2010年~の執筆物

2 アングロ・サクソン侵略の系譜9:「言語表現研究」(玉田吉行)

前回紹介した「黒人研究」(→「アングロ・サクソン侵略の系譜8:『黒人研究』」続モンド通信10、2019年9月20日)のほか、主に兵庫教育大学大学院の教官と院生が投稿する「言語表現研究」でも印刷物にしてもらいました。国語と英語の分野の教官と院生の発表の場で、毎月例会も行われています。院生の大部分が現職の教員でもありますので小中高校の英語教育も研究分野です。今まで

①「Richard Wright, “The Man Who Lived Underground”の擬声語表現」2号(1984年)

②「Native Sonの冒頭部の表現における象徴と隠喩」4号(1985年)

③ “Realism and Transparent Symbolism in Alex La Guma’s Novels” 12号(1996年)

④ “Ngugi wa Thiong’o, the writer in politics: his language choice and legacy" 19号(2003年)

が活字になりました。

①「Richard Wright, “The Man Who Lived Underground”の擬声語表現」は、乾亮一氏の「擬声語雑記」とOtto Jaspersenの“Sound Symbolism”を借用し、テーマとからめて擬声語表現の分析を試みた作品論です。パトカーのサイレンの音swishやマンホールの音clang, clankやタイヤの軋む音rumbleなどが効果的に用いられて臨場感を醸し出しているだけではなく、テーマとかかわる象徴性も表現していることなどを論証しました。

Michel Fabreさん(当時ソルボンヌ大学教授)の伝記The Unfinished Quest of Richard Wright『リチャード・ライトの未完の探求』に感動して、その人の評価を聞いてみたいと思い翻訳して本人に郵送しました。ミミシッピ大学でのライトの没後25周年国際シンポジウム(1985)ではライトの他の作品での擬声語表現についての発表があり、ゲストスピーカーであったFabreさんから、その発表と関連してこの作品論の評価も聞きました。パリはライトが後年移り住んだ地でもあります。1992年のジンバブエからの帰りにFabreさんの自宅にお邪魔して、色々な刺激を受けました。

「言語表現研究」2号

「Richard Wright, “The Man Who Lived Underground”の擬声語表現」「言語表現研究」2号1~14頁、1984年2月

②「Native Sonの冒頭部の表現における象徴と隠喩」は、代表作『アメリカの息子』(Native Son, 1940)の冒頭部の擬声語表現を象徴性と隠喩の面から評価した作品論です。冒頭に巧みに用いられた目覚まし時計の音などの擬声語が、展開される物語の慌ただしさや住環境の劣悪さを象徴している点を指摘しました。ライトは主人公が殺人を犯して逃げまどい、やがては裁判にかけられて社会から葬りさられる運命と、逃げ回って殺される鼠の運命を重ね合わせて「黒人はアメリカの隠喩である」という問題提起をしていますが、それが巧みな擬声語表現に裏打ちされている点も指摘しました。

「言語表現研究」4号

Native Sonの冒頭部の表現における象徴と隠喩」「言語表現研究」4号29~45頁、1985年2月

③“Realism and Transparent Symbolism in Alex La Guma’s Novels”は、ラ・グーマの初期の作品に見られる文学手法に焦点をあてた英文の作品論です。抑圧の厳しい社会では政治と文学を切り離して考えることは出来ませんが、作品を政治的な宣伝でなく文学として昇華出来るかどうかは、作者の文学技法によります。ラ・グーマの使うリアリズムとシンボリズムの手法が、読者に期待感を抱かせる役割を果たしている点を指摘しました。1987年のMLA (Modern Language Association of America)のEnglish Literature Other than British Americanのセッションで発表したものに加筆しました。

「言語表現研究」12号

“Realism and Transparent Symbolism in Alex La Guma’s Novels”「言語表現研究」12号73~79頁、1996年3月

④"Ngugi wa Thiong’o, the writer in politics: his language choice and legacy"は、ケニアの作家グギ・ワ・ジオンゴの英文の作家論、作品論です。本人は亡命しているわが身を「座礁した」と形容していますが、独立戦争後反体制側にまわり、逮捕・拘禁され、亡命を余儀なくされますが、その経緯を書いた『政治犯、作家の獄中記』(Detained: A Writer’s Prison Diary, 1981)、作家の役割と政治の関係を論じた『作家、その政治とのかかわり』(Writers in Politics, 1981)、体制を脅かした直接の原因となったギクユ語の劇『結婚?私の勝手よ!』(Ngaahika Ndeenda, 1978)を軸に、亡命の意味とグギの生き方を論じました。

「言語表現研究」19号

“Ngugi wa Thiong’o, the writer in politics: his language choice and legacy"「言語表現研究」19号12~21頁、2003年3月

