らしているし、牧畜が生活に占める割合の多い田舎もある。1992年に家族でジンバブエに行った時、借家と在外研究先のジンバブエ大学で3人のショナ人と仲良くなった。3人とも田舎で育ち、少年時代は大草原で牛の世話をして暮らしていたらしい。その中の一人英語科のツォゾォさんは「バンツー(Bantu)とはPeople of the peopleの意味で、アフリカ大陸の東側ケニアから南アフリカまでの大草原で遊牧して暮らす人たちが自分たちのことを誇りにして呼んだ呼び名です」と言いながら、インタビューに応じて子供時代のことをしゃべってくれた。

(小島けい画)

ツォゾォさんは国の南東部にあるチヴィという都市の近くの小さな村で生まれ、第2次大戦の影響をほとんど受けなかったそうである。幼少期を過ごした村には、伝統的なショナ文化が残っていたようで一族には指導的な立場の人がいて、村全体の家畜の管理などの仕事を取りまとめていたと言う。

村では、雨期に農作業が行なわれ、野良仕事に出るのは男たちで、女性は食事の支度や子供の面倒をみるほか、玉蜀黍の粉でミリミールを拵えたり、ビールを作るなどの家事に専念する。女の子が母親を手伝い、男の子は外で家畜の世話をするのが普通で、ツォゾォさんも毎日放課後2時頃から、牛などの世話に明け暮れたそうである。乾期には、男が兎や鹿や水牛などの狩りや魚釣りをして野性の食べ物を集め、女の子が家の周りの野草や木の実などを集めたと話してくれた。

食べて出す、寝て起きる、男と女が子供を作って育てる、生まれて死ぬ、基本的な人の営みはそう変わるはずもなく、植民地以前は農耕と牧畜を中心にしたこうした生活を、営々と続けていたわけである。そして、田舎では、今も基本的にはこういった生活が続いている地域が多いようだ。

3人のうちの一人ゲイリーの村のスケッチ(小島けい画)

続モンド通信・モンド通信

続モンド通信24(2020/11/20)

私の絵画館:トムさんと馬(キャンディ)(小島けい)

2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~③:8月のパリで(小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜21: アフリカ史再考③:ナイルの谷(玉田吉行)

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1 私の絵画館:トムさんと馬(キャンディ)(小島けい)

トムさんとキャンディ

初めて牧場に行き、オーナーのトムさんに話を聞いたのが、2月19日(金)です。そしてその日から一番早い平日が、2月22日(月)。私の初乗馬の日です。(平日の方がお客さんが少ないと聞いたからです。)

月日は曜日まで妙にはっきり覚えているのに、それが何年だったのか。このところずっとあいまいでしたが、古い乗馬ノートがみつかり、2005年とわかりました。

<諸行無常>といいますが。それは牧場も同じこと。馬にも人にも、様々な変化がありました。

以前は、乗馬に来たおじ様たちの談笑の場であったゲストハウス(木造の小屋?)は、最近では若いスタッフの方たちの休憩所になっています。15年も過ぎたのですから、世代交替もあたり前ですね。

アメリカで修行をしたトムさんは、あまりにも調教が上手い!というので、あちこちから呼ばれ、日本各地を飛び回っておられて。最近では、牧場でお会いする機会も、めっきり減りました。

もともと人の少ない場所では、乗馬人口もさらに少なく、ここ宮崎で牧場を維持し続けることは、至難の技です。(実際に、いくつもの牧場がなくなりました。)

ところが女主人のメグさんは、新しい分野を切り開かれました。軽い障害のある子供たちへの<ホース・セラピー>です。

実施にこぎつけるまでには、様々な準備や手続きで何年もかかったそうですが。今ではすっかり定着し、子供たちの<にじいろホース>の活動が、主になっています。

私なども、放課後目を輝かせてやってくる子供たちの邪魔にならないよう、早めの時間帯に行くようにしています。

いわゆる登校拒否の子供たちも、学校へ行くことはできなくても、牧場には喜んでやってくる。ということで、近々教育委員会の方たちも見学に来るとか。

人はみんな違います。<学校>という場所になじめない子供たちに、このような優しい楽しい空間がある。小さなこの牧場で救われる子供たち・親たちは、これからもっと増えてゆくのだろうと思います。

キャンディは、トムさんがわざわざアメリカへ行き、連れて帰ってきた馬のなかの一頭です。今では左目がほとんど見えなくなりましたが、見えないなりに走ることもでき、元気にすごしています。

キャンディと子馬

この絵のダスティも、その時連れてきたなかの一頭です。

同じポーズのダスティを、背景の色、まわりの風景を変えて3枚描きましたが、トムさんはこの一枚を選ばれました。実家の玄関に飾られている、と以前お聞きしました。

 

ダスティ

そうそうダスティは今年、かわいい<ジャスミン>という子馬を産みました。

ジャスミン

牧場に行くと、お母さんのダスティにまだまだしっかり甘えながら、いたずらをしているジャスミンの姿が見られますよ。

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2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~③:8月のパリで(小島けい)

