『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語(26)

2020年3月7日2010年~の執筆物ケニア,医療

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の26回目です。日本語訳をしましたが、翻訳は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)

解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)

本文

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語(26)

 第27章 男の赤ん坊

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
 (ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

第27章 男の赤ん坊

イアン・ブラウンの家での騒動以来、メアリ・ンデュクとの関係は寝るのも億劫なほど気まずくなっていました。ミリマニの私のアパートに来る回数も次第に減り、とうとうンデュクは家に来なくなりました。マインバ夫人とは、事態はもっと深刻でした。夫人の帯状疱疹のことを考えると私の下半身は萎えて性欲も湧きませんでした。

電話が鳴ったとき、私は侘びしくて落ち込んでいました。神が私の性の悩みに答えてくれたかのようなでした。
「もしもし、ムングチ先生、あなたなの?」
それは間違いなくドクターGGの娘の声でした。
「そうだよ、元気だったかい、お姫様。」と、私は少し興奮気味に答えました。
「ええ、元気よ。あたし、そっちに帰るわ。」
「いつ?」
「あしたの朝、7時に迎えに来て。」
「どこに?」
「駅よ。」と、ムンビは私の返事も待たずに電話を切ってしまいました。

私は言われたとおり、朝7時にムンビを車で迎えに行きました。ムンビはトランクが壊れてしまいそうな重いスーツケースを3つも持っていました。英国の映画女優が恋人のベッドに入る前にやるような仕草で付け毛を肩まで垂らして、ムンビはとても可愛く見えると思いました。

黄色と藤色の花柄の服を着て、ムンビは以前にあった時よりも優雅な感じがしました。私はムンビが煙草を吸わないのには気が付きましたが、一時的なのかそれとも完全にやめたのかは聞きませんでした。

「みんな、待ってるんだろうね。」と、私は車でンデルの家までムンビを送ろうと考えながら尋ねました。
「みんなって?」
「君のご両親だよ。」
「ンデルにはまだ行かないわ。それにあたしとても疲れてるの。」と、ムンビは答えました。昨日の電話で
「そっちに帰る」と言っていた意味がそのとき分かりました。私は車でアパートに行って、荷物を降ろしました。診療所に行く前にベッドを共にしたいと強く思いましたが、ムンビをベッドに眠らせてやりました。色んな薬や基本的な調合剤が足りなくなってきていたので、診療所での仕事がだんだんと面白くなくなって来ていました。同僚の医者の多くが薬ではなく処方箋だけを出しているは分かっていて、私もやってみましたが、患者には極めて不評だとわかりました。薬が見つからなかったと言って戻って来る患者がたくさんいましたし、私を通さなくても薬局に行けたから、処方箋はいらないと言う患者もいました。内服薬は筋肉注射に比べて基準が低いというグループもありました。近頃では、義務として診療所に行っていました。大学を卒業し、自分のものとして経営する診療所をギチンガ医師から有難く受け取り、ジョセフ・ムングチこそが性感染症患者を救うケニアのリビングストン博士やシュバイツァーであると証明する約束をしたときに医者という仕事が持っていた魅力がすっかり色褪せていました。受付のギニア人の男性も退屈そうでした。日に何度も欠伸をし、何日も徹夜した人のように絶えず両腕を伸ばしているのが見えました。アイリーンだけが、染みのない無い白衣姿で元気に動き回っていました。診療所にエチルアルコールとペニシリンが十分あるかどうかだけは確認してほしいとアイリーンが私に言いました。

********************

私も今では、役所や大きな銀行や政府系の企業のたくさんの会員が出資する唯一つの「ケニア銀行家クラブ」の会員でした。クラブには、ナイロビの著名人リストに載っている大抵の人が、特に木曜日に集まりました。テニスコート5面とスカッシュコート3面、サウナにきれいなプールもあって、ナイロビの若手官僚の特に便利な待ち合わせ場所になっていました。

冷え込んだ7月の夕方に、私はムンビをクラブに連れて行き、二人は店の奥に座りました。ネネ医師が途中で私たちに加わり、私はネネ医師にモンバサから来た娘を紹介しました。