言語表現学会では「アンクル・トムの子供たちの恐れと抗い」(1982年10月)と「Richard Wrightの対比的表現初期短篇数編から」(1986年4月)を口頭発表しました。一回目は院生の2年目、修士論文を書いている最中で、二度目は就職浪人中でした。

修士論文を書いた延長で、リチャード・ライトの没後25周年国際シンポジウム(1985年ミミシッピ大学)に参加し、本の中でしか知らなかった人たちや、憧れのファーブルさんにも会えました。その縁でMLA (Modern Language Association of America, 1987年、サンフランシスコ)のEnglish Literature Other than British Americanのセッションで、南アフリカのアレックス・ラ・グーマの発表が出来ました。

MLAで伯谷さんと

その準備の段階でラ・グーマの伝記『アレックス・ラ・グーマ』の著者セスゥル・エイブラハムズさんとも出会い、ラ・グーマの記念大会に呼んでもらえました。その中で①~③は生まれました。

セスゥル・エイブラハムズさん

④は『作家、その政治とのかかわり』(Writers in Politics, 1981)の翻訳を頼まれて、グギさんの作品を大体読んで背景を知る過程で、まとめの意味もこめて英文で書きました。

ライトもラ・グーマもグギさんも結構多作で、先ずは作品を集めることから始め時間もかかりましたが、アングロ・サクソン侵略の系譜の中から生まれた作家だと実感しました。(宮崎大学教員)

2010年~の執筆物

アングロ・サクソン侵略の系譜11:「アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・A・エイブラハムズ」(玉田吉行)

1985年に伯谷さんからMLA (Modern Language Association of America)に誘われたとき、ライトの発表だと思っていましたが、帰ってから届いた手紙では、English Literature Other than British and Americanと言う小さなセッションでアフリカの作家で発表をということのようでした。ライトの小説を理解したいという思いでアフリカ系アメリカの歴史を辿り、奴隷が連れて来られたアフリカに目が向き始めていましたし、黒人研究の会の月例会での発表も半分はアフリカ関連でしたし、アフリカの作家の発表でもやれそう、さて、誰にするか、と割りとすんなりと切り替えが出来ました。

伯谷さんと奥さんの路子さんと長男の嘉樹くん

身近にアフリカのことをやっている人も多かったですし、大阪のこむらど委員会に手紙を出して反アパルトヘイト運動の集会にも参加したりしていたからもあったと思います。日本では専門にやっている人はいないようでしたので、アレックス・ラ・グーマをやってみようかと思いました。

ちょうどその頃、一冊の本『アレックス・ラ・グーマ』が届きました。1985年のライトのシンポジウムで知りあったミシシッピの本屋さんのリチャーズさんからでした。「もしラ・グーマの資料が入ったら送って下さい」とお願いしていたというわけです。

Alex La Guma

本格的な作品論・伝記を読んで、著者のセスル・A・エイブラハムズさんに会いたくなりました。ラ・グーマが亡命先のハバナで急死していなければ、たぶんキューバに会いに行ったと思いますが、その時点でラ・グーマのことを一番よく理解している人だと感じましたから。

さっそく住所を調べて「お訪ねしたいのですが」と手紙を出すと、「北アメリカに着いたら電話して下さい」という返事が返ってきました。

手紙の通り北アメリカに行って電話しましたが、残念ながら繋がりませんでした。オハイオ州の伯谷さんのところに泊めてもらったり、ニューヨークに出かけたりしながら、電話をかけ続けました。何とかお会い出来たのは一週間ほどしてからです。

 エイブラハムズさん、レイチェルと。奥はローズマリーさん

南アフリカのアフリカ人にとって日本は当時アメリカと並んで白人政権への投資高を競う貿易パートナーで、シャープヴィルの虐殺以来の最悪の裏切り国のはずです。にもかかわらず、そんな国からやってきた突然の訪問者を受け入れて、丸々三日間、温かくもてなして下さいました。長時間のインタビューにも応じて下さり、ラ・グーマの作品の草稿のコピーなども分けて下さいました。七月に移ったばかりのオンタリオ州のブロック大学で、「私の国が解放されたとき、この学校管理の仕事を役立てたいんです」と言いながら、学生一万人、教授陣300人を擁する人間学部の学部長として忙しい日々を送っておられました。

エイブラハムズさんは、1940年にヨハネスブルク近郊のブルドドープに生まれています。父親がインド出身で、母親がユダヤ人の父とズールー人の母を持つ家庭に生まれ、政府に「カラード」と分類分けされました。貧しい家庭でしたが、教育熱心な母親のお陰で、高校を出てヴィットヴァータースラント大学に進んでいます。99%が白人のその大学ではアフリカ人は授業に出ることと図書館を利用することしか許されませんでしたので、一年で退学し、その後現在のレソトの大学で学士号を取って再び南アフリカに戻り、7ヶ月間無免許で高校の教壇に立ちました。

