つれづれに:歯医者さん(2022年8月27日)

2022年8月26日つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:歯医者さん

 宮崎に来て2年目の秋に、思わぬところから講演の依頼があった。「宮崎市とその周辺の歯医者さん有志が、毎日見ている小さな口の中ばかりでなく、他の世界のことも知ろう」と月一回集まって開いている勉強会に呼んでもらったのである。南九州大の「海外事情研究会」の依頼と同じように、宮崎ではあまりないことである。1987年にアメリカで大ヒットし、翌年の3月に大都市で封切りされた「遠い夜明け」(↑、→「セスゥル・エイブラハムズ氏への手紙」)は4月に宮崎で、その後、都城と延岡で上映されていたが、同時期に封切りされたイギリス映画「ワールド・アパート」は福岡までしかこなかった。南アフリカの白人ジャーナリストの自伝『南アフリカ117日獄中記』をもとに娘が脚本を書いた映画で、しみじみとした味わいのある映画である。(→「『ワールド・アパート』 愛しきひとへ」、↓)アフリカ人の監督による自主映画「アモク!」は大都市だけでごく僅かな人が観ただけである。暗くてやり場のない映画なので、娯楽映画とは程遠く、日本で興行が成り立ったとは思えないが。1990年2月12日にマンデラが釈放されているから、その直前の話だった。釈放されたマンデラは西側諸国に経済制裁の継続を訴え、100万個の住宅建設を宣言した手前、各国を回って金集めに忙殺されていた。日本にも来て国会で話をしたが、日本政府は特定の政党に金は出せないと屁理屈をつけて一円も出さなかった。1987年にANCのタンボ議長が来日した時は、雀の涙ほどの4000万を出して、アフリカ人政権を支援しているのでアフリカ人政権が誕生した時にはよろしくとでも言うつもりだったのか。そんな状況を知ってか知らずか、宮崎にもアパルトヘイトに関心のある人がいたというわけである。

主人公役のバーバラ・ハーシー(小島けい挿画)

 生きても30くらいまでかと諦めていた後遺症はいろいろ自覚出来たが、中でも歯は悲惨だった。先行きを考えないので手入れをしなかったし、甘いものが好きな上に、最初に家の近くでかかった歯医者が酷かった。今ならウェブの書き込みを見て、ある程度診療程度を確かめられるが、歯が痛くなるとすぐ近くの歯医者に駆け込むのが当たり前だったから先のことまでは考えが及ばなかった。そういう時代だったと言えばそれまでだが、酷い歯医者もいるという前提でものを考えなかった。コロナ騒動が始まって義歯で助けてもらった歯医者には行けなくなったので、その歯医者さんの勧めもあって歯石取りと定期健診のために近くの歯科医院を探した。ウェブの評判を見て治療してもらったが、評判通りだった。

クリニックの近くの宮崎神宮

 宮崎に来たときに、まだ生きるなら歯の手入れも大切なのはわかっていたから、恐る恐る近くの歯医者を訪ねてみた。デンタルクリニックという看板は如何にも今風だった。講演を頼まれたのはその歯科医院の院長からだった。一通りの治療を終えた後、定期的に検診に通うように言われた。予防のための治療である。治療の段階でも納得したが、今以上に悪くならないために予防する定期検診は理に適っている。以降、かかさず検診を受けて、治療を始めた頃の状態をほぼ維持してもらえたのは院長のお陰である。治療の前後によく話をした。書いた記事や本を渡していたので、読んで集まりに講師として誘ってくれたようで、有難い話だった。

講演の内容は海外事情研究部のと併せて「自己意識と侵略の歴史」(1991年)にまとめた

 院長が六十代の半ばに「もう抜歯はしないので‥‥」と、他の歯医者を紹介された。2度ともあまりしっくり来なかった。院長が七十を過ぎて暫くしたころ「体力のあるうちに抜歯した方がいいですね」と言われ「そろそろ終活も‥‥」とも言われた。私はまだ定年退職まで少しあったので、すんなりと受け入れられずにいた時に、娘が「私が通っている歯医者さんなら抜かずに治療してくれるかもよ」と言ってくれた。吉祥寺で遠かったが、夏に何回か通った。最初、辛うじて残っている歯を見て「何とか残したいんだよね。歯は百年は持つように出来ているから。しかし、間に合うかなあ‥‥」と言った。レントゲン撮影をしたあと、写真を見ながら「残したいなあ‥‥」と言って治療を始めた。お蔭で義歯を入れてもらって、奥歯でものが噛めるようになっている。十年は違いそうである。コロナ騒動が始まる前の夏のことで、よく思い立って何回も通ったものだと感心する。その冬に定期健診に行く予定だったが、コロナ騒動が始まってしまった。行けないままだが、通える日が来るかどうか。
 次は、装画、か。

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