 絵本の棚を整理していると、フランス語の絵本が数冊でてきました。一番後ろのページに<’76.8.20>とありました。

はるか昔となった8月のパリが、ぼんやりと思い出されました。

その前の年の11月、母が亡くなりました。暑い夏を、母がいなくなった家ですごしたくはありませんでした。私はその年の8月を、パリですごしました。

ひと月あれば、たくさんの絵を見ることができるだろう、漠然とそう思っていましたが。実際には一日に一つの美術館を訪ねる、それがちょうどいいペースでした。

パリには美術館が多すぎて。一ヶ月の滞在でも、ほんの一部しか回れませんでした。けれど、一つだけ小さな<発見>もありました。

美術の教科書には名作といわれる絵の写真が多数載っています。そのなかには<モネの睡蓮>も、必ず入っていました。ただ、私はずっと、この絵のすばらしさがよくわかりませんでした。(今から思えば、当時の写真の色も、よくなかったのでしょうが。)

「睡蓮」

国立西洋美術館https://www.nmwa.go.jp/jp/collection/1959-0151.htmlより

どの美術館だったのか。さほど大きくはない美術館に<モネの部屋>がありました。記憶では、低い天井の細長い楕円形の部屋だったと思いますが。その長い壁の片側一面が、一枚の<モネの睡蓮>でした。横の長さは5~6mもあったでしょうか。

部屋のまん中には、背もたれのないソファが一つ。私はそこに座り、長い時間、その絵と向きあっていました。これが本当の<モネの睡蓮>なのか・・・・と。

きっと絵の大きさの力もあったと思うのですが、<モネの睡蓮>は写真とは全く違い、生き生きと息づいていました。限りなく静かな水面を描きながら、この上ない迫力をもって、迫ってきたのでした。

今回のパリの旅は、この一枚と出逢えただけで十分だった、と私は打ちのめされてぼんやりとしている頭の片すみで、思いました。

プティホテルの屋根裏部屋の窓から(1992年11月)

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3 アングロ・サクソン侵略の系譜21:アフリカ史再考③:ナイルの谷

「アフリカシリーズ」

アフリカ史再考の3回目、エジプトの話である。

エジプト文明

三千年に渡ってナイル川流域に栄えたエジプト王朝も、実はアフリカ内部の影響を強く受けている。

1505年のポルトガル人によるキルワの虐殺を皮切りに西洋諸国の世界侵略が始まっているが、侵略者たちは侵略を正当化するために自分たちの都合の言いように歴史を書き、それを押し付けてきた。侵略まがいの行為は今も形態を変えて続いているので、白人優位、黒人蔑視の考え方も、想像以上に実際は世界に浸透している。したがって、古代世界でも類のないほど栄えたエジプト文明も、古代オリエントの枠組みの中では考えられても、アフリカとの関係は完全に無視されて来た。ファラオたちの栄華がアフリカ人の手によって作り出された筈はない、アフリカ人にあんな高度な文明が築き上げられた筈はない、西洋人はこれまでそう信じ込んで来た。しかし、実際にはエジプト文明はアフリカ人の影響を色濃く受けていた。その辺りの事情について、「アフリカシリース」の中で、エジプトの首都カイロにあるカイロ博物館の中を紹介して歩きながら、バズル・デヴィッドスンは次のように解説している。

「カイロ博物館の絢爛(けんらん)たる宝物の間を歩いていると、古代エジプト文明は他からの影響はほとんど受けない全く独自の文明だと思えてくるかも知れません。恐らく大半の見学者はガイドの説明を聞くうちに、例えばこの若き王ツタンカーメンの顔が黒いのは長い歳月の間に変色したせいだと思うでしょう。ツタンカーメンが黒い皮膚をしていたと考える人は少ないはずです。しかし、これこそ多くのアフリカ学者が取り組んでいる観点なのです。」(「アフリカシリース第1回『最初の光 ナイルの谷』:NHK、1983年)

今から5000年前、エジプト文明は大文明の舞台になっていた。アフリカを知るにはこの時代、ファラオと呼ばれた王たちが支配した古代エジプトを抜きには到底理解することは出来ない。

ナイル川はアフリカ最大の湖ヴィクトリア湖に源を発し、ヴィクトリア湖から地中海に注ぎ込むまで北に向かって延々と6700キロの距離を流れている。エチオピア高原から流れ落ちる青ナイルと合流したあとは、どんな支流もない。ナイル川流域に人間が住み始めたのは数万年前からで、涸(か)れることのないナイル川は毎年定期的に氾濫を繰り返し、肥沃な泥を下流に運んで行った。そこでは、やがて農耕生活が始まった。

ファラオが支配したエジプトは、古代世界でも最も早く、また最も高度でユニークな文明を築き上げ、3000年ものあいだ栄えて来た。その影響は、周囲はもちろん遠くオリエントにまで及んでいる。ファラオたちはデルタ地帯の下エジプト、それより上流の上エジプト、その二つの領域に君臨していた。

今日のエジプト人やスーダン人の遠い祖先の中にはこうした初期のナイル住人もいる。その後西アジアから来た民族もまじっていったが、一番多く入り込んだのは南や西から来た人々、つまりサハラを追われたアフリカ人だった。