インタビューのなかで少年時代のことを次のように語ってくれました。

「私が拘置所に初めて行ったのは12歳のときですよ。サッカーの競技場のことで反対したんです。アフリカ人の子供たちと白人の子供たちの競技場があって、黒人の方は砂利だらけで、白人の方は芝生でした。すり傷はできるし、ケガはするし、だからみんなを白人用の芝生の所まで連れて行ったんです。そうしたらみんなで逮捕されました。それから、人々があらゆる種類の悪法に反対するのを助けながら自分の地域で大いに活動しました。だから、3度刑務所に入れられたんです。」

エイブラハムズさん

ANC(アフリカ民族会議)の会員になったのは16歳の時です。61年5月、共和国宣言に抗議して行なわれた在宅ストを指導して裁判なしに4ヶ月間拘禁された後、63年に、ANCの車で国境を越え、スワジランド、タンザニアを経てカナダに亡命しています。エイブラハムズさんが亡命したため、母親が逮捕され、兄が教職を奪われたことをのちに口づてに聞かされたということです。

ラ・グーマより15歳年下のエイブラハムズさんも、12歳で拘禁され、ラ・グーマより3年も前に亡命を余儀なくされていたのです。

カナダでは市民権を得て、修士号、博士号を取ったあと、大学の教壇に立ちました。カナダにはアフリカ文学のわかる人がいなかったため、英国詩人ウイリアム・ブレイクで博士論文を書いたそうです。

そんなエイブラハムズさんがラ・グーマと出会ったのは、客員教授としてタンザニアのダル・エス・サラーム大学に招かれた76年のことです。当時、ラ・グーマは客員作家として同大学に滞在していました。2年後、エイブラハムズさんはロンドンでラ・グーマに再会し、ラ・グーマに関する本を書くことを決意したと言います。80年あたりから本格的にその作業に取りかかり、82年には、ラ・グーマの出版や原稿の管理を家族から頼まれ、更に伝記家としての仕事も引き受けました。私が読んだ『アレックス・ラ・グーマ』は、こうして生まれたのです。

「わが子を見つめる父親のように」「いつも山の向う側をみつめていた」ラ・グーマを偲びながら、エイブラハムズさんが語ります。

「アレックスは、カラード社会の人々の物語を語る自分自身を確立することに努めました。その人たちが無視され、ないがしろにされ続けて来たと感じていたからです。

ラ・グーマはまた、自分たちが何らかの価値を備え、断じてつまらない存在ではないこと、そして自分たちには世の中で役に立つ何かがあるのだという自信や誇りを持たせることが出来たらとも望んでいました。だから、あの人の物語をみれば、その物語はとても愛情に溢れているのに気づくでしょう。つまり、人はそれぞれに自分の問題を抱えてはいても、あの人はいつも誰に対しても暖かいということなんですが、腹を立て『仕方がないな、この子供たちは・・・・・・』と言いながらもなお暖かい目で子供たちをみつめる父親のように、その人たちを理解しているのです。それらの本を読めば、あの人が、記録を収集する歴史家として、また、何をすべきかを人に教える教師として自分自身をみなしているなと感じるはずです。それから、もちろん、アレックスはとても楽観的な人で、時には逮捕、拘留され、自宅拘禁される目に遭っても、いつも大変楽観的な態度を持ち続けましたよ。あの人は絶えずものごとのいい面をみていました。いつも山の向う側をみつめていました。だから、たとえ人々がよくないことをしても、楽観的な見方で人が許せたのです・・・・・・・。」

ラ・グーマ

1985年に念願のファーブルさんにお会いして英語を話せるようになろうと決めてやり始めていましたが、まだ十分とまではいかずにいましたので、マイクロカセットテープをたくさん持って行って録音させてもらいました。帰ってから当時親交のあったイギリス人のジョンに手伝ってもらって内容を繰り返して確かめ、記事にまとめました。

「アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・エイブラハムズ」(「ゴンドワナ」10号10-23頁)

“TAMADA Yoshiyuki Makes interviews with Cecil Abrahams ” (August 29-31, 1987, St. Catharines, Ontario, Canada)

MLAの会員でもあったエイブラハムズさんはその年の12月のサンフランシスコの発表には「聞くのも気の毒だから、遠慮しとく」と言って来てはくれませんでしたが、奥さんのローズマリーさんといっしょにホテルまで会いに来てくれました。

サンフランシスコで家族と

翌年ブロック大学で開かれたラ・グーマとベシー・ヘッドの記念大会に誘われ、主に北米で亡命中の50人ほどの前でラ・グーマの初期の作品について発表し、日本での南アフリカ事情についてもお話しました。亡命先のロンドンから駆けつけたブランシ夫人とも初めてお会い出来ました。MLAで発表した原稿と、その時発表した原稿を元に作品論も書き、黒人研究の会でも紹介しました。

