2010年~の執筆物

アングロ・サクソン侵略の系譜15:ゴンドワナ12~19号(「続モンド通信18号」、2020年 5月20日)

「アングロ・サクソン侵略の系譜 13:ゴンドワナ (3~11号)」続モンド通信16、2020年3月20日)の続編で、「ゴンドワナ」の12号から19号に掲載された記事についてです。20~21号は校正段階で未掲載ですが、紹介しています。すべて宮崎医科大学に来てから書きました。

12号(1988年)→「アパルトヘイトを巡って」(シンポジウム)(6-19頁。)

「ゴンドワナ 」12号

1988年9月に大阪工業大学で開催された黒人研究の会創立30周年記念シンポジウム「現代アフリカ文化とわれわれ」の報告です。シンポジウムでは小林信次郎氏(大阪工業大学)、北島義信氏(暁学園女子短期大学)、Cyrus Mwang氏(大阪工業大学非常勤)といっしょに発表、私はラ・グーマと南アフリカについて話をしました。3月まで嘱託講師としてLL教室で工学部の英語の授業を担当していました。その年の4月に宮崎医科大学に着任しましたので、公費出張の第1号となりました。その4月に映画『遠い夜明け』の原作者ドナルド・ウッズ氏が大阪中之島のメイデイのデモに参加すると聞いていっしょに歩きたかったのですが、参加出来なかったのは心残りです。ドナルド・ウッズ氏はロンドンの亡命中でした。→「宮崎医科大学 」

大阪工業大学

13号(1988年)→「アレックス・ラ・グーマ 人と作品5 『夜の彷徨』下 手法」(14-25頁。)

「ゴンドワナ 」13号

「アレックス・ラ・グーマ 人と作品4 『夜の彷徨』上 語り」(「ゴンドワナ」11号39-47頁)の後編、ラ・グーマの作家論・作品論のシリーズ5作目で、『夜の彷徨』の文学手法についての作品論でです。表題に使った「夜」(Night)と「彷徨」(Walk)のイメージが、幾重にも交錯しながら物語全体を覆い、ラ・グーマが意図したように、作品の舞台となったケープタウン第6区(カラード居住区)の抑圧的な雰囲気を見事に醸し出している点を評価しました。

ナイジェリアのムバリ出版社の初版本(神戸市外国語大学黒人文庫)

14号(1988年)→「アパルトヘイトの歴史と現状」(10-33頁。)

「ゴンドワナ 」14号

松山市内で弁護士をされている薦田伸夫さんが誘って下さった「アサンテ・サーナ!(スワヒリ語でありがとう)自由」という催しの一環として、1989年7月1日に、愛媛県の松山東雲学園百周年記念館で講演した「アパルトヘイトの歴史と現状」をもとにしてまとめたものです。その催しでは、他に、アパルトヘイト否! 国際美術展・写真展、エチオピア子供絵画展、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ等の資料展示、「源の助バンド」によるレゲエのコンサート、「アモク!」の映画会が、主に一日、二日の両日にわたって行なわれました。

南アフリカのアパルトヘイトの歴史と、その制度が廃止される直前までの流れを分析したもので、アパルトヘイト政権誕生や体制の仕組みと、アフリカ人の抵抗運動の歴史的な経緯を詳説し、白人政府と富を共有する日本との関わりなどを含めた現状を分析しました。文学作品を理解する上で欠かせない歴史認識の作業から生まれました。

15号(1990年)→「ミリアム・トラーディさんの宮崎講演」(9-29頁。)

ミリアム・トラーディさん(小島けい画)

アパルトヘイト体制があった時代に南アフリカの作家ミリアム・トラーディさんを宮崎に招いて宮崎医科大学で講演してもらった時の講演の記録です。送った案内とは違った形で宮崎の新聞社5社に報道されました。テレビでも「人種差別を考える会」と放送されましたので、大学の執行部からブラックリストに載ったと言われ、助教授への昇進人事を凍結されました。それ以来マスコミ関係は避けるようになりましたが、ミリアムさん本人は、白人政権に荷担する日本に来て歓迎され、講演でも話を出来て満足そうでした。8月6日の女性の日に立正佼成会から招待されたとのことでした。

15号(1990年)→「ミリアムさんを宮崎に迎えて」(「ゴンドワナ」15号2-8頁。)

「ゴンドワナ 」15号

学生の助けも借りて、家でパーティをしたり、一ッ葉の海岸を案内したり、滞在期間にミリアムさんと過ごした時の随想です。ちょうど出版してもらったアレックス・ラ・グーマの編註英文書And a Threefold Cord(『まして束ねし縄なれば』)を紹介しましたら、南アフリカでは発禁処分を受けていたので、感慨深げに眺め、その日のホテルで明方まで読んでいたということでした。

And a Threefold Cord(表紙絵:小島けい画)

16号(1990年)→「アレックス・ラ・グーマ 人と作品6 『三根の縄』 南アフリカの人々 ①」(『三根の縄』はのちに『まして束ねし縄なれば』と改題、14-20頁。)

「ゴンドワナ 」16号

1964年に出版されたラ・グーマの第2作『三根の縄』(And a Threefold Cord)の作品論の前編です。1962年から1963年にかけて書かれたこの物語は、執筆の一部や出版の折衝などもケープタウン刑務所内で行なわれ、アパルトヘイト政権が崩壊するまで南アフリカ国内では発禁処分を受けていました。作品論に入る前に、1964年のリボニアの裁判とラ・グーマがコラム欄を担当した週刊新聞「ニュー・エイジ」を軸に、当時の社会的状況とラ・グーマの身辺について書きています。

17号(1990年)→「アレックス・ラ・グーマ 人と作品7 『三根の縄』 南アフリカの人々 ②」(『三根の縄』はのちに『まして束ねし縄なれば』と改題、6-19頁。)