嘗ては大西洋からナイル川流域までサハラ全域には様々なアフリカ人が住んでいたと思われる。1956年にフランスの調査隊が発見したタッシリナジェール山脈の砂の中に埋もれていた岩絵には、緑のサハラの生活が生き生きと描かれている。一番古い時代のモチーフは猟をする姿で、最古の絵は七千年から八千年前に描かれたと推測されている。時代を経るにつれて絵にも変化が表われ、鞍や手綱を付けた馬は輸送手段の発達を物語っているし、犂(すき)をつけた牛からは農耕生活が営まれていたことがわかる。精巧な馬車の絵は後期のもので、人々の衣装は古代エジプト人のスカートと驚くほどよく似ている。

タッシリナジェールの岩絵

サハラの気候が大きく変わり始めたのは4500年ほど前で、やがてサハラは雨を失ない、動物を失ない、遂には人間を失なっていった。そこで暮らしていた住民は乾燥化が進む土地を捨て、水を求めて次第にサハラを出て行き始めた。南と西に広がる熱帯雨林を目指す人たちもいたし、東のナイル川に向かったグループもいた。その人たちがサハラ流域にも暮らすようになり、エジプト人ともまじわっていったわけである。

古代エジプト人は大抵、自分たちの皮膚の色を赤みがかったピンクで表している。エジプト人の中には西アジアの血も流れているが、実際は、それ以上にアフリカ黒人とまじり合っていて、貴婦人の中にはエジプトの南のヌビア人がたくさんいた。ヘマカの墓から出た絵には一見して黒人とわかる貴婦人が白人の侍女を従えている様子が美しく描かれている。上エジプト王セン・ウセルト3世のように、王家に黒い肌の子供が生まれることも珍しくなかった。

古代エジプトには、エジプトとヌビアの境目にあるナイル川に浮かぶエレファンテイン島は非常に神聖な場所と考えられ、ヨーロッパ人が好んでたくさん訪れた。その中の一人歴史家のヘロドトスもその島まで足を延ばしている。ギリシャ人は違う世界の人種を異なってはいるが同等と見なす伝統の中で育っていた。エジプトに詳しいヘロドトスのようなギリシャ人は、エジプトの起源は南から来た黒人と考えていた。

ヌビア人と古代クシュ王国

アスワンダムやアスワンハイダムの建設によって水没してしまったヌビアの遺跡も多いのだが、移転された遺跡からヌビアにはナイル流域最古の王国の一つがあり、それが後のエジプトの王国の先駆けになっていたことがわかる。遺跡の一つ三千年ほど前に造られたアブ・シンベル神殿の正面を飾るラムセツ2世の巨大な像の前に立ちながら、デヴィッドスンは都から遠く離れたヌビアにこのような大規模な大神殿を建てたのは愛妻ネフェルタリ王妃がヌビア人だったからではないかと推測している。

エジプト人の支配はやがて終わり、ラムセツ2世の時代から約500年後にヌビアの王が北に攻め入り、ファラオとしてエジプト全土を掌握した。第25王朝である。

南から来たファラオの中でも一番有名なのはタハルカ王で、ヴィッドスンはカイロ博物館の中にある巨大な立像を見上げながら「紀元前七世紀当時、エジプト人はこの王を世界の支配者と見なしていました。聖書にもエチオピア王テルハカとして出ています。エチオピアとは黒人という意味で、タハルカ王はヌビアのクシュ王国と全エジプトの王として君臨していたのです。」と話している。

タハルカ王の立像

ヌビアの王は紀元前600年頃までエジプトを支配し、その後再びクシュ王国の都ナパタに戻り、その後、南のメロエに都を移した。ヌビアの地はエジプト文明の形成に大きな影響を与え、後に逆輸入された。メロエの都は古代エジプトの国境から南へ千数百キロ、アフリカのずーっと内陸にあった。ヴィッドスンはワゴン車でメロエ(スーダン)を訪れながら「ここに来る度に私は驚異の念に打たれずにはいられません。荒涼たる砂漠の真ん中に失なわれたアフリカを物語る遺跡が忽然と現われるのです。アフリカ最古の黒人帝国の形見、地平線に浮かぶその姿は時の波に洗われ、砂の海を漂う難破船のように見えます。この林立するピラミッドは700年にわたってこの地を治め、葬られたクシュの王や王妃の墓です。長い間歳月や墓荒らしによって荒れるにまかせて来ましたが、現在、修復、再建が進められています。」とその感慨を述べている。

ベルベル人とペルシャ人

ギリシャやローマ時代にヨーロッパと西アフリカを繋いでいたのはベルベル人である。そして、サハラの砂漠化が進んだ後にラクダで砂漠を越えて様々な王国が栄えていた西アフリカと外部世界を繋いだのは、ベルベル人の仲間の砂漠の民トワレグ人である。ヨーロッパとアフリカ、中東やインドや中国とアフリカが繋がっていたという壮大な話で、その交流はサハラの砂漠が進んだのちも大きく発展していった。西アフリカや東部・南部アフリカにも幾つかの王国が栄え、その王国と外部世界が黄金を通貨にした巨大な交易網で繋がっていたわけである。