「今度こそ正真正銘の彼女みたいだな。」
とネネ医師は私をからかいましたので、銀行家クラブの会員のようにそろそろ身を固めて妻を持ってもいい潮時だなと考えました。
「独身が終わるという規則にお前が……。」と、私は言い返しました。
「この人、独身だって言ってるの?」と、ムンビが会話に加わりました。
「ああ、ちょっと前まではね」と、ネネ医師はどんな旋風を巻き起こすかも知らないで言いました。
「昨日が独身最後の日だったわけね。」と、ドクターの娘GGは素っ気なく言いました。

クラブで夜を過ごしたあと、私たちは車でアパートに行きました。ムンビは、私が大学での審査を修了したので、ようやくモンバサを引き揚げできたと言いました。ムンビは体が適齢期の女性であることを証明したがっていて、私のアパートにやって来たのはまさにそのためです。この先6ヶ月間はコンドームもピルも避妊注射もありませんでした。君には大いに関心はあると告白しましたが、まだ誰とも結婚は考えていないとはっきりと言いました。しかし妥協案として、私の子というよりムンビの子だと考えてくれるなら、母親としての願いを叶えてあげる手助けは出来ると認めました。40歳になる前に息子で自分の男らしさを証明したいと密かには願っていました。多くの女性が夫との間に子どもを設けたがるのは知っていましたが、ムンビは少し変わっていました。ムンビは私が言った条件を素直に受け入れました。心のどこかで私はムンビを妻にしたくないと思っていたのかもしれません。カンバ娘と結婚するという母親への義理もありましたし、かなり時間はかかるけれども、いずれはタラかどこかで妻を見つけるだろうとは感じていました。

ナイロビ市街

1984年の7月から9月まで、私はずっとムンビと一緒に暮らしました。ある朝、ムンビは目を覚まし、もし私が要らないのなら、バスの停留所で私を降ろすべきで、そうすれば1時間以内に誰かが言い寄ってくるから、とムンビが私に冗談を言ってきました。

「誰も結婚した娘は必要ないと思ったけど。」と、私も冗談を言いました。
「私とは結婚したくないと言ったくせに。」
ムンビは真剣で、怒っているのが分かりました。
「そうは言ってないよ。」と、私は言い返しました。
「ジョゼフ・ムングチ先生。女性に求婚するのは男性で、私はその規則を簡単に破ったから、私への気持ちが冷めてしまったのね。」と、ムンビが食ってかかってきましたが、ムンビの言葉も少しは当たっていました。
「いや、そんなことはいないよ。」と、私は嘘を言いました。
「モンバサにも是非来てね。」と、ムンビは素っ気なく言いました。次の日の夕方に診療所から帰って来たら、ムンビはきっちりいなくなっていました。「大好きなジョゼフへ」で始まる手紙を残していましたが、私はその手紙に気持ちがひどく掻き乱されました。

ミリマニアパート22 大好きなジョゼフへ

お腹にいるあなたの子どもといっしょにモンバサに行きます。子どもが要るなら、来年の四月の分娩に立ち会うための手続きが必要ね。そうでないなら、アフリカの子どもが好きなフィンランド人の養子になるわ。
ずっと好きだけどあなたのものでないムンビより

ある船長とかなり深い関係にあるとムンビに言われていたのを思い出しました。5年ほど前にモンバサで会ったブラックマンに違いないと思いました。結果的にはムンビのその手紙が原因で私は体調を崩し始め、不調は11月からクリスマスの休暇まで続きました。とうとうアイリーンが辞めて、リバーロード診療所を閉めざるを得なくなった頃、私はムンビに会って、ブラックマン船長に私の子どもを渡さないで欲しいと伝えたいという気持ちをどうしても抑えきれなくなりました。一度しか会いませんでしたが、この世でブラックマン船長ほど私が激しく嫉妬を覚える人間はいないと感じました。ムンビの華奢な体に跨って延びるブラックマンの長い両脚を思い浮かべ、想像した場面とは言え、私は思わず目を閉じてしまいました。私の時もそうでしたが、快感の絶頂に達したときにムンビがブラックマンに叫び声を上げていたと想像しては、私はいつも目を閉じ、もの凄く汗をかいて自分を呪いました。