「ゴンドワナ 」17号

ラ・グーマの第2作『三根の縄』(And a Threefold Cord)の作品論の後編です。ラ・グーマの第2作目の物語『三根の縄』(1964年ナイジェリアムバリ出版社刊、のちに日本語のタイトルを『まして束ねし縄なれば』と改題)の作品論です。

雨と灰色のイメージを利用して惨めなスラム街の雰囲気をうまく伝えています。ラ・グーマが敢えて雨を取り上げたのは、政府の外国向けの観光宣伝とは裏腹に、現実にケープタウンのスラムの住人が天候に苦しめられている姿を描きたかったからで、世界に現状を知らせなければという作家としての自負と、歴史を記録して後世に伝えなければという同胞への共感から、この作品を生み出しました。自ら虐げられながらも、他人への思い遣りを忘れず、力を合わせて懸命に働き続ける人々の姿を描いています。

18号(1991年)→「『ワールド・アパート』 愛しきひとへ」(7-12頁。)

ルス・ファースト役バーバラ・ハーシー

南アフリカの白人ジャーナリスト、ルス・ファーストの自伝『南アフリカ117日獄中記』(117 Days, 1965)をもとに、娘のショーン・スロボが脚本を書き、クリス・メンゲスが監督したイギリス映画『ワールド・アパート』の映画評です。『遠い夜明け』に続いて上映されました。アパルトヘイトによって傷つけられた母娘の切ない相克に焦点があてられています。

18号(1991年)→「マグディ・カアリル・ソリマン『エジプト 古代歴史ゆかりの地』」「ゴンドワナ」18号(2-6頁。)

「ゴンドワナ 」18号

宮崎に来て暫くしてから、バングラデシュから国費留学生として医学科で高血圧を勉強するために来日したカーンさんが、英語をしゃべる、という理由だけで、寄生虫講座の名和さんに連れられて僕の研究室にやって来ました。内科、薬理とたらい回しされたあと、寄生虫に拾ってもらったようでした。話し相手がいなかったのか、よく部屋に来るようになりました。奥さんと子供を家に連れて来たり。そのうち、友だちも部屋に来るようになって、その中の一人のエジプトの留学生に国のことについて英語で書いてもらい、僕が日本語訳をつけました。

19号(1991年)→「自己意識と侵略の歴史」(10-22頁。)

「ゴンドワナ 」19号

この500年ほどのアングロ・サクソンを中心にした侵略の歴史の意識の問題に焦点を当てて書いたものです。理不尽な侵略行為を正当化するために白人優位・黒人蔑視の意識を植え付けて来ましたが、意識の問題に正面から取り組んだアメリカ公民権運動の指導者の一人マルコム・リトルと、アパルトへイトと闘ったスティーブ・ビコを引き合いに、意識の問題について書きました。アパルトヘイト反対運動の一環として依頼されて話した講演「アフリカを考える—アフリカ」(南九州大学大学祭、海外事情研究部主催)や宮崎市タチカワ・デンタルクリニックの勉強会での話をまとめたものです。

20号~21号:校正段階未発行)

20号(1993年予定:校正段階未発行)→「ロバート・ソブクウェというひと ① 南アフリカに生まれて」(14-20頁。)

本来なら、マンデラに代わって国の代表となるべきだった人ロバート・マンガリソ・ソブクウェについての人物論です。30年以上ソブクウェと家族を支援し続けた白人ジャーナリストベンジャミン・ポグルンドの伝記『ロバート・ソブクウェとアパルトヘイト』をもとに、誕生からやがて反アパルトヘイト運動の指導者として立ち上がり、ANC(アフリカ民族会議)と袂をわかって新組織PAC(パン・アフリカニスト会議)を創設するまでの過程を論じています。

ロバート・マンガリソ・ソブクウェ(小島けい画)

21号(1994年予定:校正段階未発行)→「ロバート・ソブクウェというひと ② アフリカの土に消えて」(6-19頁。)

「ロバート・ソブクウェというひと ①南アフリカに生まれて」の続編で、パン・アフリカニスト会議の議長として反アパルトヘイト運動を展開したソブクエの人物論です。政府はソブクエの影響力を恐れるあまり「ソブクエ法」という世界でも類のない理不尽な法律を作って「合法的に」ソブクエを閉じ込めましたが、拘禁されながら54歳の若さで南アフリカの土と消えるまで、そしてそれ以降も、南アフリカの人たちを支え続けたソブクエの孤高な生き方を検証しました。(宮崎大学教員)

ソブクウェと家族(『ロバート・ソブクウェとアパルトヘイト』から)

続モンド通信・モンド通信

続モンド通信18(2020/5/20)

 

私の絵画館:「ジプシー」(小島けい)

2 小島けいのジンバブエ日記11回目:空港にて (小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜15:「ゴンドワナ 」(12~19号)(玉田吉行)

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1 私の絵画館:「ジプシー」(小島けい)

季節は冬から春に、そして初夏の装いへと静かに着実に移りかわっていますが、人の世界だけはずっと雲がかかったようなすっきり晴れない日々が続いていますね。

かくして私も、<唯一の救い>のような感じで毎週牧場通いを続けています。

例年ならば、三月末から四月五月と太陽の日ざしがまぶしい宮崎には多くの人が訪れて、ホテル<シーガイア>のすぐ横にある<うまいる>(牧場の支部?)の馬たちはお客様をのせて大忙しのはずですが。

今年は主要メンバーのジプシーも、しばらく前からずっと牧場の方にもどしてもらってのんびりとすごしています。おかげで私は、しばらくぶりに大好きなジプシーに乗せてもらえて、ハッピー!というわけです。