トワレグ人の分布地図

東部と南部アフリカと外部世界、遠くはインドや中国と繋いだのはペルシャ人で、後にはアフリカ人とペルシャ人の混血のスワヒリの商人がその役目を果たした。

トワレグ人やスワヒリ人が繋ぎ、エジプトを拠点に広大なアフリカ大陸に張り巡らせた黄金の交易網については、アフリカ大陸に生きるアフリカ人と暮らしの話と、王と都市をめぐる話のあとに、詳しく取り上げる予定である。

サハラ砂漠のトワレグ人

次回は「大陸に生きる」人たちである。

胡瓜はもう枯れてしまった。2期作をもくろんだが、あまり大きくならず、不成功に終わってしまった。鞘オクラも同様である。来年はもう2か月ほど早く種を蒔いて、もう一度やってみるつもりである。うまく行くやろか。

(宮崎大学教員)

続モンド通信・モンド通信

続モンド通信23(2020/10/20)

 お知らせ:2021年カレンダー(小島けい)

私の絵画館:ロバとポニー、走る!(小島けい)

2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~②ぼちぼち いこか(小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜20:アフリカ史再考:②「アフリカシリーズ 」(玉田吉行)

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1 お知らせ:2021年カレンダー(小島けい)

寒くなって参りましたが、皆様・犬ちゃん、猫ちゃんたちもお元気でしょうか。

例年より、絵の完成が2ヶ月半も遅くなりましたが。10月14日13枚の絵が出来上がり、現在カレンダーの製作会社で進行中です。

2021年のカレンダーが届きましたら、皆様のお手元にお送りさせていただきますね。

2021年のカレンダー表紙

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2 私の絵画館:「ロバとポニー、走る!」(小島けい)

すっかり秋になりました。ススキの穂が風に揺れる頃になると、せいたか秋のキリン草の黄色が目立つようになります。

いつからかアレルギーの元?とか言われ、あまり評判はよくありませんが、私は今も好きです。

これまでも、時折絵に登場しています。

<秋立ちぬ>では馬(サンダンス)と。

<ノアと三太と合歓の花>では猫・犬と。

そしてこの絵では、ロバのパオンちゃんと、ポニーのファニーとぶりちゃんと一緒に描きました。

鳴き声が大きすぎるため、一頭だけ牧場から離れたトンネルの中で暮らしていたパオンちゃんでしたが、時々脱走しては、牧場にいる二頭と楽しそうに広馬場を走ることがありました。

あまりに嬉しくて、そんな時ロバは顔を空に向けて走るのですよ。

ある秋の日の一コマです。

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3 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~②:ぼちぼち いこか(小島けい)

私はほぼ毎日、午後から夕方にかけて絵を描きます。そのため、その後から寝るまでの数時間が、めまぐるしい忙しさとなります。人間の夕食やおかず作りの他に、一度にたくさん食べられない猫たちに、2時間おきくらいに3回ほどごはんをあげます。

寝る頃にはさすがに疲れていますが、少しクールダウンをしないと、うまく眠れません。そこで毎日<ロデオボーイ>に乗ります。馬の動きを模したマッサージ機のようなものですが、それで15分ほど揺ら揺らすると、不思議に血圧も下がります。

乗っている間両手はヒマですので、しばらく前から、すぐ横の絵本の棚から本を取り出して見始めました。

長い間見返すこともなかった絵本たちですが、改めて見てみると、今ではお話よりも絵の方が気になり、新たな発見があったりします。

たくさんの絵本のかで、絵も内容もすっかり忘れているのに、題名だけははっきり覚えていた本があります。それが<ぼちぼち いこか>です。

訳者のいまえよしともさんの翻訳が、あまりにもぴったりの関西弁でしたので、なんとなく日本人が書いた本だと思い込んでいましたが。<マイク・セイラーさく><ロバート・グロスマンえ>ということでした。

12年間、毎年個展に間に合うよう7月末の〆切りにむけ、追われるように絵を描き続けてきました。今年、絵の完成が大幅に遅れてくると<こんなに遅くなっていいのかしらん?>とあせりの気持ちが出てきました。

その度に、わざと目につく場所に置いたこの本を横目に見ながら<そうそう、ぼちぼち いこか、ですよ>と自分に言いきかせました。

何とか今年の絵は描き終えましたが。ほこりをかぶった本棚から再生したこの一冊、この言葉は、きっとこれからも私の大切な拠りどころになるのだろう・・・・と思います。

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4 アングロ・サクソン侵略の系譜21:アフリカ史再考:② 「アフリカシリーズ」

「アフリカシリーズ」

「アフリカ史再考」の2回目です。

「アフリカシリーズ」は1983年に放送された8回シリーズの番組(各45分)である。イギリスのタイムズ誌の元記者で後にたくさんの歴史書を書いた英国人バズル・デヴィドスンが案内役で、日本語の吹き替えで放送されている。20年ほど前に「アフリカシリーズ」でインターネット検索をした時は、番組内容の案内が載っていた気がするが、今は過去の番組紹介「NHKアーカイブ」にも入っていないようだ。