1985年の1月、私は息子が生まれる日を計算し始めました。8月に妊娠したとすれば、出産までの期間は既に半分が過ぎていると考えました。ネネ医師はかつて私をケニア銀行家クラブの女たらしと呼びましたが、4月か5月には、私も女たらしと呼ばれなくなりそうです。2月に入ると私は待ちきれなくなって、ムンビと生まれてくる息子が自分にとってどんなに大切かという手紙をムンビに書きました。そして4月になったらナイロビに来て(あれこれ計算すると、出産は4月になるはずでした)、将来について相談しようとも書きました。カンバ娘と結婚して母を安心させたい気持ちはまだありましたが、それでは大事な愛しいムンビと私の息子がフィンランド野郎に取られてしまうと自分に言い聞かせました。そうはさせるものかと思いました。イアン・ブラウンは経済的な援助を望むなら私に会わないようにとメアリ・ンデュクに言っていましたし、ユーニス・マインバは帯状疱疹を患っていましたから、付き合っていた他の二人とはすでに会っていませんでした。

1985年は、私の人生でのうちで最も辛い年となりました。すべての医薬品の値段が急騰し、診療所を経営するのに非常に費用がかかりました。ミドリザル病のおかげで、社会の底辺層の求めに応じて治療をしている人間には事態は更に悪くなりました。ウィルスは極めて複雑で、血液、傷口、精液、膣液、肛門粘液、唾液、蚊、涙、分娩などを通じて感染するという報告が出始めていました。同性愛者や、注射針の回し打ちをする麻薬常用者は、肛門内の傷口からや麻薬を静脈に打つときに血液が混じることなどを通して病気が広がる影響を特に受けました。コンボ少佐は女性相手に肛門性交をしていました。では何故、コンボはミドリザル病にかかったのでしょうか。ケニアでは、同性愛者や注射針を使う麻薬常用者がいても、ごく少数でした。マリンディやモンバサにイタリアやドイツの男を相手にする男娼が少しはいても、基本的には、ケニアでは男は女を相手にし、マリファナは吸っていました。モンバサなども、サンフランシスコで急速に広がっていると報告されているこの病気の感染ルートの一つだったのでしょうか。私は更に深く考えました。もしこの病気がコンゴのミドリザルから来たものなら、どうして人類に感染したのでしょうか。猿の調教師はどうなるのでしょう。ナイロビに新たに出来た霊長類研究所にも猿を扱っている研究者がいると思いましたが、いまだにこの病気は世界中の細菌学者に残された難問でした。いずれにしても、世界保健機構は既にこの病気を真剣に取り上げ始めたと考えました。

ナイロビ市街を望む国立公園

私の今の問題は診療所で、毎週、やせ細って衰弱し、性器に痛みを訴える患者を前よりも多く受け入れていました。下痢やしつこい咳やリンパ節の腫れが更に多くなり、私はマスクと手袋を着けざるを得なくなりました。特にアイリーンはひどく不安がるようになりました。診療所ではもう注射器の使い回しはせず、アイリーンもマスクと手袋とプラスチック製のエプロンを着けなければいけませんでした。それともアスベスト製の上着を使い始めないといけないのかと考えました。深刻な性感染症はすべてケニア中央病院で診てもらうように張り紙をしましたが、その場合でも患者を紹介する前に私の診断が必要でした。

コンボ少佐が2万シリングを私に残してから1週間後に、アイリーンのメモを見付けました。

親愛なるムングチ先生

非常に気が重いのですが私は診療所をやめました。カナーンホスピスから、麻酔助手のとてもすてきな仕事の機会を頂戴しました。先生も知ってのとおり、麻酔を専門にしたいとずっと思ってきましたので、私はこの機会に飛び付きました。
先生も他に仕事を探すべきだと思います。今はミドリザル病の患者を診るのは安全ではありませんし、その病気に命をかけてまで治療をして欲しくはありません。
先生をずっと大好きでいます。
アイリーンより