ジプシーは今年26歳の牝馬(ひんば)で、牧場が開かれてすぐやってきた馬です。

乗馬を始めて間もない頃に私はジプシーの絵を描き、それをオーナーのメグさんにさしあげました。

後で彼女から<あの絵を見た瞬間、鳥肌が立ちました!>と聞き、びっくりしましたが。

実は、ジプシーを初めて牧場に連れてきた夜、まだ整地もされていない荒れた原っぱだった広馬場に解き放ったそうなのですが。その時の月の光の中で走るジプシーと絵のジプシーとがピッタリ重なった!というのです。

何も知らずに描きましたが、そんな偶然もあるのだなあ・・・・と、不思議に思ったものでした。

私が今まで牧場で一番お世話になった馬がジプシーです。けれど調教がよくできていて、人が安心して乗れる信頼できる馬なので、何年か前に<うまいる>ができてからは、ほとんどシーガイアの方に常駐することになりました。どんなお客様でも彼女になら安心してまかせることができるからです。

それでもジプシーにとって大変なこともありました。外乗で海辺を走っていたとき。砂浜に流れついていた木片が跳ねてジプシーの胸につきささりました。けれどジプシーは騒ぐこともなく、走り続けたのです。

お客様が下りた後、スタッフが血を流しているジプシーを見て、初めてケガに気付いたそうです。きっとひどく痛かったにちがいないのに、あばれたり、続けて走るのをイヤがったりせず、ずっとがまんしていたと思うと、涙がでそうになります。

そんなに乗せている人の言うことをきかなくてもいんだヨ!と、言ってあげたくなるような馬なのです。

結局、そのケガは完治するまで思いのほか長くかかってしまいました。一応、つきささった木片は、最初の治療で取り出せたと思われたのですが。いつまでもキズ口が治らず、再度調べ直したところ、木片のかけらの一部がまだ体の中に残っていたのでした。

今ではすっかり元気になりましたが、軽い合図でも一生懸命走ってくれるので、少し走っては木陰でちょっと一休みして、そしてまた走る。ジプシーも私も<お年>ですので、お互いに疲れすぎないように気をつけながら、末長く一緒にすごせたらいいなあ・・・・と、明日の乗馬を楽しみにしている私です。

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2 小島けいのジンバブエ日記11回目:「空港にて」(小島けい)

ハラレの借家

10月3日

ハラレ最後の日。家主の老婆の突然の帰国で、時間的にも精神的にもすっかり狂ってしまいましたが、とりあえず18時40分二台のタクシーで、慌ただしく借りていた家を出発。空港に向かいます。
ジャカランダで薄紫に染まる街並みを見ながら<やれやれ・・・>と思ったのもつかの間。私たち二人が乗ったタクシーの運転手は道をよく知らないようで、どうも変な方向から空港に向かい、普通の倍くらいの時間がかかってしまいました。当然、子供たちの乗ったタクシーとはすっかり離れてしまいました。

ジャカランダで薄紫に染まる街

 そうしてようやく空港にたどり着きましたが、タクシーを降りた瞬間、そこには目を疑うような光景がありました。ハラレに到着した日はお昼頃で、小さな空港は閑散としていましたが。目の前の夜の空港には、どこからこれだけの人が集まったのかと思うほどの人々が押しよせて、空港の外の方まで人であふれています。

ハラレ国際空港

 先に着いたはずの子供たちとアレックスとジョージはどこ?と捜しますが、あまりにも多くの人、人、人でなかなか見つけられません。そうこうしているうちに私たち二人は大きな流れのなかに飲みこまれ後からずんずん押されて、気がつけば手続きの場所まで来てしまいました。もしかしたら中にいるかもしれないと思い、とりあえず長い時間をかけて手続きをすませ、空港内に入りました。そして再びごった返す人々の中にび四人をさがしますが、見つけることができません。

ジョージ

 やはり子供たちは手続きもできず、ゲートの外で私たちを待ち続けているにちがいないと、もう一度人々の間・彼方に目をやり捜し続けていました。すると、はるか向こうの建物の端の方で、茫然と立ちすくみ、私たちを必死に目で捜している四人を発見!
大きなトランクを持ったままでは動くこともままならないので、私だけが迎えに行くためもどろうとしますが、係員から<一度入ったら出ることはできない!!>と強く止められます。<飛行機に乗る子供たちがまだあそこにとり残されているから>といくら説明しても、<No!!>というだけで、ラチがあきません。
飛行機の搭乗時間も迫っていました。このままあの四人が私たちを見つけられなければ、子供たち二人はアフリカにとり残されてしまう!!その恐怖が走った瞬間、私は混雑する人ごみの流れに逆らいジリジリと戻り始めました。ゲートが近付くと、係員に見つけられないよう身をかがめしゃがんだまま、どんどん中に入ってくる人々の足の間を逆行してゲートをすり抜け、ようやく四人のところにたどり着くことができました。
そうして、何とか無事に子供たちの手続きも終え、最後まで子供たちを守ってくれた信頼できる友人アレックスとジョージにお別れの挨拶。別れ際には、柵のこちらからむこうへもう使うことのない私たちが持っていたすべてのハラレのお金を二人に渡します。ほんとうにたくさんの<タテンダ!!(ありがとう)>押し寄せる人々の中で、大声でこの一言を叫ぶのが精一杯でした。

アレックス

 ジンバブエのハラレの空港で決して冗談ではなく、あやうくはぐれてしまうところだった私たち四人は、こうして何とかパリへの長い飛行機の旅路に着くことができました。

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3 アングロ・サクソン侵略の系譜15:「ゴンドワナ」 (12~19号)(玉田吉行)

「アングロ・サクソン侵略の系譜 13:ゴンドワナ (3~11号)」続モンド通信16、2020年3月20日)の続編で、「ゴンドワナ」の12号から19号に掲載された記事についてです。20~21号は校正段階で未掲載ですが、紹介しています。すべて宮崎医科大学に来てから書きました。