40年足らず前のもので、前半でヨーロッパ人の侵略が始まる以前のアフリカ大陸を紹介している。後半では人類の歴史を大きく変えた奴隷貿易→アフリカ分割・植民地支配を経て、第二次世界大戦後の多くのアフリカ諸国の独立闘争後に再構築された新しい形の搾取体制を丹念に紹介して、今こそ先進国はアフリカから搾り取って来た富を返すべき時であると結論づけていている。アフリカに対する意識が当時とそう変わったとも思えない大半の日本人には、今でもその提言は充分に傾聴に値するものだ。

8回の内容は「第1回 最初の光 ナイルの谷」、「第2回 大陸に生きる」、「第3回 王と都市」、「第4回 黄金の交易路」、「第5回 侵略される大陸」、「第6回植民地化への争い」、「第7回 沸き上がる独立運動」、「最終回 植民地支配の残したもの」である。

アフリカシリーズは当時放映されたものをビデオに録画し、DVDにして保存してある。高校を辞めたあと非常勤で世話になっていた大阪工業大学のLL教室でダビングさせてもらったもので、米国テレビドラマ「ルーツ」(1978年)と併せて、英語などの授業で使って来たとても貴重な資料である。

前半は古くからアフリカ大陸には黄金の交易網が張り巡らされていてヨーロッパともペルシャやインドや中国とアフリカ内陸部とも繋がっていたという壮大な物語だ。その豊かな大陸が1505年のポルトガル人によるキルワの虐殺から始まるヨーロッパ人の侵略に悩まされ、現在に至っているというのが後半である。

白人優位・黒人蔑視

500年に及ぶ侵略の過程で、ヨーロッパ人は自分たちの行為を正当化するため白人優位・黒人蔑視の意識を浸透させて来た。デヴィドスンは番組の冒頭で今は観光名所になっているジンバブエの遺跡グレートジンバブエを紹介しながら、発見当初のヨーロッパ人の反応について次のように語っている。

「アフリカの真ん中の石造りの都市、発見当初、アフリカにも独自の文明が存在したと考えるヨーロッパ人はいませんでした。文明などあるはずがないという偏見がまかり通っていたのです。初期の研究者はこれをアフリカ人以外の人間が造ったものだと主張しました。果てはソロモン王とシバの女王の儀式の場だという説まで飛び出したものです。」(「第1回 最初の光 ナイルの谷」)

グレートジンバブエ(1992年たま撮影)

 しかし、歴史を見る限り古くからヨーロッパ人とアフリカ人の関係は対等で、ルネッサンス期以前のヨーロッパ絵画を解説しながら、デヴィドスンは「人種差別は比較的近代の病」と断言している。

「18世紀、19世紀のヨーロッパ人は祖先の知識を受け継ごうとはしなかったようです。 それ以前のヨーロッパ人は、例えば、西アフリカに中世ヨーロッパにひけをとらない立派な王国がいくつもあることをよく知っていました。しかも、そうした王国を訪れた貿易商人や外交官の報告には、人種的な優越感を臭わせる態度は全く見られません。人種差別というのは、比較的近代の病なのです

この違いを何より語っているのはルネッサンスまでのヨーロッパ絵画です。ここには 黒人と白人が対等に描かれています。非常に未熟な人間という、後の世の言葉を思わせるものはありません。美術の世界だけではありません。中世では広く一般に、黒人は白人と対等に受け入れられていました。例えば、中央ヨーロッパで崇拝されていた聖人聖モーリスは、13世紀に十字軍に加わって殉教した騎士ですが、彼はエジプトの南ヌビアの黒人です。」(「第1回 最初の光 ナイルの谷」)

奴隷貿易

そしてその人種的偏見を生んだ大きな原因の一つとして奴隷貿易をあげ、デヴィドスンは次のように述べている。

「では、黒人に対する白人の人種的偏見はどこから生まれたのでしょう?歴史が示す大きな原因の一つは奴隷貿易です。

かつてヨーロッパ諸国はアフリカ西海岸に堅固な砦を築き、そこを根城に何千万という奴隷の積み出しを競い合いました。大砲は海に向けられていました。アフリカ大陸の内側には彼らの敵はいませんでした。敵は水平線にふいに現われる競争相手の国の船だったのです。

むろん、人種差別や人種的偏見の犠牲者はアフリカ人だけに限りません。しかし私は、アフリカ人はどの人種よりも酷い目に遭って来た、そしてその原因は奴隷貿易という歴史にあったと考えます。情け容赦のない奴隷貿易で、300年もの間、黒人たちは無理やり故郷から引き離され海の彼方の白人社会に送り込まれました。囚われの身となった黒人は一切の人間的権利を奪われました。家畜同然に売買される商品と見なされ、どんな虐待行為も認められていました。

奴隷貿易の出現で、アフリカ社会の秩序は崩壊していきました。損なわれたのはそれだけではありません。黒人と白人の間にあった互いを尊重するという関係も打ち砕かれたのです。