私はひどく泣きました。どうしてなのかははっきりしません。アイリーンは辞めて当然でした。私も診療所は閉鎖しなければいけないと分かっていました。患者の幸せを何よりも大事にしなければいけないというヒポクラテスの誓いを随分と前に立てました。思い遣りを持って社会からのけ者にされた人たちと衣食をともにして暮らしたマザー・テレサやリビングストンやシュヴァイツァーのような人たちを思いました。しかし、どんな予防手段を取っても私を殺そうとする病気があると思えました。誰も私の助けにはなり得ないので、故郷に帰り、2、3日家族といっしょに暮らして少し考えようと心に決めました。

カナーンホスピスは、この世で唯一人の私の大切な友人を奪いました。私はタラに行く前にアイリーンに会おうと決めました。診療所に鍵をかけているとき、ユーニス・マインバがBMWでやってきました。ユーニスは急ぎの話があるので今すぐに会って欲しいと言いまた。受付が朝来なかったので、診療所に鍵をする間待ってくれるように頼みました。私が車に乗り込むと、ユーニスはどこに連れて行くかも言わないで車を出しました。ユーニスは泣いていて、ひどく落着きがないのが分かりました。ンゴング通りを抜けてダゴレッティの交差点に来たとき、ユーニスは奇妙な話を始めました。

「あなたが正しかったわ、ムングチ先生。夫はミドリザル病なの。」と、ユーニスが始めました。
「どうして分かったんだい?」と、私は尋ねました。
「主治医が、例のナイロビの病院に連れて行って、そこで一週間いたのよ。咳も下痢も痛みも治まったんだけど、暫くは私とベッドを一緒にしないように言われたらしいの。でも、夫は医者の指示は私に隠してたのよ。」
「じゃ、どうやってそれが分かったの?」
「ほら、あそこの病気をうつされたでしょ。あの時以来、ずっと寝室に鍵をかけてるの。」と、ユーニスは続けました。
「そうしたら夕べあの人、斧で戸を叩き壊したのよ。それで私、窓から逃げるしかなかったわ。」
「まさか。」と、私は思わず大きな声を出してしまいました。
「本当よ。私、車で夫の医者のところまで行ったの。当分はどんなことがあってもいっしょに寝ないようにと言われたわ。やっぱり夫の病気はミドリザル病だったのよ。ああ、ムングチ先生。私たちどうなるのかしら?」
「わからないよ。」
既にまた、自分の身も安全ではないと感じました。もし夫がユーニスにもミドリザル病をうつしていたとしたら……。私は考えました。その時、この前私は何のためにユーニスを治療したかを思い出しました。ユーニスが私を乗せたままカレンショッピングセンターを通ってカレン乗馬学校の隣の小さな宿に入って行ったとき、汗が噴き出し始めました。

「ユーニス、僕にもどうすればいいのかわからないよ。今すぐ僕をナイロビまで帰してくれないか。二、三日タラで過ごしたいんだ。ここのところ色んなことが起こりすぎてね。少し気持ちの整理をしたいんだ。」と、私は言いました。
「私も一緒に行けるわ。」と、ユーニスが言い出しました。
「だめだ。」と、私はぴしゃりと言いました。突然私がユーニスが怖くなったことにユーニス自身は気付いていませんでした。
「君も身を隠した方がいいよ。取り敢えず、親しくしてる警察官に君のご主人について相談してみるよ。」

カポジ肉腫の患者

カレンの宿に入るとすぐに、ユーニスは私をナイロビまで送り帰すのは嫌だと言いました。私はトイレに行く振りをして、狩りで追われる動物のように柵を飛び越え、バスの停留所まで必死で走りました。

その夜、ひどく心配しながら眠りにつき、私はドクターGGの娘と愛し合い、そのあとでムンビがトイレに入って行く夢を見ました。ムンビのトイレが長過ぎたので、外から名前を呼びました。返事はなく、何をしているのかを確かめようと戸を開けたとき、あの美しかった体がみるみるうちに痩せていき、最後には骸骨になって、煮え立つ鍋の中でくるくると回り始める姿に目の前でムンビが変わっていくのがわかりました……。その時、私はうなされて目が覚めました。実に生々しい夢でした!