12号(1988年)→「アパルトヘイトを巡って」(シンポジウム)(6-19頁。)

「ゴンドワナ 」12号

1988年9月に大阪工業大学で開催された黒人研究の会創立30周年記念シンポジウム「現代アフリカ文化とわれわれ」の報告です。シンポジウムでは小林信次郎氏(大阪工業大学)、北島義信氏(暁学園女子短期大学)、Cyrus Mwang氏(大阪工業大学非常勤)といっしょに発表、私はラ・グーマと南アフリカについて話をしました。3月まで嘱託講師としてLL教室で工学部の英語の授業を担当していました。その年の4月に宮崎医科大学に着任しましたので、公費出張の第1号となりました。その4月に映画『遠い夜明け』の原作者ドナルド・ウッズ氏が大阪中之島のメイデイのデモに参加すると聞いていっしょに歩きたかったのですが、参加出来なかったのは心残りです。ドナルド・ウッズ氏はロンドンの亡命中でした。→「宮崎医科大学 」

大阪工業大学

13号(1988年)→<a href="https://kojimakei.jp/tama/topics/works/w1970/395″>「アレックス・ラ・グーマ 人と作品5 『夜の彷徨』下 手法」</a>(14-25頁。)

「ゴンドワナ 」13号

「アレックス・ラ・グーマ 人と作品4 『夜の彷徨』上 語り」(「ゴンドワナ」11号39-47頁)の後編、ラ・グーマの作家論・作品論のシリーズ5作目で、『夜の彷徨』の文学手法についての作品論でです。表題に使った「夜」(Night)と「彷徨」(Walk)のイメージが、幾重にも交錯しながら物語全体を覆い、ラ・グーマが意図したように、作品の舞台となったケープタウン第6区(カラード居住区)の抑圧的な雰囲気を見事に醸し出している点を評価しました。

ナイジェリアのムバリ出版社の初版本(神戸市外国語大学黒人文庫)

14号(1988年)→「アパルトヘイトの歴史と現状」(10-33頁。)

「ゴンドワナ 」14号

松山市内で弁護士をされている薦田伸夫さんが誘って下さった「アサンテ・サーナ!(スワヒリ語でありがとう)自由」という催しの一環として、1989年7月1日に、愛媛県の松山東雲学園百周年記念館で講演した「アパルトヘイトの歴史と現状」をもとにしてまとめたものです。その催しでは、他に、アパルトヘイト否! 国際美術展・写真展、エチオピア子供絵画展、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ等の資料展示、「源の助バンド」によるレゲエのコンサート、「アモク!」の映画会が、主に一日、二日の両日にわたって行なわれました。

南アフリカのアパルトヘイトの歴史と、その制度が廃止される直前までの流れを分析したもので、アパルトヘイト政権誕生や体制の仕組みと、アフリカ人の抵抗運動の歴史的な経緯を詳説し、白人政府と富を共有する日本との関わりなどを含めた現状を分析しました。文学作品を理解する上で欠かせない歴史認識の作業から生まれました。

15号(1990年)→「ミリアム・トラーディさんの宮崎講演」(9-29頁。)

ミリアム・トラーディさん(小島けい画)

アパルトヘイト体制があった時代に南アフリカの作家ミリアム・トラーディさんを宮崎に招いて宮崎医科大学で講演してもらった時の講演の記録です。送った案内とは違った形で宮崎の新聞社5社に報道されました。テレビでも「人種差別を考える会」と放送されましたので、大学の執行部からブラックリストに載ったと言われ、助教授への昇進人事を凍結されました。それ以来マスコミ関係は避けるようになりましたが、ミリアムさん本人は、白人政権に荷担する日本に来て歓迎され、講演でも話を出来て満足そうでした。8月6日の女性の日に立正佼成会から招待されたとのことでした。

15号(1990年)→「ミリアムさんを宮崎に迎えて」(「ゴンドワナ」15号2-8頁。)

「ゴンドワナ 」15号

学生の助けも借りて、家でパーティをしたり、一ッ葉の海岸を案内したり、滞在期間にミリアムさんと過ごした時の随想です。ちょうど出版してもらったアレックス・ラ・グーマの編註英文書And a Threefold Cord(『まして束ねし縄なれば』)を紹介しましたら、南アフリカでは発禁処分を受けていたので、感慨深げに眺め、その日のホテルで明方まで読んでいたということでした。

And a Threefold Cord(表紙絵:小島けい画)

16号(1990年)→「アレックス・ラ・グーマ 人と作品6 『三根の縄』 南アフリカの人々 ①」(『三根の縄』はのちに『まして束ねし縄なれば』と改題、14-20頁。)

「ゴンドワナ 」16号

1964年に出版されたラ・グーマの第2作『三根の縄』(And a Threefold Cord)の作品論の前編です。1962年から1963年にかけて書かれたこの物語は、執筆の一部や出版の折衝などもケープタウン刑務所内で行なわれ、アパルトヘイト政権が崩壊するまで南アフリカ国内では発禁処分を受けていました。作品論に入る前に、1964年のリボニアの裁判とラ・グーマがコラム欄を担当した週刊新聞「ニュー・エイジ」を軸に、当時の社会的状況とラ・グーマの身辺について書きています。

17号(1990年)→「アレックス・ラ・グーマ 人と作品7 『三根の縄』 南アフリカの人々 ②」(『三根の縄』はのちに『まして束ねし縄なれば』と改題、6-19頁。)

「ゴンドワナ 」17号

ラ・グーマの第2作『三根の縄』(And a Threefold Cord)の作品論の後編です。ラ・グーマの第2作目の物語『三根の縄』(1964年ナイジェリアムバリ出版社刊、のちに日本語のタイトルを『まして束ねし縄なれば』と改題)の作品論です。