恐怖の奴隷貿易はずーっと昔になくなり、今はアフリカを知る新しい時期に来ています。黒人を劣ったものと見る古い考えは何の根拠もありません。ここで素直な目でアフリカを根本から見直してみる必要があります。そうするとどんな姿が見えて来るでしょうか。近年、考古学の発展で今まで知られていなかった事実が次々と出て来ました。それはここアフリカに彼ら独自の、長い多彩な歴史があったことを示しています。このシリーズではアフリカを一つの舞台と見て、そのダイナミックなドラマを捉えていきたいと思います。」(「第1回 最初の光 ナイルの谷」)

奴隷を運んだ帆船(アメリカ映画「ルーツより」

経済的譲歩

そうした長い歴史的な背景を踏まえ、難しいことは百も承知のうえで、先進国は今までのアフリカについての見方や関係を改め、今まで搾り取って来た富をアフリカに返すべきだと次のように結んでいる。

「援助を待つだけでなく、自力で立ち上がる、どんなにささやかでもこれは今アフリカで一番大事なことです。かつては自給自足し、豊かな生活内容を持っていた人々が飢餓地獄に置かれている。これは一つには自分たちの食料を犠牲にし、輸出用の作物を作っていた植民地時代の延長線上にあるためです。

そしてもう一つ、アフリカ諸国が都市の開発に力を注ぎ、巨大な農村をなおざりにしていることも上げなければなりません。

しかし、これと取り組むには先進国の大きな経済的譲歩が必要でしょう。飢えている国の品を安く買いたたき、自分の製品を高く売りつける、こんな関係が続いている限り、アフリカの苦しみは今後も増すばかりでしょう。アフリカ人が本当に必要としているものは何か、私たちは問い直すことを迫られています・・・。

奴隷貿易時代から植民地時代を通じて、アフリカの富を搾り取って来た先進国は、形こそ違え今もそれを続けています。アフリカに飢えている人がいる今、私は難しいことを承知で、これはもうこの辺で改めるべきだと考えます。今までアフリカから搾り取って来た富、今はそれを返すときに来ているのです。」(「最終回 植民地支配の残したもの」)

アフリカの歴史について英文書を2冊書き、英語などの授業で使って来た。ウェブでも案内をしている。①Africa and Its Descendants 1『アフリカとその末裔たち1』(門土社、1995)(https://kojimakei.jp/tamada/works/africa/africatoday1.doc)、②Africa and Its Descendants 2『アフリカとその末裔たち2:新植民地時代』(門土社、1998)(https://kojimakei.jp/tamada/works/africa/africatoday2.doc)である。 ↓

次回③は、ヨーロッパ人の侵略が始まる前のアフリカについて、である。

(宮崎大学教員)

続モンド通信・モンド通信

続モンド通信21(2020/8/20)

 

私の絵画館:「寅次郎くんとコスモス」(小島けい)

2 小島けいのジンバブエ日記14回目:後書き(小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜18:「 アフリカ系アメリカの歴史」(玉田吉行)

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1 私の絵画館:「寅次郎くんとコスモス」(小島けい)

モデルは、大分県在住の<寅次郎くん>です。

寅次郎くん

個展を始めて今年で13年目になりますが、最初の五年間は、大分県の飯田高原にある<九州芸術の杜>でお世話になりました。

九州芸術の杜正面

そこで個展をしていた時。一人の落ち着いた雰囲気の女性が、作品を見終わった後話しかけてこられました。豊後大野市で<夢色工房>というお店をしている方でした。<私のお店で、絵とカードを販売しませんか?>というお誘いを受けました。

しばらく後、ありがたく作品を置かせていただいたのですが。そのお店に来る若い女の人で、えらく私の作品を気に入って下さった方がおられるとか。そして、彼女はもっと私の作品を広めようと、自主的にあちこち動物病院にあたったりして下さっているというのです。そのお話を聞いてからずっと、何という<ありがたい方>!と感謝の気持ちでいっぱいでした。

その後何年も年月が流れ、彼女は縁あって大分県から四国の方に嫁いでいかれました。

寂しくなった彼女の実家には、新しい犬ちゃんがやってきました。それがこの愛らしいダックスフンドの寅次郎くんです。ちなみに、命名はお父様だそうですよ。

2020年10月カレンダー

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2 小島けいのジンバブエ日記14回目:「後書き」(小島けい)

 何故か、旅の六年後に書いた文章が残っています。その時からっもずいぶん月日は流れましたが、感じる思いは今も変わりませんので<小島けいのジンバブエ日記>の後書きに代えたいと思います。

旅kら六年を経た今、改めてふり返ると、「私のアフリカ」はほとんどゲイリー一家との交流に限られています。そして出逢ったことを忘れてしまわないで、引き受け続けることの難しさを、感じるこの頃でもあります。

白人と黒人が対立している国を訪れ、初めて、そのどちらにも属さない立場を意識しました。それはとても中途半端ですが、その曖昧さ故に、どちらにも関わり得るということが強みでもあります。

これからもし何か出来るとすれば、それはいずれかに擦り寄ることではなく、「黄色」の立場からではないか、と感じたのですが、その実行は、生半可にはいかないようです。

 