「Alex La Gumaの技法 And a Threefold Cordの語りと雨の効用」(「中研所報」20巻3号359-375頁)

「アレックス・ラ・グーマ/ベシィ・ヘッド記念大会に参加して」</a>(「黒人研究」58号36頁)

会議でのブランシさん

エイブラハムズさんはアフリカ人政権誕生後、マンデラの公開テレビインタビューを受けて西ケープタウン大学の学長になって長年の「管理職になって役に立ちたい」という願いを叶えました。学長を二期務めた後、米国セントルイスのミズーリ大学セントルイス校に招聘教授として招かれました。その頃に一度メールの遣り取りをしたきりです。

あの頃中学生だったレイチェル、変に気が合っていっしょに餃子を作るのを手伝ってくれたりしましたが、今頃どうしているでしょうか。(宮崎大学教員)

レイチェル

続モンド通信・モンド通信

続モンド通信14(2020/1/20)

 

私の絵画館:「三太とノアと子供たち」(小島けい)

2 小島けいのジンバブエ日記7回目:8月25日 ボローデール行き(小島けい)

3 2020新年のご挨拶(小島けい)

4 アングロ・サクソン侵略の系譜11:「アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・A・エイブラハムズ」(玉田吉行)

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1 私の絵画館:「三太とノアと子供たち」(小島けい)

この絵をいつ描いたのかは、はっきりしません。
いつものポーズで横たわり、優しくみんなを見ている犬の三太は、13年前に亡くなりました。お気楽に毛づくろいをしている猫のノアは、3年前に見送りました。
ノアは渋谷の中央郵便局の前で泣き叫んでいるのを、娘に保護されました。生まれてまもない状態だったとか。そしてある春の日、宮崎に帰ってきた娘のコートの胸元から、何の前ぶれもなくちょこんと顔を出しました。それが、三太とノアの新しい生活の始まりでした。
絵の中のノアは、まだ幼くて細身ですので、きっとその衝撃の出合いからそれほど時間をおかずに、この絵はできたのだろうと思います。
<人のいい>三太は、やんちゃ盛りの子猫のノアに何をされても怒りませんでした。熟睡中に突然耳をガキッ!とかまれたりと大変なこともありましたが。それでも新しい家族を迎えて、三太も楽しかったのではないかしらんと、この絵を久しぶりに見て思いました。

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2 小島けいのジンバブエ日記7回目:「8月25日ボローデール行き」(小島けい)

借家の玄関口

アフリカでは毎日<ふつう>に食べることが、なかなか大変です。ホテルに滞在せず、車を運転しない私たちにはなおさらです。

公の交通手段はほぼ無いものと思って下さい、とはハラレに来る前から聞いていました。けれども度重なる手続きや買い物に、いろいろお世話になっているハラレ在住の吉國さんの奥さんに、頼ってばかりもいられません。そこで自転車を二台購入しましたが、戦前の日本にあったような(?)、ペダルを懸命にこいでも思うようには進まない自転車では、どうしようにもありません。

ある日、少し勇気を出して、なかなかつながらない電話で、何とかタクシーを呼んでみました。街なかまで約十五分、三百円程度。運転手はみんな、人のいいショナ人です。ドアが閉まりにくかったり(きっちり閉まらない場合も、そのまま走ります)、窓ガラスが割れてギザギザだったり。ちょっとスリルはありますが、少し慣れれば、私たちには結構便利な乗り物でした。

日常の食料品はほとんど、自転車で20分ほどのショッピングセンターでかろうじてすませますが。限られた材料でメニューがまんねりになると、食欲も体力も落ちてしまいます。そこで、ちょっと遠くの白人街にある高級ショッピングセンター「ボローデール」まで、出かけてみることにしました。

今日の運転手も気持ちのいいショナ人です。場所を言うと地図で確認して、さあ出発。お昼はおいしいイタリア料理だ!と話題も弾みます。

が、どうも途中から様子が変です。前に吉國さんの奥さんに連れて行ってもらった道とは、明らかに違います。目的地からどんどん離れていくようなのです。そして運転手の顔にも、不安の色が浮かんできました。

何度も頼みこんでようやく、彼は人を見つけて道を尋ねてくれました。やはりずいぶん方角が違っていたようです。

借家の前の道路

そこで車はUターンしましたが。ほっとしたのもつかの間、また予想に反する方向に向かい始めます。こうなっては私の勘をを頼りに、かなり強い口調で指示するしかありません。そうこうして、通常の何倍もの時間をかけて、やっとのことでボローデールに着いた時には、運転手はじめ全員がぐったり疲れていました。