雨と灰色のイメージを利用して惨めなスラム街の雰囲気をうまく伝えています。ラ・グーマが敢えて雨を取り上げたのは、政府の外国向けの観光宣伝とは裏腹に、現実にケープタウンのスラムの住人が天候に苦しめられている姿を描きたかったからで、世界に現状を知らせなければという作家としての自負と、歴史を記録して後世に伝えなければという同胞への共感から、この作品を生み出しました。自ら虐げられながらも、他人への思い遣りを忘れず、力を合わせて懸命に働き続ける人々の姿を描いています。

18号(1991年)→「『ワールド・アパート』 愛しきひとへ」(7-12頁。)

ルス・ファースト役バーバラ・ハーシー

南アフリカの白人ジャーナリスト、ルス・ファーストの自伝『南アフリカ117日獄中記』(117 Days, 1965)をもとに、娘のショーン・スロボが脚本を書き、クリス・メンゲスが監督したイギリス映画『ワールド・アパート』の映画評です。『遠い夜明け』に続いて上映されました。アパルトヘイトによって傷つけられた母娘の切ない相克に焦点があてられています。

18号(1991年)→「マグディ・カアリル・ソリマン『エジプト 古代歴史ゆかりの地』」「ゴンドワナ」18号(2-6頁。)

「ゴンドワナ 」18号

宮崎に来て暫くしてから、バングラデシュから国費留学生として医学科で高血圧を勉強するために来日したカーンさんが、英語をしゃべる、という理由だけで、寄生虫講座の名和さんに連れられて僕の研究室にやって来ました。内科、薬理とたらい回しされたあと、寄生虫に拾ってもらったようでした。話し相手がいなかったのか、よく部屋に来るようになりました。奥さんと子供を家に連れて来たり。そのうち、友だちも部屋に来るようになって、その中の一人のエジプトの留学生に国のことについて英語で書いてもらい、僕が日本語訳をつけました。

19号(1991年)→「自己意識と侵略の歴史」(10-22頁。)

「ゴンドワナ 」19号

この500年ほどのアングロ・サクソンを中心にした侵略の歴史の意識の問題に焦点を当てて書いたものです。理不尽な侵略行為を正当化するために白人優位・黒人蔑視の意識を植え付けて来ましたが、意識の問題に正面から取り組んだアメリカ公民権運動の指導者の一人マルコム・リトルと、アパルトへイトと闘ったスティーブ・ビコを引き合いに、意識の問題について書きました。アパルトヘイト反対運動の一環として依頼されて話した講演「アフリカを考える—アフリカ」(南九州大学大学祭、海外事情研究部主催)や宮崎市タチカワ・デンタルクリニックの勉強会での話をまとめたものです。

20号~21号:校正段階未発行)

20号(1993年予定:校正段階未発行)→「ロバート・ソブクウェというひと ① 南アフリカに生まれて」(14-20頁。)

本来なら、マンデラに代わって国の代表となるべきだった人ロバート・マンガリソ・ソブクウェについての人物論です。30年以上ソブクウェと家族を支援し続けた白人ジャーナリストベンジャミン・ポグルンドの伝記『ロバート・ソブクウェとアパルトヘイト』をもとに、誕生からやがて反アパルトヘイト運動の指導者として立ち上がり、ANC(アフリカ民族会議)と袂をわかって新組織PAC(パン・アフリカニスト会議)を創設するまでの過程を論じています。

ロバート・マンガリソ・ソブクウェ(小島けい画)

21号(1994年予定:校正段階未発行)→「ロバート・ソブクウェというひと ② アフリカの土に消えて」(6-19頁。)

「ロバート・ソブクウェというひと ①南アフリカに生まれて」の続編で、パン・アフリカニスト会議の議長として反アパルトヘイト運動を展開したソブクエの人物論です。政府はソブクエの影響力を恐れるあまり「ソブクエ法」という世界でも類のない理不尽な法律を作って「合法的に」ソブクエを閉じ込めましたが、拘禁されながら54歳の若さで南アフリカの土と消えるまで、そしてそれ以降も、南アフリカの人たちを支え続けたソブクエの孤高な生き方を検証しました。(宮崎大学教員)

ソブクウェと家族(『ロバート・ソブクウェとアパルトヘイト』から)

2010年~の執筆物

アングロ・サクソン侵略の系譜14:宮崎医科大学→続モンド通信17(2020年4月20日)に収載。

1988年4月に、宮崎医科大学一般教養英語学科目等の講師になり、1年生の英語を担当することになりました。学歴のⅡ部が問題になり9月の教授会で承認されなかったものの、推薦してくれた人が3ヶ月後に同じ書類を再提出、「過半数を得て承認されましたよ」、と後で教えてくれました。

宮崎医科大学(旧ホームページより、今は宮崎大学医学部、花壇の一部は駐車場に)

生活は一変しました。

受験に馴染めず行く大学も選べなかった人間が、受験をこなして入学してきた医学科生の英語の授業を担当することになった、わけです。

慌ただしい引っ越しのあと、すぐに新学期が始まりました。5年間も非常勤が続いて居場所がありませんでしたので、研究室が何よりでした。小説を書く空間が欲しくて大学に来たことに多少の後ろめたさは感じましたが、それよりも空間を確保出来たという思いの方が強かったように思います。

私自身ずっと中高の試験のための英語が嫌でしたから、一般教養の英語は都合がよかったと思います。

英語も言葉の一つで伝達の手段だから使えないと意味がない、中高でやったように「英語」をするのではなく、「英語」を使って何かをする、教員としては人の書いたテキストを学生に買ってもらい、1時間ほどで採点をして成績がつけられる筆記試験をするのが一番楽かも知れないが、自分が嫌だったものを人に強いるのも気が引ける、新聞や雑誌も使い、可能な限り映像と英語を使う、折角大学に来たのだから中高では取り上げない題材を使って自分自身や世の中について考える機会を提供して、大学らしい授業だと思ってもらえるような授業がいい、医学のことはこの先医療系の教員が嫌というほどやってくれるのだから、一般教養の担当にしか出来ないことをしよう、自分の時間でもあるし、いっしょに楽しくやりたい、あちこち非常勤をしている間に、大体そんな方向性は決めていました。

