つれづれに:ラ・グーマ記念大会(2022年8月19日)
HP→「ノアと三太」にも載せてあります。
つれづれに:ラ・グーマ記念大会
1985年の「ライトシンポジウム」で2年後の「MLA」に誘われてラ・グーマで発表すると決めたが、芳しい資料もなくて初期の作品を読んでいた。その時にミシシッピの本屋さんに頼んでいたラ・グーマ関連の本が届いて、カナダに住む著者を訪ねていろいろ聞いた。丸三日間も付き合ってくれてだいぶ親しくなった。その時、次の年の会議でしゃべらないかと誘われた。それが1988年のアレックス・ラグーマ/ベシー・ヘッド記念大会だった。著者は亡命中のセスゥル・エイブラハムズさん(↑)で、当時ブロック大学という大きな大学の人文学部の学部長だった。その年の終わりにサンフランシスコのMLAで再会したが、次の四月から宮崎医科大学に講師として赴任するとは思ってもいなかった。6月の「黒人研究の会シンポジウム」(↓)に次いで2番目の出張となった。
着任したばかりで予算の都合はつかなかったが、落ち着いた頃に誘われていたら、研究費で行けたのにと思っても後の祭りである。もちろん業績の一つになった。帰国後、研究会の会誌に報告記事(→「アレックス・ラ・グーマ/ベシィ・ヘッド記念大会に参加して」)を書き、大阪工大の紀要(↓、→「Alex La Gumaの技法 And a Threefold Cordの語りと雨の効用」)にも載せてもらっている。嘱託講師を辞める直前に原稿を提出し、紀要と抜き刷りは赴任した先に届けてもらった。辞めたあとも世話になったわけである。
参加者が50人程度で、北米に亡命中の南アフリカの人が大半だった。大体、大学関連の仕事に就いている人が多かった。もちろん特別ゲストはブランシ夫人で、初めて会えたのは何よりの光栄だった。1985年に会議を予定していたらしいが、夫のラ・グーマがキューバで急死して、とても会議どころではなくて延期になっていた。夫人も少し落ち着いたので、仕切り直しで、南アフリカの別の亡命作家のベシィ・ヘッドと二人の記念大会となったようだ。
ソ連でのラ・グーマ(ブランシさんから)
夫人とは会議の前日の夜にエイブラハムズさんの自宅で開かれたパーティー(↓)で初めて会った。伝記でエイブラハムズさんがブランシさんについても書いていたし、インタビューでも話をしてくれていたので、ある程度は知っていた。清楚で、優しい人だった。会議ではラ・グーマとともに亡命して闘い続けていた人に相応しい雰囲気が漂っていた。特別講演でラ・グーマのことや南アフリカのことをいろいろしゃべってくれた。ソ連での話もおもしろかった。東側諸国では南アフリカの黒人を正式な外交官として迎え入れていたので、ラ・グーマはソ連では大の人気作家だったようである。
8月3日と4日に会議があり、夫人が特別ゲスト、ソ連やナイジェリアからの参加者もあった。エイブラハムズさんの話や、ラ・グーマのケープタウン時代の親友ジョ一ジ・ルーマンさんの話も面白かった。ルーマンさんはカナダに住んでいるらしかった。日本でも知られているコズモ・ピーターサさんたちが、二人の作家の作品朗読や短い劇も披露した。
二日目には、プログラムにはなかったが、特別ビザを得て南アフリカから直接駆けつけたアハマト・ダンゴルさんの現状報告もあった。ブランシさんとダンゴルさんの談話が翌日の地元新聞に写真入りで報じられていた。私は日本の現伏に少し触れたあと、ANC東京事務所のマツィーラさんからのメッセージと第二作『まして束ねし縄なれば』(↓)の作品論を読んだ。日本は南アフリカを苦しめている筆頭国の一つだが、その国からの参加者に対する温かい視線はうれしかったが、経済大国日本に寄せられる期待の大ききも痛感した。しかし、発表の時の視線は今までで一番厳しかった気もする。
エイブラハムズさんはアフリカ人政権が誕生した直後、マンデラの公開テレビインタビューを受けて西ケープタウン大学(↓)の学長になった。「管理職になって役に立ちたい」という願いが叶ったわけである。学長を二期務めた後、ミズーリ大学セントルイス校で招聘教授をしていた時に一度メールの遣り取りをしたきりである。
次は、一般教養と授業、か。