帰りは、食事と買い物の時間を考え、三時間後にこの場所に来てくれるように頼みました。

ところが、ゆったり楽しんだ三時間後、約束の場所にタクシーがいません。また、まっ青です。1台の公衆電話もバスもない白人街では、帰る方法が全くありません。

あせる気持ちをおさえながら、必死で手分けして探しまわったあげく、少し離れた広場に一台のタクシーを見つけました。その無線を借りてタクシーを呼んでもらおうと中をのぞくと、例の運転手が深く眠りこんでいます。彼は街へもどらずに、ずっとここで待っていてくれたのでした。

”まいったなあ”とつい微笑んでしまうしかないような、アフリカの「ミスター運転手」でした。

近くのショッピングセンターに行く途中で

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3 2020新年のご挨拶(小島けい)

あけまして おめでとうございます。
本年もどうかよろしくお願い申し上げます。

遠い以前から繰り返されてきた昨日から今日に変わることが、どうしてそんなにおめでたいの?と肩ヒジ張っていた時代も、確かにありましたが。
今や「ふつう」に昨日が終わり「ふつう」に今日が始まる。ましてそれが、人も猫たちも何とか元気でむかえられるなら、それほど有り難いものはない、と思います。

亡くなった母は、元日の朝起きていくと、いつもより少し上等の着物にまっ白な割烹着を着て、改まって<あけましておめでとうございます>と、子供の私にも丁寧に挨拶をしました。
その母の思いが、この頃ようやくわかるようになりました。

わかることは、いつもそんなに遅すぎるのですが。

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4 アングロ・サクソン侵略の系譜11:「アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・A・エイブラハムズ」(玉田吉行)

1985年に伯谷さんからMLA (Modern Language Association of America)に誘われたとき、ライトの発表だと思っていましたが、帰ってから届いた手紙では、English Literature Other than British and Americanと言う小さなセッションでアフリカの作家で発表をということのようでした。ライトの小説を理解したいという思いでアフリカ系アメリカの歴史を辿り、奴隷が連れて来られたアフリカに目が向き始めていましたし、黒人研究の会の月例会での発表も半分はアフリカ関連でしたし、アフリカの作家の発表でもやれそう、さて、誰にするか、と割りとすんなりと切り替えが出来ました。

伯谷さんと奥さんの路子さんと長男の嘉樹くん

身近にアフリカのことをやっている人も多かったですし、大阪のこむらど委員会に手紙を出して反アパルトヘイト運動の集会にも参加したりしていたからもあったと思います。日本では専門にやっている人はいないようでしたので、アレックス・ラ・グーマをやってみようかと思いました。

ちょうどその頃、一冊の本『アレックス・ラ・グーマ』が届きました。1985年のライトのシンポジウムで知りあったミシシッピの本屋さんのリチャーズさんからでした。「もしラ・グーマの資料が入ったら送って下さい」とお願いしていたというわけです。

Alex La Guma

本格的な作品論・伝記を読んで、著者のセスル・A・エイブラハムズさんに会いたくなりました。ラ・グーマが亡命先のハバナで急死していなければ、たぶんキューバに会いに行ったと思いますが、その時点でラ・グーマのことを一番よく理解している人だと感じましたから。

さっそく住所を調べて「お訪ねしたいのですが」と手紙を出すと、「北アメリカに着いたら電話して下さい」という返事が返ってきました。

手紙の通り北アメリカに行って電話しましたが、残念ながら繋がりませんでした。オハイオ州の伯谷さんのところに泊めてもらったり、ニューヨークに出かけたりしながら、電話をかけ続けました。何とかお会い出来たのは一週間ほどしてからです。

 エイブラハムズさん、レイチェルと。奥はローズマリーさん

南アフリカのアフリカ人にとって日本は当時アメリカと並んで白人政権への投資高を競う貿易パートナーで、シャープヴィルの虐殺以来の最悪の裏切り国のはずです。にもかかわらず、そんな国からやってきた突然の訪問者を受け入れて、丸々三日間、温かくもてなして下さいました。長時間のインタビューにも応じて下さり、ラ・グーマの作品の草稿のコピーなども分けて下さいました。七月に移ったばかりのオンタリオ州のブロック大学で、「私の国が解放されたとき、この学校管理の仕事を役立てたいんです」と言いながら、学生一万人、教授陣300人を擁する人間学部の学部長として忙しい日々を送っておられました。

エイブラハムズさんは、1940年にヨハネスブルク近郊のブルドドープに生まれています。父親がインド出身で、母親がユダヤ人の父とズールー人の母を持つ家庭に生まれ、政府に「カラード」と分類分けされました。貧しい家庭でしたが、教育熱心な母親のお陰で、高校を出てヴィットヴァータースラント大学に進んでいます。99%が白人のその大学ではアフリカ人は授業に出ることと図書館を利用することしか許されませんでしたので、一年で退学し、その後現在のレソトの大学で学士号を取って再び南アフリカに戻り、7ヶ月間無免許で高校の教壇に立ちました。