最初の授業で配った自己紹介です。

「1949年兵庫県生まれ。

はじめまして。

碌なこともせずに、生き永らえています。疎外感しか感じなかった家や地域を出て行くつもりが、行く大学も見つからずに家を出そびれ、家から通える範囲の夜間課程に通いました。そんなつもりでもなかったのですが、英語をすることになりました。暫く高校の教員をやっていましたが、書きたい空間を求めて彷徨い、やっと何とか大学に辿り着きました。

大学の自由な空間のなかで培う素養は大事なものです。豊かな時間の中で、自分について考え、今まで培ってきた物の見方や歴史観が正しかったのかを再認識してもらえればと願っています。いっしょに楽しくやりましょう。

いい出会いでありますように。

研究室は、福利棟304です。いつでもどうぞ、珈琲を淹れましょう。 たま」

研究室は授業をする講義棟と同じ階にあり、学生食堂に行く道筋にあったせいか、よく学生が部屋に来てくれ、何人かは定期的に来るようになりました。書いたり読んだりする空間さえあれば充分でしたので、学生が来てくれるのは全く考えていませんでした。小さい頃から医者は身近にいませんでしたし、文学しか念頭になく、周りは文系ばかりでしたので、医者やこれから医者になる学生は新鮮で、嬉しい誤算でした。

自己紹介に「珈琲を淹れましょう。」と書きましたので、文字通り珈琲目当ての人もいましたが、大抵はふらりと部屋に来て、他の授業の話や、家族やこの大学に入った経緯や、普段の生活、将来したいこと、授業を聞いている時に心にひっかかったことなどについて、1、2時間か、時には3、4時間ほど、とりとめもなく話をして帰って行きました。

定期的に研究室に来るようになった人たちを大まかに分けると、群れるのが苦手な人たちか、何らかの挫折を味わった人たちかだったような気がします。

映像を使う人が多くなかったからでしょう。プロジェクターも貧弱で、分厚い暗幕で真っ暗にする必要がありましたので、長い映画などを見る時以外は、台車に載せたわりと大きな画面のテレビを毎回教室に持ち込みました。約100人を4つに分けて、1クラス25名程度の授業でしたので、学生とも近いですし、その方がお互いに好都合でした。テレビで録画したものや映画やビデオショップで借りて来てダビングした映像などを編集しました。中でも傑作は、アメリカのテレビドラマ「ルーツ」と、NHKの「アフリカシリーズ」です。修士論文をアフリカ系アメリカ人の作家で書きましたし、アフリカやアフリカ系アメリカについては小中高で意図的に避けているようですし、「豊かな時間の中で、自分について考え、今まで培ってきた物の見方や歴史観が正しかったのかを再認識」するための材料としてはよかったと思います。

「ルーツ」も「アフリカシリーズ」も非常勤で行っていた先のLL (Language Laboratory)教室でダビングしてもらった孫テープです。先輩が整えたLL教室を使わせてもらいました。「ある日、家の近くの海岸でのんびり釣りをしていたら、指導主事を辞める飲み友だちから突然、お前さんどうや?と電話が掛かって来て」、先輩は33歳のときに指導主事になったそうです。辞める人が次を指名するのが慣例だったとか。その後、指導主事時代に、LLを使って現職教員の研修をしたら、その手腕が買われて大阪の私立大学の講師の話が来て、当時の上司の副知事が口をきいてくれたら、「助教授で採用されたわ」、ということでした。

英語科では、助教授の日本人と英会話の外国人講師が同僚で、日本人の同僚が秋から在外研究でアメリカとイギリスに行かれたので、その人が担当していた隣の大学の農学部の非常勤も引き受けました。その人の在外研究の関係で、1年目と2年目は2年生も担当し、3年目からは日本人の同僚が2年生を、僕が1年生を、外国人教師が1、2年生の英会話を担当しました。

研究室で、事務の方か学生の誰かに撮ってもらったような

大学から20キロほど離れたところに一軒家を借り、大抵は片道1時間余りの道を自転車で通いました。

そんな生活が始まりました(宮崎大学教員)

続モンド通信・モンド通信

続モンド通信17(2020/4/20)

 

私の絵画館:てんちゃんとつゆちゃんとネモフィラ(小島けい)

2 小島けいのジンバブエ日記10回目:10月3日(晴れ)最後の晩さん(小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜14:「宮崎医科大学」(玉田吉行)

4 (玉田吉行)

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1 私の絵画館:「てんちゃんとつゆちゃんとネモフィラ」(小島けい)

 このところ、先の見えない毎日が続いておりますが、皆様いかがおすごしでしょうか。そして、犬ちゃんや猫ちゃんたちも、みんな元気ですか。

こちらは(正確には実情はわからないままに)全般的には、ゆるーい感じで時間が流れています。

それでも一応は、公民館でのジャズダンスの教室はお休みとなり、私は運動のため毎週のように牧場に通っています。

自転車で片道一時間。牧場で一鞍(約30分)乗って、帰りはまた自転車で一時間。なかなかの運動量です。けれど、牧場で馬・犬・猫・山羊たちに会い、帰りの田んぼ道できんぽうげやアザミを摘んで帰る。この普段通りのなにげない時間が、今の私には、ひとしお大切なひと時になっています。