 アフリカ不思議なところです。何もなくてあたりまえですが、何が起こってもおかしくありません。体力的にそれほど強くない私たち家族が、病気もせず帰ることができた。本当は、それだけで、十分だったのかもしれません。

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3 アングロ・サクソン侵略の系譜18:「アフリカ系アメリカの歴史」

アフリカの歴史の次は、アフリカ系アメリカの歴史の拠り所についてです。リチャード・ライトの小説を興奮して読みながら、小説を理解するためにはアフリカ系アフリカ人が辿った歴史を辿るなかでその必要性を感じました。

「アングロ・サクソン侵略の系譜17: アフリカの歴史」続モンド通信20、2020年7月20日)

リチャード・ライト(小島けい画)

もちろん、アフリカ系アメリカの小説を理解するために始めたわけですから、本格的な歴史書、ハーバード大学でアフリカ系アメリカ人として初めて博士号を取ったCarter G. WoodsonのThe Negro in Our History (1922)ゼミの担当者貫名さんが十年かけて翻訳されたWilliam Z. FosterのThe Negro in An American History (1954)(『黒人の歴史―アメリカ史のなかのニグロ人民』、大月書店、1970年)シカゴ大学の歴史学者John Hope FranklinのFrom Slavery to FreedomA History of Negro Americans (1980)などを先ず読むべきだったのでしょうが、私が拠り所にしたのは、①ラングストン・ヒューズの“The Glory of Negro History”、 ②ライトの12 Million Black Voices、③マルコム・リトゥルのMalcolm X on Afro-American History④アレックス・ヘイリーのRootsと⑤それを基に作られたテレビ映画「ルーツ」、それと⑥本田創造さんの『アメリカ黒人の歴史』でした。

  • “The Glory of Negro History”

“The Glory of Negro History” (1964年)はラングストン・ヒューズ(Langston Hughes, 1902-1967)が物語った詩人の歴史です。アメリカにアフリカ人が連れて来られるようになった頃から公民権運動が始まる頃くらいまでの詩人から見た民衆の物語です。詩人らしく、自らが朗読してレコード(LP)も出しています。当時生存中の著名人にも演奏や朗読を依頼して花を添えている貴重な歴史資料でもあります。

文化として黒人が受け継いできたスピリチュアルズ、ブルース、ジャズなどを盛り込み、そのレコードをウッドスン博士に献じました。

ヒューズとも親交のあった古川博巳さんが註をつけて、南雲堂から出されていた大学用のテキストを5年ほど、映像などといっしょに教養の英語の時間に使い、ヒューズの朗読も教室でくり返して聴きました。民衆に寄り添った詩人の肉声は、後の世の人への素敵な贈り物だと実感しながら聴いていました。マルコム・リトゥルなどが痛烈に批判したNegroが表題に使われてはいますが、死ぬまでハーレムを去らなかった詩人らしく、民衆の中に根ざしたアフリカから連れて来られた人たちの子孫の「栄光」の歴史です。

  • 12 Million Black Voices

詩人の“The Glory of Negro History”と併せて、小説家リチャード・ライト(Richard Wright, 1908-1960)の12 Million Black Voices(『1200万の黒人の声』、1941)も拠り所となりました。『アメリカの息子』(Native Son, 1940)と自伝的スケッチ『ブラック・ボーイ』(Black Boy, 1945)の谷間にあって知名度は高くないのですが、なかなかの力作です。

少数の支配者層に搾取され、虐げられ続けてきた南部の小作農民と北部の都市労働者に焦点を絞り、エドウィン・ロスカム編の写真をふんだんに織り込んだ「ひとつの黒人民衆史」です。

「リチャード・ライトと『千二百万人の黒人の声』」(「黒人研究」第56号50-54頁、1986年)

  • Malcolm X on Afro-American History

Malcolm X on Afro-American History は、1981年にニューヨーク公立図書館のハーレム分館に行った帰りに立ち寄ったアフリカ系アメリカとアフリカの専門店リベレーションブックストアで見つけたもので、前回紹介したThe Struggle for Africaと共に貴重な拠り所になりました。

「アングロ・サクソン侵略の系譜3:『クロスセクション』」続モンド通信3、2019年2月20日)

公民権運動の指導者マルコムが4回シリーズで語ったアフリカ、アフリカ系アメリカの歴史で、4回目の途中に暗殺されましたので、未完のままです。白人支配の体制に闘いを挑む前に、先ず自己意識の変革の必要性を説き、アメリカ黒人の歴史についての話をしています。奴隷船でアフリカから連れて来られる以前に、アフリカにいかに豊かな文化があったか、いかに自分たちの祖先が優れた人々であったか、又、いかに巧妙な手段を使って白人たちが黒人に白人優位の考え方を植えつけてきたか、そして今、自分たちが何をしなければならないのかなどを語りました。「黒人歴史週間」やアメリカ黒人の呼び方「ニグロ」の欺瞞性も次のように厳しく批判してします。