インタビューのなかで少年時代のことを次のように語ってくれました。

「私が拘置所に初めて行ったのは12歳のときですよ。サッカーの競技場のことで反対したんです。アフリカ人の子供たちと白人の子供たちの競技場があって、黒人の方は砂利だらけで、白人の方は芝生でした。すり傷はできるし、ケガはするし、だからみんなを白人用の芝生の所まで連れて行ったんです。そうしたらみんなで逮捕されました。それから、人々があらゆる種類の悪法に反対するのを助けながら自分の地域で大いに活動しました。だから、3度刑務所に入れられたんです。」

エイブラハムズさん

ANC(アフリカ民族会議)の会員になったのは16歳の時です。61年5月、共和国宣言に抗議して行なわれた在宅ストを指導して裁判なしに4ヶ月間拘禁された後、63年に、ANCの車で国境を越え、スワジランド、タンザニアを経てカナダに亡命しています。エイブラハムズさんが亡命したため、母親が逮捕され、兄が教職を奪われたことをのちに口づてに聞かされたということです。

ラ・グーマより15歳年下のエイブラハムズさんも、12歳で拘禁され、ラ・グーマより3年も前に亡命を余儀なくされていたのです。

カナダでは市民権を得て、修士号、博士号を取ったあと、大学の教壇に立ちました。カナダにはアフリカ文学のわかる人がいなかったため、英国詩人ウイリアム・ブレイクで博士論文を書いたそうです。

そんなエイブラハムズさんがラ・グーマと出会ったのは、客員教授としてタンザニアのダル・エス・サラーム大学に招かれた76年のことです。当時、ラ・グーマは客員作家として同大学に滞在していました。2年後、エイブラハムズさんはロンドンでラ・グーマに再会し、ラ・グーマに関する本を書くことを決意したと言います。80年あたりから本格的にその作業に取りかかり、82年には、ラ・グーマの出版や原稿の管理を家族から頼まれ、更に伝記家としての仕事も引き受けました。私が読んだ『アレックス・ラ・グーマ』は、こうして生まれたのです。

「わが子を見つめる父親のように」「いつも山の向う側をみつめていた」ラ・グーマを偲びながら、エイブラハムズさんが語ります。

「アレックスは、カラード社会の人々の物語を語る自分自身を確立することに努めました。その人たちが無視され、ないがしろにされ続けて来たと感じていたからです。

ラ・グーマはまた、自分たちが何らかの価値を備え、断じてつまらない存在ではないこと、そして自分たちには世の中で役に立つ何かがあるのだという自信や誇りを持たせることが出来たらとも望んでいました。だから、あの人の物語をみれば、その物語はとても愛情に溢れているのに気づくでしょう。つまり、人はそれぞれに自分の問題を抱えてはいても、あの人はいつも誰に対しても暖かいということなんですが、腹を立て『仕方がないな、この子供たちは・・・・・・』と言いながらもなお暖かい目で子供たちをみつめる父親のように、その人たちを理解しているのです。それらの本を読めば、あの人が、記録を収集する歴史家として、また、何をすべきかを人に教える教師として自分自身をみなしているなと感じるはずです。それから、もちろん、アレックスはとても楽観的な人で、時には逮捕、拘留され、自宅拘禁される目に遭っても、いつも大変楽観的な態度を持ち続けましたよ。あの人は絶えずものごとのいい面をみていました。いつも山の向う側をみつめていました。だから、たとえ人々がよくないことをしても、楽観的な見方で人が許せたのです・・・・・・・。」

ラ・グーマ

1985年に念願のファーブルさんにお会いして英語を話せるようになろうと決めてやり始めていましたが、まだ十分とまではいかずにいましたので、マイクロカセットテープをたくさん持って行って録音させてもらいました。帰ってから当時親交のあったイギリス人のジョンに手伝ってもらって内容を繰り返して確かめ、記事にまとめました。

「アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・エイブラハムズ」(「ゴンドワナ」10号10-23頁)

“TAMADA Yoshiyuki Makes interviews with Cecil Abrahams ” (August 29-31, 1987, St. Catharines, Ontario, Canada)

MLAの会員でもあったエイブラハムズさんはその年の12月のサンフランシスコの発表には「聞くのも気の毒だから、遠慮しとく」と言って来てはくれませんでしたが、奥さんのローズマリーさんといっしょにホテルまで会いに来てくれました。