これからどのようになってゆくかは全くわかりませんが。皆様と元気にお会いできる日を心待ちに、できる限り穏やかな気持ちで、絵を描き続けてゆけたら…と思っております。

てんちゃんとつゆちゃんとネモフィラ

2008年4月24日、元のら猫のアリスは家で5匹の子供を産みました。

アリス(パステル)

その中で一、二を争う美人猫が、当初さやちゃんMちゃんと呼んでいた猫たちでした。

この二匹は後に優しいご家族と出逢い、今も楽しく元気にすごしています。

毎年、年賀状で様子を知らせて下さっていましたが。本当に有り難いご縁で、感謝の気持ちを改めてお伝えしたいと、昨年二匹の絵をかかせていただきました。

美しい猫たちですので、やはり美しい花と一緒に描きたい!と思い、淡いブルーの<ネモフィラ>を選びました。

それがこの絵です。

昨年末絵をお送りしたところ、しばらくたって<ずいぶんとお礼が遅くなりましたが・・・・>と、かわいいミニアルバムが届きました。

そこには、てんちゃん(さやちゃん)とつゆちゃん(Mちゃん)の他に、同居しているまめちゃんとチーちゃんの写真もありました。残念なことに、唯一の男の子だったまめちゃんは<昨年天国に旅立ってしまいました>とありましたが、4匹とご家族のほほえましい日常のお写真が、絶妙なコメントとともに飾られていました。

このような素敵で心のこもったアルバムを作るには、ずいぶんの手間と時間がかかっただろうと思われました。

アルバムを何度も見なおしながら、二匹の絵をほんとうに喜んでいただけたのだなあと実感し、いつものことですが、仕上げるまでの大変さがすうっと後ろに遠ざかってゆきました。

アリス(水彩)

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2 小島けいのジンバブエ日記10回目:「10月3日(晴れ)最後の晩さん」(小島けい)

 今日、私たちはハラレを発ちます。

パリに持っていく荷物を詰め、ゲイリーたちにハラレで買った物を全て譲り、一生に一度の思い出に彼らをお風呂に入れてあげ、各部屋をもと通りにしなければいけません。それらをすませてから、アレックスたちと一緒に、楽しくお別れの食事会をするつもりでした。

ところが、明日帰国予定の家主が、午前11時過ぎ突然帰って来ました。まず空港からの電話で、冷蔵庫の冷凍室が一杯になるくらいのフランスパンを買いに、ゲイリーをパンの店まで走らせました。

次に、夜の飛行機に備え少しでも子供たちを寝させたい、と思っている午後2時すぎ、急に家主が庭に現われました。(いつものようにゲイリーに門を開けさせたのです。)典型的なこの国に住む白人の老婆でした。穏便にすませようとタマさんは、<私たちの出発した後午後七時以降に来てほしい>、と手紙を書きました。直接会えば喧嘩になりかねないからです。ゲイリーから手紙を受け取った家主は、タクシーを呼ばせて、タクシーの到着を待っている間中、庭の中を点検して回りました。自分の留守中に、得体の知れないアジア人に荒らされたり壊されたりしたところはないか?と疑っている様子がありありでした。

その後一応家主は引きあげましたが、老婆の出現で現実に引きもどされたゲイリーの表情はこわばったままですし、部屋の修復も、最初に台所の小さなスプーンに至るまでぶ厚いリストを作って渡されているので、なかなかの作業です。

借家

家主の一日早い帰国という予想外の出来事で、時間的にも精神的にもよけいにバタバタしましたが、午後5時40分に大幅に遅れていたアレックスとジョージが、チキンのテイクアウトを運んで来てくれました。ようやく、慌ただしいなかにもなごやかに、お別れパーティです。

アレックス

ところがその少し後、食事の最中に、タクシーが止まり再び家主が門の前に立ちました。タクシーが門を開けろ!という合図の警笛をならしています。途端にゲイリーの顔に恐怖が走ります。この国では黒人は家の中に入る時、玄関で裸足になって入らねばなりません。土足で、しかも居間で、私たちと一緒に食事をしている光景をもし庭からでも見られたら、即刻首にされるに決まっています。

ジョージ(小島けい画)

相方はとっさに判断して、いつものようにゲイリーに門を開けさせずに、自分で門に走りました。そして開けないまま門をよじ登って外側に降り、門の前に立ちふさがりました。そこで”出発まで庭で待ちたい”という老婆と”今日まで借りているのだから、出発した後で来るべきだ”と押し問答です。私たちは居間で、どうなることかと固唾をのんで様子を窺っていました。それはしばらく続きましたが、とうとう最後に、彼が大声で怒鳴り、やっとのことで老婆を追い返しました。

 しぶしぶ引きあげたとは言え、彼女は何時またもどって来るかわかりません。迫ってくる出発の時間と大きな不安。おまけに、予約した時間よりも大幅に早くタクシーが2台到着です。運転手たちには待ってくれるよう頼むしかありません。そうした混乱のなか、みんなは食事の残りを詰め込むように食べ終わり、慌ただしい<最後の晩さん>は終わりました。それでも出発前には、以前から約束していた<花火>だけはきっちりしました!

