つれづれに:魚の棚(2022年7月2日)

2022年7月1日つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:魚の棚

 「明石」(6月16日)に住み始めた時は、妻は仕事に食事や子供の世話でぎりぎりの毎日だった。土曜日も授業があった時期で、授業が終わったあと週に一度、前から通っていた神戸の絵画教室で絵を描く2時間を確保するのがやっとだった。私の方はそれに甘えて、授業(→「教室で」、5月21日)と「ホームルーム」(5月24日)と課外活動(→「顧問」、5月30日)を優先する毎日だった。若かったとは言え、よくも妻の体が持ってくれたものである。私は丈夫に生まれついているようだが、妻は元々体も弱かったので、この頃のことを思うと心が痛む。「中朝霧丘」(6月17日)は妻が住んでいた家だったので、その点は気が軽かったようだ。父親は伴侶をなくして以来の一人暮らしで老け始めていたが、目に入れても痛くない娘が突然孫を連れて帰って来たので、一目見てもわかるほど若返っていった。小さい頃も娘は親と離れたがらなかった。保育所に預けてもよく熱を出すし、出る前は悲しげに黙っていることが多かったので、お爺ちゃんといられるのは何よりだった。二人の相性もよく、二人でいるのが楽しそうだった。息子が出来た時は、すでに大学院生活が始まっていたので、私が母親役をさせてもらい、2時間おきにミルクもやった。妻の大変さをしみじみと思い知った。

明舞団地

 明石の住み心地がよかったのは家の居心地よかったことが一番だが、人が多すぎず少なすぎずという人の数や、城もあって気軽に行ける魚の棚があるという街の造りも影響があったように思う。大学の時に三宮(↓)で国鉄から阪急に乗り換える時も、明石から満員電車で大阪の梅田の地下街を通った時も、大都会の人混みの多さに気が滅入って、疲れ果てた。満員電車の中で嗅いだ神崎川の悪臭は、窓が閉まっているのに臭って来るほど強烈だった。大阪工大の夜間授業が終わって帰る時は、大阪駅で人と座席を争う気になれずに、逆方向の新大阪駅まで行って列車に乗っていた。三宮で満員電車に乗る気になれずにやり過ごしていたら、最終列車になってしまったこともある。それでも、ほぼ満員だった。もう少し大都会を避けられない生活が続いていたら、どうなっていたか。

 その点、明石はちょうどいい加減だった。魚の棚なども含めて、城下町の造りが今に生きていたからかも知れない。ときたま、土曜日に時間を見つけて新幹線で京都の錦市場(↓)に出かけていたが、当時も結構な賑わいがあった。(→「藪椿」、3月2日)魚の棚のことを考えるときは、いつもこの錦市場と比較してしまう。地の利を得て、北陸からくる新鮮な海産物などや四方八方から来る人がたくさん集まり、地域にも深く根付いているようだった。明石より規模もかなり大きい。Covid 19騒動の前は、外国人観光客が溢れて違う市場になってしまったと嘆く人も多かったと聞く。コロナで観光客が来なくなったあと、市場はどうなったのか。観光客の受け入れが再開されて、今後はどうなって行くのか、少し気掛かりだ。地元に根付いたあの賑わいを取り戻してくれることを祈るばかりである。

 魚の棚辺りの市場は平安時代に豊かな地下水を利用して京都御所に新鮮な魚を納める店が集まったのが始まりで、今の魚の棚市場の原型は江戸時代の初めに築城された明石城とともに生まれたらしい。宮本武蔵が城下町の町割りの設計を担当したとは知らなかった。町の東部を商人と職人の地区、中央部を東魚町、西魚町などの商業と港湾の地区、西部は樽屋町、材木町とその海岸部には回船業者や船大工などと漁民が住む地区と線引きし、城に近い一等地に魚町を置いたらしい。当時から明石では魚が重視されていて、その東魚町、西魚町にあたるのが現在の魚の棚商店街の原型だそうである。ゼミでいっしょだった人の家は樽屋町にあると言っていたから、中心街より少し西側に住んでいたようだ。

 全長350メートルのアーケードに、特産の魚介類や練りもの、海苔やわかめなどの乾物を扱う100余りの店舗がある。私以外は魚も好きなので、買い物は新鮮な魚が主だったが、通りの曲がり角に新鮮な野菜の店もあり、和菓子屋さんもあった。英語学の助教授の人の所に持って行く丁稚羊羹は駅デパートでも買えたが、名店にあぐらをかいているのか態度が横柄で買う気にはなれなかった。

 小さい頃から魚類は臭いが苦手で食べないが、海がそう遠くないのに新鮮な魚が出回らなかった地域だったことと、給食の影響が強かったと思う。古い鯖をよく吐いた。他にもゴムのような牛肉や特有の臭いのきつい鯨やそれで作った肝油、粉臭い脱脂粉乳に硬い味気ないパン、よくもこれだけ食欲を殺ぐものばかり集められたものである。今でも、魚も肉も苦手だ。魚の棚に並べてある魚は昼網と言われて、生きているのも多かった。目板鰈と海老、鯵などをよく買った。目板鰈と海老はいきたまま鍋に入れるので、鰈がわしがってるよ、と妻がよく言っていた。鰈も海老もほとんど臭いがしなかったので、この時期は普通に食べていた。妻の父親が魚を捌いてくれた。魚の棚が毎日の生活に入り込んでいたということだろう。そんな市場に、私は自転車で買い物に出かけていたわけである。
 次は、台風1号、か。

明石