サンフランシスコで家族と

翌年ブロック大学で開かれたラ・グーマとベシー・ヘッドの記念大会に誘われ、主に北米で亡命中の50人ほどの前でラ・グーマの初期の作品について発表し、日本での南アフリカ事情についてもお話しました。亡命先のロンドンから駆けつけたブランシ夫人とも初めてお会い出来ました。MLAで発表した原稿と、その時発表した原稿を元に作品論も書き、黒人研究の会でも紹介しました。

「Alex La Gumaの技法 And a Threefold Cordの語りと雨の効用」(「中研所報」20巻3号359-375頁)

「アレックス・ラ・グーマ/ベシィ・ヘッド記念大会に参加して」</a>(「黒人研究」58号36頁)

会議でのブランシさん

エイブラハムズさんはアフリカ人政権誕生後、マンデラの公開テレビインタビューを受けて西ケープタウン大学の学長になって長年の「管理職になって役に立ちたい」という願いを叶えました。学長を二期務めた後、米国セントルイスのミズーリ大学セントルイス校に招聘教授として招かれました。その頃に一度メールの遣り取りをしたきりです。

あの頃中学生だったレイチェル、変に気が合っていっしょに餃子を作るのを手伝ってくれたりしましたが、今頃どうしているでしょうか。(宮崎大学教員)

レイチェル

続モンド通信・モンド通信

続モンド通信13(2019/12/20)

 

私の絵画館:「マロンくんと傘」(小島けい)

2 小島けいのジンバブエ日記:「6回目8月15日」(小島けい)

2019年の終わりに(小島けい)

4 アングロ・サクソン侵略の系譜10:「大阪工業大学」(玉田吉行)

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1 私の絵画館:「マロンくんと傘」(小島けい)

マロンくん

 たくさんの色とりどりの傘にかこまれて、つぶらな瞳を開いてこちらを見つめているのは、神戸在住の<マロンくん>です。

この子は2019年のカレンダー<2月>でモデルとなった<タルトくん>の2代目です。

タルトくん

 タルトくんはもともと心臓の病気をもっていたのですが、ちょうど絵が完成するのと前後して、亡くなりました。

タルトくんがいなくなった寂しさを、同じ犬種(チワワ)で同じように愛くるしいマロンくんが、きっと支えてくれているのだと思います。

何年か前に、同じような傘の中で<ニモ>というかわいい子猫を描きましたが。その年の個展で、一人暮らしの上品なご婦人がご購入下さいました。そのため、もう一度今度は犬で描きたいなあと思っていたところ、子猫のかわいさにも負けないマロンくんと出会い、この絵が出来ました。

ニモ

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2 小島けいのジンバブエ日記:「6回目8月15日」(小島けい)

6回目 8月15日(晴れ)トラック来宅

(5回目の原稿が見当たりませんので飛ばしています。)

 

500坪ほどの借家

 この家に住み始めてひと月近くになりますが、時折、予期せぬ訪問者がやって来ます。 3日目の朝早く、一人の白人女性に、車の調子が悪いので電話を貸してほしい、と起こされました。車はすでに門の中です。庭番のゲイリーに門を開けさせたわけですから、家主の親戚かもしれません。電話をすませると礼も言わずに、故障のはずの車でさっさと帰って行きました。あの人は何だったのだ?と今だにわかりません。(けれど、後で考えると、家主から頼まれて偵察にきたのだろうと思われます。)

家の玄関口

 8日目にはYAMAHAの赤いバイクに乗ったおじさんが突然やって来て、「今日中にたまっている電気代を払わないと明日から薪の生活になるぞ」と脅して帰っていきました。私たちは慌ててタクシーを呼び、街中の電気会社に行きました。そして、長い行列に並んでようやくわかったことは、家主の老婆がたまっていた電気代を払っていなかったこと。そのため、代金を支払わなければ、電気がほんとうに止められてしまうということ。さらにわかったことは、全額ではなくても一部を支払えば当座電気は止められずにすむというものでした。
日本と全く違う電気料金のシステムに、使ってもいない多額の電気代を全額私たちが払うのか?と、一度はまっ青になった出来事でした。
そして今朝は、門からまっすぐ一番奥の台所まで大型トラックがずんずん入って来ました。その運転手は、契約が切れたから食卓セットを持って帰る、と強気です。ちょうど食卓についていた私たちは”では、どこで食べればいいの?”と食べかけの朝食を見ながら、うろたえました。
どうやら食堂の家具はすべて、家主がみえをはって借りたもののようです。とにかく今は困るので、私たちの帰国後取りに来てもらうように何とか頼み、帰ってもらいました。やれやれ、です。

家の前の通り

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3 2019年の終わりに(小島けい)

現在、ご注文の絵を描くのと並行して、お世話になったり個展に来て下さった皆様に、お礼のお手紙を書いているまっ最中です。いつものようにアトリエも混乱を極めたまま、今年が終わりそうです。<一度落ち着いて振り返り・・・・>などできないままですが、カレンダー『私の散歩道2020』~犬・猫・ときどき馬~を作ることができ、カフェ&ギャラリー「Roomer」で個展もできましたので、<まあ、いいか・・・>という感じでしょうか。