心に描いていた<ゆったりした楽しい食事会>とは程遠い、混乱のなかでの最後の食事会で、想いは乱れたままですが、ぎりぎりの時間となり、もうお別れです。抱き合い泪するゲイリーたちと私たち。”タテンダ(ありがとう)”という言葉しか言えません。

ゲイリーたち

空港まで送ってくれるアレックス、ジョージと、私たち家族4人は、4つの大きなトランクを積み込み、二台のタクシーで出発です。ジャカランダの花で全体が薄紫に染まる街が、夕闇と泪でかすんでいきました。

ジャカランダの街

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3 アングロ・サクソン侵略の系譜14:宮崎医科大学(玉田吉行)

 1988年4月に、宮崎医科大学一般教養英語学科目等の講師になり、1年生の英語を担当することになりました。学歴のⅡ部が問題になり9月の教授会で承認されなかったものの、推薦してくれた人が3ヶ月後に同じ書類を再提出、「過半数を得て承認されましたよ」、と後で教えてくれました。

宮崎医科大学(旧ホームページより、今は宮崎大学医学部、花壇の一部は駐車場に)

生活は一変しました。

受験に馴染めず行く大学も選べなかった人間が、受験をこなして入学してきた医学科生の英語の授業を担当することになった、わけです。

慌ただしい引っ越しのあと、すぐに新学期が始まりました。5年間も非常勤が続いて居場所がありませんでしたので、研究室が何よりでした。小説を書く空間が欲しくて大学に来たことに多少の後ろめたさは感じましたが、それよりも空間を確保出来たという思いの方が強かったように思います。

私自身ずっと中高の試験のための英語が嫌でしたから、一般教養の英語は都合がよかったと思います。

英語も言葉の一つで伝達の手段だから使えないと意味がない、中高でやったように「英語」をするのではなく、「英語」を使って何かをする、教員としては人の書いたテキストを学生に買ってもらい、1時間ほどで採点をして成績がつけられる筆記試験をするのが一番楽かも知れないが、自分が嫌だったものを人に強いるのも気が引ける、新聞や雑誌も使い、可能な限り映像と英語を使う、折角大学に来たのだから中高では取り上げない題材を使って自分自身や世の中について考える機会を提供して、大学らしい授業だと思ってもらえるような授業がいい、医学のことはこの先医療系の教員が嫌というほどやってくれるのだから、一般教養の担当にしか出来ないことをしよう、自分の時間でもあるし、いっしょに楽しくやりたい、あちこち非常勤をしている間に、大体そんな方向性は決めていました。

最初の授業で配った自己紹介です。

 

「1949年兵庫県生まれ。

はじめまして。

碌なこともせずに、生き永らえています。疎外感しか感じなかった家や地域を出て行くつもりが、行く大学も見つからずに家を出そびれ、家から通える範囲の夜間課程に通いました。そんなつもりでもなかったのですが、英語をすることになりました。暫く高校の教員をやっていましたが、書きたい空間を求めて彷徨い、やっと何とか大学に辿り着きました。

大学の自由な空間のなかで培う素養は大事なものです。豊かな時間の中で、自分について考え、今まで培ってきた物の見方や歴史観が正しかったのかを再認識してもらえればと願っています。いっしょに楽しくやりましょう。

いい出会いでありますように。

研究室は、福利棟304です。いつでもどうぞ、珈琲を淹れましょう。 たま」

 

研究室は授業をする講義棟と同じ階にあり、学生食堂に行く道筋にあったせいか、よく学生が部屋に来てくれ、何人かは定期的に来るようになりました。書いたり読んだりする空間さえあれば充分でしたので、学生が来てくれるのは全く考えていませんでした。小さい頃から医者は身近にいませんでしたし、文学しか念頭になく、周りは文系ばかりでしたので、医者やこれから医者になる学生は新鮮で、嬉しい誤算でした。

自己紹介に「珈琲を淹れましょう。」と書きましたので、文字通り珈琲目当ての人もいましたが、大抵はふらりと部屋に来て、他の授業の話や、家族やこの大学に入った経緯や、普段の生活、将来したいこと、授業を聞いている時に心にひっかかったことなどについて、1、2時間か、時には3、4時間ほど、とりとめもなく話をして帰って行きました。

定期的に研究室に来るようになった人たちを大まかに分けると、群れるのが苦手な人たちか、何らかの挫折を味わった人たちかだったような気がします。

 

映像を使う人が多くなかったからでしょう。プロジェクターも貧弱で、分厚い暗幕で真っ暗にする必要がありましたので、長い映画などを見る時以外は、台車に載せたわりと大きな画面のテレビを毎回教室に持ち込みました。約100人を4つに分けて、1クラス25名程度の授業でしたので、学生とも近いですし、その方がお互いに好都合でした。テレビで録画したものや映画やビデオショップで借りて来てダビングした映像などを編集しました。中でも傑作は、アメリカのテレビドラマ「ルーツ」と、NHKの「アフリカシリーズ」です。修士論文をアフリカ系アメリカ人の作家で書きましたし、アフリカやアフリカ系アメリカについては小中高で意図的に避けているようですし、「豊かな時間の中で、自分について考え、今まで培ってきた物の見方や歴史観が正しかったのかを再認識」するための材料としてはよかったと思います。

「ルーツ」も「アフリカシリーズ」も非常勤で行っていた先のLL (Language Laboratory)教室でダビングしてもらった孫テープです。先輩が整えたLL教室を使わせてもらいました。「ある日、家の近くの海岸でのんびり釣りをしていたら、指導主事を辞める飲み友だちから突然、お前さんどうや?と電話が掛かって来て」、先輩は33歳のときに指導主事になったそうです。辞める人が次を指名するのが慣例だったとか。その後、指導主事時代に、LLを使って現職教員の研修をしたら、その手腕が買われて大阪の私立大学の講師の話が来て、当時の上司の副知事が口をきいてくれたら、「助教授で採用されたわ」、ということでした。

英語科では、助教授の日本人と英会話の外国人講師が同僚で、日本人の同僚が秋から在外研究でアメリカとイギリスに行かれたので、その人が担当していた隣の大学の農学部の非常勤も引き受けました。その人の在外研究の関係で、1年目と2年目は2年生も担当し、3年目からは日本人の同僚が2年生を、僕が1年生を、外国人教師が1、2年生の英会話を担当しました。

研究室で

 大学から20キロほど離れたところに一軒家を借り、大抵は片道1時間余りの道を自転車で通いました。

そんな生活が始まりました(宮崎大学教員)