なかでも、特に質の悪いごまかしは、白人が私たちにニグロという名前をつけて、ニグロと呼ぶことです。そして、私たちが自分のことをニグロと呼べば、結局はそのごまかしに自分が引っ掛かっていることになってしまうのです。……私たちは、科学的にみれば、白人によって産み出されました。誰かが自分のことをニグロと言っているのを聞く時はいつでも、その人は、西洋の文明の、いや西洋文明だけではなく、西洋の犯罪の産物なのです。西洋では、人からニグロと呼ばれたり、自らがニグロと呼んだりしていますが、ニグロ自体が反西洋文明を証明するのに使える有力な証拠なのです。ニグロと呼ばれる主な理由は、そう呼べば私たちの本当の正体が何なのかが分からなくなるからです。正体が何か分からない、どこから来たのか分からない、何があなたのものなのかが分からないからです。自分のことをニグロと呼ぶかぎり、あなた自身のものは何もない。言葉もあなたのものではありません。どんな言葉に対しても、もちろん英語に対しても何の権利も主張できないのです。[『マルコムX、アメリカ黒人の歴史を語る』 Malcolm X on Afro-American History (New York: Pathfinder, 1967), p. 15]

小島けい画

後に、自己意識の大切を説いた南アフリカのスティーブン・ビコなど、多くの人にも影響を与えた貴重な人物の一人だと思います。

 

Rootsと⑤テレビ映画「ルーツ」

『ルーツ』(Roots, 1976)はアレックス・ヘイリー(Alex Haley, 1921~1992)が自分の祖先を七世代遡って小説にまとめたもので、翌年にはテレビ化され、各国で翻訳もされて世界的に反響を呼びました。

30周年記念DVD版の表紙

17歳だった1767年に奴隷狩りに遭い、アメリカ大陸に連れて来られた祖先クンタ・キンテの名前を、村の歴史を継承する語り部グリオ(griot)の口から聞くために、西アフリカガンビアの小さなジュフレ村を訪れています。

私はテレビ放送があった頃は見ていませんが、1980年代半ば頃に非常勤講師としてお世話になった大阪工業大学のLL(Language Laboratory)教室でダビングしてもらいました。孫テープの画質はよくないですが、今となっては貴重な資料です。2007年に30周年記念版のDVDは映像も鮮明ですが、一部(クンタ・キンテの誕生から、奴隷解放がテネシー州に落ち着くまで)だけで、それ以降の2部は含まれていません。どちらも、今は映像ファイルに化けて、英語の授業で大活躍です。

Roots, 1976

安岡章太郎訳日本語版上

安岡章太郎訳日本語版下

 

『アメリカ黒人の歴史』

本田創造さんの『アメリカ黒人の歴史』(岩波新書、1964年)も拠り所の一つになりました。黒人研究の会の例会で一度だけ本田さんのお話を伺ったことがあります。大学で私のゼミの担当者だった貫名義隆さんが誘われたようで、当時は一橋大学の教授だったと思います。

黒人研究の会は貫名さんが1954年に神戸市外国語大学の同僚を中心に、中学や高校の教員や大学院生とともに始めた「黒人の生活と歴史及びそれらに関連する諸問題の研究と、その成果の発表を目的とする」(会報「黒人研究」第1巻第1号1956年10月)小さな研究会です。例会での『アメリカ黒人の歴史』の評判は上々でした。同じ頃出版された猿谷要さんの『アメリカ黒人解放史』(サイマル出版会、1968年)も研究会で話題にのぼりました。当時東京女子大教授で、NHKにも出演して有名だったようですが、本田さんの本とは対照的に、研究会での評判は散々だったと記憶しています。

「アングロ・サクソン侵略の系譜8:『黒人研究』」続モンド通信10、2019年9月20日)

1619年8月に植民地労働力としてアメリカ最初のアフリカ黒人が、1620年11月にイギリス軍艦をともなったオランダ船が、どちらもヴァージニアのジェームズタウンに来たことを指摘して書いた「アメリカ最初の代議制議会の誕生という民主主義的なもののはじまりと、アメリカ最初の黒人奴隷の輸入、すなわち生身の人間を動産とする黒人奴隷制度という非民主主義的なもののはじまりとが、同じ時に、同じ場所で、同じ人間によってなされたことのアメリカ史の皮肉である」という書き出しは印象的でした。

その後、奴隷制を基に発展していくアメリカを、南部戦争→再建期→反動→公民権運動を丁寧に辿り、わかり易く書かれています。1991年に改訂新版(新赤版)が出て、今も岩波新書「アメリカ黒人の歴史」は読み継がれているようです。

アメリカの歴史に関しては、英文書Africa and its Descendantsの3章を軸に、4回に分けて書きました。↓

「アフリカ系アメリカ小史①奴隷貿易と奴隷制」「モンド通信 No. 67」(2014年3月10日)

「アフリカ系アメリカ小史②奴隷解放」「モンド通信 No. 68」(2014年4月10日)

「アフリカ系アメリカ小史③再建期、反動」「モンド通信 No. 69」(2014年5月10日)

「アフリカ系アメリカ小史④公民権運動」「モンド通信 No. 70」(2014年6月10日)

(宮崎大学教員)