********************

カレンの宿から逃げ出した翌日、私はカナーンホスピスを訪ねました。その日の朝に会った友人がインターナショナルカジノの隣にあった元大学職員クラブが今はカナーンホスピスになっていると教えてくれました。着くとすぐに、私は看護師のアイリーン・カマンジャの友人だと名乗りました。しかし、ちょうど仕事が忙しい時間帯だったようで、アイリーンとは会えませんでした。受付で言われたように、2時頃に改めて来ることにしました。それまでの間、すぐ側にあるケニア博物館でのんびり過ごそうと決めました。先ずは蛇公園に行き、錦蛇と鰐と陸亀を見物しました。神様は実にたくさんの生き物をお造りになったものだと思いました……鳥類、両生類、爬虫類、昆虫、軟体動物、そして哺乳類。すべてミドリザル病にはかかるのだろうかと疑問に思いましたが、それはあり得ないと考えました。この病気は性交時に体を交える動物だけが含まれるに違いありません。その時、試験官生殖が心に浮かびました。
「そうか、試験官生殖だったら体を交えない、従って安全である。」
と、私は気持ちが混乱したまま呟きました。

この博物館にはあらゆる哺乳類がいるなと思いながら、蛇公園を出て来ました。ゴリラ、チンパンジー、ライオン、象、縞馬、アカゲザルなど、すべてが揃っていました。ミドリザルはどうだろうと思い園長に尋ねてみると、ンゴングの霊長類センターに行けば何匹か見られますと教えてくれました。

 

 

ファンタを飲みパンを食べてから、またカナーンホスピスに歩いて戻り始めました。私が玄関にいると聞いて、アイリーンはすぐにやって来ました。まっさらな白衣に白いナースシューズ、それに白い手袋のアイリーンはまばゆいほど輝いて見えました。

「ムングチ先生。ご機嫌如何ですか?」と、アイリーンが聞いてきました。
「シスターアイリーン。あまり良くないよ。」
と、私は答えました。
「私たち、どんな罪を犯したのかしら?」
と、アイリーンが尋ねました。
「たぶん、2人とも何も罪は犯してないけど、こうなってしまったみたいだね。」と、答えましたが、実際に私はそう考えていました。アイリーンは一緒に居て一番心が休まる存在だといつも思っていましたが、どういう訳か、一緒に座ったり食べたりしながら仕事をする以外は、恋愛の相手として見る気持ちが起こりませんでした。一緒に出かけても、必ず家まで送り、性的な喜びが必要な時は、メアリ・ンデュクかユーニス・マインバを探しました。今メアリ・ンデュクとユーニス・マインバと一緒にいるのは危険でした。今はアイリーンだけが一緒にいても安全な女性で、私はアイリーンの次の言葉を待ちました。

「あの人、ここにいらっしゃいますよ。」と、アイリーンが言いました。
「誰が?」と、私は聞きました。
「ワウェル・ギチンガ先生ですが、今はすっかり別人みたいですよ。とても優しくて思いやりがあるの。先生と第20病棟での出来事はとても結びつかないわ。」と、アイリーンは言いました。
「そうだね、刑務所に引き取りに行った日、まるっきり変わっていたからびっくりしたよ。それに、リバーロード診療所を『売り』に来た時もね。先生はここで何をやってるの?」
「どうやら、この施設の共同経営者らしいの。ここを持ってるディンシン医師がギチンガ医師とプリンスクワン病院で一緒に働いてたそうで、そこでギチンガ医師にここで一緒に働かないかと声をかけたらしいの。そうだわ、先生もここで働きません?」と、アイリーンが言いました。
「どうして?」と、私は聞きました。
「給料はいいし、ホスピスは診療所とは違うわ。感染対策もしっかりしてるの。あのミドリザル病にもね。」と言うと、アイリーンはカナーンホスピスが設立された経緯を詳しく話し始めました。素晴らしい話でしたが、誰がアイリーンにその話をしたのかという疑問が残りました。アイリーンはものごとを分析しながら知的に話をしてくれました。その時はアイリーンの知性と分析力には気が付きませんでしたが。

執筆年

  2011年2月10日

収録・公開

  モンド通信(MomMonde) No. 31

ダウンロード・閲覧

  →『ナイスピープル』─エイズ患者が出始めた頃のケニア物語(26)