2020年カレンダー

 今年の個展で、新しいご注文をたいただいたのはもちろん嬉しいことですが。同じ方たちから2枚目や3枚目のご注文をいただけたのは、何よりの喜びでした。ありがたいなあ・・・と思いふと思い返してみると、犬・猫・馬など数えきれないほどの絵を描かせていただいている(乗馬で通っている)牧場のオーナーは別格としても。今年はこの犬、次はもう一匹の犬、翌年は猫たちで・・・・と続き、さらにはお友だちへの贈り物としてその方の馬と犬を、と今まで6枚のご注文を下さっている方もおられます。
そこまでの枚数ではなくても、ご注文や絵の購入を2枚3枚となにげなく続けて下さる方はたくさんおられ、今の私があるのは、そのような皆様のおかげなのだと、改めて実感致しました。皆々様に、心より御礼申しあげます。す。

皆様、今年もほんとうにありがとうございました。

カレンちゃんとイルミネーション

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4 アングロ・サクソン侵略の系譜10:「大阪工業大学」(玉田吉行)

大阪工業大学(ホームページより)

大阪工業大学は私の「大学」の第一歩でした。

1983年3月に修士課程を修了したものの、博士課程はどこも門前払い(→「アングロ・サクソン侵略の系譜7:修士、博士課程」「続モンド通信9」2019年8月20日)、途方に暮れていましたが、4月から大阪工業大学夜間課程の英語3コマを担当出来ることになりました。業績も2本だけでしたが、結果的にこの3コマが、それからの「大学」の教歴の第一歩となりました。

一度非常勤を始めると他からも声をかけてもらえるようで、当時は1コマが100分、一番多いときは週に16コマを担当、一日の最多授業数は5コマ。専任の話も3箇所決まりかけましたが、5年間は浪人暮らし。最後の2年間は嘱託講師、この時の2年分の私学共済の年金が出ていますので、文部省向け任期付きの専任扱いだったようです。

大阪工業大学ではLL(Language Lavoratory)教室を使わせてもらいました。LL装置と補助員3名の予算も付き、昼夜間とも、一般教育の英語の授業で使われていました。関連の雑誌や新聞などを使い、映像や音声や中心の授業が出来たのは幸いでした。補助員のESS(English Studying Society)の学生3人には、ビデオの録画やコピーなど、色々助けてもらいました。

終戦直後に生まれ、小学生の頃からテレビや電化製品の普及に伴う急激な生活様式のアメリカ化を経験しましたが、どうも心がついて行きませんでした。元々アメリカとその人たちの母国語としての英語への反発もありましたし、中学校や高校での入学試験のための英語にも馴染めませんでしたので、大学では英語そのものより、一つの伝達の手段としての英語を使って何かが出来ればと考えました。結果的に、後の原点になりました。

リチャード・ライトの作品を理解したいとアフリカ系アメリカ人の歴史を辿る過程で読んだLangston Hughesの”The Glory of Negro History” (1958)がテキスト(青山書店)、Alex HaleyのRoots (1977)とバズル・デヴィドスンのAfrican Series(NHK, 1983、45分×8)が映像の軸でした。まだアフリカのことをやり始めたばかりでしたので、The Autobiography of Miss Jane Pittman、The Crisis at Central High(「アーカンソー物語」)、We Are the Worldなどの貴重な映像も手に入れました。

ラングストン・ヒューズ

ルーツの主人公クンタ・キンテ

バズル・デヴィドスン

一般教養の英語だったのは幸いです。受験のための英語から言葉としての英語への切り替え。偏差値で煽られ答えの解った謎解きを強いられる中で意図的に避けられている問題を取り上げて、自分と向き合い、自分や社会について考える、それまで気づかずに持っていた価値観や歴史観、自己意識を問いかけるという後の授業形態がこの頃に出来上がったように思います。(宮崎大学教員)

 

大阪工業大学の紀要には以下の4つを載せてもらいました。↓

“Some Onomatopoeic Expressions in ‘The Man Who Lived Underground’ by Richard Wright” Memoirs of the Osaka Institute of Technology, 1984, Series B, Vol. 29, No. 1: 1-14.

“Symbolical and Metaphorical Expressions in the Opening Scene in Native Son" Chuken Shoho, 1986, Vol. 19, No. 3: 293-306.

“Richard Wright and Black Power” Memoirs of the Osaka Institute of Technology, 1986, Series B, Vol. 31, No. 1: 37-48.

「Alex La Gumaの技法 And a Threefold Cordの語りと雨の効用」 「中研所報」(1988年)20巻3号359-375頁。